2007年12月31日月曜日

今年最後

 大晦日はあまり興味はないがNHKの紅白、そして行く年来る年で一年は終わる。一年を振り返ると今年は一つのターニングポイントになるのではないだろうかと思わされる年であった。

 昨年の11月からハローワーク系の中高年対象のヘルパー2級の講習を受けて介護の事を少し勉強する事ができた。そこで否定的な発想の自分を再認識する。これではと努めて否定的なことは言わないようにするようにした。結局介護は難しいのでハローワークで知的障がい者の作業所で一年の契約で働く事になった。これも初めての経験。
 内容は作業補助で内容は難しくはないのだが現実は四苦八苦の連続だった。お陰で4キロ近く体重が減り、メタボのボーダラインだったのが解消する。少し落ち着けるようになったのは9月に入ってからである。二つ原因があって、一つは利用者との対応に戸惑った事、軽度の為普通の大人の部分とそうでないところの見分けが点けがたかった事である。 
 そしてもう一つは納期に合わせての仕事の段取りが上手くいかなかった事だろうかな。二つとも解決したわけではないが何とか頑張ってやっているところなのだ。あと3ヶ月それにそれ程仕事も多くないようなので忍の一字で頑張っている。

 でも彼らと出会っって苦労だったが良かった。彼らの弱さを知りどう対応するかと戸惑いながらも何か教えられるものがあったような気がする。彼らと対等に付き合うことで少しは同情という優越感が払拭出来たのではないかなと思っている。
 それと彼らのレベルに合わせる事の必要を教えられた事だ。上からではなくて共に、そして下から、これからの自分にとっては大きなことだろうと思う。 頭で理解から体で理解までは少し時間的さがあるが来年はそれを埋めていく事ができたら感謝である。

 信仰的にも色々迷う事があってこれもターニングポイントかなと思っている。関根牧師の聖書講座でお話を聞いていると少し集会とのギャップを感じてくる。しかし今は少し整合できるようになったような気がする。
 それと集会の聖書を良く学んでいる事を感じるが気をつけないと聖書のバランスを崩す危険性をはらんでいる事を感じる。
 自分の中に整理が出来て来年に向かってわが道を行けるような気がする。幾つかのものが解放されているのかなと思うときがある。
 来年は色々信仰的チャレンジの年になるだろう。集会の良さと聖書の語ることを更に一致させたいものである。来年に向かってワクワクするなんて何10年振りだろうか。それにブログも始める事ができたのだから感謝、感謝。

2007年12月30日日曜日

和解の務め

 2cor 5:18~21
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

2007年12月28日金曜日

パンくずを拾って

 タイトルを聖書から持ってきたのだが足元を見るようで、どうも発展性がないような気がする。飛翔するとかそんなタイトルで、内容があれば良いのだろうが、でも好きな言葉だ。それにパンくず即ち人が省みないものでも私にとって十分すぎる思いがあるから結構である。主との係わりの中にあるならば不満は有りえない。

 昨日で仕事を終え、珍しく年賀状も出してのんびりしている。今日から6日まで10連休、今年を振り返り、来年に備えるには充分な時間である。

 4月から知的障がい者の作業所で週4日働いて、四苦八苦の連続だったが彼らと出会って良かった。軽度の所為か戸惑いもあったが愛すべきものを持っている。あと3ヶ月苦労させられたり、新しい発見をしたりと少し慣れてきたから残りが楽しみでもある。
また年と共に覚えることの難しさを改めて経験させられた。岡谷にとの思いがあるがこんなんで大丈夫だろうかと思ってしまう。今の所そのことでへこんではいない。

 賑やかなクリスマスも終わって、静に新しい年を迎えようとしている。来年は聖書をもう一度学び直そうと思っているので今年中に下準備を整えるつもりだ。分からない事が多すぎるし、集会の聖書の捉え方も必ずしも正しいとは思わない。ある種の狭さを感じる時もあり、何かバランスを欠いているような気がする。

 isa:63: 9
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

 神から離れていくイスラエルの民がそれによって苦難に会う時、神も共に苦しむのである。クリスマスが過ぎて、フッと毎日がクリスマスではないか。それは毎日が十字架であり、復活なののだ。と思ったら十字架は原罪のためだけでなく、毎日犯す罪のごとに私は主の手に釘を打ち付けているのではないかなと思った。人を赦さない事も怒りも主の苦しみに繋がることを知った。主の苦しみを思うとまた違った展開になるような気がする。

2007年12月24日月曜日

もう一つの詩

クリスマスに想う
もしクリスマスがなく、
御子イエスキリストの誕生がなかったら
「地に平和があるように」と御使いたちが天で歌うことがなかったら
永遠という目標を失ったこの世界はどうなっていたことだろう。
生き生きとした霊的ないのちを持てない、
地上だけの一時的ないのちに
どれだけの価値や意味があるのだろう。
希望が持てず、絶望と死しかもたらさない世界に、
どんな勇気をもって進めと言えるのだろう
「私はあなたを愛し、私のひとり子を世に遣わします。
彼はあなたのために生き、あなたのために十字架で死ぬのです。
しかしキリストは、復活によって、
新しいいのちと永遠の希望をあなたにもたらします」
父なる神のこれらの言葉、
まさにクリスマスメッセージがあるからこそ、
希望の光が見えるのです。
Helen Steiner Rice作 関根一夫訳

2007年12月21日金曜日

不思議なお方

 こんな詩がある。

 ひとりの孤独な生涯
彼は、世に知られぬ小さな村のユダヤの人の家に生まれた。
母親は、貧しい田舎の人であった。
彼が育ったところも、世に知られぬ別の小さな村であった。
彼は30才になるまで大工として働いた。それから、旅から旅の説教者として3年を過ごした。
一冊の本も書かず、自分の事務所も持たず、自分の家も持っていなかった。
彼は、自分の生まれた村から200マイル以上出たことはなく、偉人と言われる有名人にはつきものの「業績」を残したこともなかった。
彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことがただひとつの頼りであった。
彼は、旅をしてまわり、病人をいやし、足なえを歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。
ほどなく、この世の権力者たちは彼に敵対しはじめ、世間もそれに同調した。
彼の友人たちは、みな逃げ去った。
彼は裏切られ、敵の手に渡され、裁判にかけられ、ののしられ、唾をかけられ、殴られ、引きずり回された。
彼は十字架に釘づけにされ、二人の犯罪人の間に、その十字架は立てられた。
彼がまさに死につつある時、処刑者たちは彼の地上における唯一の財産、すなわち彼の上着をくじで引いていた。
彼が死ぬと、その死体は十字架から下ろされ、借り物の墓に横たえられた。
ある友人からの、せめてものはなむけであった。
長い19の世紀が過ぎていった。
今日、彼は、人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。
「かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王様たちの影響力のすべてを合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響、人々のいのちに与えた影響の偉大さにおいて、あの『ひとりの孤独な生涯』には到底及びもつかなかった。」と言っても決して誤りではないだろう。
関根一夫訳

2007年12月20日木曜日

四つの名前

 isa 9: 6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 この聖書のことばはイエス様がお生まれになるおよそ700年前に書かれたものです。

1、不思議な助言者
 英語ではワンダフルカウンセラー。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 matt 11:28
どんな状況の中にも行き詰る事がなく、生きる希望を与えてくれるお方。

2、力ある神
 打ちひしがれている人に、
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」 2cor 4: 8
と告白させる事ができるお方、内側から力を与えてくれるお方。

3、永遠の父
 永遠の保護者
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」 heb 13: 5
何時までも私たちを見捨てる事がなく、守り抜いてくださるお方。

4、平和の君
 健康でお金があって、物質的に満たされていても、心の平安を得る事はできない。
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 」 rom 5: 1

 日常生活の中で私たちは、
「魂を生き返らせ、失望から立ち上がらせてくださる方」が必要です。
「孤独から救い、保護者として、人生を共に歩んでくださる方」が必要です。
「平和による安心感」が必要です。

2007年12月19日水曜日

クリスマスに想う

 rom 8: 3
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

 イエス様の誕生を祝うクリスマスが近づいてきた。救い主がお生まれになる誕生物語は教会学校などでも劇にもなって祝われている。教会では最も伝道効果の大きい季節でもある。幸いな事であるがイエス様の誕生は十字架と結びついている。

 「キリスト我らの罪を負い給へりと云ふは、彼れ我等に代わりて神に罰せられ給ヘリとの意にあらず、我らの罪を己が罪なるかの如くに感じ、痛くこれを嘆き給へりとの意ないり、我ら罪を犯してキリスト傷み給はざることなし、そは彼は罪を憎み給うと同時に又我らを愛し給へばなり、我らが罪を犯すたび毎に、更らに彼を十字架に釘(つ)けつつあるなり、彼の聖体を傷つくる者は鉄の釘にあらずして人の罪なり、我等彼を休め奉らんと欲せば、罪去て之を遠ざくるべきなり。」ヘブル書6章6節 と内村鑑三は書いている。

 罪の無いイエス様が神に罰せられる為に罪深い肉を取らざるを得なかった。それは肉において罪を処罰される為であって、私の罪を我が罪としたところにあるの意は大きい。これは神の苦しみでもあるような気がする。勿論イエスさま自身の苦しみでもある。

2007年12月18日火曜日

念願の

 何時かブログをと思っていたがついに始めた。
折々に感じたことを書いていきたい。