2008年5月26日月曜日

この10日間

 岡谷での家の件は、前に書いた物件に決めることにした。私と保証人の免許証のコピーと保証人の名刺を不動屋さんに送り、軽井沢のシニアキャンプに向かう。永く施設に入っていた姉妹が召されそうだというのでK兄姉は行かれずアイルランドから来ている姉妹たちを送らないといけなくなったので、木曜日は6時半に出て朝の集会に合わせる。向こうに着いたら姉妹は召されたと連絡があったそうだ。後で聞いたことだがk兄姉は大変だったみたいだ。おくびにも出さないのが凄い。
 シニアはメッセージもN兄で良かったし、一年ぶりに会いたかった人たちとも会い、積極的ではなかったが他の方たちとも交わる事ができて良かった。秋は行ったことがないが、その時は岡谷だから誰かを誘って行きたいものだ。金曜の昼食を取ってすぐ帰ってきたが二人に姉妹は日本語が上手で会話は問題もなく、また休憩した時に昔の話をしてくださって、戦前戦後の混乱の時に宣教師の働きに頭が下がる思いだ。こういう働きの中に我々があるのだと思うと謙虚にならざるを得ない。感謝なことである。
 帰ってきてメールを開けたら不動屋さんからオーケーのメールが来ていた。6月と7月に行くと書いていたので、6月に契約して、7月は入居日から月割りで良いということになった。高速から集会をしている所の途中でもあり、西友も歩いて行けるから良いのではと思う。私たちの思いを超えて与えてくださったの感がある感謝。
 翌日は召天式、役はないので気は楽だ。ただ火葬場で祈ってと言われていた。ぶっつけ本番で、少し詰まりながらも祈る。飾花の時、姉妹の安らかな顔を見て、記憶を失っていく苦悩を少しく知る者としては何故かほっとする。こういう形であれ、岡谷に行く身としては会えたことは感謝である。
 そして昨日、ついに岡谷へ行くことを報告する。反応は色々、先ずはほっとする。言葉に少し引っかかる言い方をしたがそれが本音でもあるからいいと思っている。それよりw姉に頼まれて、エアコンのことで息子さんに会いに行く、そこで少しおしゃべりをする。少し喋りすぎたのかなと反省するが、喋るとつい余計なことまで言ってしまって落ち込むのである。彼は集会の人と余り接するのは嫌いだそうだが私たちならそうでもないらしい。余り自己主張しないからかな? 良かったのかどうか。

 

2008年5月16日金曜日

家探し

  この間の日曜日に一晩泊めて貰って、翌日に家探しを少しした。
インターネットでピックアップしたのを幾つか見て回ったが帯に短し襷に長しでこれという物件がなかった。その中でこういう物件がありますと見せてもらったのが少し気に入った。
 それはインターネットにも載っていた割と新しい一軒家で、8万、2LDKとあったがキッチン、洋間、和室がともに8畳という2DKといった方がいいような物件だった。ネットに載っていたが金額と間取りが合わないので考えてもいなかった物件で、7万にするというので心が動く、金額がそれでよいとしても、もう一部屋がほしい。一週間待つと云っているから少し祈って結論を出したい。こういう具体的な事柄から信仰が浮き彫りにされてくるのだろうなぁ。

2008年5月9日金曜日

自立と依存

 この二つの相反する事を最近考えさせられた。
私たちが社会生活をする上で自立することは大切で依存することはよくないことである。しかし聖書の始めに「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」gen 2:16~17 と神が仰ったことに背いて「善悪の知識の木」からとって食べてしまった。
 ここに人が神から自立しようとしている姿を見る。罪の本質は神からの自立である事を聖書は暗に語っている。また依存は余り良い事でないように受け止められている。特に子供が親に経済的依存をしている姿に良い印象はない。しかし本来人は神に依存しないといけないのではないだろうか。罪はこれを逆に捉えているような気がする。
 「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」 john: 5:19  
「わたしと父とは一つです。」 john:10:30 と云われた。三位一体の神は各々独立しながら尚且つ依存している。この姿が本来の姿であろう。人は自立すべき所で依存し依存すべき所で自立している。

2008年5月7日水曜日

ファミリーキャンプ

 4日の午後から6日の午前中まで集会のファミリ-キャンプがあった。
何時も連休の期間だから混むか遠いかで担当者は苦労されていたが今回は遠い割に1時間で行けたから良かった。チョッと高いが温泉もあり、見学や散策する所もあるから愛川よりこちらの方がいいかもしれない。何時もテーマは家族だが及第点は貰いないから少し苦手とする。聖書からとなると建前論になりやすいので個人的には建前論は好きではない。建前論は少し言いすぎかな?
 集会、主のためにと言われることの中に何かすっきりしないものがある。知的障がい者の作業所で働いて以来その思いは強くなっている。それは彼らと自分の違いは単に社会生活が自立して出来るという事だけであって、彼らの本質も資質も自分となんら変わっていない。自立は社会生活をする上でとても大切なことだが人間の本質に係わる事ではないような気がする。集会生活が上手くできるか否かと信仰生活はある面で違うし、主のためと言われる中で全く己を捨てることが出来るかといったら否である。これも程度の問題がある。自分がしっかり生きている中で正に上手に出来るか否かであって、すべてを捨てているわけではない。そのような中で主が語りかけているものを聞きたい。岡谷に行ってそれができるかわからないがその辺を聖書から極めてみたいものである。

2008年5月4日日曜日

流される日々

 少し大袈裟かなと思うが火、水と働いて、水曜日はその足で集会に出席して帰りは11時過ぎという事もあるが木曜日は休養日、先日は前日クラブがあった所為もあって疲れて一日ゴロゴロしていた。金曜日には回復したが何となく過ごしてしまったような気がする。それでも今週は本を箱に詰めたり、山?を超えてはるひ野のクリシマまで買い物に行った。しかし土曜日は何もしなかったなぁ。流されるというより年の所為で余りてきぱきと動けなくなったという事かな、それならそれでよいか。それに合った生活をすればよいのだが・・・。