2009年7月29日水曜日

朝から

 梅雨明け宣言したのかなと思ったら山口や福岡では集中豪雨で大きな被害が出ている。その雨がこちらに来ているのか今朝は雨音も大きく、かなり降っている。こちらで驚いたのは暗渠のようになっているところでも水が音をたてて勢いよく流れていることだった。何か新鮮で川が生きているという感じがしてうれしかった。どんどん流れて湖に注ぐがどちらかというと水門のほうだから浄化にはと思うがどうなのだろう。

 この間泳げるようになったとTVのニュースで流していたが一般の人が泳げるほど綺麗にはまだなっていないようだ。それでも一時に比べたら大分良くなっているとのことだった。下水が完備してきているからだろう。それに地元有志で浄化に取り組んで来たことをドキュメンタリーで放映していた。こういう人たちの働きは見逃せない。

 ハイツの近くで餌をあげないでと看板が立っている所で餌を一生懸命あげている人がいる。それを黙ってみている私がいる。東京にいるときも野良猫に餌をあげている女の人が何人か見かけた。最初は汚いからと思ったがそのうちこの人たちは独り身かご夫婦だけで、猫に餌をやることが唯一の楽しみで、それによって癒されているのかなと思うようになった。実際どうなのか分からないがそう思ったら文句も出なくなった。

 東京にいるときは猫や犬をわが子のように可愛がっている姿を良く見かけた。しかしどこか異常な感じを受ける。それでいて人に対して優しさとか思いやりがない。小さいときは貧しかったが相互扶助の精神があったような気がする。農家でもあり、個より群れを大切にしている村だからだろうか。村八分という言葉があるから個は存在してはいけないのかもしれない。日本では個は自己中になるのかな。個を大切にするということは相手の個も大切にするということだ。こちらに来てさらに村意識の強さを感じる。

 一ヵ月後には衆院選挙だ。民主が政権をとっても、良くなるとは思はないが自民でも若い人たちが活躍する場がないと無理だろうな。小泉さんよりひどい結果が出そうな気がするが日本が変わる変わり目の中での歪みたいなものが出るのはしょうがないのかもしれない。群れが変わるということは簡単でない。「ぬるま湯のかえる」的現状に危機感はない。国民に媚を売らない憂国の士は何処に、でも拍手喝采で受け入れるととんでもないことになるのは早晩決まっている。

 戦後、日本を立ち上げた人たちの中にクリスチャンがいたことを誇りに思う。日本の理念の根底を支えてきたのではないだろうか。まさに地の塩、世の光である。しかしクリスチャンにはあまり評価されていないようだ。否ムシロ非難を受けるのが精々かな。

2009年7月25日土曜日

すべて新たに

 あめんどうからナウエンの新しい本が出たので早速注文して今読み終えた。100頁あまりの本だからすぐ読み終えるかなと思ったら1ヶ月近くかかってしまった。勿論毎日読んでいたわけではないが、時間がるときにノートにメモしながら読んだ所為もある。薄い割には読みづらい本である。と書くと失礼になるが、年の所為も加えて、それだけ簡単に読めないものがある。

 自分の信仰生活の中で願っていながら実践していないもの、或いはそれしようとすると出来ないことが書かれているからだろうかと思う。根底にdo 的信仰があって、be的信仰は頭の中にしかないのかもしれない。

 もう一度読んで、コメントを書こう。その時はすらすらと読めそう。

2009年7月23日木曜日

久しぶりかな

 梅雨明け宣言して、一日目は良かったが後は梅雨に逆戻りしたような陽気だった。今日は朝から良いお天気だ。爽やかな気分は久しぶり、ブログも久しぶり。今まで毎日のようにお気に入りに入れているブログを見ていたが最近は木曜日と土曜日に見るようにしている。それを見なくても毎日のようにネットは覗いてはいる。聖書やその関連の知識はあまりないのでいい勉強になる。新しい発見、新しい知識を得ることはうれしい。ともすれば「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を建てます。」(1コリ8:1)の知識偏重になりやすい。

 諸集会にいると「聖書のことば」にこだわる?ことが多いような気がする。聖書のことばを忠実に守っていこうとしているからだろうか。被り物もそうだがほとんどの教会では、かつての習慣として捉えてやらない。諸集会では幾つかの意味をこめてやっているから譲れない。互いに信仰としての相互理解はここでは難しい。

 初期の教会の信者はユダヤ人だけだったから問題があってもその問題は共通だったと思う。しかし、ヘレニストが加わり、異邦人が加わることによって、問題の質が全然違ってくる。ユダヤ人は割礼や律法を守ることが第一だった。異邦人にはあまり意味のないことではなかったのではないだろうか。逆にコリントの信者には近親相姦的なことは特別なことではなかったと思う。しかしユダヤ人の信者にとって、びっくり仰天なことだ。

 「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように…」(使15:20)と決めたことはすごい。でも割礼の問題からこうなったのだがユダヤ人信者にとってこの選択はそう簡単なものではない。正しいと信じていたことがどうでもというより否定されたらどうだろう。現代に当てはめたらすごいことだ。この水と油のような存在をキリストによって一つとされていること、互いに認め合い、キリストを賛美する初代教会の信者はいらいなぁ。諸集会の信者に爪の垢を煎じて飲ませてあげた~い。まずお前から飲めと言われそう。

2009年7月19日日曜日

祈り

 集会に集っている若い夫婦に二人目の子供さんが与えらる。一度流産しているので慎重になっている。それとつわりがひどくて4ヶ月目で少し落ち着きつつある。しかし新たな試練が与えられている。赤ちゃんの体は10センチくらいだそうだが、その首に腫瘍のようなものができているらしい。もう一度検査が27日にあってもっとはっきりするのかもしれない。

 最初の子供が生まれるときは、「五体満足で、もしjそうでなかったら、それを受け入れられるように」と祈ったことを思い出す。「母子ともに健康が守られますように」と祈っていたが、結論が出たわけではないから、これからも同じように祈るが健康な赤ちゃんが生まれてほしい。そうでなかったらそれはそれで祝福が形を違って与えられるだろうと思っている。お二人を思うと心痛む。「主よお二人に平安を我らに祈る力を与えてください。」

2009年7月15日水曜日

梅雨明け

 今日は梅雨明け、昨日までのどんよりとしていたのが嘘のように今日は朝から晴れて暑く、まるで昨日までが嘘のようである。日本は四季に富んでいて、その折々の良さがある。特に信州に引っ越してきてそれを感じる。
 
 坐骨神経痛で外にあまり出られなかったが、少し歩けるようになって来たから足を伸ばして行こうかなと思う。霧が峰のニッコウキスゲも今シーズンのようだから楽しみだ。ささやかな楽しみだが自然に学び、この素晴らしさを享受したい。願いはハイキングコースの山を歩きたいがまだ無理だし、出来るか分からない。今出掛けられるようになったことが感謝であり、恵みであることを教えられる。今それで充分。

2009年7月13日月曜日

歯の点検

 5月に半年後の歯の点検の案内が来ていたがそのままになっていた。家内は4月だから大分先になってしまった。半年?でももう歯石が着いていた。若いときは虫歯もなく、歯も丈夫で羨ましがられたが、今では硬いものを噛めば左の上の臼歯が痛くなり、右上の臼歯も軽く痛くなってきた。虫歯で詰めている部分が何箇所かあり、どういう訳か上の歯が多いのはなぜだろう。

 8020という言葉がある。80歳で歯が20本以上保とうという運動で財団まである。歯が丈夫なときは何も感じなかったが最近硬いものを噛むと痛むことがあるので硬いものが食べ難くなった。歯の所為で食べ物を制限するなんて初めてだが改めて健康であることが恵みであることを実感している。

 これからは歯磨きは毎食後にやるようにして、尚且つもう少し丁寧にやろうと思う。入れ歯になったらおいしいものも食べられなくなる。この歯で噛んで食べられるということは精神衛生上大切なことだと実感した。今から備えないと失ってからでは遅い。それに付け加えてゆっくり食べることにも気をつけないとと思っている。

2009年7月10日金曜日

紫陽花

 雨がぱらつくような陽気だったが市内の小坂観音のアジサイ見物をしてきた。いつだろうかNHKの大河ドラマで有名になった武田信玄の側室湖衣姫が療養していたところだそうだ。来年の一月からNHKの大河ドラマで武田信玄の家来、山本勘助のドラマが始まるそうだ。そこでは由布姫として登場するようだ。

 以前行ったときに上から坂の部分というか崖を見て、たいしたことないなと思ったがそんなに広くはないが階段を上がり通路に沿って歩いていると身近に見える紫陽花は雨に濡れてきれいだった。何時も思うことだが紫陽花は梅雨の季節にぴったりで濡れていないと綺麗ではない。お天気が良いと陸に上がった河童のように実に冴えない。

2009年7月9日木曜日

やっていることが

 話の準備と共に新約聖書概観を始めた。今福音書の流れと対照表を作り終えたが照らし合わせて削ったり加えたりしている。A43枚に分けているからその中に収めないといけないから難しい。チェーン式聖書の梗概くらいだと分かりやすいが4福音書を照らし合わせようとするともう少し細かくしたい。あまり細かいと逆に分かり難いかなと思う。さっと見て流れがわかれば一番いいのだが人によるか。ここの集会と前の集会の年配の姉妹たちを念頭に置いているがどうだろう。自分の趣味のようなもので相手がそれで益を受けるとは少し無理かなと思う。新約の流れを大雑把にでも把握できればいいと思うがあまり興味ないテーマかもしれない。

 私が興味あることは他の人にはあまり興味ないみたい。協調性もなく、我が道を行く者としては当然の結果か、それでもめげずにわが道を行く。たとえどうであれ、好きなことが出来ることは感謝である。それ以上は私の範疇外である。イエス様も余り回りに合わせるという姿勢はないみたい。ただ罪人といわれている人たちには滅法熱くなるそこが好きだ。キリスト者がイエス様をこのように捉えていいのかな?

2009年7月8日水曜日

霊的祝福

 昨日かなデボーションの箇所がエペソ書1章3節の「天にあるすべての霊的祝福を持って私たちを祝福してくださいました。」とある。イエスキリストを通して与えられているこの祝福は、「天にあるすべての霊的祝福」であることを知る。もう神は祝福しようにも、もう祝福するものがないのである。出し惜しみする私としては驚きの一言に尽きる。
 申命記 28章 2節に
「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。 」とある。それはこの地上の祝福に過ぎない。勿論素晴らしいことではあるが、霊的なものはない。

 エペソ書は何度も読んだところだが何時も読み過ごしていた。自分はともすれば地上の祝福を指向しているのではないかなとフッと思う。健康、経済、安寧を求めているような気がする。確かに病気やお金がないことはつらいこと、しかし考えてみれば生きるのに不便であっても地上だけのことにしか過ぎない。勿論どうでもいいというものではないが、この辺を切り替えて生きて行けたら開放された気分になるのだろうな。

2009年7月7日火曜日

はじめの一歩

 昨日の夕方西友の近くまで歩いてみた。往復で2~300m位かなと思ったら倍くらいあるみたいだ。以前は痛くて通りに出るのが精一杯だったのに大分良くなったのかな。しかし右足はなんでもないが左足は股関節と膝が少し違和感がある。左足の親指の感覚も相変わらずで、お尻の筋肉が痛くなってしまった。今朝整骨に行って大分良くなった。

 久ぶりに温泉に行くが明らかに良くなっているのが分かる。前は通路を歩くだけで難儀だったし階段も使えなかった。今回はお尻の骨と膝から下の筋肉に軽い違和感はあるが普通に歩けた。大いなる進歩である。多少違和感が残るのが憎いね。

 完全回復は分からないが体の複雑さと微妙な感覚はすごいなぁと思う。今までは当然のように受け取ってきたものが恵みであることを改めて知る。主が来られるか召されるかどちらかを経験してすべてが分かるのだろうな。その時はもう次元が違って、こんなものは思うに値しないのかもしれない。どちらも経験できる時代に生きてといっても初代教会の人たちも主はすぐ来ると思われていたようだ。人間に時間はあっても神にはないか。このことを通して、今までと違った主の素晴らしさを覚えられたら最高。

2009年7月3日金曜日

息子から

 珍しく息子から電話があった。自分の郵便物は前の家に行くかとか聞かれ、もうダイレクトメールなども着ていないからないと思うよと答えた。気になったので何でと問いかけたらいや別にといったがそんな時何かやっていることが多い。何かやるにしても事後承諾が多い、それで色々と親子の確執があった。以前は自分の中の心の狭さを教えられ、そういう自分を受け入れるのに苦労したが、今は相変わらずなのだろうがそれはそれとして受け止めれるようになった。

 前に電話あったときにもしかしたら仕事を辞めるかもと云っていたが辞めていた。すでにその時は辞めるつもりでいたらしい。医者に行って薬をもらっているとのことそれに保険が失業保険より多くて、1年半出ると云っていたがどうなのだろう。行こうと思ったがいいとのことで困ったら連絡しろといっておいた。

 出入り禁止になって、3年からになるらしい。キリスト者として、親として色々考えさせられた子だった。息子に大人としてはまぁまぁだが親として零点といわれた時には自分も否定しなかった。というより肯定していたように思う。どの程度子供たちに伝わったか分からないが親としては、多くの面で欠けていたことは謝った。自分の生い立ちの負の部分があって、こうなったことを伝えたように思う。

 あの子を通して、キリスト者として問われ、また集会のあり方も考えさせられた。集会は悔い改める者には門を開くがそうでない者には律法学者やパリサイ人と同じかなと思った。イエス様のようにその人のところに行くということはできない。集会には色々な人が集まっているから群れを牧する者の難しさは分かる。親としてというより、キリスト者として、信者が増えてもそういう人をスポイルして本当の祝福といえるのだろうかと思ってしまう。

 勿論、息子が主の前にどう立つかが問題であるが、それよりも自分たちが息子を主に委ねて、結果はどうなってもそれを受け止めていけるようにと祈っている。田舎を出るときは就職と形で出てきたがどこか「逃げ」があったことを大分前に教えられた。それが信仰に、そして諸々にとなったのかなと思う。今はINGだが逃げないで受け止めようとしている。そういう意味で息子は何かと教えてくれる師であるかもしれない。感謝だけれど痛いことが多いから正直程々にお願いしたい。 

2009年7月1日水曜日

思うこと

 坐骨神経痛を経験して、早く治ることを願いながらも病状の変化は遅々としたものである。ある方が鍼を紹介してくれた。一気に回復はなくてもそれなりに進展はあるかなとの思いで遠かったが電話したら生憎と留守だった。
 早く治ることだけを願って、あれこれ考え動いていた。しかしそう簡単でないことも教えられる。留守だった電話を通して、早く治すのではなく、気長に治療する中で学ぶべきものがあることを教えられる。内村鑑三は著作の中に「読むべきは聖書、学ぶべきは天然、為すべきは労働」と書いている。もじるわけではないが学ぶべきは病気であり、そこから教えられるものは少なくない。

 健康であることの有り難さを再確認させられる。そして体が如何に脆いものであり、壊れた体は時には修復不可能になることもある。そして感謝の薄さを実感する。しかし抱えきれない祝福があるではないか、主が身近に見えるではないか、ハレルヤと賛美ができるではないか、それ以上の何が必要なのか、「わたしの恵みはお前に充分である」然りアーメン。そして河野進牧師の詩を思い出す。

「病まなければ」

病まなければ ささげ得ない祈りがある

病まなければ 信じ得ない奇跡がある

病まなければ 聞き得ない御言葉がある

病まなければ 近づき得ない聖所がある

病まなければ 仰ぎ得ない御顔がある

おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない