2009年2月28日土曜日

2月も

今日で2月も終わり、ずーとお天気悪かったが、今日は朝から好いお天気で布団も干せた。昨夜は雪交じりの雨だったから暖かくなってきていることがわかる。これから三寒四温となるのかな、確実に暖かくなって来ている。なんとなく気分がいい。明日の礼拝には聖歌の「原に若草が」を賛美しよう。ここでは礼拝讃美歌しか使わないのでコピーした。子供のようになって歌える賛美歌である。

整理

最近、キリスト教関係のお気に入りを整理して大分減らした。興味はあっても難しかったり、これからはあまりアクセスすることはないだろうと思うものをドンドン削除して、今日もよくアクセスするけど一つを削除した。地方に引っ越してきて、年もとり、理解力や行動も限られてきたから、ここで必要なものだけにして行こうと思う。ひとつ増やしたものもあるから傾向が変ってきたのかもしれない。

集会関係で良くアクセスしているブログがある。何でこんなに集会に拘るのだろうと思っていた。集会には否定的な思いがあったからだろう。読ませてもらって、こんなことから来ているのかとか、色々知っていく中で、集会を客観的に見えるようになった。また集会のうんざりするようなところも浮き彫りになってきたような気もする。そういう変化が整理に繋がっていったのかもしれない。

工藤信夫さんの本を共感を持って読むなか、坂野慧吉牧師の書かれた「スピリチュアル・ジャーニー」を読んで、これが自分の方向付けをしたような気がする。霊性は難しいものではなく、日常生活の中での出来事、時には失敗の中に見出すことができることを知って、このようなものなら私にもと思った。まさに私のスピリチャルジャーニーの始まりである。といっても相変わらずで足踏み状態が続いている。S兄が教えてくれた上沼先生のことも大きかったかもしれない。不思議なもので一般書店で売られていたヘンリーナウエンの「コンパッション」に感動したことを伝えたら、あめんどうという出版社がヘンリーナウエンの本を出版していることも教えてくれた。今日はこのくらいで。

2009年2月26日木曜日

善悪の知識の木

聖書に、
「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。」2pet: 1:20 とある。しかし聖書理解は、きちんと聖書を勉強した者ではないし、へそ曲がり的性格もあって、発想は私的解釈的である。あるいは「聖書は誤りなき神のことば」と言って聖書のことばそのものを提示することへの反発かもしれない。

エデンの園に「いのちの木」と「善悪の知識の木」がある。なぜ「善悪の木」ではなく「善悪の知識の木」なのだろうか。知識に意味があるのかもしれない。既に善悪の知識を持ってしまった人間は、このことから解放されないのではないだろうか。これが正しいか正しくないか。絶えずこの結論を求めているような気がする。結果が悪であっても始まりは善なのである。聖書の論議も然りである。でも異端問題もあるしなぁ。単細胞過ぎるか~。

2009年2月25日水曜日

ブラインドタッチ

こちらに引っ越してきてしばらくしたら、一人の姉妹が仕事が早く終わるようになったから、何でもよいから聖書の勉強をしたいと言われ、何か良いテキストを探しますといって、聖書図書刊行会の「だれでもわかる聖書の教え」を選んでやることにした。しかし一回やっただけで、自分もと言ったもう一人の姉妹が忙しくなり、3月からということで、早々の小休止。この本は12年前に出版された本で、発売元のいのちのことば社では在庫切れとなっているが多分再版はしないだろう。

最初の分はコピーしたが勉強会が3月に延びたので、また必要になったら、一々コピーするのは大変だからと本をパソコンに入れることにした。ブラインドタッチの練習にもなるからと始めたが上達するような様子はない。B5サイズに横2段、画面を見ながら打つのは楽だが原稿を見ながら打つのは、今どこを打っているかわからなくなるから難しい。でもいい勉強になると言っても相変わらず周辺は見ないと打てないし、それに聖書の引用箇所を入れるのには目で確認しないといけないから進まない。200ページのものがやっと半分終わった。十分間に合うが今度は話すからその準備もあって、来週までお休み。と言ってもチョビチョビやるかも知れない。

以前勉強したものだから、復習するみたいでいい勉強になる。それに上達しないが、それでもブラインドタッチの練習にもなるから感謝である。自分の好きなことやってきたから信仰生活が長くても中身がない。正直いって姉妹たちと勉強会と言えば聞こえはいいが、中味は私の勉強の為が強そうだ。頑張ります。 

2009年2月23日月曜日

映画鑑賞

家内が「雨なのでなんとなく気分が優れない」と言ったので、気分転換のつもりで映画を観に行こうと思った。3時からなので昼食後そのことを言ったら、「もっと早く言ってよ」と言われた。いつも唐突に言う。この年頃はせっかちで説明なしは当然。前の集会で年末から年始にかけて、イスラエル旅行をされ、その時に一人の姉妹のお父さんも一緒に行かれた。群馬の学び会でご夫婦にお会いしたので「自分だけ楽しんで」と言ったら、奥さんが一緒だと疲れるから、のんびりできてよかったと言われて、シニアキャンプのことを思い出した。配膳を手伝っているのを見て、よく動いてマメな兄弟だなぁと感心して見ていたがその後がいけない。さっさと食事を終えるのはよいのだが、自分のを片付けるだけでなく、同じテーブルのものを片付け始めたので、思わずまだ食べ終わってないと叫んでしまった。機会あるごとにこのことで冷やかしている。信仰持って間もなく、わたしより少し若いが集会の中の出来事で少し悩んでいるようだった。そういうの見ると集会の欠けているものが見えてくる。しかし誰かを責めるというものはない。ある姉妹のお父さんも自家製の美味しいコーヒーを出してくれるが、ドンドン片づけを始める。それを見ながら思わず苦笑いをしてしまう。わたしなんか彼らを見ていると序の口にも入れない。

前置きが長くなってしまった。長文は苦手、これで終わりそうな感じでもあるが。観た映画はウィル・スミスの「7つの贈り物」。タイトルに「神は7日間で世界を創造した。僕は7秒間で人生を叩き壊した」ともあり、最初ストーリーが読めなかったが最後のほうでやっとわかる展開になっている。超エリートの彼がスポーツカーで婚約者?とデートしている時、運転中に携帯でメールするが恋人にやめてと言われてもそのままやって衝突事故を起こす。恋人は勿論、相手の車の人たち合わせて7人を亡くす。贖罪のために7人の人たちに自分の持っているものあげていく、暴力を受けているヒスパニックの母子に自分の別荘と車を上げる。実の弟にも何かあげ、黒人の女性に肝臓を上げる。盲人のピアニストには目を、そして最後に心臓移植を必要な女性に心臓を、その女性と恋に落ちるが目的を達成する。自分の大切なものを一つ一つ与えていく、そして最後にいのちを引き換えに、イエス様とダブらせるつもりはないが、何かジーンと来るものがあった。

今「おくりびと」が話題になっている。あぁいう職業があるのははじめて知っただけでなく、亡くなった人に対してあぁも丁寧に扱う姿を見て感動した。いのちの大切さだけでなく、死者を弔う心の素晴らしさ、忘れてはならないことだと思った。父のときも母のときも悲しみはあまりなかったように思う。父のときは棺に伏せて、大声で泣く従姉妹の姿に周りの人たちの涙を誘ったが、私が平然としている姿に家内が後で驚いたといっていた。私は本質的に冷たい人間なのである。あったかいものがほし~い。

キリスト者でないときに観た「汚れなきいたずら」だったか、ぼろ屋のような修道院に戦争で孤児となった子供が引き取られる。その子は2階に上がってはいけないと注意されるが、好奇心が彼を2階にあげる。2階にあるキリスト像に裸で寒いだでしょうと布をかけ、お腹すいだでしょうとパンやぶどう酒をくすねて持っていく、そしてなんて名前かと聞くと「私は与えるのだ」と言われたことを今思い出す。勿論もう細かいことは定かでないが。イエス様は与えるだけで、求めてはいないなぁと。与えるものはないが、エミリー・デキンスンの詩を思い出す。

もしわたしが一人の心を傷心におちいらせないように
することができるなら、
わたしの生涯はむだではないであろう。
もし一人の生命の苦悩をやわらげることができるなら、
あるいはまた、
一羽の弱りはてている駒鳥を助けて、
その巣の中へ再び戻してやることができるなら、
わたしの生涯はむだではないであろう。

こんな形で生涯は無駄でなかったと告白したいものである。
勿論自分の力ではできないから御霊の働きが自由に働かれるように。

2009年2月22日日曜日

今日は

今日は4人の兄姉が用があって集いず。6人で集会をもたれたが、少ないのもいいものだ。フルでも少ないのにと思うが実感である。数が増える分だけ人と人とのコミュニケーションは薄くなってくる。それを補おうとすると組織的なことをしないといけないということを改めて感じた。人が増えることは幸いだが小さい群れに拘ることも大切ではないだろうか。現実の集会を見ていると違うよう見えるが、信者にアクティブな信仰を求めて、信者もそれに答えている人だけが残っている。という現実があるような気がする。それだけが祝福と見るのは寂しい。教会人は強者なのであるは言い過ぎか。もう一言言えば、クリスチャンということばの中に救われた者というよりも、罪人より一段上にいると意識があるような気がする。イエス様の時代の律法学者やパリサイ人とクリスチャンとどこかダブるのはひがみか。

福音書を見るとイエス様は大勢の群集に語っているところもあるが、基本的には個々人に語りかけているように見える。特にヨハネの福音書などはそれを感じる。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 luke:19:10  誰も見向きもしないし、誰も気がつこうとしない、そのようなところに目を向けるということは孤独な歩みである。イエス様だからできるが、わたしにはもちろん無理だが理念を失わないようにしたいものである。

2009年2月20日金曜日

久し振り

今年初めてで、久し振りにプールに行って泳いできた。といえば聞こえはいいが、現実は25mを半分泳ぎ半分歩くという次第である。それでもクロールで25m泳げたが、平泳ぎは2/3が精一杯びだった。問題は息の使い方、これがうまく行かない。隣は私より年上のおじさんが不恰好な泳ぎ方でクロールで泳いでいたがそれでも休むことなく泳いでいた。その隣は40代後半の男性は平泳ぎもクロールもの実に静かに泳いでいた。そこまでとは思わないが少なくとも往復したいものである。通うしかないな。2時過ぎだとガラガラだからこれから体力つけて頑張ってみよう。一時間弱、その前に雪かきをしていた所為もあって疲れた。隣の諏訪湖ハイツで温泉につかり心地よい気分で帰ってくる。しかし、今日は雪で暖かかったが、あした、あさっては寒い、少し憂鬱、それでも今年はダントツに暖かいのではあるが。

2009年2月19日木曜日

読み終えて

上沼先生の「…やみを隠れ家とする神」を発売草々に買ったのにやっと読み終えた。よくアクセスしているブログの方が教会の月報に書評を書いておられたのをブログに載せていた。坂野慧吉牧師も月刊「いのちのことば」に書評を書いている。共に読んでも難しい。先生に買って早々くらいにお会いした時に「難しそうなのでそのままなっています」と言ったら、「どこからでも好きなところから読んでいいんのですよ」と言われたがそれでもツンドクが続いていた。正直言って難しい、どこまでわかったかわからない。

本質ではないが、人の側に闇があるのはわかっていたが神の側にも闇というか御自分を隠される方であることが分かっただけでもよかった。引用されていたイザヤ書45章、ルターの詩篇の講解での18編、そして「隠される」ということばはたくさんある。箴言25章には「事を隠すのは神の誉れ。」ということばもある。闇はネガティブなものだと思っていたがもしかしたらポジティブなものではないだろうかと思わされている。ネガもポジもどう理解しているか疑問だが。父親の実家を訪ねたりしていたから「父」のことを書かれると思う。その本が出版されて、それを読んだらこの本をもっと良く理解できるかもしれない。

本を読み終えて、頭が整理されていないからうまく書けないが、福音的ということばの理解は、もしかしたら一面的な面しか見ていないのではないだろうか思わされた。このことをもっと整理してみたい。ここでは独り言のように書けるし、飛躍があり、独断があある。イエス様の食卓から落ちたパンくずを拾うつもりが…まさに独り言である。

2009年2月17日火曜日

一人の姉妹の死

以前集っていた集会のK姉妹からお電話を頂いた。家内が買い物に行っているので、帰ってきたら電話しますと言ったら、私でいいと少し深刻そうに言われたので何事かと思った。そうしたら以前集会に集うっていたT姉妹が急性心不全で亡くなったとのことだった。多少関わりを持っていた姉妹だから複雑な思いに駆られる。

私にとって死は身近なもの、死に対して苦しさとホッとする二つの感覚を持つ。それだけ生きるということに対して強くないのかもしれない。50代後半につらい思いはなかったが目の前に死がちらついて、思わず苦笑いをしてしまったことがあった。救われたのは死にまつわることがきっかけであって、そのことを思い出したからである。

人の強さってなんだろうと思う。強くても心を失っている場合もあるし、弱くても心豊かな人もいる。丈夫?な人もいれば病弱な人もいる。パウロも自分の弱さを誇ろうと言っている。弱さは生きるにはシンドイけど大切なような気がする。この大切なものをキリスト者でも軽視していると思えるときがある。それは神から自立しようとする罪がここでも生きている。死というものは色々なことを考えさせてくれる。ご両親の心の平安を祈りりつつ、主は与え、主はとりたもう。「○○さん、そのうち天でゆっくり交わろう」。

2009年2月16日月曜日

確定申告

きょうから確定申告が始まった。昨年引っ越してきたのでこちらでは初めての申告。市役所の大会議室での受付に行ったら9時前なのに受付番号は133番、隣の人は33番7時に来たと言っていた。そんな時間にこれないし、覚悟をしていたので本を読んで自分の番を待っていたら、書類の出来ている人は別に受けてくれて少し早くなって助かった。と言っても終わって家に帰ったのは、チョッと寄り道はしたが12時前だった。初日は誰もが来るから今度は二日目にしようと思った。

確定申告はこれで3度目である。それまでは還付の申告をして万単位で還付されていた。これが楽しみだったが今は逆に所得税を払わないといけないからこれが痛い。昨年は福祉作業所で働いたので、それが付加して増えたが、今年は半年しか働いてなかったから税は半分ですんだ。リタイアして国保に切り替えたら、金額がいらく高くなっているのでびっくりした。最初は計算違いかなと思ったがそうでもないらしい。収入にスライドしているから今年は少ないと思うが来期から率が上がるそうだからどうなるだろう。

勤めていたときは会社でやってくれるから楽だったが、リタイヤすると全部自分でやらないといけない。国保だ介護だと出費は増えるし、これが年をとった現実かと思わされている。年寄りには優しくない世界だなぁと思いながら今までが楽だったのかなと。それでも国税庁のHPで簡単に申告書を作れるからありがたい。数字を打ち込めばいいから助かる。後ろいた奥さんはご主人が来れなくて今年初めてだと言っていたが我が家もいつかそうなる家内は出来るだろうかとふと思った。先のことはその時考えればいい。ささやかであるが、今生かされていることに感謝。

2009年2月15日日曜日

日曜日

今日は二人の姉妹が集うことができなかった。既にわかっていた一人の姉妹は東京に、そして以前いた集会に彼女の友人と集う予定だったが、お嫁さんが急用ができてできなくなったと今朝メールをもらう。残念だが物事はそううまくいかない。これは祈るために必要なのかもしれない。友人は自分から行くといっているそうだから祈っていこう。姉妹の前向きと働きに祈ろう。

もうひとりの姉妹は家族のインフルエンザで来れなくなったと直前に連絡あった。もう収束しつつあるのだろうが大事にならないように祈った。このように連絡をしてくれることは有り難い。次の週もお二人は来れない。さらにI兄姉も仕事関係の会議かでお休み、小さな集会にとっては痛いが、今まではI兄姉は集会があるので休むことが出来なかった。それができるようになったことは感謝かもしれない。ご苦労さん、仕事終わったら二人で楽しんでください。ささやかであろうが。

今週は確定申告、水曜日には姉妹が勉強会に来る。先週は祝日もあって息抜きしたが今週は少し頑張りましょう。

2009年2月14日土曜日

神観

福音理解に於いて、神観は大切である。これをどのように見るかでその信仰も大分変わってくるのではないだろうか。ことばで福音を理解していても神観の見方によってはまさに天と地の違いがありそうな気がする。キリスト者の中に、あまり内面的な面を注目しない人たちがいる。そこに問題を起こす原因があるのに気がつかない。というよりも気付こうとしないといったほうが正確かな。神をどのように見るかそれはイエス様をどのように見るか、十字架のイエス様トも、人々から疎外されたイエス様も神である。

福音

教会の福音理解を刑罰代受説であると言われる方がいる。確かに神の裁きをイエスさまが代わりに受けてくださったということは、そのように捉えられてもおかしくはない。同じことでも、十字架の死が「わたしの罪のたために」にと「わたしの罪がイエスさまを十字架に」では大分ニューアンスが違うような気がする。そこには罪赦された者の資質も違ってくるように思う。前者はどこかご利益的になりやすいし、後者は罪責感が強く残っているような気がする。ルカの18章に登場するパリサイ人と取税人の祈りが象徴的に示している。教会の歴史が異端といわれた人たちに対する態度と行為は、神の主権を握った者の恐ろしさを如実に示している。教義の議論はまさにこのところにあるのではないだろうか。イエスさまが「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(1pet 2:23)。このことはキリスト者に隠されているようでしかたがない。

2009年2月12日木曜日

最近 2

以前新約概観を途中までやっていてそのままになっていたのを少し読みやすく仕上げようと手をつけたが、S姉より使徒の働きを少し勉強したいといわれて、使徒の概観を準備していたりしてそのままになっている。自分の興味あることには時間と労力は惜しまないが、こちらに来てからは自分の興味よりも他者にという意識の転換を迫られて少し戸惑っている。自己中は自分の興味あることにのみなのである意味で楽だが他人に合わせるとなるとその思考がないから困る。しかし戸惑うことは考えろということだから硬い頭をほぐすにはいい訓練になっているのかな。

それと2,3日前から図書刊行会から出版されている「だれでもわかる聖書の教え」をワープロで打っている。3月から使うのでコピーすればよいのだがブラインドタッチの勉強にもなるので始めた。一日一章を目標にしているが少し難しい。色々と勉強になっているが、こんなことをしていて馬鹿みたいだなぁと思わないでもない。馬鹿みたいなことをやるのが私の趣味でもある。イエス様もそんなところがあるからうれしい。

2009年2月11日水曜日

祝日

今日は建国記念日、最近でもないが祝日でも休みの日であることはわかっていても今日は何の日であることはあんまり考えなくなった。祝日が振り替え日ができたりで休むことが主体でその日が何の日であるかは次になってしまったような気がする。

福音もどこか本末転倒的なことになっていないかなと思ったりすることがある。それが何であるかははっきりわからないがそんな気がする。天邪鬼的精神は信仰も真っ当うにいかない。へそ曲がりのつらさよと書きながら全然そんなこと思ってなくて楽しんでいる。

2009年2月10日火曜日

最近?

今年に入ってから上沼先生のブログがメールでくるようになり、昨日も来ていた。これからも来るのだろう。以前にも頂いていたがメールを変えたので来なくなり、ブログを読めばいいのでそのままにしていた。4年位前かな、S集会のS兄から、向こうにいるときに、こんなHPがあるよと紹介してくれて、それがきっかけであった。後で彼から興味もつと思ったと言われて、どこを見て言ったのかなぁと今もわからない。しかし、自分の集会のやり方に疑問を持つ、ある兄弟を紹介してくれたりしたからその辺からかな。

ウィークリー瞑想はわかるけど神学モノローグは難しい。モノローグの方はS兄のメールがきっかけで作ったようなことを書いていたと思った。最初にHPを読んだときは新鮮に感じ、それとメールをしている中で、田舎の従姉妹が結婚している人の弟さんが札幌で牧師をしており、中学の一年先輩に当たる人でもあることも先生を通してわかった。神学舎で教わったK兄は余り印象がよくなかったようだが、名古屋?で会ったときは大分印象が違っていたようだった。その旨話をしたら「私も色々ありましたからね」と言われたことが印象に残っている。

東京で何度か小さい集まりに誘われて、諸集会と違った見方に興味を受けた。昨年引っ越して、近況や出版された本の内容と自分の内面をダブらせたことを4年ぶりでメールしたら覚えていて返事くれてからメールのやり取りをするようになった。東京を離れ接点もなくなったから寂しいなと思っていたら、先生のお父さんの実家が飯田の元善光寺である事からまた接点を持つことができ、これからも進展しそうな予感がする。

2009年2月9日月曜日

休養日

ある牧師は月曜日は気分転換のために好きな山に登ったりしているそうだ。毎日が日曜日の現在でも、前のところと比べたら全然楽なのに月曜日は疲れる。今回はM兄姉とT兄が来てくれて、それに我が家で夕食だった所為もあったのかもしれない。それとエマオの「聖書は何んと教えるか」をやったりしたのでその準備やなんやで何時もより疲れたのかもしれない。年の所為かその時はそれ程でもないのに翌日なんとなく力がでない。11日の祝日も聖書はデボーションだけにして、体の教養日としよう。

2009年2月5日木曜日

この暖かさは

このところ暖かい日が続いている。感謝なことだが、こう暖かいとスキー場のことが心配である。長野でのスキー大会が中止とかTVで言っていた。商売にしている人たちは大変だ。この人たちのことを考えると暖かいのもなぁと思ってしまう。それと寒さが戻ったらと考えないでもない。自然相手だからどうすることも出来ないが、人は人間の力の及ばないことを身近に覚える必要があるような気がする。日本においては暑さに於いても寒さに於いても死ぬことはないから有り難い。

2009年2月4日水曜日

続き

昨日、夕方からカノラホールに家内と行って来た。前に応募して当たっていたNHKの公開録画「あなたの街で夢コンサート」を聞くためである。カノラホールは初めてで、いつか行きたいと思っていたからうれしい。天井が高く3階席まである。奥行きがそれ程でもなかったから音響的に良いと言っていたがどうなのだろう。補助椅子のかぶりつきみたいな所にいた所為か、古いけどセシオン杉並の方が音響的にいいような気がした。ステージは同じようなのでダブって懐かしさを覚えいる。

渡辺徹さん司会でアシスタントにNHKの女性アナウンサー、ゲストはKANさんと寺井尚子さんというジャズバイオリニスト。それに地元の森田さんという高校生のチェロと三澤さんという、うなぎ屋さんがサックスと友人3人でうなぎ音頭を歌ってくれた。東京フィルハーモニーが出演していたのだから、もっとクラシックを聞きたかった。バライテイ番組だから無理か。渡辺徹さんも素を見るのは初めて、スリムに見えたが最後にもそのことを皆さんに伝えてと言っていた。痩せたのかTVは太って見えると言われるからその所為かわからない。はっきりとした言葉で話をしていたのが印象的、自分もたまに話すから気になっている所為かな、家内は満足でしたが、チョッと物足りないような、それでも楽しかったひと時でもありました。

昨日

給料生活の時には必要なかった所得税の申告を、年金生活になったら自己申告しなくてはならない。今は国税庁のホームページで数字を入れるだけで簡単に作成できる。
入力するものもそれ程ないので楽、昨年は保険が少し入ったをうっかりそのまま入れて、税金がそれなりになって、住民税、国保税がリンクしているから国保税がびっくりするほど上がった。というよりは、その前が安い給料で算定した保険料だったのかもしれない。訂正の手続きが出来るのかなと思ったが払えるなら払いばいいと思っている。

私はよくうっかりミスをする。そのときに思うのは、神が隠されたのではないかということだ。それならそれでいいのではないか、そこで損失をこうむっても主が教えようとしている何かがあるのだろうと思うようにしている。戦前の人だが、本間俊平はどん底の中で収入の何倍の税金が来ても、神が払いといっているから、それを訂正しようと交渉することはなかったようなことを本で読んだ。一緒にするには程度が違いすぎるが。

2009年2月1日日曜日

話し終えて

元々人に言葉をもって伝えるというのは苦手である。以前は家内に「お父さん主語が抜けている」と云われ、言い替えて話すと、「それで分かった」とよく云われた。最近ではないが息子にも話をした後「意味がよく分からない」と云われて、言葉を選んでゆっくりと話しをしたら「最初からそう云えばいいじゃん」と云われムッとしたことを覚えている。そんな訳だから、話の準備をしながら、今度の水曜日に使う「使徒の働き」の梗概を作ったりしていた。パソコンと睨めっこで、調べものを纏めていくのはなんとなく性に合っている。人は嫌いでないがどこか苦手でもある。

サムエル記のダビデとバテ・シェバから話をした。少し角度を変えて、常識で考えたら明らかに悪いことであっても、そのことに気付かないことが、私たちにある一般論的に話し、ナタンの譬え話で怒るダビデの姿を「正義感」と捉え、これは人を裁き、赦すことができない。時にはそれを自分自身に向ける。ナタンは「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。」と、神は「赦す神」であることを、家内からは今一の感をもらった。聞き返したが、私としてはまぁまぁ上出来、人がどう捉えたか考えない。鞭木牧師は話した後は何も考えない。「先生、今日はよいお話でした」といわれた時は、あぁ今日は駄目だったの思うようにしている。そして翌日山に登ると言っていた。面白い牧師だ。牧師と一緒にするつもりは毛頭ないが。

その後、家内がダビデは悔い改めたから赦されたと言ったので、違う赦しがあったから悔い改めることが出来た。放蕩息子は帰ってきたから、父は受け入れたのではない。出て行った時に既に受け容れていた。だから帰れたとしつこく言ったら家内沈黙、
集会で受け容れられるか分からないが、福音の根幹に関わる事だと思っている。私たちの世界はギブアンドテイクの世界。それならば悔い改めたから受け入れたとなるが、神の世界はテイク、テイクの世界である。でもこんなこと理解されないなぁ。そこが集会の一つのネックのような気がする。独り言。