2010年6月30日水曜日

高橋三郎先生

何時もアクセスしているブログの中に、クリスチャントデイのニュースがあって、「高橋三郎」の名前があったのでアクセスしたら、召されたニュースだった。大分弱っていた事は知っていたがついにという感である。一つの時代が終わったことを感じる。

以前にも書いたが、会ったのは二回しかなく、それも言葉は交わしたことはなかった。最初に読んだロマ書講義の衝撃は今も忘れられない。信じて間もない頃で、聖書の知識もなかった所為もあったのだろう。それに集会で生まれ育って、得た知識は「無教会は神学を勉強しているだけ」とインプットされていたから、尚強かったのかもしれない。それに先生は福音に対しても熱心であった。このことを知って、諸集会の他の教会に対する認識は一面的で、一言で言えばいい加減、と言われてもしょうがないと思った。批判するならもっと調べてからと思う。独善的なのである。島根県の江津市に高等学校をつくっていている。

あれから「十字架の言」誌を購読していて、多くの示唆を受けた。手紙で何度かやり取りして、汚い字でお叱りを受けたのが印象に残っている。何冊か本も購入したが古いのは外箱が触ると崩れそうになるのもある。ロマ書講義、ヨハネ伝講義、マタイの福音書講義は、今も時折手にして、参考書としている。

2010年6月26日土曜日

杉島ドーナッツ

この間バプテスマを受けた姉妹が仕事で行かれる伊那市長谷の奥にある杉島というところにおいしいドーナッツ屋さんがあることを教えてくれていたので行って来た。一口チョッとの大きさと中に白と黒の餡で、砂糖をまぶしているのが気に入った。勿論食べてもおいしかった。ケーキ類は食べないことはないが強いて買って食べたいと思わない昔人間だから、昔風のがいいのかもしれない。おばあちゃんが作っているがその親の代からとのことで頷ける。集落が切れて更に山道を少し走り、左に折れて少し走っていくと集落にぶつかる。その先はないような山奥と言っていいところにある。何でこんな山奥にと思う。それでも遠くから買いに来るというのに驚くが昔風のがいいのかもしれない。

左折した所まで戻り、更に山に向かって走るがこの先には集落は無い。今話題になっている気のある場所を過ぎて更に山に入る。車一台がやっとというところの山道を走って、向こうから来たらどうするのかと思うような道である。途中から駒ヶ根方面の看板に沿って、右折する。下りになるがここも狭い。数台行きかったがどちらかが広い所で待機しての相互通行である。丁度そのようなところがあったから良かった。そこからかんてんパパに寄り、そこで買い物と少し寛いで、更に走り、見晴らしファームで野菜を買い、そこのお風呂に入って、すっきりして帰ってきた。途中蛍の里があったのだが疲れてパス。

天竜川に沿って走り途中から高遠に抜ける道に入り、一部集落が切れるような道だったが高遠の手前に出る。高遠の街を過ぎて長谷に向かう。そこに南アルプス道の駅があって、そこのミニクロワッサンがおいしかったのでそれを幾つかと他のパンや野菜を買い、そこのデッキで昼食をとる。それから前記のところを通って120キロの信州の旅、信州は季節と、場所で雰囲気が違うから車で走っていても楽しい。奥原菓子店ドーナツ万十が正式名称であります。

2010年6月16日水曜日

父よ、父たちよ

この間の軽井沢のシニアキャンプで、売店に置いてあった本の中から、今回のバプテスマのプレゼント用にと自分が読む「父よ、父たちよ」を買って来て、今読み終えた。出版された事は分かっていたが買う機会がなく、キャンプ場にあってよかった。著者をお父さんの実家に案内した事が最後の方にチョッと触れていたのに驚く。
男性が父親との関係に複雑なものを持っていることを以前から指摘されて、男性集会などで、そのことを扱っていたみたいだった。今回はその集大成のようなものなのかな。
自分は父親とのつながりの少なさからどう捉えて行けばいいのだろうと思いながら読んでいた。父は5歳の時に戦争から帰って来て、女だけの家族から、知らないうちに父が中心に動いている事に気付かされる。知らない男が何でとの思いは今でも覚えている。3歳くらいの時に父が何かで帰って来たことがあった。家族が囲炉裏を囲んで話をしている時、兄と私は父の軍刀をヨタヨタしながら支えているのをみんなが笑って見ていた。あの時はどこか和やかな微笑ましい出来事のように感じたことを今も良く覚えているがあの時とは違っている。物心が付いてきたのだろうか。それから信仰を持つまでは心は開くことはなかった。兄は最後まで駄目だったみたいだ。私たちだけでなく、この年代は同じような経験をしている人が多い、ある方はそれで精神的な病気にもなっている。弟が生まれて、可愛がる父の姿を見て、羨ましいとは思わなかったがこれが本来の親子の姿なのだろうと子供心に思った。だから弟だけは父に対する印象はすこぶるいい父親なのである。
殆どコミュニケーションのなかったことは、子育ての中に父親像を描くことが出来なかった。それで子供は「ほっといても育つ式」と「駄目駄目式」でやったから、子供は…。そのことだけではないのだろうが。それと私の中には自分を守ってくれる母親像はない。こんな所で培った性格はいいはずがない。そんな親が子育てしたら…。
父と向き合った時は、晩年の幼子のようになっている父だった。他愛もない言葉に耳を傾けて、頷いている自分を思い出す。
読み進む中で、もしかしたら父親のイメージは子供を通して見ることが出来るのではないだろうかと思った。自分はこういう父親であり、子供は自分をどう見ているかを思うと分かるような気がする。絡んだり、見えなかったりする父親像、これが解け、見えてきたら「父なる神」のイメージも大分変わるような気がする。

2010年6月14日月曜日

バプテスマ

昨日は一人の姉妹のバプテスマがあり、ここでは10年からの久しいバプテスマらしい。信じてから2年近くになるのだが、月に一回の勉強会なので遅くなってしまった。東京から10人も来られて、普段は7,8人なのに、今回は25人もの賑やかな集会となる。一過性でなく、永続性の人数になるとうれしいのだがそれは何時になるのだろう。
証しも年配者だから色々な経験をされて、今でもそうだが苦労された事が垣間見え、涙する人もいたりして感動 ものだった。バプテスマを施した伝道者のM兄は彼女の信仰告白が伝道者になる印の一つとして祈っていたこともあり、また、東京から来た兄姉たちも以前来られていたので、それなりの思い出を持っている。そんなので感動も倍加した感じでもあった。
バプテスマは、ある姉妹の家のお風呂を借りていたが今回は東京から大勢来るというので広い所を捜すことになった。銭湯に当たって断られ、民宿も一軒オーケーを取れたがあまり綺麗でなく、一応確保しながら、もう少しいい所との思いで捜す。そこで前に断られたスケートの森に再度声をかけて交渉して借りることが出来た。公共機関などは洗礼や聖餐式となると宗教行事にあたるのでそれだけで断られる。最初にこのことを言ったら断りかけそうになったので、短パンにTシャツで浴槽に浸かって、それで終わり、後は聖書の勉強会だけですと、このことを強調して言う。まぁいいかという雰囲気で貸してくれることになった。パン裂きもあるかと思いながら、広い意味で聖書の勉強会と勝手に自分に納得させる。キリスト教 のキの字も知らない方で、キリスト教で訪問している人たちと同じかと聞かれて、彼らは聖書の一部分を使っているだけでキリスト教とは全然違いますと言ったら、あっさり頷いてくれた。
スケートの森だから夏は暇かと思ったら、夏でスケートリンクをやっているところは少ないので、大学等の合宿で忙しいらしい。関西やその先からも来るそうだ。来週から始まると言われ、4月から6月半ば位まで閉めているがその間氷を砕き、設備を整備して、借りられるのは5月末から一ヶ月未満のうちだったらしい。全くのグットタイミングだった。
今回の出来事を通して、最初は何処を捜そうと思案し、そして最初にいいと思ったところが断られ、少し落ち込んで思案するが神は最善のことをしてくださった。駄目な時は更に優れたものを備えてくださっていることを教えられる。その事を教えられただけでも良かった。次回は何時になるか分からないし、そのとき借りられるかも分からない。しかし、あそこは浴槽はいいのだが宿泊施設だから畳のみで、ミーテングルームは狭いし、次回はもっといいところを捜せたらと思う。人間的な思いと神の思いの違いはこういう時に直ぐに際立って分かる。無教会信者ではないが、彼らの言わんとすることも分かるので、救いに直接関係のないことに苦労するのはなぁと思ったり、教会が滴礼を施すのがなんかよく分かるような気がした。信仰の薄き者よ。

2010年6月8日火曜日

言葉の人

 新しい首相が生まれた。選挙の時には民主党に入れたので、小鳩体制にはどうなるのかなと心配していたが、ようやく普通に戻ったという感がしないでもない。若い人たちの理想と現実と実行力が明らかになるのはこれからだが自民も含め若手が頑張ってほしいと思う。小沢さんの手法を見ていると田中角栄のやり方と全く同じように見える。角栄は自分に拘って、命まで失ってしまった。これからの日本、若い人を育てるという視点を持っていたら、また違った評価を得ていたのではないだろうかと思うが、晩年は見苦しかった。これまで小沢さんは頑張って来たが時代は変わってきている。その辺を考えて活動してほしいものだ。
 鳩山さんにはただ驚くばかり、言葉に重みがない。一国の首相が言うからと期待していたら、どこに根拠があって言っているかと思ってしまう。まぁ強権政治より良いかもしれないが、政治家の資質はない。言葉で言っても沖縄の痛みは月々1500万の小遣いを貰っている人にはわからないだろう。それを知らなかった聞くとまさにお坊ちゃんの域を出ていないように感じる。知識があれば大学の先生は務まるだろうが言葉だけだったら政治家は勤まらない。「友愛」にしても賀川豊彦の「友愛経済」を思い出す。賀川には貧民救済という理念を持ち、その為に行動した。これはECの理念の関与にもつながったと聞く、鳩山さんには手を汚す姿勢はないように見える。もう政界から消えるべきだ。彼を見ていると自己中というより自己愛なのかなぁ。聖書の語り手は鳩山さんの徹を踏まないように心してほしい。

2010年6月6日日曜日

話し終えて

 月に一度のメッセージ、30分前後だが四苦八苦しながら終える。大雑把なテーマはすぐ決まるのだが細かくつめていくと的が搾れなくなる。最近ようやく的を絞れるようになって来た。10人に満たない小さな集まり、あまり人数には関係ない。それと話しを準備する中で自分で判っていると思っていたことが実はよく分かっていないのではと思われることがある。実際の生活の中で聖書の言葉をどのように生かすかにかかっているような気もするがどうだろう。そういう面でははなはだ心もとない。これもチャレンジかもしれない。もう次のテーマは決まっているがどういう肉付けなるか楽しみでもあり、間近に迫ると苦しみにもなるが。