2010年9月28日火曜日

幻がなければ民は堕落する(新共同訳聖書)

尖閣諸島の問題で日中国内外でごたごたしている。海のない信州に住んでいると海のことはわからないが、現場で漁をしている漁師さんたちにとっては深刻な問題なのだろうなと思う。国益というよりも、北もそうだが、漁の安全操業が出来る施策を考えてほしいものだ。

聖書でいう「罪」は「的をはずす」と言う意味だそうだ。旧約聖書のヨブ記に「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者は誰か」(箴言38章2節)と神はノブに問いかけている。そう問われたヨブの更に対極にあるようなものだが、書くことはそんなものかもしれない。

中国は日本の国土や人口が10倍以上あるのではないだろうか。そんな大国が何で高飛車に出なければならないのだろうか。高飛車に出ると言うことは、どこかに弱さを持っていると言うことだ。弱さを見せてはいけないものはどこに?

鶴の一声と言う言葉がある。昔、尖閣諸島の問題で、福田元首相と登小平主席のやり取りがどこかに載っていた。彼がいたらどうなるかわからないが、こんなこじれ方はしないと思う。彼の一言で下の者を抑えることが出来るだろう。中国の指導者がそれが出来ないと言うことだ。大国の首相がニューヨークで言う台詞ではない。日本ではなく、誰かにアッピールしているに過ぎないこと証明しているようなものだ。

周りが敵国に囲まれているイスラエルは、60年以上保っている。世界中から非難されようが彼らの考え方を変えようとしない。小さい国が生き延びていく術を心得ているようである。神に選ばれた国だと思うことがる。だからイスラエルをすべて肯定しているわけではない。注目に与えする国である。イスラエルと言う国に目を向ける政治家がいたらすごいなと思うが、例えいかなくても世界に目を向ける政治家はどれだけいるのだろう。世界も日本も政治家も小粒になったのかな。

菅さんは以前に「霞ヶ関なんで大バカ」発言があった。例えそう思っていても言うべき言葉ではない。ましてや首相になろうと思っている人が、それに彼らがいなければ、良くても悪くても日本は動かない。新聞やテレビでしかわからないが役人の姿伝わってこない。政府のやろうとしている具体的な施策が動いている姿も見えない。霞ヶ関のしっぺ返しかと思ったりするが役人はそんなに小さくないか。でも、菅さんはもう終わりのような気がする。

聖書の箴言29章18節に上記の言葉がある。この言葉は真理だと思っている。
日本も中国もエコノミックだけを追い求めて行ったらいずれ滅びる。この事件は何かの始まりかもしれない。

2010年9月25日土曜日

宣教キャンプ

昨日は、7時前に起きて、K集会の「第4回軽井沢宣教キャンプ」に家内と一日参加をしてきた。といってもメッセージを聞きに行ったのだが、懐かしき面々の交わりも楽しみの一つでもあった。70キロの2時間ちょっと、日帰りが出来るのがいい。O姉妹に「今日は一泊ですか」と聞かれて、「日帰りコースです」と答えて二人で笑った。シニアのキャンプでは「一泊泊まり」である。

メッセンジャーは海外宣教団体NTM(New Tribes Mission)の責任者の兄弟で奥さんと一緒だった。この団体は集会関係の団体で、3000人を送り出しているそうだ。日本人はいないが、韓国人が何人かいるそうで、前に招いた人たちも韓国人だった。ウイクリフ聖書翻訳協会と同じような働きをされていて、規模はそれに次いで大きい団体である。聖書からと現状をスライドを交えてのわかりやすくお話してくださる。過去三回は、宣教師の証と報告をされ、前回参加して、(前々回は参加したか定かでない)ネパールで宣教師として働いておられる韓国の兄弟の証と報告であった。奥さんも来られたように記憶している。今回は送り手の方、そしてより具体的な話で、午後は兄弟と姉妹で分かれていたので、この時は更に突っ込んだ質問が出て、海外にという重荷を持った兄弟が起こされる雰囲気を感じる。伝道者というだけで、中々難しいのに海外かと思って、そのビションの大きさに感心する。宣教師として立つとなること、サポートする集会の質的向上をも伴っていかないといけないのだろうなぁと思う。相乗効果でいい結果がでるであろう。

正直、側面的なことも知っているが、切り離して考える必要があるように思える。特化して行けば、その枠は狭くなる。それが集会の意向ならそれでいいと思うし、その枠外を受け入れる集会もあるだろう、なかったらおかしい。福音が損なわれていなければ、どういうやり方であってもいいと思う。集会は本来、多様性と独立性を持っているはずだ。

何事も素人

先日、ワードがフリーズしてしてしまった。インターネットで調べてやってみるが駄目で、再インストールのCDがあったので、再インストールをし、アプリケーションをインストールして、動作するようになった。しかし、何故かインターネットとメールがアクセスが出来ない。メーカーで聞いたらドライバーをインストールしていないことがわかった。付属のCDを全部インストールしていたが、一枚だけ「初期インストールやコンピューターの設定に必要ありません」とあったのでこれだけはやっていなかったので、これも中にあるもの全部をインストールし見たら、アクセスが出来るようになった。ドライバーはと聞かれて、そんなものは見当たりませんと言ったがこれがドライバーというものだったのだ。確かに「…ドライバー」というものがいくつもあった。付属のセキュリテイのCDを使っていけなかったのを使ったのか、最初の画面に二つばかり不具合の印が出る。古いのを削除しても駄目で、どう処理していいかわからない。しかし、新しいのが動作しているようなのでそのままにしている。

3,4日だけだったが、新聞は取っていないので、ニュースはテレビとインターネットを検索して見ている。信州の田舎にいる者にとって貴重な情報源?が断たれたので、多少禁断的症状になる。ネット漬け?になりかかっていたようだ。ハーベストタイム8月号に中川健一さんが利便性の弊害のようなことを書かれていて、退屈の勧め?を書かれていた。そう言えば、林成之先生の「脳に悪い七つの習慣」の中にも効率的はことは脳に悪いように書いてあった。息子がやれば2,3時間もかからないだろう。それが、気がついたら朝になっていたのが二回。その労力と時間は計り知れない。まぁしかし、終わってみればこれもまた良かったのかなと思う。

テレビの修理などをやっていたこともあったので、電気のことは多少の知識はあるがパソコンは別である。パソコンはいじっても破損することはないと思っているから適当にいじる。おかしさは更に進化する。ギブアップである。東京にいるときは何度かあった。それで学習すればよいだが猿軍団の猿より悪い。でも今回は少し学習したみたいだが、次は別なことでおかしくなるかも。

2010年9月23日木曜日

このところ

先日のテレビで、松本サリン事件の被害者の河野義行さんが、ご自分の山荘でコンサートを開いたことがニュースで流れていた。奥さんが亡くなられて3年、一つの区切りで鹿児島に引っ越し、釣りなどを楽しんで老後を過ごすそうだ。この方は、松本受刑者をさんづけで呼ぶ、それと事件のときに運転していた実行犯の人が植木や家の手入れをすることを許し受け入れて、そのときは家で酒を酌み交わすこともあるそうだ。彼が来ることは、息子さんには抵抗があるようだが。

昨日は菅谷さんが賠償請求の申請を裁判所に出されたこと、村木元局長が復職したことをテレビで見る。大勢の職員に拍手で迎えられているのを見て、長妻大臣の初登庁のときとは、大分違うなと思った。驚くのは主任検事の行動である。しかし、程度の差はあっても、これは日常茶飯事的な出来事ではなかったのではなかったのではないだろうかと思った。偶々大きな問題になっただけで…。人間の価値なんか戦争前は赤紙一枚の価値しかなかった。その当時は馬の方がはるかに価値があったのだから、それから半世紀ちょっと、その根底にあるものが、どれだけ変わったかは疑問である。 全部を右倣いにするつもりはないが。

河野さんも村木さんも最初の報道を聞いたとき、何の抵抗もなく当然のようにテレビのニュースを受けいれていた。有力な国会議員が懇意にしている人から頼まれて、役人に圧力をかける。誰も損をするわけでもない、むしろお互いに恩を売ることができる。そんな単純な構図で納得していた。マスコミの取り上げ方もおかしいのだろうか。何か意図がってこうなるのだろうか。或いは我々の思考がそのようになっているのか、立場は違っても思考は同じような気がする。我々の正義は、真の正義ではなく利で動く正義、エセ正義であるのかもしれない。

尖閣諸島や竹島の問題を見ると、ナショナリズムを見る。日本は、昔は島国で外国から守られていたが、これから防衛となると大変だ。自分もそうだが、日本は内弁慶的なところがあって、外圧に弱い。内側に説明する以上に外に向かって主張していかないとと思う。それと人と人のつながりが大切であり、色々な形の交流に力を入れるべきである。東京、三田にある船舶振興会の建物の前に笹川良一本人がお母さんを負ぶっている銅像がある。この方は「世界は一家、人類はみな兄弟」を唱えていたように記憶している。国と国があるから争いがある。これであったら、せいぜい兄弟喧嘩、戦争にはならない。この方の識見は高い。あの戦争で何をやってこられたかはわからないが。

世界史はもちろん日本史もよくわからない。日本の近代史も然りである。しかし、断片的な知識から、国同士の大きな意図の前に、小さな事件が発端となって、戦争になっていくような気がする。正しい理解かどうかはわからないが、国の正義は汎ではなく個の正義であると思っている。国に限らずすべてか?自分の利のための正義は、どこにでも見ることができる。ある面で、ヒューマニズム同様危険なものを孕んでいるような気がする。

神の正義は、
イザや53章にイエス様の姿を見る。人には真似のできない姿である。力ではなく、弱さを。能力ではなく、無力を。貴さではなく、卑しさを、高さではく、低さを。仕えらえれれることを求めず、仕える道を選ばれた。この中を神の正義は貫かれていった。真の解決の道はここにしかない。

2010年9月12日日曜日

責任

時々変なことを考える。
創世記3章に堕罪のことが記されている。その冒頭にへびと女のやり取りが書かれている。2章に「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言明されている。それなのに女は蛇の問いかけに答えているものは真にいい加減な答えをしている。このことを、男はどのように伝えたのか、女はどのように聞いていたのか分からないが、二人のコミニュケーションは結構いい加減なように見える。

結婚生活40年近くなろうとしていて、「あの、その」の問いかけに、お互い「何?」と返す言葉の中に夫婦のコミュニケーションの程度が知られる。でも罪が入らない前の二人のどこかいい加減さ?を見ると何故かほっとする。最初の夫婦がこんなのなら僕らはこれでもいいのかと…。

堕罪という大きな出来事の中で、断罪はあっても、誰が責任を取ったのだろうと思った。蛇は罪を犯すことを求めてたのだから責任を取るつもりは毛頭ない。男も女もそんな力はない。結局、神に責任はないのに、御子を遣わし、十字架に架け、復活させた、神ご自身がそれをなした。責任を取るというのはこういうことなのだろうと思った。

2010年9月10日金曜日

すなどられて

無教会系のあるホームページに載っていた詩集のタイトルである。売っているようだけど、詩が全部載っていたのでプリントして読んだ。もう10年も前の話だが、今も載っているからあるのだろう。信仰のうたと母のうたと二部からになっている。 村上美緒さんという農婦の方で、もう81歳と思うが、まだ現役で頑張っておられるだろうか。最初の詩より

―信仰のうた―

召命

すなどられて
幾山河を越えてきたけれども
いばらが生えていても
血もにじまなかった
涙の谷の中でも
凍(い)てついてもしまわなかった

だんがいを踏み外してしまって
もうダメだと思ったとき
神様はアミを張って
待ち受けてくださった

私は漁(すなど)られたのです
わたしは救われたのです

2010年9月8日水曜日

偏見

こちらに引越してきたときに、ある姉妹から2冊の詩集を頂いた。装丁もしっかりしていて、内容もとてもいいように思える。水野源三さんの詩集よりも一回り大きい。ある出版社のリストの載っているが、本には作者名と印刷、製本の会社名はあっても、出版元が記されていない。自主出版なのかよく分からない。

読んでいて、どこか水野源三さんの詩とダブル思いはするが、でも少し違う。作者は、全部ではないが、福音を語ろうとしているのかなと フッと思った。水野源三さんはただ神様に向かって、或いはイエス様に向かって率直に語りかけている。そこには何の意図もない。この違いかなと思った。それと、目線の違いから来るものであるのかもしれない。勿論、詩を批判するつもりはないが、こんなことを書くと、既に批判しているか。もっと大きいのは作者がクローズの方であるというところからくる私の偏見である。

自分のブログをメールで送ってくれる方がいる。その中で、ご自分の教会のことを書かれていた。無牧なのか、毎週ある信者のお孫さんに当たる方が説教しに来てくれている。その方が黒人であるために、偏見を持っている人がいることを、黒人だけでなくユダヤ人に対してそうらしい。80代の男性だが、彼の生まれ育った環境がそうさせたのかなと思った。メッセージは良いが牧師となるとまた違ってくる。偏見を持つというのはその人の所為もあるが、育った環境はもっと大きいと思う。偏見は中身でなく外見で判断する。心しなければと思うが染み付いたものは・・・。

2010年9月2日木曜日

秋?

昨日だったか、部屋の中に交尾している小さなトンボが入ってきて、天井に壁にと止まりそうで止まらず台所の方に行ってしまった。そう言えば、先週の日曜日に集会を終えて、外に出たら数匹のトンボが舞っているのを見て、秋が近くまで来ていることを感じ、霧が峰は、もう秋でトンボが乱舞しているのだろうなと思った。

庭に雑然とはいえているコスモスも下の方の葉も枯れてきた。砂利だから根が浅く、先日の豪雨のような夕立で何本か倒れたが、茎の先端からまた上に向かって延びている。すごいなと思う。「読むべきは聖書、学ぶべきは天然、為すべきは労働」という内村鑑三の言葉がある。人の動きは複雑怪奇であまり好きではないが、天然は癒しと生命の力強さを教えてくれる。野の草でも人を癒し、力づけてくれる。我に何があるか。

2010年9月1日水曜日

暑さの中で

昨日は今年一番の暑さだった。9月にはいったら涼しくなるとは思ってはいないが、それでも朝晩は気持ちなしか凌ぎやすくなったような気がする。土曜日から月曜にかけて、伝道者のO兄姉が群馬に行く途中に寄られて集会を持ってくれた。小さな群れであるからその分足らないことが多い。アドバスや信者でない方とも個人的に交わってもらってとても良かった。ここの集会を立ち上げたきっかけを作ってくれた方でもあり、重荷を持っていてくださっている。

幾つかの事情で、何時もホテルに泊まっていただいているのだが、今回はホテルから出て、我が家で数人だけの交わりを持ってもらった。実は姉妹が最後の日に、夕食を作って皆さんに食べさせたいということで、場所が我が家になっただけの話である。買出しに一緒に行き、腕だけでいいからと言っても納得せず、全て姉妹持ち。我が家にあるものを使ったことで恐縮しながら、手際よく作ってくれた。家内と交わりながらやっていたのだが、姉妹は大雑把(失礼)、家内は細かいので、互いに驚きながらの感想を漏らす、我が苦労を理解して貰えたかなと胸元がスーとするのを感じたが?

他集会との交わりは蜜ではないので、諸集会のことが殆ど分からない。色々なニュースが聞けて、聖書の話しのみだけでなく、何かと参考になる。人間の集まりであるということで片付けたくないが、色々考えさせられる。イエス様が弟子の足を洗ったり、取税人や罪人たちの中に入っていくように、信者がそのようなところに入っていくのは、集会のみならず教会でも見られるのは少ないのではないだろうか。人々の中に入っていくには、信者でない方たちとの垣根を低くする必要があるような気がする。群れの中にいては出来ない事だろう。と書きながら別な意味で高い所にいるからどうこう言っても説得力はない。帰り際、(家にも)来て下さいと言われたが、個人的にゆっくりと交わりたい。