2010年11月28日日曜日

土くれと宝物のハザマの中で

聖書の中に「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3章19節)ということばがある。「ちりだから」には抵抗があっても「ちりに帰らなければならない」のことばはクリスチャンでなくても誰もが認めるところだ。人は土くれに過ぎない。

しかし、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ書43章4節)ということばもある。人はこの二つのことばのハザマで生きている。この高価は、存在していることが高価であって、何ができるからということではない。しかし、頭で分かっていてもこれを体で実感することは少ない。これがクリスチャンの問題となるところである。これは価値観をどう捉えるかにつながってくる。下手するとご利益的信仰に陥ってしまう。そしてそれが分からないところに罪の深さがある。

2010年11月25日木曜日

感謝できること

若いときは当然と思っていたことが、今は感謝だなぁと思うことがたくさんある。そして段々色々なものができなくなると以前は嘆いていたが今はそれほどでもなくなった。若いときに生き方を示してくれたエミリーデキンスンの詩があった。

「もしわたしが一人の心を」
もしわたしが一人の心を傷心におちいらせないように
することができるなら、
もし一人の生命の苦悩を和らげることができるなら、
あるいはまた、
一羽の弱りはてている駒鳥を助けて、
その巣の中へ再び戻してやることができるなら、
わたしの生涯は無駄ではないであろう。
考えてみればこの詩もささやかなことでも何かをしてあげることになる。
今はヘルマン・ホイヴェルスの詩の中にあるように、
「最上のわざ」
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であることー。
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後の磨きをかける。まことのふるさとへ行くためにー。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事ー。

ここまでは達観できないがその支度をしろというシグナルかもしれない。 出来て感謝することは誰でも出来るがお世話になって感謝することはそう簡単ではない。 そういう意味で生きていること生かされているということで感謝できることはありがたい。 まだまだ感謝は少ないけれど。

2010年11月24日水曜日

自分を知る

この誕生日で自動車運転免許更新になる。更新するには高齢者講習を受けないといけないので教習所で受けてきた。動体視力、視野検査、それと簡単な運転のシュミレーション、高齢者の範疇ではよいが30-60代のレベルでは動体視力はやや落ちて、シュミレーションは複数の作業を同時に行う能力の項ではとてもいいけれど、状況の変化に対する反応の速さと正確さの項では大分落ちる。器械の慣れもあるのだろうが、でもこれが本当の姿。実際運転していて、ゆっくり走っているということは、そのことを体が知っているのだろうと思う。

数値で表されるとわかり易いし、自分の衰えているところも、なんとなくがはっきりする。衰えは急ではなく徐々に来るから気がつかない。大した器械でもないがで一蹴しやすいが、こういう機会に指摘されていることを心していくことが大切だなと思う。

聖書を知るということも、どの視点で見るかによって大分理解が違うように見える。神の視点か人間の視点か、神の国の到来を求めているようで、それを自己実現に用いる危険性もある。神の到来を求めいた律法学者たちは、そのために来られたイエス様は受け入れなかった。そういう意味で福音書の時代も今日もその辺は変わらないのかなと思ったりしている。己を知って神を知るなんて構図は…。

2010年11月21日日曜日

秋日和 

一時は寒くなって、どうなるかなと思っていたら最近はお天気もよくて暖かい。先週の金曜日にお天気もよく暖かかったので近くの公園に紅葉見物に、ウオーキングを兼ねて行って来た。人影はまばらだがそれでも途切れることなく散策する人たちがいて、みんな同じようなことを考えているのだなぁと思った。
秋の紅葉は小さいときから好きで、あの色はなんともいえない色である。枯れていく葉、そして落ち葉になって、色の変化をみるのも好きである。「きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです」の言葉を思い出す。創り主の存在を覚えるひと時でもある。ついないものに目が行ってしまうが、今このように生かされていることを改めて感謝する。家内と口論しながらそれでも思う。

2010年11月18日木曜日

老いて ますます 若く

長野県のシニア大学諏訪支部の30周年記念講演会が上諏訪で行われたので家内と一緒に聞きに言った。上記のタイトルでフリーアナウンサーの小林節子さんが話してくださった。東京に居たので、東京12チャンネルで「レディスフォー」の司会をやっていたので知っていたことと、この夏に実践農場に行ったときに小さい建物で御柱や諏訪の宣伝?をやっていた。ポスターを見ながら「これ、レディスフォーの小林さんだ」と言ったら後ろで声がして、振り返ったら本人だった。家内がTVでのことを話されて、ここでこんな話が出るとは思わなかっただろう。彼女も楽しそうに受け答えをしていた。ボランティアでやっているとのこと住所とメールを書いてと言われて書いた経緯もあり、それが最近「八ヶ岳通信」なるメールが送られてくるようになった。そんなことで、なんとなく親近感を持っていた。原村在住で色々と活動しているようだ。

ご自分のことご両親のこと特にお父様のことを語ってくださった。淡々と語る中に、ご両親の介護をなされて、その厳しさを感じさせずにお話をされたのに感心する。実に前向きな方である。仕事柄か交流の広さを教えられる。東京と原村を往復しているようだが信州ではさらなる活躍を願いたいし、そういう場が与えられることを願う。原村はペンション村で文化人も多いようだから、原村にとどまらずに諏訪人に
更に認知されて活躍してほしいと願う。実践塾の人たちは、諏訪市在住とKさんと親しくしている?岡谷のHさんだけ、途中で会長が来たが、少ないのにがっかりした。こちらでは知られていないのかなと思った。来られたMさんはこの話をしたとき、来ようかなと言っていたて来てくれてうれしかった。こっくりやっていたが。私ももう少しで大台、このタイトルのように生きたいものである。

パンくずを拾って 再々 

ブログのタイトルは前に書いたように、マタイの福音書15章のカナン人の女性とイエス様の会話の中で、女性が発した言葉である「・・・、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」 からとった。

聖書解釈は別としても、カナン人の女性は食卓のパンに預かろうとしないで、パンくずを頂きたいと願っている。いのちのパンはパンくずのように見られてもパンには変わりはない。ただ人の評価が変わるのである。そういう意味ではカナン人の女性は本質を捉えているように思える。私もパンくずに拘りたい。
「食卓に預かる」よりはパンくずを拾って、主の糧を得て生きたいものだ。

2010年11月15日月曜日

THE BIG ISSUE

13日に結婚式があるので2年ぶりに上京した。10日の夜中に出て、12時過ぎに八王子料金所を通過すると半額で済むので助かる。それに帰りは1000円プラス400円更に助かる。
信州は車社会、歩くことは家の中くらいであるから身体にはいたって悪い。その点、東京では移動は電車かバスであるからすこぶる健康にいい。それに電車だと本が読めるし、日中だと座れることもあり、座れなくても混んでいないから立っていても読める。うれしいことばかりだがそう思うのは車社会が好きでないということかもしれない。

時間があったら都心まで行きたかったが新宿止まり、それもキリスト教書店のオアシスに寄り、ヨドバシカメラを覘き、西口地下で昼食して帰ってきただけだったが久し振りなのでなんか気持ちが弾む。オアシスから甲州街道の交差点を渡ったら、ビックイシューを売っていたので一部買う。東京にいた時はよく神保町の交差点や中央線沿線で買っていた。

ビックイシューはどれくらい知られているのだろう。これは、月2回発行されている雑誌で、ホームレスの人がこの雑誌を売って、自立をサポートしている。一部300円で160円が売っている人の利益になる。彼らを見ていると自立しようとしている意気込みを感じるからうれしい。内容もまぁまぁと思う。どこでもそうだがあまり買っている人は少ない。私も最初は、日焼けした人が横文字のタイトルの雑誌をかざしている姿を見て、ウンさ臭い感じを受けた記憶がある。マスコミなどで紹介してあげたら買う人も増えて、彼らのために大きな助けることになるだろうにといつも思う。キリスト者で知っている人はどれくらい?キリストの愛を説くのはすばらしいがこういう人たちに目を向けることも主が喜ばれることではと思うがどうだろうか。

ひそ〇さん

ひそ〇さんコメントありがとうございます。
そうでしたか痛みが伝わってきます。これが現実なのですね。

イエス様がよく「寂しい所」に退かれました。そこにサマリヤの女や38年か病に臥していた人たちがいたからかなぁなんて思ったりしています。「寂しい所」は華やかさやの隣り合わせにあるような気がします。健康のこと信仰のこと祈っています。

2010年11月6日土曜日

最近の出来事に思う

世間はビデオ流出事件で賑わって、賛否両論と色々な憶測が飛んでいる。ふっと思ったことは、昔、親ソ、親中国、親北朝鮮的な人たちがいたように記憶している。勿論国会議員も然りである。多分現在も変わりなくいるだろう。

中国との摩擦を懸念してとそちらのほうに目を向けていたが、実は親的な人たちが日本の利益より他国の利益を考慮していての行動かなという非常にうがった見方をしている。菅さんが外交的手腕はゼロに近いから、それに乗じてやっているのかなと思ったりしている。それに気づいた人が映像を流出させたと、荒唐無稽か。しかし、右的な人も大勢いるがコチコチの社会主義者もいるからなぁ。一瞬売国奴かと思わされるときもある。キリスト者にもコチコチだけなく右側にしっかり立っている人たちもいる。両ウイングにいるということか。

2010年11月3日水曜日

痛みを知らない日本人

先週、群馬県の桐生市で小6の女の子が自殺した。
お母さんがフィリッピン人であることが大きな理由らしい。マスコミはいじめがあったとかないとか論じているがこれはいじめではなくて殺人である。給食の見取り図を見たが、彼女一人で食事をし、他は何人かのグループで食事をしている。自分と違うものを排除するこの論理、昔からある村八分の論理かもしれない。子供を責める前に日本人の少数者を排除する論理を正さなければならない。昔、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というコントがはやった。みんなで行動すればそれが正しいかどうかを判断しないという発想はすごいと思う。それがかつての戦争の中にもこの発想が生きているような気がする。

いじめとはそこに存在しているから受けるのである。ある意味で存在していることを認めているのである。これは大切なことである。無視とは、そこに存在していることを否定していることである。存在を否定するとは、そこに存在してはならないのである。存在しているのに存在してはならないとは、排除ではなく殺人であると思っている。

創世記のはじめに、神から離れたアダムとイブに「あなたはどこにいるのか」と問いかけている。叱責の前に存在を確かめようとした。福音書を読むとイエス様が絶えず少数者、阻害された者に語りかけているような気がする。しかし、キリスト者が教会が同じことをやっているとは限らない。否、あの少女の同級生と同じことをやっていることを見ることがある。キリストの名の元に、組織の弱さである。しかし、このような弱さを持っている教会を花嫁としてイエスは捉えている。不思議に思う。