2010年5月29日土曜日

シニアキャンプ

 軽井沢にシニアキャンプが25日の午後から28日の昼まであって参加してきた。全部ではなく、26日の朝から27日の夜までで、夜終わってから帰ってきたが12時を回っていた。菅平同様日帰りが出来るから有り難い。このところ続けて集っているがメッセージは勿論の事、各地から来ている人たちと交わることも楽しみの一つである。と言っても夫婦だけの部屋だから、食事の時に同じテーブルで交わす交わり位だが、そこで意外な交わりを得るから面白い。今回もそんな事があって、クリスチャンの世界は何かで繋がっていて狭いなぁと思わされる。旧交を温める?ことも楽しみの一つでもある。今回はある集会から出て別に集会を持っているご夫婦と少し交わる。それと同じ集会で知っている方が教会に移っていることを別な方から聞くし、求めていても集会の意向と違うために別な所を捜している方と交わったりと、今回は複雑な思いで帰ってきた。
 今回は夜までいたので裏方の働きの大変さを教えられて、おいしいどこ取りの参加に反省させられる。以前いた集会の姉妹たちと行動を共にして、出かけなくて交わったり、運転手をしたりと彼女たちに合わせたからまぁ良かったかなと思っている。

2010年5月25日火曜日

IQ84

 村上春樹の「IQ84 book3」を図書館に予約していたものが用意できたとの連絡を受けたので、昨日借りてきて読んでいる。借りるのにもっと時間がかるのかなと思っていたが割りと早く借りる事ができた。
 前のストーリーはほとんど忘れてしまって、読みながら思い出している。そう言えば二月か三月に借りてきて読んだ東野圭吾の「カッコウの卵は誰のもの」ももう細かいストリーは思い出せない。題名が「あ、そういうことか」という印象しか残っていない。余り気にならないのは、ジル・プライスという人は14歳からの記憶を鮮明に覚えているそうだ。素晴らしいことだが、私はネクラだから過去を振り返ると落ち込むものが圧倒的に多いだろう。私にとって「忘却」は大切な機能だ。と言っても聖書の話やいいことも以下同文だから辛い。しかし、「齢は過ぎて健やか」(詩90:10)な世代に入ろうとしているから「ま、いいか」と思っている。それに私は忘れることが仕事みたいなものだが主は、「見よ。わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。…」(イザヤ 49:16)(新共同訳) と言われる。私ではなく主が…。
 村上春樹の作品は解説がないと分からない。どこか荒唐無稽な、そして明らかにあの教団かあのグループかと分かるような名前で出て来る。しかし、最初は別個の出来事でも読んでいくうちに繋がりが分かってくるから段々引き付けられてくるから面白い。そして殺人や暴力的な出来事があるが、どこか真の善人も悪人もいないのかなと思わせるような気がする。でもどちらかというと善意が、勿論、性善説をとっているとは思っていない。河野義行さんのオームに対する態度と似ているような気もする。適当な言葉が思い出せないが。
 聖書を読んでいる者にとって、あれっと思わせる出来事もある。私には理解不能だが何かメッセージがあるのだろうな、誰か解説してほしいものだ。

2010年5月21日金曜日

ニュースを観て

 夕方のニュースの見ていたら、奇しくもキリスト教関係のものが2件扱っていた。同じ局かどうかコマーシャルごとにTVのチャンネルを切り替えているので、それに何処の局かも分からない。一つは茨城の韓国人牧師の女性信者への性的暴力を起こしたことの裁判のニュ-スだった。このことは知っていた。以前いた集会では、車で男女二人だけの同乗は禁止されていて、ある時、ある方が「この俺が80のおばあさんと何があるか」と車で送るときに、誰かが乗っていくからと言われて、冗談半分に笑って話をしたことを思い出す。そこまでと思ったが、これくらい気をつけなければいけないのだろうなと今は思う。牧師が信者の相談に乗っているうちに深い関係になっていったというようなことを何かで聞いたことはあった。ホーソンの「緋文字」なんかはこのうちに入るのかな、どこか同情するところがある。最近聞く牧師の性的犯罪は非常識過ぎる。福音主義の牧師と聞くが、それが信仰と絡めるとは…。
 もう一つは特集として、「摂理」の大学生に勧誘しているニュースだった。大学の当局者がそのことで苦労されている姿をレポートしていた。当人は韓国の刑務所に入っているからもう駄目になっているのかと思っていたが強かに活動しているらしい。何で大学生がと思うが、以前、職場に統一教会の信者がいて話しをしていて、非常に真面目で純粋なところがあることを知って、勧誘されるて深みにはまって行くのが何かよく分かるような気がした。
 真理に耳を閉ざしている日本において何でカルト的なものが活動できるのか。逆に真理に対して無頓着だから活動しやすいのかもしれない。しかし、私たちの集まりは、自前の集会所を持っていない。公共の施設をその都度借りている。貸す側は宗教に対して、非常に敏感である。聖書の勉強会として借りているが、パン先などは明らかに宗教行事である。まだ10人に欠ける小さい集まりであるから何も言われないが、心配は心配である。事実、今度洗礼式を行うので場所を探してそのことを痛感した。株式会社であるが第三セクター的の施設を借りられることが出来たがキリスト教の洗礼というと途端に態度が変わったので、簡単に水に浸かって上がるだけ、あとは聖書の勉強会である事を強調して了解を得た。無理解とキリスト教のカルト的な働きがあることを日本の社会はしっかりと学習している事を教えられる。どちらにしてもこういう事件が公になると更にキリスト教に対する印象は悪くなり、警戒される傾向が強くなってはと心配になる。
 これらはカルトを批判することとは別にキリスト者の信仰と生活が一致していない一つの印ではないだろうかと、特にこちらに来てそのことを思う。神学も大事だが「地の塩、世の光」としてのキリスト者であることの大切さを教えられる。と書きながら書いている本人がその対極にあるのもなんだなぁ。

2010年5月17日月曜日

愛することと敬うこと

 あるブログに「愛されたい妻と尊敬されたい夫」という本を紹介していた。自分の周りに仲のよい夫婦もいれば、限界ぎりぎりの夫婦まで色々な夫婦がいる。概して旦那に問題ありで、奥さんが忍耐しているといったケースが多いような気がする。旦那の我が儘と未熟さ、或いは甘えだろうか。なんでそこまで拘るのかと思うと「男のプライド」に至るような気がする。

妻の必要は夫からの「」、しかし、夫の必要は妻からの「尊敬
 エペソ5:33は命じます。「あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻も自分の夫を敬いなさい。」 ブログより

 妻は愛を求め、夫は尊敬を求めている。これが出来たら夫婦関係はうまくいくということか、少し短絡的かな?

2010年5月16日日曜日

最近思うこと

 以前、ある姉妹が上沼先生の「夫たちよ、妻の話を聞こう」の本を夫は人に勧めていながら自分の話を聞いてくれないと言っていた。両方ともよく知っているので言っていることが良く分かるから苦笑いをしながら聞いていたことを思い出す。
 妻の話を聞くと言うのは夫にとってそう簡単な事ではない。牧師なんかも奥さんから言わせれば、その際たるものではないだろうか。集会の伝道者や責任者も似たり寄ったりでは…。相談や深刻な問題は聞くということはあるだろうが、妻に限らず、信仰の問題、聖書解釈などでは確信があるから聞くというのは努力が要るように思える。むしろ「聞かない」と言った方が正解かもしれない。
 最近、家内の些細な一言でカッとなって、一言二言何か言ってしまった。何でカッとなったのだろうと思い返した時、その言葉が結論付けた命令口調である事に男のプライドが作用したみたいだ。男はプライドが女性より強いような気がする。「夫たちよ、…」の本の帯びには「プライド、支配欲、金銭欲、性的誘惑…」と男性の特徴が書かれている。これを正直にに出せるか否かで大分違うのではないだろうか。それに加えて弱さも。今「情緒的に健康な教会をめざして」を読み直しているが、このような生き方は難しいだろうなと思う。

2010年5月12日水曜日

御柱

 全国的にも有名になった諏訪大社の御柱が終わった。地元のケーブルテレビは飽きることなく、御柱関係の映像を流している。よそ者としては、分からないでもないがそこまで?との思いはある。阿波踊りの歌に「踊る阿呆に見る阿呆、どうで阿呆なら踊らにゃソンソン」の文句がるがよく分かるし、ある方は祭りに参加しなければ分からないと言われたこともよく分かる。花火同様で行くまでが…。しかし、ユダヤ教の影響があるかなと思わされる。上社の御頭祭には興味があるんだが…。
 久しぶりに自転車で諏訪湖一周をしたついでに、既に建てられている下社の秋宮と春宮の御柱を覗いて来た。あの賑わいは何処にと思うほどひっそりとしたもので、春宮などは二人も亡くなっているのにと思ったが過去になってしまった事は忘れ去れて行くものである。家族だけが悲しみが続くのであるが。
 使徒の働きで見る集会は今日の家庭集会の様なものであろう。シンプルでイエス様のことだけ、カソリックをはじめなんであんなに仰々しいのだろうか。小さい時に経験した田舎の祭りはシンプルだったような気がする。長い歴史の中に一つ加え、二つ加えて今日の様な複雑になって行ったのではないだろうかとキリスト教界を見てそう思った。ついでに本質が見えなくなってしまうというか、本質でないものが本質のようになっていくのは日本の特質かな?仏教なんかもその際たるもののような気もする。何事も「シンプル イズ ビューテフル」なんて言葉があったような気がするが。

2010年5月8日土曜日

クリック募金

 あるブログを見ていたら、バナーというのかな?クリック募金のが貼ってあって、以前は何もなくて味気なかったように記憶しているが、今のは素敵だなと思っていた。ただそれだけだったが最近クリックするようになった。まだトータルで92円でしかないが。
 引越す少し前までやっていたが忙しくなったので止めてしまっていた。また始めて、以前からのもを見ると懐かしさを覚えるし、新しいのを見ると少しづつ増えているんだと思うとうれしくなる。
 ワンクリックすると協賛している企業が一円を寄付してくれる。一人が毎日やってもトータルで4千円弱にしかならない。しかし掛ける人の数だから馬鹿にならない。もっと企業も増え、クリックする人も増えたらもっと目に見える活動が出来るだろうにと思う。
こういう関係はよく分からないがワンクリック一円というものだけでなく、色々な形態ものがあったらいいと思う。募金する人がそれに合わせてやればいい。福祉法人とか学校法人に寄付をすると税の控除を受けるが、他はどうなのだろう。日本ではまだ表立った姿になっていないような気がするがどうだろう。自分とか自分の回りには心するが、他者に目を向けることって少ないのかな、反省を含めて。

2010年5月5日水曜日

この連休

 この連休は菅平に若者のキャンプがあって、M兄が奉仕されているので、昨晩だけ聞きに行って来た。テーマは「ヨセフの生涯」、4回の中の3回目で、ヨセフの孤独、誘惑、神の沈黙の三つの試練について話された。具体的な例を用いて分かりやすく話されたが、誰もがこの三つの試練を大なり小なり受けるのだろうと思う。それにどう対処できるかが問題だがヨセフのようには対処できない。幾つかの示唆を受ける事ができて感謝だった。
 菅平も10数年ぶりだったような気がする。若者のキャンプだから知っている人も少なく、それにすぐ帰らないといけなかったから、M兄にろくに挨拶もせずに帰ってきた。というより、順兄に来る途中で、ハンドルを切ると異音がすると言ったら、見てくれて、家内に挨拶を任せた所為もあった。オイルが少なくなっている所為で、エンジンには関係ないとのことでホッとする。丁度12月点検が7日に予定していたので良かった。
 行く途中で、上田市武石の余里の桃の花を見物して、集落の道路添えにたくさんの花を見ることが出来て良かった。山間に近い所だが人がそれなりに来ていて賑わっていた。飲み物と大福を買って、歩きながら食べる。唯一の収穫。
 帰りは高速で帰ってきたが200キロチョッとあった。これからも機会があったら夜だけ顔を出そう。信州の兄姉と親しくなるためにも…。