2010年8月21日土曜日

パンくずを拾ってる?

パート2か3になっているのかな。

少し前に、ある牧師の配信メールをやめて、キリスト教関係の個人的なブログも、大分やめてしまった。今はT伝道者とあめんどうさん、それに諸断章さんにひそぷさん、それと以前いた集会の方のだけに絞っている。クリスチャンとしてくくれるが、おかれている立場、視点がみな違うから、色々な意味で教えられたり、考えさせられたりする。


今、ある本をPCに打ち込んでいる。読んだ方が集中して、理解できそうだが、ブラインドタッチの練習を兼ねているので、理解を犠牲にしている。そうでなくても理解度は悪いから更にである。食べ物と同じで、身に付くのは極わずかで後は厠にという次第は聖書も同じ、ホンネを言えば、もっとと思うがそれは望むべくもなく、「私の恵みは、あなたに十分である」の言葉が頭をよぎる。後、1/5をパンくず的量を拾いながら…。

2010年8月20日金曜日

こだわり

数年前になるが本屋さんに塩野七生さんの「ローマ人の物語」が積んであった。タイトルに「キリストの勝利」とあったので、そのタイトルで買ってしまった。本の最後の方にキリスト教が国教になった経緯が書かれている。そこには信仰的というより政治的に動いていったようなことが書かれていたような気がする。今日の芸能界で、ある宗教団体に所属していると有利であるようなことを聞いたことがある。ローマの国教となった前後のキリスト教も同じようなことが起きていたようだ。

正直言ってがっかりしたのだが、カトリックの建物の荘厳さ、教役者の階級の複雑さはこんな所からきているのかなと思ったことがある。「ローマ人の物語」も作者の視点もあり、イコール歴史とはならないだろうがどうなのだろう。

「使徒の働き」に教会の原点を見ることが出来る。集会も信者が多くなると牧会書簡を通して、管理しようとする姿勢が見え隠れしてうんざりするときがある。集会の責任者の多くは、社会でもそれなりの立場でやっているだろうから、行政や管理能力があるから出来るということも言える。キリスト・イエスの心を心とするなら、少人数でないと難しいだろうなと何時も思う。

しかし、聞き従うということを通して、「天にある支配と権威」に、従っているのかもしれない。闇雲に聞き従うということはいけないが、この姿勢は、大切なような気がする。

2010年8月14日土曜日

バイブルキャンプ

若い時、伊香保にバイブルキャンプ場があって、毎年のように参加していた時があった。そんな時、群馬の若い信者が、仕事を終えてから来られて、夜の集会に参加して帰られるのを見て、羨ましいと思った。今、軽井沢と菅平にバイブルキャンプ場がある。その二つとも、夜の集会に出ても日帰りができるのがうれしい。 と言っても度々参加しているわけではないが。

若い時と天国が身近に感じる今では、年代の違いでけでなく、時代も違っているから受ける印象が違って当然であろうなと思う。それに宿泊しないで、顔を出して終わったらすぐ失礼するから、受ける印象は偏っている。それでも書くと活気と新鮮さが薄らいでいるのかなと思う。集会や信仰、それに、この時代と合わせて、変わり目に来ているのかな、或いはこちらに引越してきて感じるのかもしれない。

2010年8月11日水曜日

天地明察

「天地明察」を図書館に予約していたのが用意されたとメールがあり借りてきた。読み始めたら人名や地名が読みづらくて、聖書も始めて手にして読まれる人の心境もこんなものかなと思った。

何とか読み始めたら面白くて最後まで読んでしまった。「講釈師見てきたような嘘を言い」は失礼だが実在の出来事に、読者に読みやすいようにフィクションが加わっているからだろう。

江戸の初期の出来事だが、天文学とか数学がそれなりに盛んで、それにレベルの高さを知って驚いた。それと当時の様子が描がかれているので勉強になる。日本人はすごいなぁとあらためて思う。

2010年8月7日土曜日

待ち望むということ

頂いた本の「わが家への道」の中に「待ち望むということ」というのがある。以前単独で出版されているのが手元にあって、確認したらもう11年前に出版されたものだった。部分的に言葉を変えているが新しいほうが読みやすい。

私にとって「待ち望む」ということは、具体的には主の来臨か召されることを通して主にお会いすることであろう。しかし、今回読み直して、あらゆるものが「待ち望んでいる」ということがわかった。

天地創造、初臨から、十字架と復活そして再臨も、それと被造物全体も共に呻きながら贖われることを待ち望んでいる。福音宣教は救いの完成を神ご自身が待ち望んでいるという視点で捉える必要があるような気がした。私、或いは人というのを中心に考えると、非常に狭く、偏ってしまうような気がする。

2010年8月5日木曜日

キリストの花嫁

聖書では教会はキリストの花嫁と記されている。しかし、初代教会から今日まで、教会のイメージは決して良いとは言えない。今日では裁判沙汰を起こしている教会というか牧師が一般のニュースにもなっている。小さなコップの中のような諸集会の集まりでも、水と油のようなものを感じる。現実を見ると失望しそうになるがこういう教会をご自分の花嫁とするイエス様はすごいなと思う。 勿論これが教会のすべてではないが。

わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」 isa:44:22

2010年8月4日水曜日

二つの視点

内村鑑三の「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」(角川文庫)の中に、「もし神学が、現実的、実際的な何ものをも持たぬ学問ならば、それは研究に価しない学問だ。しかし真の神学は、現実的な、しかり、他のいかなる学問よりもはるかに現実的な学問である。」と書いてある。神学と聞くと頭はフリーズするが聖書或いは信仰と置き換えると分かるような気がする。

福音書を読むとイエス様と律法学者との論争が幾つか出てくる。彼等は悪者扱いにされているが特別悪いわけではないような気がする。彼等は真面目に律法を履行しようとしているだけだと思う。神に対して、忠実で熱心なのである。彼等がイエス様に律法の中で一番大切なものは何かと聞かれた時に、「神を愛することと隣人を愛すること」と言われた。神を愛することは分かったようだが隣人が分からなかった。だから、ルカは「わが隣人とは誰か」とイエス様に尋ねていることを記している。「わが隣人」が分からないのである。

「良きサマリヤ人のたとえ話」を見ていると神にか隣人にか、自分を生かす(自分を汚さない)か他者を生かすかを分かりやすく教えているような気がする。祭司やレビ人を弁護するわけではないが、汚れるということは神の前では重大な問題なのである(イエス様は手を洗わずに食事したりしているが)。私だったら彼等の道を選ぶだろう。しかし、律法や安息日は人を生かさないことを福音書は語っている。聖書の言葉を守るのも難しいが、現実に生かすことってもっと難しいなぁと思う。