2011年12月27日火曜日

負の遺産

クリスマスの前後のことを書いていて、前からわかっていた事ではあるが発想が否定的であることを確認させられた。しかし、聖書は肯定的だと思っている。創世記に蛇が女に疑問符を投げかけるが神ははっきりしている。食べたら死ぬ、信じたら救われる。あなたは高価で尊いとぶれる事はない。そして、もしは入らない。サルにはもし?が入ってくる。だから斜に構え、前向きではない。罪の結果のそして育ってきた環境の中で培われたものをひきづっている。召されるまでこんな身体をひきづっていくのだろう。ハレルヤと叫べる人がうらやましい。何時かそう叫べるときが必ずあることを思いながら・・・。
追伸
みんなが右と言っている時に左を見る人も必要かも。


2011年12月26日月曜日

クリスマスが過ぎて

クリスマスイブもクリスマスも過ぎてしまった。相変わらず何をするでもなかった。意図的ではなくジ間的にである。ノンクリスチャンが「メリークリスマス」と言ったからといって文句を言うつもりもないし結構なことだと思っている。洋菓子屋さんのデコレーションケーキのショーケースの前の人だかりを見て、違う家族が同じ人の誕生を祝うとしているのかと単純に喜ぼうとしている。現実は親は子供たちが喜ぶ顔を子供たちはケーキを食べれるうれしさの故であろうことは良くわかる。

イエス・キリストの誕生を単純に喜べない一つに。神が人とならなければならないこと、受胎したときから人としてのいのちの危険にさらされていなければならないこと。サルのように何とかなるさと適当に生きて、何ともならない生き方とは違うのである。私にとって最も大きいイエス像はイザヤ書53章のイエス像である。個人的にはこれが愛の凝縮した姿かなと思っている。愛は複雑だ。能力によって価値を見出すのなら楽である。必要か必要でないか役に立つか立たないかだけでよい。しかし、存在しているから価値があるというのはある面で厳しい。人間にはそんな価値観はないように思う。あるとすれば親が子に対する思いがそれに近いのだろうか。サルには希薄である。サルにとって救われることよりもこのキリストと一体になれたらなぁと思っている。無理な相談であることは百も承知している。否、無理と言うよりその対極にいる。でもクリスマスを機会にこのことを考えてみたい。進展はないであろうが。


私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。


まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。



彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。



しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。  イザヤ書53章

2011年12月25日日曜日

オクラホマ

何でか忘れたが検索していて、ミュージカル映画「オクラホマ」を検索していた。そしてアマゾンで千円を切って売っていたので買おうとしたらロジャース、ハマースタインコレクションというのがあって、これプラス「南太平洋」、「回転木馬」、「王様と私」、「サウンドオブミュージック」、「ステート・フェア」のセットが1800円弱で本来の値段より一桁安い値段である。半世紀前の映画を見たいと思うのは、この世代しかいないだろう。若者は見向きも・・・。半世紀も前の映像は今一だがそれよりも懐かしさが先に立つ、わが青春の一コマである。だから家内に皮肉を言われても意に介することもない。

「オクラホマ」はよく覚えている。新宿コマ劇場のこけら落し的な映画だった。それにトッド・AO方式というシネマスコープより迫力のあるもので、当時話題になった映画である。英語のわからないサルでも冒頭の「オオー、ビューテルルモーニング・・・」はわかったし今でも鮮明に思い出す事ができる。「南太平洋」も懐かしい、バリ・ハイを歌った黒人の女性歌手、アニタ・ホールではなかったかなと思うがが印象に残っている。 それ以来黒人女性歌手が好きになった。「回転木馬」と「王様と私」は知っていたが観ていなかった。「サウンドオブミュージック」は公開される少し前にドイツ映画で同じトラップファミリーを題材とした「菩提樹」を観ていたのでこの方が好きだった。アメリカの映画は面白いがまさに娯楽映画でそれだけみたいな感じをこの二つの映画を観て思った。そして、ウエストサイド・ストーリーで完全にアメリカのミュージカル映画は嫌いになってしまった。「ステート・フェア」は観たことがない。調べたら製作は45年、サルが5歳と時である。他のものはその10年後に製作されている。2回と観たいとは思わないだろうが懐かしさで観る楽しみが増えた。年明けたらの話になるだろう。

2011年12月24日土曜日

ニーバーの祈り

きのうブログをかいていてふっとニーバーの祈りを思い出した。

神よ、
変え得ぬことを受けれる心の平静さを、
変えるべきことを変える勇気をわれらにお与えください。
そして、これら二つの見分ける英知を・・・
武田清子訳

小さな集まりにいる者としてもその中でも変えることの難しさとそのために勇気が必要である事を思わされている。そしてその勇気がないことも。そんな事を考えていると今を変えることは至難の業である事を思う。ましてや会社や政治を変えることなど至難の至難であることを思う。いうなれば電車を線路からはずして別な方向に変えるようなものだ。変えようとしている民主党、そして野田さん、菅さんのようにずーと首相の座にしがみついていると思われるから「不退転の決意」なんて言わないで頑張ってください。できたらわかりやすいことばで具体的に。

2011年12月23日金曜日

聖書雑感

政治に特別関心あるわけではないが最近の政治の流れをみていてわからないことだらけだ。政治の流れを変えてほしいとの願いで民主党に投票したがこんな結果になるとは思わなかった。期待したほうがおかしいのかもしれない。考えてみればこれが当然の結果かもしれないと思うようにはなっている。政治家に失望しているが希望を失っているわけではない。それは失望したらその先はないからである。ただそれだけだが。

わからないのは小沢さんの選挙区である岩手県が震災や津波で被害を被っているのに、政治家として何をしているのだろうかそれが見えない。しかし、ただそれだけなのかもしれない。ならさびしいなと思う。師である田中角栄は手法は問題あっても信念があったように思う。彼は抜け殻を踏襲して中身がないようにも見える。民主党のトップたちのていたらくがこんな形になったのかもしれない。

こんな政治の流れを見ていると、今まで聖書の列王、歴代、そして預言書の中に出てくる王たちの姿ををみて理解できなかったが、今はよく理解できる。あの世界を今、日本で現実に行われているような気がする。机上の空論のようなマニフェストは論外としても、原発の対応を見ていると、これだけの現実を目の前に提示されてもそれを変える見識がない。色々なことが明らかにされてもその先が見えていない。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」箴言 29:18、幻を失ったら、羅針盤を失った船のようだ。そんな事になってはいけない。そして「主を恐れることは知識の初めである。箴言1:7とあるが神を恐れなければこうなる恐れがある。今の現実は神の警告であり、哀れみであるような気がする。このことに気づいてほしいと思うのはわたしひとりか、そんな事はない。


2011年12月20日火曜日

クリスマスに思う

サルはノンクリの時、周りがクリスマスだといって、ドンちゃん騒ぎをしていても俺はキリスト教徒ではないからと全く関心がなかった。キリスト者になってもノンクリが祝っているクリスマスと一緒にできるかとこれも無関心だった。それから大分経ってから、クリスチャンが世の中で行っているクリスマスに対して批判しているのを見て、主(ヌシ)のいないクリスマスでもクリスマスを祝っている事はいいじゃないかと思うようになった。なぜなら、わたしの小さいときは、ド田舎に住んでいたからクリスマスもサンタクロースも知らなかった。どういう形であれクリスマスという言葉があふれるだけでもいいではないかと、そうしたら実はこうですよと言えばよいと思っている。要するにへそ曲がりなのである。

上沼先生が先日の神学モノローグで「パウロの観たクリスマス」という題で書いておられた。奥様のご両親の住まいの近くでの街路樹のイルミネーションや家々のデコレーション、教会のクリスマスコンサートなどを観て、年とともにパウロのユダヤ性を考えるようになって、このようなクリスマスをパウロが観たらどう思うだろうかと問いかけていた。

最後に、「2千年の西洋の教会で捉えられてきたものが主導になって、 その上で聖書を見ていく。それが聖書のすべてだと思ってしまう。 避けられないと言えば避けられない。それでも、そうでない面がある。教会があまりにも西洋的な思考に動かされてきたためなのではないだろうか。聖書のなかのユダヤ的な面を真剣に捉えたら見落としてきたものが多くあることに気づく。」と締めくくっている。

サルはブラザレンというグループで生まれ育ってきたものであるからかそれがよくわかる。大切なものとして教えられてきたものが先人達の習慣に過ぎないものもあったりで、何これと思わされた事が幾つかあった。今も後生大事に守っているのを見ると、本人がそれを大切にしている事は尊重するが、それを人に押し付けるなと思う事がある。

世の中、制度疲労しているとよく言われている。キリスト教会も然りかなと思ったりするがどうなのだろう。今あるものを当然のように受け止めている事は、もしかしたら違ったものではとの「?」を持つことも大切ではないだろうか。なんでもかんでも「?」はいけないが。

2011年12月15日木曜日

ひと足早いクリスマス

サルが集っている岡谷集会は、月一で来てくださる三綿さんに合わせて、11日にひと足早いクリスマス集会を行った。いつも借りているところから場所を移しマリオという結婚式場を借りての集会となった。彼の企画立案で、こちらは場所の確保のみ、今回は経堂の婦人会のクリスマスと同じ形でやってくれる。聖書のメッセージとピアノの演奏、その中に讃美も加わって、いつもは一時間半、始まる時間は同じでも昼食を挟んで集会は5時まで続いた。楽しく、個々に交わりながら和やかなうちに過ごす事ができて感謝である。初めて来られた方から時折来られる方、三綿さんに合わせていつも来てくださる方と色々で、ノンクリスチャンは7人ばかり。市民新聞にも出したがこれは空振り、今は家族や友人、知人のつながりが多いような気がする。普段は10人に一人か二人欠けて、あっという間に終わる小さな集まりだが夕方まで賑やかな集会となった。

メッセージは「聖書が語るクリスマス」というテーマで、副題は?クリスマスはニュースである。
1、あなたの「創造主」からの「真実なニュース」である。
2、「罪からの救い」という「喜びのニュース」である。
3、「犠牲は神が払われた」という「愛のニュース」である。
この三つのポイントから私たちの現実の生活の中で出てくる問題の原因がどこにあるのかをわかりやすく話されて、そこから罪の問題、神の愛と人間の愛の違いなどを話してくださった。
一人の方は自分のことのように感じて、涙が出てきてしまったといっていたそうである。夜だったらぼろぼろ涙を流したかもしれないといっていたそうだ。彼が来る時にまた聞いてほしい。福音とはこういうものであるのかもしれない。人の苦悩の琴線に触れるのである。

ピアノ演奏もグランドピアノで、それもスタインウェイである。音痴のサルでもアップとグランドの違いがわかるほど音はいい。音楽には疎いが最初はバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」もうポピュラーになっている。音楽は人の心を和ませてくれる。久しぶりにそのことを実感させてくれた。メドレーなどを入れたら10曲以上ではないだろうか。演奏してくださった今西さんは今も家で子供さんたちにピアノを教えている。リタイアしたご主人と共に来てださり、彼が解説をしてくださった。元々は奥さんのご両親と親しかった。その関係で、彼らの結婚の時に電化製品を千葉の市原まで届けた縁なのである。ご両親は召され、店もなくなり、遠くでもあるのでそれで切れたかなと思ったら20年近く経って、三綿さんのお陰でまた繋がるようになった。今回で3回目である。遠い千葉からだがまたとおねだりしている。

今回は竹田由季子さんが讃美してくださり、経堂では何度も聞いているので、楽しみだった。久しぶりに聞いたら、声量があり、高い声の伸びがあるのに驚く、尋ねたらPTA のコーラスグループの指導をしてくださった方が発声法とかの基本を教えてくださり、それを意識して歌っているといわれて納得する。澄んだ伸びやかな声は、賛美歌に相応しい。またいつか聞きたいものである。

今回の一連の流れの中で、どういうわけか第一コリント12章のキリストのからだなる教会を思い出した。あるいは家庭集会の延長の認識の強い集まりから、個々の信者の働きが少し明確になってきたと思ったのだろうか。これからどうなるか。いつも借りている集会から自前の集会をと夫婦で願っている。誰にも経済的ゆとりはない。しかし、過去から現在を見、そして未来を予測するなら信仰はいらない。信仰は予測外の出来事、「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。わたしは汚れたものです。」luke: 5: 8  こんな告白をしてみたいものである。信仰の薄き者であるが。





2011年12月10日土曜日

聖書を手にする幸い

先日、諏訪大社下社秋宮周辺の歴史と散策の集まりがあり、それに参加した。説明によると大社や社務所、境内あたりは変わらないが、あとはもう宅地開発?によってか住宅が建っていて、崖の部分とか家が建たないところに、かすかにその面影を残すのみである。跡、址ばかりだが当時のままに残っていたら壮大な感じになるのだろうなと思った。それと神社の中にお寺の跡があり、話によると当時は付属の寺院がたくさんあったそうだ。神社とお寺?と思ったが長い歴史の中で宗教の混交が起ったのかなと思う。説明されていたが良く聞こえなかった。諏訪大社上社は下社と大部違うような気がする。上社は実にシンプルでユダヤ教の幕屋や神殿を関連つけているような建物や配置がある。それに裏山にと言っても大分離れているが守屋山がある。ここは元々は岡谷の橋原にある洩矢(モリヤ)神社が引っ越したと言われている。そして上社から下社へと分かれたのであろう。時代の流れの中で時に迎合して栄えたものとそうでないものをこの二つの神社で思った。

キリスト教も長い歴史の中で、大分変わったのではないかなと思う。カトリックをはじめ何々正教といわれる類のものはそうだろう。本来ないものを付け加え、あったものを捨ててしまった。具体的にはどれと言われると答えに窮するがあるように思う。隠れキリシタンはその際たるものであろう。キリスト教のキの字も見出せない姿を見ると以下に迫害が激しく、そしてそれにどのように耐えて受け継いで行ったのかを思うと先人たちのしたたかさを思う。御神体が秤だったりするものもあると聞く、正統キリスト者は一蹴するであろうが神は彼らをどのように扱うのだろうか。天国に行ったときの楽しみでもある。

そのようなことを考えていると二千年、四千年と変わらない(誤訳はあるだろうが)聖書を今手にしているということは何と大きな恵みだろうか。いかんせん難しいことはわからない。しかし、新聞は中学生でも読めるように書いてあると聞く、聖書は小学生でも読めるように書いていると思うからその程度の知識で十分であるということだ。なら何とかついていけそう。難しい部分は学者や牧師に任せて解き明かしてもらえばいい。それでも原語で聖書を理解できたら更に聖書に対して興味が湧くだろうな、しかし聖書の知識が即いのちにならないし力にならない。「イエスは主である」と頭で理解できても身体で受け止めていないような気がする。信仰の薄き者よと言われそう。いや言われている。

2011年12月9日金曜日

暖冬?

今日は朝から雪が舞っていて、一面雪で覆われている。しかし、道路は車が行き交うので消えていた。たいした雪ではないから止んで、日が射したら消えていった。午後松本まで行ったが、さすが塩嶺峠は、路面は消えていても周りは白一色、千メートルくらいになると違う。遠く中央アルプスを見ると真っ白、手前の高い山は上の部分だけ、更に低いと雪は解けている。雪の降り始めは山の高さが歴然としてわかるから面白い。雪は今月にはいって2回目、何回降ってもいいけど雪かきをしないくらいの雪であってほしい。

10月は暖かく、11月も半ばまでは暖かかった。それ以降は去年と同じ気候である。今年は暖冬かなと期待したら、長期予報は12月は少し暖かく、1月は平年並み、2月は寒くなるとか。すでに予報は外れて寒い。2月が一番寒くなるのに平年を下回るのかと思うと、もう身が縮んでいる。以前に書いたが少し畑をやっている方のようだが、雨が降ってもいいお天気、日が射してもいいお天気、雲ってもいいお天気で、いつもいいお天気ですと。雪はスキー場では欠かせないが雪の下の土の中に農作物をおくと、天然の冷蔵庫になるから雪国では、雪も大切かもしれない。

自分の都合のいいようにものを考えてしまうから、そうでないとつい不満が出てしまう。わたしに困る事でもある人にとってはいいことであることはたくさんあるだろう。何事も感謝して受ける心の広さを持ちたいものである。しかし、家内が具合悪い時に優しくできない挙量の狭さを考えるとこれは建前のこうあれればとの思いかもしれない。

2011年12月2日金曜日

ひかりごけ

先日、時折散歩というかウオーキングをかねて歩いて15分のところにある神社の近くにこんなものがあった。

2011年11月18日金曜日

今巨人軍が面白い

野球は藤村富美男選手がいた頃からの阪神ファン、藤村富美男?と中年のおじさんにも言われそうな年である。ファンと言っても野球はニュースで見るだけ、夜のスポーツニュースは勝てば何回でも見るが負けた試合は見ない。あそこのチームは期待すると良く負ける。だからあんまり熱を入れない。あのチームを見ていると野球はメンタルなスポーツである事を教えてくれる。大阪の人が好きになるような面白いチームである。


こういう面白さがないのが巨人である。選手が洗練されている。ガキ大将といいとこのお坊ちゃまの違いがあるように思う。 ほんとかどうか知らないが阪神は昔優勝すると選手のギャラは上がるし諸々の金がかかるから優勝はいけないような、そんな事を聞いた事がある。事実かどうか別にしてもこのようなうわさが流れることだけでも面白い。巨人は優勝当たり前のチームである。優等生のおぼちゃまは実につまらないと同様に巨人も然りである。

巨人は選手が好きだったが巨人軍が嫌いだった。あるいは読売が嫌いだったからかもしれない。どこか胡散臭いところがある。昔、職場に資格の問題で顔だけ出す年配の方がいた。この方がいつもサンケイを持って来ているので後で読ませてもらった。タイワン新聞タイワン新聞と言っていた。確かに他社にはタイワンのタの字も出ない時でも台湾の何かが載っていた。その当時朝日を読んでいたから、この二つの取り上げ方が水と油の如しであるのに驚いた記憶がある。もう20年から前の話である。しかし、縮まったか広がったかわからないがこの傾向は今も変わらないようである。今、新聞を取ってないが図書館では地方紙を読んでいる。たまに左右?は読まず、中間の読売を読んでいる時がある。

今回の騒動、出るものが出たという感じである。一人を悪者にしているが見方によれば確かにそうかもしれない。しかし、周りが保身のためにか沈黙するからこういう結果になったと思っている。色々身内でコメントしているがそれは保身的である。面子を保つために叩くだろうが墓穴を掘らなければいいがと心配である。開幕時に巨人かドームかは忘れてが他とは別だと電力が逼迫しているのに、記者上がりで時を読めない姿に多くの国民は唖然としたのではないだろうか。その人が今も主筆?ジャーナリストの正義なんて原発でボロが出ているし、それをどうこう思わないが悲しいに尽きる。
こうなってもこれが潮時とエールを送ったら株が上がるだろうに、そんな事はないな、頑張ってくだいさいとエールを送ろう。引き際の難しさを覚える時、本田宗一郎氏の引き際の鮮やかさが思え浮かんでくる。



2011年11月15日火曜日

月いち

日曜日に月一回東京から伝道者のMファミリーと今回は新婚のN兄姉が来て下った。今回はいつも借りているところが借りられずパークホテルで行うことになった。ここは、召されたO兄が来られる時によく使っている所である。いつもと違った雰囲気があってよかった。

彼が来るといくつかの感心する事がある。その一つに必ず誰かを連れて来てくださる。奉仕で集会を留守にして来られる時は誘う時間がなくてファミリーで来られる時もある。これはこれでまた個人的な話ができたりするからこれもまた楽しい。また来てくださる兄姉も特に兄弟は仕事で忙しくしている。ある時は、兄弟が朝というより夜3時に起きて、5時から仕事という兄姉が来て下ったことがある。それももう二度かなうれしい限りである。彼は9時になると眠くなるということである。サルは12時前に寝ることは滅多にない。2時3時は珍しくなく、下手すると4時5時になることがある。彼が職場で仕事を始める頃に寝る。そんな時いつも彼のことを思い出す。

サルは人を誘っていく事よりも自分ひとりで行動する事が多い。せいぜい夫婦とである。それは面倒なのと断られたらどうしようという不安がある。それと集団行動が苦手で、わが道を行くタイプでもある。加えて、みんなが右だというと左を向く、その声が大きければ大きいほど、即、左に歩き出すようなへそ曲がりでもある。

M兄は若い兄弟に話す機会を与え、また私たちに色々な兄弟たちの話を聞くチャンスも与えてくださる。伝道者として、各地の集会に招かれ奉仕の業をなされている。来週は確か群馬での奉仕があると聞いている。関西系であるから話が面白く、聖書の核心をわかりやすく話をしてくださる。それと集会の責任を担っている。これも賜物を必要とされるものである。だからこそ兄姉を連れて来れるのかもしれない。

普段はあっという間に、静かなうちに終わるのに、月に一回だけ賑やかに、午後もある。賑やかで長い時間だけではない。そこでのメッセージも蜜の濃いものである。キリスト者であることを満喫できる。その後、我が家と義姉夫婦とで交互に夕食をとる。今回は我が家である。家内は食事の準備で忙しいので大変であるがわいわい言いながらの食事の交わりも楽しい。今回はM兄が誘って、Oファミリーも来てくれて、狭いところが更に狭く、更に賑やかなになった。彼らがこれを機会に集う事を願う。良い事ばかりではない。これからのことが示されてもいる。しかし、私は腰が軽いが公となると実に「動かざること石のごとく」であるからウーンとうなってしまうが。


パンセ

パスカルのパンセという言葉は知っていたがそれ以上のことは知らなかった。[パンセ]というフランス語は、[考える]、そしてその成果としての[思想]の事であるが、更に[簡潔な表現に凝縮された思索あるいは着想]、つまり格言や断章を意味する事もある。とある。知っている人が読んだら笑われるだろう。

パンセを知らなくてもパスカルの「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかに最も弱いものである。だが、それは考える葦である・・・」は知っている。勿論、無学なサルでも知っている。それと福音のメッセージに「人間には神のかたちをした空洞がある」と言われるのを良く聞く事がある。それとえっと思ったことがあった。それは「クレオパトラの鼻、それがもっと低かったなら、地球の表情はすっかり変わっていただろう」。これは昔から聞いて知っていた。パスカルの言葉である事は勿論パンセからのものとは知らなかった。

これらは知識として知ってるということだけである。しかし、「神を知ることから愛することまで、なんと遠いのだろう」というこの言葉は考えさせられる。キリスト者として、聖書をそれほど知っているわけではないがそれでもノンクリスチャンよりは知っているだろう。物覚えが悪いといっても聖書や聖書関係の本を読めば知的なものは増えてくる。それに比例して愛が増えるわけではない。大袈裟な言い方をすれば無関係である。むしろ神の知識が増えれば増えるほど逆に愛のなさを認識するのである。ある意味で知的好奇心はセーブして、愛の実践にウェートをかけないといけないのかもしれない。しかし、身近にいる連れ合いにも時にとげの含んだ言葉を発する者としては、まさに難儀なことである。それとは別に、若者の読む?この本を年寄りになってしまったサルはチビチビと読もうとしている。最後まで読めるか39歳で亡くなられた著者の倍近い年齢で理解できるか楽しみである。




2011年11月12日土曜日

寒くなって

こちらに来て、タイムスリップのように思い浮かんできたことが二つある。一つは冬である。雪国で生まれ育っているから雪が降ると小さいときのことが思い出される。しかし積もるような事は少ないから生活としては助かるが寒さはこたえる。それともう一つは、集会に集うようになった若い頃の集会を思い出す。あの当時よりもこちらは更に小さな集まりだが形態が似ている。というより前にいた集会が変わったと言った方がいいかも知れない。私がいる頃でも7、80人、今は100人前後と聞く。下手すると座るところがない時もあるような事を聞いている。それでもばらつきはかなりあるそうだが。すぐれた人たちが集まって、どこか会社のような組織だっているのかなと思っている。

こんな表現は正しくないかもしれないが、集い始めた頃はわいわい集まっていたような気がする。好きな事を言っても許されていた。寄り合い所帯みたいもの、組織とは程遠いものだった。すぐれた人物がいるわけでもなく、その上に古い建物で世の中の人には魅力のないものであったろうなと思う。何か個人商店のようであり、大きい集会は株式会社のような、そんな違いを感じている。ただそれだけの事なのであるが。

教会の語源のエクレシアは呼び集めるという意味があると言われている。しかし、元々は平等と自由の意味でもあったと聞く、この言葉は好きだ。教会も集会も「呼び集められた神の民」である事に異論はない。組織としての牧師制や長老制には、効率的であるが平等と自由はないように思う。福音書で見るイエス様の言動は、まさに平等と自由がぴったりの姿を見る。しかし、牧会書簡にはそれがない様に思うがどうだろう。だから少し抵抗がある。パウロは今日の教会の組織を見て納得しているのだろうかと思う時がある。今日の教会なり集会の弊害?はここから来ているのではないだろうかと思ったりもする。あるいは曲解している。天に行った時にそれはわかるだろう。気候も懐も寒くなって、斜に構えてしまった。

2011年10月31日月曜日

メルヘン街道

奥蓼科の紅葉を見たいと思っていたが28日に家内と行って来た。昨年も行ったが駆け足のような走りをしたので少しゆっくりとと思って昼前に、コンビニでおにぎりとお茶を買って出掛ける。蓼の海を通って霧が峰に向かう。強清水、車山肩を素通りして展望台の富士見台で少し眺めて昼食を食べる。売店はあるが結構車で食べている人を見かける。時代を反映してか?それと県外ナンバーが殆どである。

何回も寄った所であるのですぐ白樺湖に向かう。その間に見える白樺がきれいだ。白樺湖の脇を素通りして、女神湖に向かう。白樺湖を過ぎると農産物直売所の看板を掲げた店があり、そこに立ち寄って少し買物をする。そして女神湖も湖畔を一周して、見るべきものもないので素通りである。

そこからメルヘン街道に出ようと思ったが工事中で通行止、白樺湖に戻りそこから向かう。メルヘン街道に出て、佐久穂方面に向かう。したすら走って、最初の目的地である麦草峠まで行く、海抜2127m、カーブカーブの連続で、最高地点に到着する。登山ではとても無理な高さであるが車で行けるのは信州ならではである。第二の目的地である奥蓼科温泉郷に向かう。狭い道を通りながら橋を二つ渡って湯道街道に出る。今年は紅葉の色づきが良くないといわれるが全山紅葉となっていたりとデジカメでうまく撮れないがきれいだった。少し下ったところに吉永小百合さんがコマーシャルで有名になった御射鹿池がある。何人かが写真を撮っていた。湖面が鏡のようになっていて幻想的である。写真で撮ったので一番良かったかな、こういう風景を見ると一眼レフがほしくなる。

それとどこでもカメラをもった方が以前よりも多く、特に女性が多い。赤そばの里に行った時には、明らかに素人と思われる方がカメラを三台も首からぶら下げて撮っていた。デジカメの手軽さとミラーレスの一眼レフが出たので、それで女性が多いのかもしれない。何時か北の信州にも行きたいものだ。


2011年10月28日金曜日

入笠山へ

26日にシニアの関係の集まりで、原村の八ヶ岳自然文化園にボランティアとして、落ち葉を集める仕事に行ってきた。標高千メートル、わが町より少し気温が低い。湖と山に囲まれた?地に住んでいると八ヶ岳山麓は広大という言葉がぴったりである。それに自然がいっぱいで、園内をカメラを三脚につけた夫婦がいいスポットはないかと歩いていた。声をかけられて立場話をするなかで、東京から去年も来られたそうだ。「今年は暑い夏の影響で色づきが良くないのか」と聞かれ、言われてみれば葉も少なくなっているが確かに去年より色づきは良くないなぁと思った。奥蓼科にと言ったらこれから行くつもりだとの事、良い写真が取れるといい。それに、原村はペンションや別荘地として有名だがセロリの出荷量は日本一。確かに農地も多い。隣町の富士見も然りである。

午前中の2時間ばかり、和やかに話をしたり、黙々と落ち葉をかき集めていたり、落ち葉を袋に入れたりと一人一人マイペースでやっている。私は落ち葉をかき集めたり、からの袋を運んだり、はたまた袋の紐を結わいたりと気がついたことをあれこれとやった。普段はにぎやかな人たちだが概して黙々とやっていた。それでも時々冗談を交わしながらではあるが。早く終わったのでパターゴルフをわいわい言いながらやっていたが私は職員と話をしているほうが落ち着ので彼らと立ち話をして過ごした。

昼食は近くのホテルで取る予定になっていたから、村の施設のもみの湯に入って、近くを散策しようと思っていた。ところが食事の場所が富士見の近くになったので入笠山に行く事にした。いつか入笠山にと思っていたので行けるところまで行こうと皆さんと別れて山に向かう。20号線に出て、少し遠回りになったが入笠山の入り口に出た。丁度二時だったので入山規制解除になっていて通れた。普段はゴンドラで行くようだった。

どの位走っただろうか別荘がポツンポツン見えてしばらく走ると、崖の上に黄色の建物が見える。結構回りこむようにして入り口に着く、そこが声楽家の今仲幸雄さんの「讃美の家」である。誰か外にいたら寄ろうかなぁと思ったが門は開いていたけどひっそりとした感じがしたので素通りして上に向かう。でも何時かお会いして交わりを持ちたいものだ。2-30年前に三度ばかり、前にいた集会に奉仕していただいた。一回はお兄さんが船橋にいるということでその近くまで車で送った事がある(本人は記憶にないだろうが)。岡谷の集会も何時かこんな方を招いて集会をもてたらなぁと夢のような事を思っている。

信州の山の道は対向車が来たらどうしようと思うような狭い道が多く、ここも然りである。幸い対向車がほとんどないから助かる。しばらく走ると大河原湿原に着く、ここから御所平峠登山口間をバスが走っている。丁度中間地点に車数台も止まれそうもないが「八ヶ岳ビューポイント」がある。ここから八ヶ岳を目の前にして、眼下に広がる広大な八ヶ岳山麓を一望できる。まさに絶景である。いつだったか杖突峠の茶店から見たのにも感動したがそれより更に広がっている。登山口の脇に広い花畑があって、何が裂くのか工事をしていた。マナスル山荘の前の駐車場に車を止めて、その脇から登り口である。頂上まで30分の数字を見てチャレンジする事にした。数十歩、歩を進めては休み、喘ぎながら登っていく、ようやく頂上へ着く、360度のパノラマの絶景である。中央アルプスが雲の上に墨絵のように見えるからいかに高いかという感じが伺える。1955mを踏破したといっても登山口から頂上まで標高差は165m自慢できるものではない。しかし、諏訪大社上社の守屋山と入笠山がこちらに来て登る事が願いだったから願いが叶えて感謝。

登山口の手前に右は長谷、左が高遠とあり、そこに茅野、諏訪方面とあり、戻るつもりだったが砂利道だったがそこに行く事にした。少し走るとゴンドラ頂上駅の案内を右に見ながら直進していく、かなり砂利道を走り、対向車が来たらどうするのだろうと思うほど車一台の幅しかない。しかし、崖の部分がないから安心である。ようやく舗装路にでそこを右折して走る。結構走っても山の中、中である。芝平峠を過ぎて少し走ると千代田湖という湖に出た。そこに直進高遠、右折地の諏訪方面とあり、右折して狭い道を走る。しばらく走るとゴルフ場があり、更に進むと杖突峠に出た。丁度道路の反対側は守屋山の登り口の駐車場になっていた。ここから一般道である。最初はまた戻るつもりだった。そして富士見の「ふれあいセンター」のお風呂に入るつもりだったがこちらに来てしまったので市内のロマネットに入って、今日一日の行程は終わり。山道はひやひやだったし、でこぼこ道では底を二度ばかり激しくこすって、これもひやひやだった。100キロの走り、気分は上々。

2011年10月25日火曜日

聞くと言う事

中川健一さんの10月21日のメルマガに「聞くという奉仕」という 題で書かれている。
「被災地では、「聞くという奉仕」の必要性が高まっていると伝え聞く。自分の痛みや苦しみを、誰かに聞いてほしい。そういう思いを持っている人は多いと思う。」
そして、柏木哲夫さんの本の中より、失敗談として退院する患者さんに「何がつらかったか」との問いに「先生が頑張れと言われたことがつらかったと聞かされてショックを受けた」ことを紹介していた。

「この逸話は、私にとっても教訓となった。思えば、私たちは『いかに語るか』という訓練を受けていても、『いかに聴くか』という訓練は受けていないことが多い。」とも書いておられる。そして、友人と会食の中で、「その食事の席で、矢吹氏が10月下旬に東日本大震災の被災地を訪問し、、『耳を傾けるという奉仕』というテーマで講演されるとお聞きした。興味を持った私は、即座に、ハーベスト聖書塾公開講座でも同じ内容の講演をしていただきたいとお願いした。氏は快諾してくださった。このテーマは、今の私たちが最も必要としているものだと確信する。」

 第4回 聖書塾公開講座  「耳を傾けるという奉仕」


日時:2011年10月30日(日) 17:30~19:00  会場:JELA(恵比寿)


興味はあるが遠いので聞きに行けないがそのうちCD化かHPに載るだろうそのときを楽しみにしている。

最近の一日は、本を読んだり、PCにキャンベルモルガンの「キリストの危機」を入力している。前にも書いたがブラインドタッチの練習とゆっくり読むことによって理解が増すのではないかとの思いでやっている。しかし、どちらもそれほどはかばかしくはいっていない。指の運びはその日によって、間違いも少なく運ぶ時と全くふらつく時とがあり、微々たる進展かなと自分に納得させている。内容は教えられる事と難しいときの半々である。それと訳文がわかりづらいなと思う事があり、ひとりの役者のはずなのに章によって、文章が微妙に違っている事に気がつくし、誤字があったりするの発見もある。教えられてもどんどん忘れる(頭にはしっかり入っているが思い出せないだけである。だからいつかどこで出てくるだろうと、しかし、期待していない)。若い学生でも先生の授業は全部理解し、記憶している事はないだろうとおもうから、これはこれでいいと納得させている。

PCの打ち込みはそんなに進まないから、歩く事とか、自転車でとの思いもながらも、ついPCに向かう時間が長くなってしまう。それに、身につく度合いの薄さとその意味を考えると「徒労」という言葉が思い浮かぶ。ハムスターがリングの中で手足を動かしているような空しさを覚えないわけでもない。好きな事をやっているのだが充実感は少ない。

そんな心境の中でこのメルマガを読んで、ひとつ思った事があった。それは、こちらでは、短い会話を交わす事があっても、ゆっくりお茶を飲んでとかそんな時間は皆無に近い。前向きな会話でなくても、愚痴を聞くと言う事もない。前の集会では、日曜日は、午前、午後と集会漬けだから何らかの交わりがある(割と苦手としていたが)。夜の集会などは人が少ないから逆に個人的な話をする事ができた。こちらに来て、それがないのである。それに、前の集会では、限られたお年寄りではあったが、苦情の聞き役だった。些細な事などが多かったから笑いながら聞くことが多かった。軽井沢のシニアキャンプで会った彼女たちは少し変わってきていて話す内容も違っていた。もう苦情の聞き役はあまり必要でなくなったようだ。彼女たちの苦情を聞くと言う事も彼女たちのためにもなっただろうが結構これが自分を必要としているという気持ちがどこかにあって、それが自分を支えてくれたのかなと思った。人はどこかで必要とされていると言う事を確認できないと立っている事は難しい。人はどこで助けられるかわからないものである。

2011年10月23日日曜日

聖書信仰

私はブラザレンの流れの中で生まれ育った者である。各地の集会の案内の中に、「聖書は誤りなき神のことば」と書かれていることが多い。捉え方によっては、一語一句と解釈される可能性もある。勿論、そのままとっている集会もあるようだ。しかし、原語を日本語に間違いなく訳せるなら理解できるが、それは難しいのではないのか、原語は「誤りなく神のことば」であっても、日本語聖書がイコールそうだとは言えない。

一般の人には「聖書は誤りなき神のことば」と聞くと、それだけでアレルギーになって仕舞わないだろうかと懸念する。ある集会のHPには「聖書に基づきイエス・キリストの救いを伝える ○○集会(教会)」とある。これなどはわかりやすい。自分たちの立場を鮮明にするのか一般の人たちに向けているのかの違いかなと思うのだがどうだろう。どちらも福音を伝えようとしている姿勢には変わらないのではあるが。

2011年10月22日土曜日

バカ発言に思う

私は高等教育を受けていないので、昔で言ったら「読み、書き、そろばん」類の知識しか持っていない。しかし、今回の平野復興担当相の「バカ発言」に、言葉尻を捉えたような批判には驚いた。それも一般人ではなく、マスコミと国会議員であることに驚いている。最初、この言葉を目にした時、私のような無学な者でも、大臣の友人に対する無念さが伝わってきた。心が締め付けられる思いになったことを覚えている。

そして批判を見てびっくりである。「えっ、こんなことがわからないの?」と思った。昔は、同じ言葉でも、何ゆえにその言葉が出たかを考えて、言葉そのものに幅があり、豊かさがあった。今は薄っぺらである。それも、大手マスコミの記者や国会議員がである。言葉のすり替えは上手で、こような方々が活躍しているから、国が滅びようとしている原因はこんなところにあるのかなと思うと納得する。

うれしい便り 続き

いつもは午前中だけのちょっとさびしい集会だが、この日曜日はM兄ファミリーに、午後からO兄姉と姉妹の友人のAさんが加わって賑やかな集会になった。Aさんは、M兄姉とは面識があったが当集会は始めて、O兄のあかし、M兄メッセージに、その後の交わりと最初は心配したが和やかに過ごす事ができて良かった。

O姉からのメールで、
「久しぶりにM家族に会えたこと、主人の話も含め、感動するよい話を聞けたと喜んでいました。
 (下記本人のメールより) 
・・・・・私は、神様はいるんだと思っています。
そんなレベルの私が聖書の勉強の会に気軽に参加していいのか?
正直悩みます。・・・・・・」
 
聖書を知らない方に聖書を伝える集まりだから、まず聞いてくださることだけでいいのに、真面目な方なのなだぁと思った。それと同時に、「食いしんぼうの大酒飲み」と言われた方がいかに格式に拘っていないかを知ると、部屋を借りている集会でもそんな風に感じるのかと思うと、一般の人には教会は敷居が高いのだろうなと思わされた。

「信じるのならば、聖書の神を信じる根拠を自分でひとつひとつ確認し、理解し、全て勉強してわかったうえでなければいけないと思っています」とあったが、自分から求めて踏み出すところにまでは行ってないとのことだった。真面目に聞いてくださるだけでも感謝であり、O姉妹を通して、気長に聖書にふれ、イエス・キリストを知ってほしい。クリスマスにも誘うとのこと、これからを期待したい。

 聖書の知識のない人に聖書の話をする事は難しい。話す事自体が苦手であるからなおの事である。罪だ、死だ、滅びだ、救いだと話す事は簡単(私に難しいが)でも、こちらサイドで空回りしていないだろうかといつも思う。神学的なものは勿論の事、単純な福音でもそんなことを考えると足踏みしているのだ現実である。身辺に色々あって、ようやく落ち着いて聖書の話を聞きに来られた。個人伝道と言うのは苦手だが、12月に来られたら少し話ができたらいいなと思っている。

2011年10月10日月曜日

放射能汚染に思う

最近のニュースは原発が収束傾向にあることを報じているが実際どうなのだろう。それより、農作物の放射能汚染や子どもたちの甲状腺異常が話題になっている。もしかしたら福島の子どもたちの中にこの影響を受けて癌になる子どもたちが出るのではないだろうかと心配である。

報道は限られたものであり、東電や国が発表するものは最小限にとどめていることであろうし、深刻な状態であってもそのような事は発表しないだろう。開けてびっくり玉手箱ではないがすべてが明らかにされたら悲惨のきわみではないだろうか。

胎児性水俣病やポリオワクチンで薬害被害を受けた人たちとダブル。発症したら、国や東電はどうするのだろう。今保障の請求が始まったようだが色々と問題提起されている。そんな東電に何が出来るだろうか。結局は被害を受けた者が損をするようなことになるのだろう。なんとなくやりきれなく怒りがこみ上げてくる。

民主党は色々批判を受けているが自民党政権だったらどういう対処をしたのだろう。こういうシステムを作り、恩恵を受けてきたのは、自民党であり、役所であり、企業だ。それが明らかにされただけでもよしとする事ができるように思うが。しかし、例え誰がやっても人間には自浄能力はない。上から臨まなければ軌道修正は不可能である事を改めて知る。

2011年10月6日木曜日

うれしい便り

メールを開けるのは週に二回か三回、今週は今日がはじめて、4通ばかりあって、その中に見慣れないメールがあり、誰から?と思って開けたらO姉妹だった。

第三週に、月に一回、東京から来てくださるM兄とファミリー、それにプラス、ご夫婦だったり、兄弟だったり、姉妹だったりと毎回違う方を連れてきてくださる。小さな、そしてちょっぴりさびしい集会が唯一にぎやかになる。それに合わせてご夫婦で来てくださる。

実は、彼女の高校時代からの友人と来てくださるのである。詳しくは知らないが何度か聖書の話を聞いていて、聖書に関しては否定的ではないようなことを聞いている。いろんな事があったらしいがそれも一段落?して、聞くことができるようになった。M兄が来た時にとお互いに祈っていたのが実って、次の祈りも聞かれる事を願う。ここ最近、あまり変化もなく、少し気になっていたからWでうれしい。

2011年10月3日月曜日

諏訪湖一周

昨日は、苦手なメッセージを終えて、午後に気分転換を兼ねて、久しぶりに諏訪湖ぶらり旅をした。今回も下諏訪に向かって上諏訪とぶらりぶらりと自転車のペタルを踏みながら走る。いつもながら狭い道を右に左と目を移しながら珍しいと立ち止まっては眺めての繰り返しである。下諏訪に入って、一軒の民家の木に蔓が絡まって細長い実を見つけて、アケビかなと思ったがそれにしては丈が短いのでよくみたらキュウイだった。木に絡まっているキュウイははじめて見る。育てるというより育ったという感じがしないでもない。

下諏訪が切れるところは20号線と諏訪湖に挟まれて狭いがそれが過ぎると少しづつ広がっているのでまた路地に入って上諏訪の駅前に出る。旅館街から昔からの商店街か、線路を挟んで両方にある。それも小さな飲み屋街かな、東京の神田の路地の飲み屋街のようなものが幾つかあってそこを過ぎると高島城である。そこを過ぎて適当に走る。諏訪湖が段々遠くなる感じであるがそれでも走ると、豊田の農協に出た。家内の義父の実家がすぐそばにある。旧道を走りながらガラスの里の近くに出る。左に上がると、多分中央道の上りの諏訪湖サービスになるようだ。急坂だから自転車でのチャレンジはなし、そしてそのまま旧道を走る。諏訪湖畔添えはジョギングコースになっているので、路面が柔らかいから自転車だと抵抗があるので避けている。反対側は広い歩道になっているからそこを走るときもある。しかし概して旧道は車も少なく風がある時は、こちらが助かる。

今回は旧道と合流するところから、さらに旧道へと行かず湖畔に出て、少しきついが走る。少し走るとレッカー車が2台とまって、ボートとその脇でダイバーが二人もぐったりしている。なんだろうと思って立ち止まって見る。大分てこずってベルトをかけて引き上げるのを見ていたら、軽の車だった。まだ新しいようで、どうも釣に来て、ブレーキとアクセルを踏み間違いたようだ。そんなに広くないところなのにと思うが、ブレーキとアクセルを間違いてコンビニに突っ込んだ車のニュースを目にするが、これがそうかと思ったがどうなのだろう。自転車に乗って走る一つに、犬も歩けば棒に当たるではないが、何か新しい事を目にするとか、あるいは出会い?を期待するからである。いつだったか諏訪の方で、テープが張られ、私服の刑事らしき人が二人立ち話をしていた脇を通った時、それは介護の奥さんと無理心中をした事件だった。こんな事には出合いたくないが。

釜口水門から少し走ると微小な坂が始まる。といっても、約3キロの距離に40メートルの高低差がある。湖畔周辺はペタルを踏むだけでよいが、ここから膝の筋肉に負担がかかる。痛いからゆっくりペタルを踏む、何箇所かきついところがあるがギヤダウンしないで行く、西友の裏は短い急坂といっても数メートル弱、そこはギヤダウンして、後はゆっくりとペタルを踏んで到着である。諏訪湖一周は16キロ、寄り道して25キロ、最後が上り坂できついが、運動不足解消と気分転換にはよかった。

2011年9月29日木曜日

イエスの御名で 

ナーウェンの著作で薄い本である。読みやすく、わかりやすい本でもある。しかし、現実には難しい本である。だから何回も読んでいるが身につかない。牧師や司祭を対象に「来るべき世紀におけるクリスチャン・リーダーシップについて」の講演会を本にされたようである。対象が牧師や司祭であるから、私は埒外だけど、クリスチャンとしてのあり方は、共通するものがあると思っている。最近読んで、既に線を引いてあるが「痛みに満ちた長い教会の歴史は、神の民が、ときに愛よりは権力を、十字架よりは支配(コントロール)を、導かれる者よりは導く者になろうとする誘惑にさらされた歴史だといえます」(p81)。

少し前に書いた教会に対する疑問がこれで少しわかったような気がした。そして今も続いているだろうし、これからも続くのだろうなと思う。批判する事は簡単だが一つの流れの中に、それに抗うようにして生きる難しさはいつの時代でもある。これは別に教会の中だけでなく、この地上の営みの中にも見られる事である。原発はコントロールできないという意味では恐ろしいものであっても「パン」の力の前に人は膝まずいてしまう現実がある。彼らを責める事はできない。むしろそのようにしていった者たちの責任は大きいだろうなと思う。






2011年9月28日水曜日

赤そば

信州はそばが名物である。どこに行っても手打ちそばのそばそばそばである。食べればおいしいと思う。若いときに信州の駅で立ち食いそばを食べたときおいしかったのでさすが信州と思った事があった。おいしさは素材だけでなく、空気と水も関係あるのではないだろうかと思っている。こちらに来て食べ物がおいしく感じるのはその所為ではないだろうか。

住まいから30-40分くらいだろうか、赤そばの名所があることを知って、出かけてきた。畑や集落が切れて、数分歩いたところにあって、地元の人たちが地元で取れる農産物とそばを売っていた。赤そばは数が少ないので売り切れていたがもりそばを食べたがおいしかった。昨日は別の所でとろろそばを食べこれもおいしかった。有名店ではなく、立ち食いそば屋的な所である。

信州には温泉が多いから自治体でも温泉があり、中には5つも6つもある自治体がある。だから出かけると必ずお湯に入ってくる。今回も然りで、それとどこにも農産物の直売所があるからこれも魅力である。お買い得的なものがあったりするし、そうでなくても地元産だからおいしい。道の駅も多いが街道沿えにあると同じものばかりでみやげ物店的で魅力ないものもあるが。今回もこの二つの恵みに預かって来た。

最も大切なこと

パウロはコリントの信者に、「最も大切なこと」として、「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです」と語っている。

当然のように受け止めている。しかし、「最も大切なもの」として捉えているかと問われたら、返答にちょっと詰まる。キリスト者にとって何を大切にするかでその信仰のありようが変わってくるのではないだろうか。生き方も然りである。

2011年9月19日月曜日

敬老の日

今までは敬老の日は祝日の一つに過ぎなかった。リタイアしてからは「毎日が日曜日」のようであるからその思いも薄らいでいる。先日年金基金から小さな箱のようなものが入った封筒が届いた。季節はずれの年金からの手紙は、年金額の変更かと少し疑心暗鬼?になる。今回は物のようだからそれはないかと安心しながら、それでもなんだろうと思って開封したら、携帯の拡大鏡だった。

コタツのテーブルには以前に東京の杉並区の施設の管理をやっていた時、区が敬老の日に配った残りの物か、区のマークが入った拡大鏡があったのを使っていた。それをそのまま使っている。それとリュックの中に一つ、もう一つプラスチックのものを使っているがあまり使い勝手がよくないのでもう一つほしいなぁと思っていた。そんな時に頂いて喜んでいる。早速かばんに入れて持ち歩いている。

こういう類の贈り物は、あんまり役立つことはなかった。その辺にほっとかれて、最終的にはゴミ箱へといくというのパターンだったが今回は有り難いなぁと思った。ただ、寿でおめでとうございますには、嬉しいというより、俺もそんな年になったのか、年金支給する側としたら長生きも程ほどにとの思いも無きにしも非ずだろうな、なんて思っている。でも素直に感謝し、もう少し頑張りますからよろしくとの思いもある。

正直、親の寿命を縮めたと思っている親不孝者だったから、父が亡くなった70以上はとの思いはあった。既に一才になろうとしている。こんなに長生きするとは思っていなかったから素直に神に感謝している。早くとの思いはないでもないが、余生は主のためにとの思いはあっても、手には何もない。ただ頂くだけの手しか持っていない。それでいいのだろうかと思うが、否それしかないのである。主よこれからもよろしく。

2011年9月17日土曜日

キリストの危機

2ヶ月位前からキャンベルモルガンの「キリストの危機」という本をパソコンに入れている。目でゆっくり追いながらであるから遅々たるものである。以前にも書いたが、ブラインドタッチとゆっくり読むから頭に入るかなとの思いでやっている。しかし、最初にやった「組織神学」のときは全くといっていいほど頭に入らなかった。今回はそれほどでもない。イエス・キリストの受肉からバプテスマ、今は誘惑の最後の方である。時より頷きながらの作業ができるからよかったと思っている。次に変貌、十字架と続くが、別にもう一度、最初からノートをとりながら纏めてみようと思っている。元々学問とは縁のない人間だったから頭を使うのは一番苦手である。暑いところで汗を流すのが性に合っている。その汗を流すのも先日、隠居家の雑草を刈ってジ・エンド。

ようやく時間ができたかなと思えば、覚えることには「縁遠い」年代になってしまった。どれだけ益になるのかわからないから、まともなクリスチャンが見たら阿保かと思われることを懲りずにやっている。それでもできることに感謝している。信仰者としても自他共に認めるオシャカタイプだからできるのかもしれない。まともな信仰者はこんなことはやらないだろう。以前に、メッセージでヤコブ1:22-24から褒められない信仰者として聞かされて、反発を感じたことがあった。自分がその自覚があるから反発したのかもしれない。

学問から縁遠い者だからかもしれないが、新約聖書がギリシャ語で書かれていることは、ヘブルとギリシャでは思想的には大きな隔たりがあるのだろうから、それをどのように埋めているのだろうかと思うときがある。イエス・キリストの使信はしっかり伝わってきたのだろうか。大雑把であるがキリスト教の歴史を見ると何かその意を汲んでいなくて、ギリシャ的なものが入っているために間違った方向に行っているのではないだろうかと思うことがある。単純に読んでいると福音書とパウロ書簡に何か違うものがあるような気がする。また教会の姿と聖書の使信にもどこか違和感を感じるように思う。オシャカ的な人間が信仰の面でもそれが出ているのかなと思えば、それほどでもないが。しかし、真っ当な信仰者を自認している人を羨ましいとも思わない。

「キリストの危機」ではなく、「わが信仰の危機」である。だからキリストのキリストたる姿を書かれたこの本をやることは、わたしにとってはとてもいい示唆になるのだろうと思っている。でもどれだけものになることができるか?しかし、相変わらずの千鳥指ではあるがブラインドタッチは間違いなく上達している。これだけでもと思うのは悲しい。


2011年9月10日土曜日

死の町発言に思う

新大臣の失言は毎度のことであるから今回も無しなんてことはないと思っていたが早速出ている。失言なのか本音なのかわからないし、言葉で失言しなくとも原発の問題を見れば、その災厄はその比にもならない。それでいて、誰も責任を取らない。否取れないのであると思っている。

あの言葉を擁護するつもりはないが、家があっても人の住んでいない緑に包まれた風景は何なのだろうか。そこに生き物は生息していることはわかるが人が住めない町や村は「生きている」と言えるのだろうか。人が住めない所は死の町、村と言われてもおかしくないのではないだろうか。子々孫々まで甚大な被害を与える原発事故、それでも必要だ安全だと言えるのだろうか。ここに何が大切であるかの価値観が問われる。あくまでも自分を是とする生き方、組織を守る生き方、司法に問われないかもしれないが、繰り返される犯罪は、これからも続くだろう。資質が問われるのではなく価値観が問われているのであると思っている。

聖書雑感

以前に「日本人の常識は世界の非常識」という言葉は流行ったことがあった。「井の中の蛙大海を知らず」という言葉もある。若いときに観た「大いなる西部」の中に、広大な西部を自慢するかのように牧童頭のチャールトン・ヘストンか「西部は広いだろう」と言うと、グレゴリー・ペックはこともなげに「海はもっと広い」と言う会話をも思い出す。私の知っている世界は「井の中のかわず」だが、博学であっても神の前には似たり寄ったりだろうなと思うことがある。自分を是とするのではなく、それだけ神の領域は広いものだと言いたいのだ。しかし、「百聞は一見にしかず」と言う言葉もある経験も大切なことであろうことはよくわかる。

そういう意味では罪のない世界も罪のある世界も知っているアダムとエバはすごいなぁと思ったりすることがある。彼らとは罪の世界は共有できるが罪のない世界は共有できない。想像すらできない。想像できたとしても罪のある世界から想像するものは如何に歪んだものであるかがよくわかる。まさに「的をはずし」たものであろう。約束された「新しい天と新しい地」これはどんなものだろうか、かつて罪のなかった世界とはまた違ったものであろうとは思うが、そうしたら罪のなかったこの天地は知ることができないのだろうか、となると残念だ。

共観福音書にイエス・キリストがバプテスマの後に試みられる三つの出来事が記されている。マルコは三つの出来事を省略しているが「野の獣とともにおられた」ことを書かれている。人間より下等と思われている動物であっても人間より優れた能力を持っていることが言われているから、その辺のことを示唆しているのか、本当に危険の中に身を置かれたのかわからない。御使えたちが仕えたと書いてあるから危険はなかったろうと思うが?

パウロはロマ7章で自分の葛藤を書いている(これは全ての人の葛藤でもあるが)。私は「成すべき善を成す力はなく、成したくない悪を成してしまう」者である。イエス・キリストの荒野での試みを思うとこの言葉を思い出す。同じようにではなく、全く逆でないかなと思っている。私が罪を犯さないでいることは難しいことであるように、逆にイエス・キリストが罪を犯すことは非常に難しい。難しさは同じでも全く逆なのである。自分の視点から見れば大変な試練だと思う。しかしその大変と思うことは罪を犯さないという難しさであって、イエス・キリストにとっての難しさは罪を犯すことの難しさのような気がする。同じ視点、同じ目線も大切だが違った視点、目線から見ることも大切であることを教えてくれる。具体的なアクションまでもいくかはわからないが。




2011年9月2日金曜日

隠れキリシタン

小岸昭氏の著作の中にスペインやポルトガルでのユダヤ人がキリスト教に改宗させられ、それを拒んだ人たちは国外に追われた様子が書かれている。また、国内に残った改宗者たちも絶えず異端尋問の恐れの中にあった。言うなれば踏み絵をさせられた隠れキリシタンのようである。金曜日に身を清めたとか豚の肉を食べないとかユダヤ教に関連ある疑いをかけらたら弁解の余地がないようだ。たとえしたとしても告発者の言葉の方がそれが偽りでも絶対のようである。そしてその結果は火あぶりの刑と聞くとぞっとする。ここにカトリックの自らを絶対視し、裁かれるべき者が裁く側に回った者の姿を見る思いがする。実際やったのは国王であり女王であってもそれを許したことは同罪だと思う。ここに罪の罪たる所以があるような気がする。フランシスコ・ザビエルも直接加担していないようだけど知っていたであろうと記されていた。カトリックを非難するつもりはないが神の名の下でこのようなことが果たして許されるのだろうかと思った。

隠れキリシタンのことを思うと「青銅の基督」を思い出す。色々な思惑が交差していて考えさせられる。たかが青銅のマリア像?を踏むことにどれだけの罪があるのだろうか。殉教者が本当に殉教者であるのか フッと疑問に思うことがある。転びバテレンと言われる人たちに、信仰を捨てたのではなく継続したのではないかなと小岸氏はそのようなことを指摘されていた。

隠れキリシタンはキリスト教徒からはキリスト者として受け入れてもらえないほど変質したものになっている。キリスト者は、これをどのように捉えるのだろうか。私にはわからないが彼らの姿が変質した度合いが大きければ大きいほど彼らの苦しみが大きかったのではないだろうか。もしかしたら苦しみ続けるよりも殉教する方がある意味で楽であったかもしれない。わたしはその苦しみをイエスは担ってくれたのではないかと思ったりする。教会に集いえることは感謝であって、当然でも義務でもない。それは救いにとって大きいことでもない。十字架は小さくない。隠れキリシタンの苦しみを共有できなくともその苦しみの思いを共有したいものである。キリストの道は王道の道ではない。

雑感

メタボが気になり汗をかくために、暑いさなか空き家になっている隠居家の木の伐採作業をして今日終わった。一日に一時間から二時間くらいでゆっくりの作業である。運動不足だから息切れがしてゆっくり作業しかできない。昨日今日は少し凌ぎやすかった所為かそれ程でもなかった。あるいは少し慣れてきたのか体力も多少なりともついたのか。

伐採なんてちょっと大げさだが直径20センチ弱の杉の木である。しかし枝の多さと葉っぱの重いのには驚く、その前に、もみじの木をやっていたのでこれは葉っぱが軽くて量が少ないから楽だったのでその所為もあるのかもしれない。それに切り易かった。

3-40年も誰も住んでいないから庭の地面は枯れ草や枯れ木の枝でぶよぶよになっている。耕して畑にしたら野菜がよく取れるのではと畑をやりたいという家内に言ったら、もう腰が痛くて(毎日整骨院に通っている)もうできないという。そんな状態の庭だからきれいにとはいかないまでもそれなりに片付いたかなと思っている。

清掃工場まで何回か往復して、顔なじみになってしまった。清掃工場の道を挟んでやまびこ公園があり、そこの広場からは眼下に町並み見え、その先には諏訪湖が対岸までよく見える。そしてその隣はアイスアリーナがある。ここは夏でもやっているので大学の合宿に使われている。それで今が一番忙しいらしい。今日は早めに終わったので、ここの奥のほうに行ったことがあまりないので行ってみた。塩尻市の塩尻農業公園チロルの森、辰野町のしだれ栗森林公園やゴルフ場がある。山の中というかそこを越えると峠を越えるようなものだ。

駐車場があるのでとめて下を眺めたら高速道路がはるか下に見える。ジャンクションもよく見える。やまびこ公園だと前方だがここは真下に見える。標高千メートルだった。道なりに走っていったらしだれ栗公園を脇にさらに下っていくが民家が見えない。ようやく見え、線路も道なりに沿ってあるので岡谷方面だと思って少し走っていたら道路の看板に伊那22キロ、飯田71キロと出ていたので道を間違えたようだった。後で地図を見たら塩尻から辰野、伊那方面に行く、三州街道だった。それでも少し行毛羽下諏訪辰野線にぶつかるのでそれでもよかった。それでまた戻り、辰野の小野というところまで行って、岡谷諏訪方面の看板があって、これでいいんかなと思うほど狭い道を通り、結構走ったら元の道に戻って帰って来た。信州は道に迷ったら東京の比ではない。山と山の間を走っているのだからと高をくくっているととんでもないところに行く、一山どころではない。

標高千メートルでも舗装路があり、国道といっても車が交差できそうもない狭い道だったり、茅野から浜松に通じる道路は国道だか山の中を走っているので車が交差できない狭い部分があり、また途中で途切れている。林道を迂回しないと先に行けない。信州はすごいなぁといい意味でもそうでない意味でも感心している。わが実家は海から直線で13キロばかり、海抜16メートルである。背中にあるような山でも170メートルに満たない。津波がきたら完全に流される。今度の日曜日に話す準備を脇にしてこんなことを書いている。

自然の豊かさを満喫しながらその厳しさをも経験させられている。神様の偉大さを身近に覚えられる。信州はいい。





2011年8月30日火曜日

50周年

昨日は以前に集っていた教会のkさんがわざわざ東京から訪ねてくれた。今年の3月かに責任者を降りて、軽井沢のシニアのスタッフをやったり、教会の歴史を纏めている。その原稿をメールで送ってきて補足すべきことか間違っていることがあったら教えてとの事だった。家内と読んでも特別補足することもなくまた訂正すべきこともなかったからその旨メールで連絡する。むしろこんなことあんなことがあったのかと知らないこともあって、そうだったんだと家内と話をしていた。メールで淡々と書かれているので重要なところはもっと肉付けしたらと、一般論的に書いた所為か、会えば何か思い出すだろうということで訪ねてくださった。

しかし、正直言って、どこでもアウトサイダー的だからそんなものはなくて、表にできない裏的なものは結構あるのだがそれは匂いだけくらいにして、これはあまり役に立たない。むしろ雑談的なことが多く、食事をともにし、4時ごろ帰られた。翌日は浦和の先輩のクリスチャンであるAさんと来月は築西市のKさんに会えに行くというご苦労さんです。彼らの方が遥かに色々なことを知っているからここまで訪ねてくることもないだろうと思った。しかし教会で古くから共に居たファミリーは彼らを含んでふた家族しか居なくなったから懐かしさとゆっくり交わることもなかったからいい機会かなと思って了承したのである。

丁度50周年になるので記念誌を作ろうとしているのでそれに間に合わせようとしているらしい。最初はその目的ではなかったがそうなってしまった。資料として残すものと記念誌に載せるものと二つ作るそうだ。宣教師が米軍のチャペルを譲り受けて、私が集い始めた頃も結構なぼろだった。建て替える前は、寝ていると変な気分になるほど床が傾斜していたそうだ。それに雨漏りもひどく、それで10年前に建て替えたのである。

今は礼拝にはいっぱいで下手すると座る席がない場合もあるとか、それに集う人数にばらつきがあるそうと聞いて少し気になった。これからの課題を聞いたら株分けの問題だと言われ頷く、株分けの機運が盛り上がり、株分けされたら本物かなと思っている。地方は因習、都会はマモンとの戦いがあるがそういう戦いはなさそうだ。10人にも満たない小さな集まりであるが大勢集っている教会がそれほどうらやましいと思うのはなぜだろう。出て行く教会ではないからだろうか。株分けを期待し、祈っている。

我が集会は今一元気が、落語の「長屋の花見」を思い出す。長屋の住人が持ち寄りで花見に出かけた。それで酒を酌み交わしたら水だった。俺一人くらいは水でもがみんながそうだと水になる。誰かではなく自分がと思ってもこればっかりは頑張っても何とかなるものでもない。いつも問われる霊の世界である。

2011年8月27日土曜日

曖昧を旨として

よくアクセスするブログに「規格外クリスチャン・・・」とサブタイトルをつけているブログがある。なんとなくわかる反面、規格外ってあるのかな?という疑問がある。まぁクリスチャンという名前は広義で見るか狭義で見るかで変わるであろう。しかし、規格外ということはその対極にある規格外でないものがあることを教えている。

「隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン」(小岸 昭著)の中に元長崎市長の本島等氏のことが書かれている。「天皇の戦争責任はあると思います」発言で物議をかもし、そのことで銃で撃たれたが幸い命を落とすことはなかった。私の知識もこのくらいのものだったが、この方は隠れキリシタンの家柄で生まれ、おじいさんは明治政府のキリシタン弾圧の拷問で折られた脚を生涯引きずっていたそうだ。日本人は広島、長崎の原爆投下に対して被害者意識はあるが大戦での加害者意識が欠落していることを指摘されている。自虐史観と批判される人も居るだろうがこれも事実である。

自分も含めて人は被害者意識はあっても加害者意識は希薄である。あるいは被害者意識のみの人も少なくない。自虐的でもいけないが被害者意識の強い人よりも、物事がより客観的に見れるのではないだろうか。そのような立場で見ているからそうなるともいえる。どちらにしても何かを守ろうとすると客観的な見方はできなくなる。それはどこでも見られる。キリスト教会とて同じことが言える。

客観的な見方は他者の立場に立って見る事ができるのではないだろうか。先に何かを是とするとき、それが欠落する。本島氏を襲った人もそうだろう。本島氏はそのために命の危険に晒された。ある意味で命がけのことなのだろうと思う。傍観者的生き方の人間としては・・・。

傍観者的生き方とすれば、天皇の戦争責任問題もそうかもしれない。菊のタブーで沈黙していても、この大戦は天皇が意図したことでなかったとは故、天皇の名のもとで 諸々のことが行われてきた。そのことを声を大にしていう人は少ない。言えばいいかというものでもないし、かといってみんなわかっていることを沈黙することもなんだと思うが国民から尊敬されているからなお難しい。色々というほど知っているわけではないが見ていると責任の所在が曖昧になっているのを見る。だから取りようがないともいえる。この曖昧とした生き方は問題が出ると誰も責任が取れないようになっている。しかし権力を持つ者は上から下までその笠を行使する。そして責任を取る段になると・・・。そういう構図だ。曖昧を旨としてきた日本は、今問われているのかもしれない。政治の先送りもそんなところにあるのかな。

2011年8月23日火曜日

再インストール失敗

ネットやメールとワードやエクセルしか使わないのだが画面の案内に従って無定見にインストールしている所為か段々おかしくなり、ワードでローマ字変換はできるが周りの記号の位置が違ってきたり、立ち上がりが遅くなったり、なんとなくやりづらいので再インストールした。再インストールしたがネットがつながらず息子がきたときに見てもらったらドライバーが入っていないということで入れてもらい、マカフィーから無料のセキュリテイに、丁度更新で、すでに手続きされていたが返金してくれるとのことで五千円助かった。まっさらになったが正常に戻り助かる。

冬といっても6月初めまでコタツを使っていて、PCを机とコタツの間を往復して、外付けのHDDも一緒に移動していた。その所為かHDDが壊れ、再インストールするので外付けのHDDを買ってきてインストールしておいた。それで再インストールしたがネットが繋がらず、HDDに入れたものもやっているうちに消えてしまった。確認したのだがもしかしたら入っていなかったのかもしれない。知識もないのにといつも思う。

息子が直してくれるまで一週間ばかりあって、その間PCは使えなかった。お陰で静かなのんびりした一週間だった。今までは色々なものを入れていたがこれからは絞って身軽にしていこうと思っている。幾つかのターニングポイントになるような予感のする一週間でもあった。と書きながら文章を書くのは結構な時間を食うし、直ってからネットサーフをやっている。こちらに来て3年、信仰的な面でも考えさせられている。

2011年8月21日日曜日

半世紀前からの話

半世紀も前の話。
最初に就職したのが和文タイプライターを製造している会社で組み立てをやっていた。ドリルで穴を開け、タップでねじを切り、やすりで削って組み立てて、出来上がるまで二日から三日かかった。

和文タイプライターは、当時は花形で公文書作成には欠かすことができないもので、ワープロが普及しても公文書作成には採用されず大分経ってからだったように記憶している。当時の花形でも今博物館に行ってもない代物ではないだろうか、念のためにインターネットで「菅沼タイプライター」と検索したら、創業者の名前もあり、これは「歴史が眠る多磨霊園」というブログを書いている方の中にあり、そこには創業者の経歴が乗っていて、私が辞めて間もなく亡くなっている。辞めてまもなく労働争議が起こり、会社は倒産した。その後どのようにして始めたかわからないが稲城の方で会社を興している。

検索の中で、日本タイプライター製であるが戸籍用で今も現役で使われているらしい。電子タイプとかになって当時のものと大分違うがそれでも大分古いものらしい。個人的に和文タイプライターの収集を趣味にしている方がご自分が収集したタイプライターをひっくり返して活字がばらばらになり、それを入れるのに3時間もかかった旨のブログを書いていて、その中に写真が載っていたのが近い形だった。超過去のものかなと思っていたがそうでもなく、それなりに何かの形で留めているのに驚く。

田舎に居たときには、屋根にアンテナを張り、スパイダーコイルを手作りで巻いて鉱石ラジオを作り新潟のNHK放送をかすかな声をイヤホンで聞いて喜んでいたいたり、真空管式のラジオもラジオ雑誌の中に図面入りの本を買ってきて、部品を集めて組み立てていた。あの時には電気屋さんに部品を置いていたなぁ。上京してからはもっぱら秋葉原通いで、エスカレートしてアンプなどを組み立てるようになった。あの当時はパイオニヤはスピーカーメーカーに過ぎなかった。その秋葉原に20年近く働くようになって、その不思議さを覚える。休みを取って、一人寮で窓が響くほどの音量でレコードを聞いていたら、事務所が工場を挟んで先にあるのに、部長がわざわざ来て、隣近所に迷惑だからと言われたこともあった。ある時オーディオメーカーの人に「音楽が好きと言っても低音が出るとか出ないとか、高音ののびがとか言っているだけ」と言われたことが印象に残っている。確か同じ「音楽」でも質も内容も違う。

あの当時テレビ放送が始まっていて、丁度社長が紫綬褒章を受けたので、その記念に食堂にテレビを備え付けてくれた。その年の慰安旅行のバスの中では最初から最後までコマーシャルソングばかりを歌われていたのが印象に残っている。テレビを見るだけでなく、そのテレビに興味を持って、あの当時テレビ学校が次々と生まれてきたので、そのひとつに通うようになって、そしてテレビの修理がしたくて会社を辞めた。会社を前に辞めた方の下宿に居候しての転進である。

当時、テレビは高価で一般には手が出なかった。メーカーが日本で販売する物とアメリカに輸出する物の価格の差額の大きさが問題になった頃でもある。そんな中で秋葉原のある会社が自前でテレビを製造して販売していた。テレビキットとしても売っているのを買ってきて、組み立てて月賦で販売している小さな会社で働くようになり、そこで組み立てと修理をするようになり、趣味が仕事になったようで楽しかった。その会社も輸出用のアンプを造るようになり、そちらにも興味あったが、お客さんのアフターがあるので、それを引き継いでくれた方のところで働くようになる。そこもある店の修理を受けていて、そこはメーカー品だから修理が簡単だった。組み立て品は回路がはしょっているからとんでもないところに故障の箇所があった。

修理を受けていただけだったが事情があって社員となって働くようになる。その店は、ナショナルバンクをお客としていたので、仕事がしやすかった。店の主人が亡くなって、店に卸していた会社が秋葉原に販売店を持っていたので私一人引継ぎで移ることになり、そこで20年近く過ごすことになる。時々テレビのニュースの中で建物の外形が映し出されるとあの中を歩き回っていたなぁと懐かしく思い出す。職員でも行けないところを仕事の特権で出入りしていたのではないだろうか。ある時は、地下で銀行に貸し出す何々銀行何十億というパレットに積まれた現物の間を出入りしたときがあった。テレビのセッテングでこれがバンカーの最終目的かと「総裁」の椅子に座り心地はよくなかったが座った。

今天下りが問題になっているがあそこもそうで、ある短資会社ではトップが天下りの人ばかりだから生え抜きはトップになれないと言われていた。お陰で、トップは勿論、定年で主要なポストについている方がお客さんで仕事ができたから感謝している。あの当時は短資会社は三つしかなかったが今はひとつになっているのではないだろうか。なんとかフォレックスとテレビの画面で見るとここも懐かしい。何を書きたかったのだろう。









2011年8月5日金曜日

霧ヶ峰高原

この二日にシニアの集まりで、「霧ヶ峰高原ボランティア活動・焼肉会とマレットゴルフ行楽会」と少し長ったらしいタイトルであるがその集まりに参加してきた。マレットはやらないで、その後の参加になった。マレット・ゴルフ場近辺の清掃だったが殆どゴミはなく、その隣にあるキャンプ場での昼食を兼ねた焼肉会をにぎやかに行なう。毎回参加するわけでもなく、ただ参加のみであり、余り会に貢献していない。それでも焼き方をやりながら、和気藹々と焼き、食べ、片付けて、それなりに楽しかった。

皆さん諏訪地区は地元で庭のようなものだが、私は外様であるから久しぶりということもあって観光気分である。皆さん左折して降りていくのを私は右折して強清水を素通りして、車山肩と行く。標高1600前後の高原の頂上付近を走るのは気持ちがいい。車山肩で車を止めて、少し散策する。ニッコウキスゲが真っ盛り、実にきれいだ。デジカメだとうまく撮れない。一眼が欲しくなる。シーズンオフだと殆ど車は止まっていないがほぼ満杯状態。勿論県外ナンバーばかり、あっても長野ナンバーが一台。早々にそこを後にして、強清水で右折して八島湿原に向かう、何度も通った道だが、久し振りに走った所為か結構ある。そこで駐車場に車を止めて広場から湿原を眺めただけ、そこから下諏訪のほうに降りる。狭い道を下までは結構あった。それと狭い、対向車線があったらと思う所がいくつもある。幸い一台のみで少し広いところで待機できた。信州はこんな道が結構あるようだ。塩尻から行く高ボッチもしかりであるし、前に長谷村の先に行った時もそうだった。下栗の里も然りだったなぁ。こちらに車では信州は観光県、道路案内は良いというイメージがあったが今はその逆、案内が途中で消えることを何度も経験した。温泉もあり、自然は豊かだが、諏訪という地域の所為もあるかもしれないが人が・・・。

霧ヶ峰というだけあって、天気が崩れかかってきたので、走っていると霧で少し先は見えない。ヤバイと思って走っているとその前方付近は大丈夫良く見えた。下から見たら雲に覆われているように見えるのだろうなと思う。今度くる時は車山に登れるようにしたい。高ボッチの待伏山、 入笠山にと思っている。腰を痛めて、一度は断念したがハイキング的な山ならまだいけそうになったので、少し頑張ってみたい。前向きに考えると何となく元気が湧いてくる。「青春」という詩を思い出した。
中川語録(自分で勝手に命名)によれば、信仰に大切なのは、自発性、奉仕に必要な知識と能力、そして幻だそうだ。みんな欠けているなぁ。それでもへこまず前向きで・・・。

2011年7月28日木曜日

         二つの詩

ちょうど二十年前、聖書も読み、キリスト教関係の本も読んでいて知識も少し増えたかな等と思っていた。しかし、ある時「俺、イエス様のこと何にも知らない」という思いが私の心を捉え、今もその思いから一歩も出ていないのである。そんな時に読んだ一冊の本、「神の素晴らしい計画」(原題は「損失を通して益を得る」)、この本を読むまで神の祝福とは「得る」ことだと理解していた。しかし、神は失うことを通して祝福されることを教えられ、こういう祝福があるのかと驚くとともに何か共感するものがあって喜んでいた。それから間もなく失業したのであるが、これは神からものと受け取ることが出来たが、再就職も簡単に出来ず、幾つかのものも失い、その余韻が今も続いているのである。教えられるとか祝福されるということは、人間的には痛みを伴うものでもある。そこに載っていた二つの詩、主を知ること、祝福されるということは、こういう経験が伴うのかなと最近思わされている。


「……するために」

私は目的を達成するために、神に力を求めました。

しかし私は、謙遜を学ぶために弱い者とされました。

私はさらに偉大なことをするために、健康を求めました。

しかし私は、さらに良いことをするために病弱を与えられました。

私は幸福になるために、富を求めました。

しかし私は、賢くなるために貧しさを与えられました。

わたしは人々の賞賛を得るために、権力を求めました。

しかし私は、神の必要を覚えるために弱さを与えられました。

私は人生を楽しむために、すべてのものを求めました。

しかし私は、すべてのものを楽しむために、いのちを与えられました。

私は、自分が求めたものを何も得ませんでした。

しかし、私は望んでいたもの、すべてを得たのです。

わたしの祈りは、知らず知らずのうちに答えられました。

私はすべての人のうちで、最も豊かに祝福されたのです。

作者不明

「宝」

一つまた一つと、神は私から取り去られた。

私がこの上もなく価値ありと思っているすべてのものを、

私の手がからになってしまうまで。

ピカピカ光るくだらないものは

皆なくなってしまった。

私はそれを悲しみながら歩いていた。

貧乏というぼろをまとって。

そして、ついに私を招く神の御声を聞いた。

「あなたのからの手を、私にあげなさい」と。

私は両手を天に向かって差し伸ばした。

神はご自身の素晴らしい富で私を満たしてくださった。

両手で持ちきれなくなるまで。

私はついに自分の愚かな鈍い頭で悟った。

神はすでに満たされている手に、

ご自分の富を注ぐことはおできにならないことを。

マーサ・スネル・ニコルソン

「神のすばらしいご計画」より

2011年7月25日月曜日

NHKスペシャル 飯舘村 ~人間と放射能の記録~

福島県飯舘村は人口約6000人。山あいの土地で農業や畜産業を営みながら人々は静に生活していた。ところが、東京電力福島第一原発の事故で暮らしは一変した。飯舘村は原発から30㎞以上離れていたため、当初は避難区域などに指定されず、住民は村に残った。しかし実際には、村の土壌は高濃度の放射能に汚染されており、人々は被曝することになった。さらに4月末には国によって計画的避難区域に指定された。村人たちは仕事と暮らしをすべて手放すという悲壮な決断を迫られたのだ。

 農作物の出荷停止。汚染状況の判明。村民に広がる被曝の恐れ。「自然と共存した村作り」を目指してきた菅野典雄村長も、村民の命や健康を守るため決意が揺らぐ。村を出るか、それとも残るか、村民は村の消滅のという極限の状況下で、何を考え、どう行動するのか。番組では震災発生から4か月間、飯舘村を定点観測し、「見えない敵」放射能との闘いを強いられた人々の姿を記録した。(番組の紹介より)

見終わって、「悪い奴ほどよく眠る」の映画のタイトルを思い出した。そして「人の命は鴻毛より軽い」という言葉が生きているのに驚くというより昔から変わっていないのに驚く。国や官僚、企業の利益優先がここにも生きているのかと思わされる。村民の苦悩と葛藤が伝わってくるが東電や国の姿が見えてこない。人は行くところまで行かないと立ち返ることが出来ないことを教えてくれる。誰がどこで真の謝罪をするのだろうか。もし、しなかったら、また同じことを繰り返すだろう。

2011年7月24日日曜日

NHK ヒューマンドキュメント

NHK が20、21、22日の夜の10時に三夜連続で「ヒューマンドキュメント」特集を放映された。

{ 「重度の脳性まひを抱えながら、当たり前の幸せを求めて“行政の壁”を壊してきた小山内美智子さん。今から26年前、小山内さんの陳情を受け止めた相手が厚生省から北海道庁に出向したばかりの浅野史郎さん(元宮城県知事)だった。時に熱く議論し、信頼関係を築いた2人が今、命に関わる病と闘っている。番組では互いの身を案じながら必死に生きる2人の交流をたどり、痛みを抱える人がよく生きられる社会とは何かを見つめていく。」

2011年に最高裁で、連続リンチ殺人事件を起こした3人の元少年の死刑が確定した。事件から17年。犠牲者のうちの1人、江崎正史さん(享年19歳)の両親、恭平さん、テルミさんはその後の人生のすべてを「死刑」に注ぎ込んできた。しかし、それは、無残に殺された息子への思いと、死をもって加害者に罪を償わせる死刑との狭間で揺れ続けた歳月だった。番組では、17年間に及ぶ、江崎さん夫婦の死刑を巡る葛藤の日々を描く。

「これ以上延命治療はしない」と選択し、2010年に亡くなった田嶋華子さん。幼い頃から重い病気に苦しみながらも、最先端の医療に支えられて命をつないできた。「いのちは長さじゃないよ。どう生きるかだよ」、そう語る華子さんを取材した「クローズアップ現代」は、大きな反響を呼んだ。身近な人々との700通にのぼるメール「いのちの対話」をひも解き、華子さんが「いのち」とどう向き合ったのか、その心の足跡をたどる。} 以上NHK の番組紹介より。

20日放映の小山内さんを見て強いなと思った。以前に重度の障害を持っている知人をたずねた時、ちょうどヘルパーさんが来ていて、彼があれこれとヘルパーさんに注文をつけていた。内心お世話になっているのにとその時は思った。後で考えてみて、これは多寡はさておいて対価としての仕事をしているのだから当然か、譬えボランティアであってもやってあげているとかやってもらっているという今までの発想は、今日成り立たない。自分も過去の発想を引きずっていることに気づかされて反省したことがあった。彼も強さを持っていて、自分の置かれている状況に卑屈になることはなかった。お互いに欠けているものを持っているので話が合ったのかもしれないと思う。自分はつい周りを見てしまったり、これは無理だろうなとあきらめてしまうが小山内さんは主張すべきものは主張し、そして行動している。浅野さんの最近テレビで見かけないなと思ったら白血病で治療中だったがようやく大学の講壇に立てられた。これからの活躍を期待したい。

21日は、息子を殺された夫婦の苦悩を垣間見せられた。主犯格の加害者が謝罪の手紙をくれるようになり、その内容も変化していることにご主人は戸惑っているようだった。ご夫婦にとって、死刑は当然としていても心は揺れ動いている様を見る。死も色々あるが最もつらい死ではないだろうか。死について深く考えさせられた死だった。加害者はキリスト教の信仰を持ったようで、それで変わったのだろうか、それが悪い意味でなくご夫婦に戸惑いを与えたのかもしれない。判決は死刑だったからご夫婦は当然として受け止めたであろうが、これからもご夫婦の葛藤は続くのだろう。答えは見い出せないが考えさせられた。

最後の田嶋華子さんは心臓移植をドイツで受けて、10年持てばといわれた。痰をとるためだろうかのどに穴をあけているから会話は筆記である。透析が必要となったのだが、あいてそれを受けることをしないで18歳でなくなった。彼女の達観した姿と、その生き方に意を添うようにしているご両親を見ていて清々しい。しかしその分ご両親の苦悩は大きいだろうなと思った。

死、生きる。あるいは生きることの重みを感じさせてくれた番組だった。

2011年7月22日金曜日

深く考えないで

前に隠居屋のもみじの木を切ったことを書いた。先日葬式があって、そのとき義姉が隣の畑の持ち主から木を切ってと言われたらしい。根が張り、葉が落ちるからだろう。それで昨日一本を切りに行った。畑添えに三本直径15センチと30センチの杉の木と12,3センチのもみじがある。大きい杉は手に負いないので、小さいほうを切っていった。切込みを庭のほうにして切っていったら、そのうちメリメリといって屋根のほうに倒れていった。切込みを入れたのにと思ったが考えたら庭側は枯れて葉が少ない。重心は重いほうに倒れるのが当たり前なのに単純に切り込み側にと思っていた。それと倒れる側に紐で引っ張るようにしたがその紐が紅白のビニール紐、持つ訳がない。

幸い屋根に落ちたから良かったが、畑に落ちたら大変だった。それでも小枝といっても直径5,6センチはある。その一本が切ったとき落ちて3,4本の豆の木をつぶしてしまった。もみじの時は葉が軽かったが杉は重い。これも誤算というより知識がないのであるからしょうがない。たかが直径15センチの木であるがびくともしない。運動不足と年の所為で心臓はゆとりがない。思案しながらお茶を一口のみ、とりあえず軽くするため、手の届く枝を切ることにした。5、6本切っただろうか大分先のほうがすっきりした。それでもゆすっても微動するのみ、無意味と思いながらもビニール紐を掛けて帰ってきた。帰り際、畑の持ち主に謝りに行ったら、「イーイー」と言ってくれてなすときゅうりをくれて、今日、ロープを買ってきて、倒れないように張ってきた。日曜日に梯子を借りて切ってくる。それで引っ張れば庭先に落ちてくると思う。もみじは細いので出来そうだから後日、大きい木のはシルバーに頼もうとしたら、年寄りだから出来るかどうかわからないから見積もりをと言われ頼むつもりである。

いつも思うことだか物事を深く考えない。そしてことの大きさにパニックになる。いい加減なのか深く考えられないのか両方か定かではないが、何とかなる主義で今まで来ていたのがこういうところに出てしまう。そしていつも頭に浮かぶのはサムソンの失敗である。自分から力が抜けているのにそれを知らないで、また人暴れと思って出掛けるが捕まり、目をえぐられてしまう。思慮のない姿がダブル。そんな者が逆に、ギリギリのところで守られていることである。もしかしたら大変のことに、畑に落ちるのみならず木の落ち方によっては体がどうなったか分からない。それがなんでもない、守られているなぁといつも思う。こんなことがあるとつい物事を甘く考えてしまう。失敗から学ぶのはわたしだけではないだろう。

2011年7月16日土曜日

信仰・希望・愛

知人に子供さんの名前を「信」、「望」、「愛」とつけている方がいる。別に計算したわけでもないだろうが男、男、女だからうまくつけられたと感心している。そして親の信仰の姿勢が窺える。わたしは?三人とも社会人で結婚されて、集会にも集い、しっかりやっている。わが息子たちと同じ年代で、うちの上の子とは互いに良く知っているのだろうと思うが「この違いは何だ!親だ」といつも思っている余り反省はないが。

先日、その真ん中の子が、毎月来てくださるM 伝道者ファミリーとご夫婦で来てくださった。小金井に住んでいて、ダイエットのために自転車通勤とか、勤務地が三鷹だから30分くらいと言っていた。どちらかというと痩せているのに感心するというか、証の中でも言っていたが「自分は理系」での言葉の中にそれなりの拘りがあるのを感じた。東京では挨拶くらいでほとんど会話らしきものがなかったし、奥さんはさらにである。こちらではゆっくり話が出来、証しもしてくれるからさらに持っているものが分かるからうれしい。初めての話のようでお世辞にもうまいとは言えないが言わんとしていることが伝わってくる。理系と言われるように、他の人とまた違った視点を持っているのかなと思わされた。
訓練し、磨けば光る器である。大勢のいる所でそんなチャンスはあるのかなぁ。小さい集会で磨いて欲しい。今はメーカーが新しく出す車の審査をしているとか、公務員だから転勤は付きもの、どうなるか。これからが楽しみでもある。

書き出しでこんなことを書いてしまった。本当は「信仰・希望・愛」を書こうと思ったのである。聖書の中にも出てくるし、クリスチャンの中ではよく使われるからキリスト教用語のように思われているのかなぁと思っている。しかし考えてみればこの言葉は普遍的な言葉である。

生きていくには、意識するしないは別にして、信仰がなければならないし、希望がなければならない。そして愛するものがないと、この一つでも欠けたら生きていけない。みんな何らかの形で持っているから生きている。無かったら絶望するしかない。

聖書のことばは、普段それ程意識していないが考えてみればすごいなぁと思う時がある。この言葉なんかそのひとつである。「いつまでも必要なもの、そしてその中で最も大いなるものは何んであるか」を知ることができる。愛というのもこれがないと光のない闇の世界で生きているのようなものだから全く希望がない。生きるとは、何かを信じ、何かに望みを託し、何かを愛している。その何かが問題なのであるが。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(john:14: 1)。この言葉は分かっていても、心騒がし、信仰はどこに、希望はどこに、愛は手持ちが無いからイエス様から頂かないといけないのに遠慮深いから今は手元にないのが現実である。どういう形にしろ、信仰・希望・愛がなければ生きていけないが、「しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち」(luke:12:28)のひとりである。真の信仰・希望・愛はとても難しいなぁと思っている。

2011年7月15日金曜日

菅首相

歯の治療に行ったとき、待合室のテーブルに置いてあった週刊誌を手にとってパラパラとめくっていたら菅首相はなぜやめないのかという活字が目が留まった。基本的に週刊誌は読まないがこんな時に時間つぶしに読む、薄っぺらい人間が薄っぺらい雑誌を読んでどうするのとの思いがあるからだ。といいながら50代後半まで、時々ビックコミックを読んでいたし、漫画タイム?作者も題名も忘れたがとぼけた味わいのある漫画を立ち読みをしていた。高尚ではなくて超低俗なのである。

どこの週刊誌かも忘れ、内容も覚束ないが、ただ面白いなぁと思ったのは、鳩山さんも麻生さんも福田さんも安部さんもだったかな?首相を辞めても経済的に困らないが菅さんは即困るようなことが書いてあった。立派な家に住んでいても特別金に困るわけでもないのに、お母さんから毎月庶民が手にすることもないような大金を頂いている人もいた。それもサラリーマンの小遣い感覚以下の感覚だからすごい。そのような人と比較するつもりはないが個人的に議員活動するにはそれ程でもないだろうがグループを持つとなればそれなりにお金を必要とするだろう。それに権力を握ったものがそれを手放すということは難しいようなことが書いてあった。そうだろうなと思う。

一国の首相が何の説明もなく、コロコロ変わる一貫性のなさは、驚くばかりである。自分のそんなところがあるから批判できないけれど感心している。浜岡を停止にするからには脱原発かと思っていたら、これからも原発を推進すると言う。でも最近は脱原発を発言して、身内からも顰蹙をかっている。リーダーがビジョンを語らずして、どうするのと思う。初心者のドライバーは目の前を見るのが精一杯である。少し慣れてくれば目の前を見、遠くを見て車の流れを確認するものである。ドライバーでもこれくらいは必要である。この国の行方は?

菅さんがどういう事情で辞めないのか辞めれないのか分からない。しかし一介のスポークスマンだったら、自分の意見もポリシーもなくてもいいから何となく分かる。これは酷かなぁ?最近はそんなことを考えながらそれをキーワードに発言や行動を当てはめている。別に何処かに司令塔があるのだろうかと考えてしまう。あの人が何を発言し、どのように行動しても日本という国は沈まない。自分が生まれてこの方大きな変化の中にありながら日本は沈まなかった。そこには優れたリーダーがいたからである。そして今日、行き詰った日本がある。脱原発でもそうでなくても利権が絡んでくるのだろう。別に意図しなくてもそうなってしまう。それに目が行く人はいくらでもいる。巨大プロジェクトでなく、利権が絡むことのない裾野の広い、エネルギーの開発に取り組んで欲しいものだ。菅さんがこんなになってしまった。いつものパターンか。

2011年7月9日土曜日

パターン化した信仰

いつもアクセスしているブログ(ブラザレンについての諸断章)がある。ブラザレンに関することを書かれて、難しい時もあるがそんな時は斜め読みになるが色々示唆に富んだことを書かれていてとても参考になる。

最近は「集会の問題点を指摘した北米の集会の姉妹からその集会で学んだ人に対する手紙」を翻訳して載せている。わたしはブラサレンでも割とオープンなところで育った(いまだに育ってない)が指摘されていることが良く分かる。わたしも同じような疑問を持ちながら過してきたから共感するとともに自分の中にある信仰がまさに彼女が指摘している信仰であることに気づかされた。パターン化した信仰はハウツー的で余り考えないで済むから楽でいい。思考が硬直化しているのが良く分かる。本来の「いのち」がないのかなと思ってしまう。個人も集会も教会も「いのち」を中心に動いているかどうかにかかっているのかな。大勢の中にいると分からないが数人の集まりの中にいるとそれがよくわかる。読みながら過去形であり、また現在進行形の出来事でもあるので考えさせられる。欲を言えば、「いのち」も汲みとめるといいのだが?それはお前の問題と言われそー。

2011年7月1日金曜日

棄民

放射能汚染で避難する地域が増えたニュースを見ていて、この人たちは本当に帰れるのだろうかと思った。帰れても土壌は汚染されているから農業は出来ないだろう。国や一企業の過ちで、ふるさとを捨てなければならない人たちの心情を考え、政府や東電は時間がたてば何事もなかったように振舞うだろうと思うと怒りがこみ上げてくる。そんなことを思っていて、ふっと思ったことは、明治の時代に起きた足尾鉱毒事件である。似ているなと思った。

足尾銅山の鉱毒で渡良瀬川流域は、川は勿論、肥沃な土地も洪水のたびごとに鉱毒で汚染されていく、ついに谷中村は廃村になって、渡良瀬遊水地となる。他にも二つばかりの村が廃村になった。富国強兵と突き進んでいく政府とそれに乗っかっていく企業、国や企業優先のやり方は、そこから何の益も受けることもなく、逆に公害を受けて、いのちの危険に、死活の問題にさらされる。

戦後はそのようなことはなくなったのかなと思ったらしっかり生きていた。サラリーマンと違って、土に生きている人は土地があればどこでもいいというものでもないだろう。それでも土地があればと思うがどこにあるのだろうか。谷中村は北海道に土地を与えられたそうだが定着する人は少なかったようである。

人は政治が混乱していると強いリーダーシップを求めてくるだろう。これは滅びに向かう序章になる可能性が大だと思うが穿った見方であろうか。見えないところで確かな動きがあるような気もする。そんなところにも目を向けて行きたいものだ。

2011年6月28日火曜日

汗を流して

家内の実家の斜前に隠居屋があって、今は空き家になっている。もう空き家になって2、30年からなるそうだ。汲み取り式で下水は垂れ流し、下水を整備しないと使えない。それに建物が古いから今は倉庫代わりに使っている。といってもほとんど物は置いてないが。先日、雑草が大分伸びていたので、4人で草刈をした。こまめにやればいいのだが、春と秋くらいしかやらない。

そこに、柿やもみじの木などの大きな木が6本ばかりある。昨年、干し柿にして、3,40個作ってそれなりに美味しかった。しかしもみじはさらに大きく隣の家にまで枝を伸ばして、落ち葉は大変なようだ。玄関前などは去年の落ち葉で、高級絨毯のようにフワワするほど積もっている。幸いとなりも空き家になっているのと大半の落ち葉は、屋根を伝わって敷地内に落ちるみたいなので文句は来ない。持って行った鋸は折りたたみ式だから、せいぜい直径10センチ未満まで、切りたいのは直径20センチからある。切りかけたが無理と分かって、その場はやめて帰ってきた。

昨日、大きい鋸を買ってきて、早速切りに行った。上下に少し切り込みを入れてあったのに加えて、切り込んでいくが、最初良かったが段々切っても進まないようになってくる。これは根気の問題かもしれないと辛抱して鋸を動かすとその内、下側がかたくなって鋸が動きにくくなってきた。見ると上の部分が少し広がってきている。鋸を上側に持ってきて切るとどんどん進む、段々切り口が広がり、そのうちめりめりと言いながら地面に落ちてくれた。上から見るとそれ程でもないが落ちてみると枝ぶりは広い。切り株に足を乗っけて、へっぴり腰で木にへばりつき、その先の枝を3本ばかり切る。

下に降りて、枝を一本一本切っていく、どれからどのようにと考えていくのが楽しい。ここ最近、考えるという思考を停止しているからかもしれない。ここあそこと切って、最後に丸太のようになった木をそのまま脇に置こうとしたが動かない。3:2の割合で切ることにした。これも大変、上から下から斜めからと切って、切り終える。しかしそれでも持てない。もう切り分ける気力ない。転がしながら脇に置くのが精一杯。そのとき中腰になって持ち上げたら腰を痛めてしまった。腰を斜めにすると痛いので体を上下して物を取っている。顔を洗う時はしゃがんで洗面のところに顔出して洗っている。その日の夕方に温泉にゆっくりつかり、その所為か腰を斜めにしなければ大丈夫になった。

この歳になると、ある日、ある時、突然襲ってくる。腰は2年前に痛めていたが、それを意識しながらもついうっかりが出てしまう。若い時はついうっかりで済むが年をとるとこれが命取りになる。今回はたいしたことはなかったからいい自戒になった。それに体を動かして、汗を額から流したのは久し振りであったから気持ちよかった。週に1、2回こんな汗を流したい。私は頭ではなく、体を動かすのが性に合っていることを再確認にする。今回は自分の拘りで切ったが柿以外、まだ4本ある。家内の姉妹たちの了解を得たら、またチャレンジしたい。少し自信がついたのと汗をかきたいために。

2011年6月24日金曜日

二つの見方

ブログで原発や民主党のことなどを読んでいると、見方や関心のもち方が色々あるなぁと感心する。自分がノンポリ的人間だから、原発廃止を唱えている人たちの見識の高さに敬服している。そんな中でフッと思ったことがある。

昔読んだソルジェニーツインの「収容所群島」と、最近でもないが読んだV・E・フランクルの「夜と霧」の違いである。同じように理不尽といえる中で収容所に入れられている。その収容所での生き方というか見方が全然違うような気がする。両方とも収容所の中の出来事が書かれているが「群島…」が体制派を批判している姿が良く分かる。読者もそのことに異論を唱えることはないであろうと思う。しかし、「夜と霧」はナチスに対する批判はない。「心理学者、強制収容所を体験する」が本題だそうだから、まさに体験記として読むとそこでどう生きるかが着目点にしているのかもしれない。

記憶が間違っていなければ、収容所で家族が殺されているはずだ。そのことに対しても何の批判もなかったように思う。体制を批判する時には見識と勇気を持たないといけないがそこまでで、フランクルは、収容所という中で、収容者は勿論、管理する側も「生きる」ということでは必死であり、そこは同じであることを語っているようでる。不当な扱いを受けながらも同情しているようにも感じた。ものごとを冷静に見ていて、いかに劣悪な状況の中で生きていくか、人間としての尊厳を失わずに生きる生き方は崇高である。

極限の状態の中で、人間の本性を教えている。「人間とは、人間とはなにかを常に決定する存在だ、人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」。死を乗り越えた存在を知っているような発言だ。

2011年6月22日水曜日

白を黒と

立川談志が国会議員に立候補しようとした時か、なった時か忘れたが、師匠の小さんが政治家になるには白を黒と言えないと駄目だと言ったように記憶している。政治の世界を見るといつもそのことを思いだす。「清濁を飲む」力量も必要だろうし、ある意味でまともな神経では務まらない世界のような気がする。

民主党政権になって新鮮さを感じたが、災害復旧や原発の対応を見ていると、この集団は政治のアマチュア集団ではないかなと思うときがある。理念はあっても政治が出来ていない。勿論一般市民からは見えない、分からない面はたくさんあると思う。自民党政権時代は分かりやすかったように思う。利害がうまく絡まって、政治家も官僚も動いていたように思う。落語の「三方一両損」ではないが「三方一両得」をして、当事者はにんまりなのである。これが諸悪の根源になっていることも否めないが、民主党にはそれがない。新鮮さはあっても、理念では物は動かない。しかしその理念さえどこかにいってしまったようだ。官僚が背後で動いているのか、動かないのか分からないが、形骸した理念に縛られているようにも見える。もう形骸した理念もないのかもしれない。政治のアマチュアではなく、政治のプロであって欲しい。

それと気になるのが一つある。枝野官房長官が記者会見?する時、壇上に上がる前に一礼する。何なのだろうと思っていたら、どうも国旗に礼をしているみたいだ。国旗は丁寧に扱わなければならないが礼をするまで必要だろうかと思う。たかが日の丸の旗だ。この行為が日の丸や君が代を特別視して礼拝の対象にしようとする危険な思想があるような気がする。日本人は「お上」意識で上は上なりに、下は下なりに動いていくみたいだ。どうなるニッポン、考えすぎかな。

ひそぷさん

ヒソプさんコメント有難うございます。いつはじめるのかなと思っていました。早速お気に入りに入れました。ただ、発信のレベルが違うので難しそうですが?それに英語が・・・。

ブロッガーはそうなんですか、検索に使っているのでそのブログを使っただけなのです。それにただ書くだけですから(笑)。元気ですといっても聖書的(詩90:10)にはもう齢は終わっている年代ですから程度は知れています。立ちくらみの傾向は少しありますが薬の所為もあるようです。この日曜の午後に諏訪湖周辺を自転車で一周しました。最後の2キロ余りが緩やかな上り坂になりますからこれがしんどいです。今回も走れた。これがいつまで出来るかとの思いで走っています。老いの悲しさです。これからもよろしく。

2011年6月16日木曜日

いつもの日帰りコースで

安房トンネルが有料になるということで、いつか行きたいと思っていた飛騨の高山と白川郷に昨日行ってきた。高山だけのつもりだったが地図を見ると高速道があり、近いので行くことにした。昨年菅沼合掌集落を見ているのでそれほどでもなかったが家内が観ていないので行くことにした。

松本まで高速で、そこから上高地に向かって走る。まもなく信州特有の山と山の間を川と道が蛇行して、少し広いところに集落がある、そんな風景が二つばかりあって、手前にはM集会のK兄姉が住んでいる。かつては村の中心地だったから集落なんていったら怒られるかもしれない。さらに走ると沢渡に着く、上高地に行くにはここで車を降り、専用バスで乗り換える。駐車場に人が立っていて呼び込みをやっていた。さらに進んで、大型が行き交えないようなトンネルをいくつもくぐり抜ける。直進は上高地、警備員とゲートがある。そこを左折するとまもなく旧道とトンネルとに分かれる。
旧道葉碓氷峠やいろは坂の比ではないようだ。時間があったら走ってみたかった。

忽然と現れる大きなトンネル全長4キロチョッと、快適な走行である。出たところで直進が富山方面、右折が平湯温泉街で帰りに湯につかるところである。左折して、すぐまた平湯トンネルを抜けて高山方面に向かう。集落に出るまでは信州と同じ、カーブ、カーブでギヤをシフトダウンしてもブレーキを踏む、少し走ると平地になり、高山の街に入る。メーンの商店街がアーケードになったいるのは雪が積もる証拠か、見るべきものはそれ程なく、陣屋跡と市の資料館に寄り、古い町並みを歩いて、一時間、平日の割には観光客が多かった感じがするがあまり買っている人は見かけなかった。奈良井宿などを見ているのでそれほどの感動もなく、次に向かう。

高速の入り口に道の駅があって、そこに寄り、野菜を少し買う。高速は飛騨清見から東海北陸道に入り、殆どがトンネル、降りるの直前のトンネルは11キロ以上あるみたいだった。白川郷インターで降りて、川原で昼食をとる。ここの道の駅に寄ってみたがお土産屋さんみたいで、魅力がない。これはどこでも同じような気がする。白川郷は歩いて散策できる程の広さで、合掌造りが散在している。家内はアイスクリームを私は五平餅を食べながら歩く。家内の指摘で山の上に展望台があることを知り、回り込むように上り、そこから集落が一望できる。全体が見えて実にきれいだった。若い写真屋さんが3人ばかりいて、写真と撮ってあげて、相手のも撮りさりげなく売り込んでいた。集落をバックにいい記念になる。

トンネルだけの高速はつまらないという家内の言葉で、一般道を通ることにした。ナビは勿論、大雑把な地図しかなく、高山方面の看板を見て、一般道を走ることにした。後で分かったのだが回りこむように走り、20キロ余りのロスをする。しかし変化の富んでよかった。山道を走り、ダム湖か何キロも続くのには驚いた。飛騨清見から高山へは高速で走り、市内を抜けない道を走っていたら、気がついたら来た道を走っていた。途中高山市街の看板があったから、行きはそこから曲がったのだろう。安房トンネルに入る手前で、ひらゆの森の温泉で湯につかり、体がだるくなるかなと思ったらそのようなこともなく、ゆっくり、のんびり湯につかる。露天にも入って気持ちよかった。

帰りは、高速に入らずに途中から右折して塩尻方面へと向かう。余り自信がなかったが、前に富山ナンバーの大型のトラックが走っているので、塩尻方面というか諏訪方面にいく車だなと思って、後についていくことにした。案の定、そうだった。通ったこともある部分もあったが、暗いのと久し振りだったので迷うことは明白であったから助かった。夕食を食べて我が家に着く、8時半に出かけ、20時半に帰った来た。12時間、340キロあまりの旅?であった。これも諏訪湖を自転車で一周するのと同じで、自分のできることを確認しているようだ。それは次にできないかもしれないとの思いがあるような気がする。これは老いの悲しさだ。

2011年6月9日木曜日

曖昧を旨とする日本人

旧約聖書を読むと、イスラエルの国がダビデ、ソロモンと続いた王国がついに滅んでバビロンに捕囚となっていく様をみると、典型的な内部から壊れていく国の姿を見ることができる。よく言われる国が滅びるのは外敵からではなく内部からと言われることがここでも示されている。

津波、原発に端を発した諸々の現象は今日の日本の姿を映し出しているようだ。被災された方々の頑張りや忍耐が映像から伝わってくるが国は何をとの思いがしてしまう。現場サイドではそれなりに一生懸命やっているのだろうが被災民にどれだけ伝わっているのか疑問である。顔が見えないとはこういうことを言うのだろうか。

原発の事故での避難は割と早くやったのを見て、これは大変なことかなと思ったが事実だった。しかし後になれば分かることを伏せていると言うのは、被災民を馬鹿にしていると言うか、愚弄しているようにしか見えない。パニックにならないようにとの善意かもしれないが国民をその程度にしか見ていないと言うことだ。お上意識そのものであり、上意下達思考である。その思考が太平洋戦争の悲惨な結果になったのであるとわたしは思っている。人々もそれに慣らされているような気がする。

ウェキペディアこんなのが載っていた。
「この言葉はリンカーンのオリジナルではない。今知られている一番古いものはジョン・ウィクリフ(1320年頃 - 1384年)が聖書を英訳した著作の序言に"This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people"(「この聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである」)とあるのに始まる。」

主権在民ということばがある。皮肉的に言えば選挙の時だけ、後は主権は我にあらずである。大阪の橋本知事は「、「教育行政、教育現場の大きな時代の転換点。国歌の起立斉唱だけが問題ではなく、職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない。これまでの個人商店的な教員を、学校組織の一員としてみる第一歩が踏み出せた」と話した。」(msn産経)

決めたことは守らなければならないが思想信条に優先されるべきものではないと思うが、ましてや教職という仕事はわたしの年代では「聖職」意識があるから一般の公務員と一緒にすべきではないと思っている。現代の教員は単なる一つの職業として捉えているなら別だが、それと大阪府の教職員の現状が酷いのか?教育現場がそうかどうか分からないが、今日色々な意味で「時代の転換点」に立っていることは間違いないようだ。ただ良い方向に行かないのが今までの姿ではないだろうか。

2011年6月8日水曜日

自然豊かな信州

こちらに来て三年になろうとしている。出かけることは少なく、家にいることが多い。それでも日帰りコースで信州を散策している。この3日には3日-5日の間で「木曽漆器祭・奈良井宿祭」があったので行ってきた。昔行ったことがあったがほとんど記憶にない。初日で金曜日の所為かそれ程多くもなかったが、それでも帰る昼頃には駐車場が満杯に近かった。店先に並べてある品物を見ながら会話を聞いていると遠くから楽しみに来ている人たちが結構いるのに驚いた。お箸と味噌汁のお椀くらいしか使っていないが、様子を見ていると漆器が好きで色々なものに使っているようである。確かいいなぁと思うものは高い。それらの物を日常的に使っている人はそれなりの生活をしている人たちであることは分かる。お箸とか金額的に安いものを並べていたが店によっては奥にいいものを展示している。結局、お椀の特価品とプレゼント用にサラダのフォークセットを買ってきた。

奈良井宿は、朝の連ドラで人気があるようだが、5月の連休に寄ったのでパスした。目的はこれだけでなく、権兵衛トンネルを通って伊那に出て、温泉に入ってくることである。奈良井宿の少し先から山道に入り、といっても十分車は交差できる。しかし、ほとんど車は走っていない。さらに走ると広い道に出た。山の中の川原の脇でおにぎりをほおばりながらの昼食を食べる。それから幾つかのトンネルを通り、最長(約4.5キロ)の権兵衛トンネルを抜けると伊那である。トンネルを幾つもくぐり、急峻な山並みの間を走っていると昔の人はどういう風に行き来したのだろうかと思わされた。標高1500mに権兵衛峠があるから山越えは大変ではなかっただろうか。冬は厳しいだろうな。

5月の連休に行った下栗の里も飯田から三遠南信自動車道と言う名称の2キロあまりの矢筈トンネルを抜けていく。ここも旧道のような所にトンネルがあるが昔は峠越えなのだろう。すぐ近くに1200mの山があるから1000mくらいはあるのではないだろうか。急峻な山に囲まれた落ち武者の里かと思わされる川添えにある集落が続いている。昔の人は大変だったろうなと思うと共に昔の人たちのすごさを感じる。

木曽は川と道路と所々に集落があるという風景である。伊那は、伊那谷といわれるように、木曽と違った趣がある。急な坂を下りていくと天竜川があると言う雰囲気である。でも車で通る分には真に素敵な風景である。生活するには厳しいが実に美しい自然に満ちている。安曇野あたりを散策するのもまた違った趣がある。安房トンネルが無料のうちにあそこを通って飛騨の高山へと思っている。その時も日帰りの予定である。

伊那のかんてんぱぱに寄って買い物をして、途中ファームなどで野菜などを買う。蓑輪町のながたの湯に入って帰ってきた。100キロの旅。ながたの湯の途中に大芝の湯があった今度はそこに寄ろう。自然と温泉、魅力的な信州である。冬も好きなればいいのだが今もって抵抗があるが、信州パンサイくらいで。

ただ書くだけ


こちらに来てから朝に日記を書いている。発端は、子供が使わない大学ノートがかなりあり、どうせ使わないだろうとこちらに持って来た。日記は夜は夜中まで起きてぎりぎり何かをしているから書くのは駄目なので朝に書くようにしている。朝は聖書を読んだり、祈ったりする時間があるのでその間に書いている。前日のことを書くからリハビリにもいい、最近は思い出すことが少なくなったなぁと感じている。それといつもではないが、テープを聞いたり、本を読んだりしたときに要約を書いている。断片的で要約にはなっていないが、聞いたり読んだりしただけだとすぐ忘れてしまうからこれもリハビリである。もう一つパソコンのブラインドタッチの練習にもなる。最近千鳥足のような指の動きが少なくなった。しかし数字や周辺は眼で追わないとだめだがこれは無理のようだ。

ブログを書いているのも全く同じ、何かを発信しようなどとは思っていない。それでも誰かが読んでいると思うと少しその辺は意識する。誰にも教えず。聞かれても教えず。言うなれば、家の片隅で、誰にも分からないように、こっそりお菓子を食べている構図であるが、ブログは家がガラス張りのようなもの見ようと思えば見えてしまう。それと文章を書くのは頭の中で色々考えるから考える人ではないのでこれにもいいかなと思っている。知っている方のブログを見ていると中々しゃれているし、そうでなければ中身がいい。独り言くらいはいいが、独りよがりになりやすいのでそんな矯正も兼ねているのかなと、なっているかどうか分からないが。ブログ本来の意味がなくて、わが身の諸々のための発信である。

ただ書くだけであるが意図してそうしているわけでもない。実はコメントが書けない。唯一書けるのは、一つだけである。偶々別なことで登録していたヤフーのブログでコメントが書けるスペースがあって、ただ書くだけでよかったから書けただけである。お陰様で今もコメントをたまに書かせてもらっている。また交流もいただいている。そんなわけだから自分のところに来るのもただ読むだけでそのまんまになっている。だから気がつくのも遅い、スパムというところに入って、気がつかなかった。偶々クリックしたら一件あった。2月で文面を見るとどうもヒソプさんのようだ。すみません。分かってやっているのではなく偶々クリックしたらそうなったというとてつもなく覚束ないのである。

最近、いつもアクセスしているブログで、共感を持った文書があったので、そのまま載せて、少しコメントを書いたら、その方から直接コメントをいただていた。どうして分かったのだろうかと思うが名前を入れて検索すれば分かるのかなと、これからはもろではなくブログ名だけに留めようと反省している。メールの返信のように文を見ながら書くと書き易いのでつい、小嶋牧師失礼しました。実はこのブログ、地名になっているのでどこだろうと興味を持ってアクセスした。以前仕事で都内近辺を車で動いていたので、地図を見るまでもなくあの辺かと思わされることがある。こちらもそうで、ただそれだけで何となく懐かしさを覚えた。難しいことを書かれているが分からないなりに何となく興味をを抱かせる。教会員にはしたくないようなキリスト者だがインターネットのつながり位ならゆるしてくださるだろうとアクセスしている。

2011年6月2日木曜日

飼いならされて?

私は社会の底辺に生きている者であるからその視点でしかものが見えない。政治に関わるの選挙の時のみ、経済は無縁の世界。キリスト教も単純な信仰、神学のシの字も縁が無い。聖書のことばをそのまま受け取っているだけである。言うなれば、小鳥の雛がくちばしを開けて親鳥のえさを受け取るだけのようなものである。雛は親鳥に信頼をおいているから、ただ口をあけていればいい。そうすれば生きていけるのである。しかし人間の場合には、時にはおいしいといって毒を食べさせる。雛は思考力ゼロだと思って、偽りをあたかも真実のようにして安心させる。ところが原発のように自らボロをそれもボロボロと出してくる。怒る前にあきれてしまう。そしてそんなことまでして短い人生なのに、と同情してしまう。それで彼等の努力に答えるように、文句も言わず黙々とおいしそうに毒を含んだものを食べる。これが底辺で生きる者の術である。

人はバベルの塔の出来事のように一つになろうとする。「みんなひとつになろうよ」と今コマーシャルで流れているがまさにそうだと思う。しかし、そう叫ばれている時は少数者や弱者が置き去りにされる。政治や行政は二つの目を持たないといけないと思う。ひとつになろうとする目とそこからこぼれる者に対する目をそれが血の通った政治であり、行政であると思う。

今の日本を見ているとバベルの時代であり、ノアの洪水の時代でもあるような気がする。時代を見る目は、今を見、未来を見る目が必要だ。イエス・キリストは世の中を変える改革ではなく、聖霊によって、弟子たちを変え、人々を変えて自己改革をなし、そして世の中を変えていく。人は自分を生かすのではなく、他者を生かすのである。キリスト者はそれができるのである。

2011年6月1日水曜日

老いの才覚

曽野綾子さんの「老いの才覚」を読んでいる。あの方の書かれた本は好きなような嫌いなような、ちょっと複雑である。多分共感する部分と反発する部分があるからだろう。率直に書いているのは分かるがどこか厳しい。しかし示唆に富んだ言葉も少なくない。

正しいかどうか分からないが「老いをどう生きるか」を問うているように思える。そして、多くの老人がそのように生きていない。反省するところもあり、これからの行き方に参考になる。生きる姿勢の問題、聖書の中にその答えはあるが、老キリスト者は自分を含めあまり生かしていない。老化度を測る「くれない指数」は面白い。耳が痛いが自分でできることは自分で、自立した人間になることが大切であることが良く分かる。そうすればお世話になる時に卑屈にならずに感謝して過ごせるのかもしれない。

「老いを生きる」。老いはその人の生き方を裸にする。だから真摯に生きる生き方が求められる。人の目も気になるが、主権は我になしと、主のみこころを求めて生きれたらと願う。

あるブログから

―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰―
           巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋 崇

「「現代大衆的福音理解」に対する問題提起、検証」の副題?で講演の資料が載っていた(http://cwn.way-nifty.com/cwn/2011/05/nt-579c.html)。小嶋牧師の「大和郷にある教会」というブログを「お気に入り」に入れて時折読んでいる。私には難しいが何か示唆するものがある。このことも然りかな。

まず現代福音派の「福音」、「救い」の理解はどんなものかと、日曜学校の教材を通して論評し、「罪の罰から救われる方法を語る」にほぼ等しいと書いている。

次に「神学的説明」を「聖書」と「実際の歴史」に照らして、六つのポイントを挙げている。
 ①イエスの十字架刑は私たちの受けるべき罪の罰を表しているか。
 ②イエスの死が私たちの受けるべき罪の罰の代償であるとする「刑罰代償死説」
   は十字架刑を必須とするか。宣教途中で祭司長たちの反感を買い、彼らに殺
   されたら「救い」は成立しなかったか。
 ③ローマに対する反逆罪として用いられた十字架刑が私たちの贖罪のために
   必須であったなら、なぜイエスは即「メシヤ宣言」して暴動を起こし、ローマに
   捉えられて十字架刑にならなかったのか。
 ④十字架の死までの「イエスの生」は、罪を犯さないことだけに意義があったの
   か。
 ⑤十字架の死だけが救いのために意味があるのなら、「神の国」宣教-病人の
   癒し、悪霊の追い出し、神の国の教えを説く-の意味は何か。
 ⑥なぜイエスはユダヤ人として生まれる必要があったのか。イスラエル民族の歴
   史に何の意味があるのか。神の御子は時代・文化に関係なく降臨し一直線に 
   死なれて贖いは完成したのか。
上記のような問いかけの下に「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」を、実際の歴史と福音書の記述とつき合わせてみると、その非歴史性、抽象的な性格が浮き彫りになってくると言えるのではないか。

・ 当時のユダヤ人にとって十字架にかけられたメシヤは失敗の証左である。イエスの死後、弟子たちのメシヤ運動が持っていた選択肢は、①解散するか、②イエスに変わる別のメシヤ(最も可能性の高いのはイエスの兄弟ヤコブ)を立てるしかなかった、と推論できる。
・ イエスの復活は、当時のユダヤ人(弟子たち)が実際に信じることは困難であった。「死者からの復活」はユダヤ人一般の信仰であったが、それは終末的な出来事で、神にある義人が一斉に復活して『来るべき世のいのち』に与るというものであった。福音書のイエスの復活描写は、その意味で弟子たちの戸惑いや不信仰の姿をそのままにしている。又十字架の出来事に比較して、復活記事には旧約聖書預言成就の言及や暗示が殆ど見当たらない。
・ 使徒たちのメシヤ信仰は復活の事実から遡って(旧約)聖書の記述に照合して「イエス(預言者メシヤ)の言動/行動」を検証した結果辿り得たもの、と捉えられる。
と三つの点を挙げている。

「福音を語る」とは何か。使徒的福音説教(ケーリュグマ)を検証する。
・Ⅰコリント15章…復活顕現と目撃者証言の中核性
・ 使徒の働き2章…イエスの死は「刑罰代償死」としてではなく、ユダヤ人指導者の罪として糾弾されている。
・ 福音書、「最後の晩餐」箇所…イエスの死の意義は「新しい契約(新しい『出エジプト』的出来事)」の基礎であり、それを発効させるもの(過越しの犠牲)として位置づけられている。
・ 福音書におけるイエスの十字架刑の記述には「刑罰代償死説」のような説明はなされていない。
・ ガラテヤ書簡…十字架はイスラエルを代表するメシヤが被った「契約の呪い」(3:13、比、申命記28章)であり、「真の捕囚からの帰還」(1:4、比、申命記30章)である。

「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」は使徒的福音の視点から見る、福音の提示ではなくその結果得られる恩恵の実を表している。福音とは「イエスはメシヤ(真のユダヤ人の王)またすべてのものの主」であることを宣言することである。この福音の宣言を聞いて信じ従う者が「神の民」に加えられ(義認)、救いを受けるのである。


上記のように細かく考えたことはないが問われていることを考えれば確かにと思う。以前から思っていたことは、滅びからの救い、罪からの救いを強調するとイエス・キリストの十字架は単なる「刑罰代償」になってしまう恐れがないか。語り手がその意図がなくても受け手はそのように受け取ってしまわないだろうか。そうなるとイエス・キリストとの人格的?な結びつきが希薄になり、信仰がご利益的になる可能性がある。福音はその人を変える力があるがそれを希薄にしてしまう恐れがないか、「私」の主権の行使はあっても、「主」に従うという「主の主権」の行使は希薄にならないだろうか。自分もそのような経験の中にあるからいつも念頭にある。

イエス・キリストは公生涯の第一声が「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の国の到来を告げ、「初めに、神が天と地を創造した」し、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」と新しい天と地を約束している。そんなことを思いながら福音(よき知らせ)を思い巡らしている。

2011年5月30日月曜日

シニアキャンプ

軽井沢にあるシニア対象のバイブルキャンプに25、26日と家内と朝から参加する。春と秋に2回行われているが私たちは春か秋かのどちらかに参加している。
シニア対照だから全てがゆっくりしている。お陰で何となく落ち着くというかフイットするからどこかホッとする。最初はそうではなかったがその分年取ったということなのか。朝の集会で隣の席に座っている群馬のS兄は大きい聖書を使っていた。最近は老眼が進んで、普通版の聖書だと少し読みづらいがまだ大判には抵抗がある。前に座っていた老姉は88歳で髪は黒く、聖書は小型版をメガネ無しで読んでいる。驚きであり、内心面白くない。彼女は前にいた集会の姉妹で、お父さんは無教会の伝道者、小さい時に亡くなられて、その親友だった矢内原忠雄がお父さん代わりとか、お姉さんは息子の伊作氏と結婚したと聞いている。

今回は伝道者のN兄が話され、シニアに合わせたのかさらにゆっくりと色々な話題を織り込んで話されて、分かりやすくてよかった。、自分でも言っていたがよく脱線するから時間オーバーになる。今回も然りだが大分気にされていたようでそれ程でもなかったようだ。最近でもないがメッセージを聞いても言われる後から忘れていく、メモを取ったりするが断片的であり、正確に取れない。脳の記憶装置が壊れたのか記憶するということが限りなくゼロに近づいている。メモを見たり、再び聞けば思い出すがきれいに忘れていく、それは見事なものである。まるっきり駄目かというとそうでもなく、ある部分が駄目なようで、どうもどうでもいいことは覚えていて、肝心なのが記憶されない。老いとは、その辺を当然のように笑って過ごせるということだと思っているからあまり深刻になっていない。悪く言えばいい加減なのである。

数人で歓談の時、忘れっぽくなった覚えられないと話題になった。今度バプテスマを受けるK兄なんかは人の名前を覚えようとしない。自分より上手がいるとどこか安心しながら、「覚えないのでなく覚えられないのだ」と内心思っている。それでつい言ってしまったが彼は鋭いところがあって、割と肝心なことは覚えていている。どちらかというと私とは逆の傾向にある。集会で気になることを話してくれたが角を立たないようにものごとを改善していくようである。私は気がつかないだろうし気がついても行動力はない。それと垣根が低いから人が接しやすいようで、彼も声をかけるが誰もがKさんKさんと声をかけてくる。私はその辺は努力が必要だ。

今回は、久し振りの人に何人か会う。常連が多い中、これもうれしい一つである。隣に座った方と集会の後話しをしたら倉敷集会からご夫婦で来られたとのこと、住まいは玉野市、わが町と姉妹都市、私より良く知っていた。こういう驚きもある。よく集っていたが挨拶くらいで終わっていたO兄と少し話すことができた。ある集会を出られた方で昔から名前を知っていたがお話しをするのは初めてである。大学の先生をやっていて、今はリタイアされている。どこか発想が違うようで、尚且つ厳しいと思った。パウロの視点で見ているのかな、私はペテロ的であると言った。優秀な学生相手培ったものがあるでしょうが私は自分もそうだからどちらかというと落ちこぼれに目が行くようなことを言った。自分と違う視点を持っている人の話を聞けることは感謝だ。聞きながら正統かな、私なんかは妥協の産物かもしれないと思った。しかし、もっと崩したいと思っていることもある。イエスさまが「食いしんぼうの大酒飲み」
と言われていることが好きである。
もう一つの楽しみ、それはG兄が学んだ黙示録のCDをいただけることである。22枚、早速一枚を聞く、細かいところまで良く調べている流石である。これで黙示録の通になれるか、はたまた頭に入れたものがバクに食われていくかこれも楽しみでもある。PCに入れるがそのCDごとに入らず整理するのに骨折った。何とか整理できてホッとしている。少しづつ聞いていこう。中川さんのもあるし、楽しみが増えた。

2011年5月23日月曜日

ホーキング博士

ある牧師のブログにご自分を無学歴・無資格と紹介されている。そんなことはないと思うが、私なんかはそれに加えて無教養ときている。何もないと身軽でいいのだが軽すぎてどこに飛んでいくかわからない風船のようなもので、時にはしぼんで埋没することも少なくない。完全にしぼむ可能性を持っているから神は絶えず息を送ってくださっているから生き延びている。私の駄目さ加減と神の忍耐のせめぎ(愛)が日々の生活の営みである。

先日インターネットでこのような記事を目にする。
《[ロンドン 16日 ロイター] 「車椅子の物理学者」として知られる英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士(69)は、天国とは闇を恐れる人のおとぎ話にすぎないとし、死後の世界があるとの考えを否定した。16日付の英紙ガーディアンに掲載されたインタビューで述べた。


 ホーキング博士は「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」とし、「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた。

 博士は21歳の時に筋萎縮性側索硬化症(ALS)という進行性の神経疾患と診断され、余命数年とされた。「自分は過去49年間にわたって若くして死ぬという可能性と共生してきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。まだまだやりたいことがある」と語った。

 また、人々はどのように生きるべきかとの問いに対し「自らの行動の価値を最大化するため努力すべき」と答えた。》

脳をコンピューター(物)に置き換えているのが面白いと思った。学問の世界は分からないし、レクチャーされても理解できないだろう。博士の学問的なものからきているのか、ALSという病気も影響あるのか分からないが、発病して30年近く生きているということは驚異である。人間を物質と捉える捉え方をするのにそれなりの意味があるのだろうからそのことに対して一つの意見として見れる。

しかしどこか寂しさを感じる。これを読んですぐ思ったことは、ミレーの「晩鐘」である。農業をやっていた親や大人たちを見ていて、自然に対する畏敬の念、あるいは畏敬でとどまらずに拝む対称になる嫌いもないでもない。都会のように金を出せば全てがすむ世界ではなく、自然が主体のようなものである。夫婦が一日を無事に終えて、神に感謝する姿は良く分かる。神概念がなくても自然の相手に生きていたらあのようになるのではないだろうか。そして一年の収穫の実を手にして生まれる感謝に誰もが共感するだろう。自然との共生の中に感謝が生まれる。全てが物のように理解したら、利己的で打算的なものしか生まれないだろうか。感動なんかできないのではないだろうか。創造主なる神などと言わなくても、畏敬という言葉は日々経験したいものである。

2011年5月22日日曜日

御野立公園

車で10分位で行ける塩嶺峠の脇にある御野立公園にちょっと散策してきた。5・6月の早朝に毎日曜には小鳥バスが出るほど鳥が集まるらしいが日中ゆえに小鳥のこの字もなかった。広くはないが鬱蒼としていて、公園というより森といったほうがいいかもしれない。獣道?のようなところを進んでいったら鉄塔の下に出る。そこまでの道のようで、戻ろうとしたら家内がヨモギが生えていると言って摘みだしたので、私も手伝う。10センチに満たないような小さいものだったが小さいほうがいいらしい。

森林浴という言葉があるが散策するだけでホッとするものがある。展望台からは諏訪湖が一望することでき、その前方にお天気がよいと富士山が見える。旧中仙道が横切り、その先に市の野外キャンプ場とマレットゴルフ場がある。さらにその先8キロに高ボッチ高原があり、ハイキングコースになっている。いつか頑張って歩いて見たいと思う。

2011年5月20日金曜日

生きること、生活すること

福島の原発事故のことで時折、関連といってもごく一部であるがブログを読んだり、ユーチューブを観たりしている。お陰で原発のことが少し分かるようになった。原発の機能そのものよりも、これができる経緯とか、これを支えている環境とかを知ると驚くことばかりだ。あるいは当然なのかとも思わされる。企業が大きければ、国が深く関わっていれば、さらに根が深いような気がする。

旧約聖書に偶像の神として、バアルとモレクの神が書かれている。新約では、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ24b)という富(マモン)がある。バアルは豊穣の神である。それは作物だけではなく、性的なものを含んでいる。人々は知を求めた結果の神であるかもしれない。モレクは幼児を犠牲にささげるものである。生命を奉げるという残忍さの中にそこから生命を生み出そうとしたのかもしれない。これは誤った愛から発しているのかもしれない。最後はマモンである。これは書くまでもなく、今日蔓延している神である。

真の神を見失った人間は、この三つの神を必要とした。豊かさであり、愛であり、富である。この三つがないと生きていくことはできない。これを数学の方程式のように当てはめていけば、問題点は明らかになる。そんなことを考えていると「生きる」ことと「生活する」こととは別の次元であることがわかる。

原発に群がるのは「生活」のためであり、反対する人たちは「生きる」ためであることが分かる。生活するために原発をあめのようにぶら下げる為政者は最低の為政者である。貧しくとも「生きる」というビジョンを与えることの出来る為政者は何処に、と書きながら生活していても「生きている?」と問われると返事に…。

2011年5月18日水曜日

姜尚中 

いつだったろうか、テレビを見ていて柔らかい物腰と話し方に興味を持ったのだろうか、はっきりした記憶はない。最近のものではないが3冊ばかり読む。「在日」は生い立ちを「在日、二つの祖国への思い」は朝鮮半島の戦後の歴史と提言のようなものだった。小さいときの貧しさは共有できるが在日の苦悩は共有することはできない。本人だけでなく両親や同胞の苦悩を共有しているから私にはそれがない。

「二つの祖国…」を読みながら、歴史を復習するみたいに読んでいったが忘れていることの多さに驚く、忘れやすい民族の一人なのか単なる個人的なものかは分からないが。20代のときに東北地方に行った時に、ご主人が韓国人だったご婦人と少し話をする機会があった。彼女の心配は、東京にいる子供さんが南北統一の運動をしていていることだった。一度会ったことがあっって、日本に対しての批判は厳しかった。勿論、それに答えられるようなものはなかった記憶がある。当時、韓国は反共独裁政権だったから、日本にいてもマークされていたらしい。迷惑かかるからもう会わない方がいいと言われたのでそれっきりになったしまった。金大中拉致や在日2世が韓国に留学して、北のスパイの嫌疑をかけられ、拷問で命を落としたり、生きていてもひどい傷跡を残したりしたニュースがあったことを思い出して鳥肌が立つのを覚えた。

姜さんは北に対しても前向きであり、今の日本のやり方では進展はないししていない。かつての戦争においても被害者というより加害者の立場だからなお分からないだろう。その辺をじっくり考えるべきだろう。尖閣諸島や竹島の問題も多少犠牲を持って対処しなければ解決は難しい。民族主義が台頭するであろうし、色々な立場にある人たちを説得する必要もある。あのような識見を持っている人がいること日本にとっては大切な存在である。同胞であり、痛みを知っている在日の存在はこれから朝鮮半島の解決のためには助けになるものではないだろうか。それを可とするのが政治家の務めだが・・・。

2011年5月11日水曜日

浜岡原発停止に思う

浜岡原発の4号機が明日から停止に入る。中電の管内にいる者としては、最も危険だといわれる原発が停止されるのは喜ばしいことだ。国からの依願とはいっても中電の英断に敬意を表する。浜岡は4,5号機で252万キロ弱、3号機は停止中だが稼動しても110万キロである。中電の原発はここだけ、単純計算して9パーセントにも満たない。どのような稼働状況か分からないが他社よりは負担は少ないのではないかなと思う。ただ火力発電が愛知県と三重県に集中しているので地震の時に緊急停止したらどうなるだろうと思う。

政治の世界は複雑である。菅総理が浜岡原発の停止を依頼したのは、本当に原発の危険性を感じてか政治的意図からか分からない。どちらにしても原発の問題点が色々明らかになり、停止するという事態になったのだから電気エネルギーの変換がおきてくるは当然だろう。またそうなって欲しい。柏崎の市議選は原発賛成派が多数を占めたとニュースで言っていた。人々の生活が原発と深く関わっているから危険を感じながらも否とはいえない。一度走り出したら止まるのは勿論、ユータンもできない。これは宿命みたいなものである。

恵を恵として受け取れずに当然として受けって行くとき、人は謙虚さを失っていく。お金でものが動くとき、人間の尊厳が損なわれていく。こんなことを書きながら自分も大切なものを失ってきたような気がする。まだ間に合うかな…。

2011年5月7日土曜日

わが家のGW

毎日が日曜日状態のわが家だが形だけでもとGWに出かけることにした。4日には菅平のヘルモン山荘の学び会に行く、といっても午前中の学びとその後のデスカッションに出て、昼食を食べて帰ってきただけである。久し振りにデスカッションなるものに出て、聞いてまとめるという元々苦手なものだったが今回さらにそれを確認させられる。若者が多かった所為か、この集会がどちらかというと行動的なことを「善し」とする傾向があるように感じているので、そういうこともあるのかなとも思った。どちらかというと静的なものを好む傾向にあるのでこうなったのかもしれない。ヘンリーナウエンはあまり話題になりそうもない集会だから、でも若くないことを実感させられ、自分の姿も見えてよかった。

6日には、南信から木曽を回っての日帰り300キロ余りのドライブを敢行する。朝8時に出発、高速で松川インターで降りて、フラワーラインという農道を走り、U先生のお父さんの実家の前を通って元善光寺による予定だった。しかし、その前に国道に出てしまったので行き過ぎてしまった。はじめて行く所は大体チョンボする。少し戻りながら第一の目的地「下栗の里」に、ここも地図と少し違うので戸惑ったが看板に従って走るが十字路に看板が出ていない。感で右折してしたすら山道を走る。長野県は観光県の割には案内板が途中で消えてしまうことある。案内板に従って走っていて、十字路になって迷ったことが何回かある。感で動くと大体間違うが今回はよかった。

地図で確認していた所に出たので上流に向かって走るり三遠南信自動車道矢筈トンネルという長いトンネルを通って、旧上村地区に着く、川添に走ると目的地に着くのだが尾根のほうに上がると「しらびそ高原」に行くので道が心配だったが折角だからとそちらに行くことにした。途中まではよかったがさらに進むと案の定、すれ違うことができない狭い分が随所にある。向こうから来たらと心配しながら走る。六日にしたのはそのこともあってのこと、それと山が急峻なのでガードレールがないところは背筋がぞくっとする。細いビニールテープが張ってあったりするがそれだけでも安心感があるのは不思議である。小心者の慄きかな。峠の近くにホテルがあったのには驚く、二千メートルの美ヶ原にもホテルはある。でもあそこの道は崖があるが広い。峠には県外ナンバーの車が数台止まっていた。山はみな急峻でその先にある南アルプスの山のすぐそこにある感じである。信州でもこんなところがあることを知る。

道は急ではないがカーブ、カーブと続いて、鏡も少なく、気を張りながら降りていく、落石の石を避けながら少し恐怖感を覚える。ようやく集落に降りて来て、手前の千メートルにある「はんば亭」で地元のそばと二度芋という田楽を食べるが美味しかった。こんにゃくも地元産らしく買ってきた。写真のように集落全体は見えないが急峻な地にへばりつくように集落がある。歩いて15分のところに「天空の里、ビュウポイント」があったが先を急ぐのでパスした。というより急峻な地を眺めるのは少々という気もあった。そこからだったら集落全体が見えたかもしれない。ゆっくり降りていく、後からドカッテイに道をゆずり、オートバイの後を降りたら、家々の前を通るが車一台やっと、それにガードレールなし、慎重に降りる。そして下の集落にいくまで結構な時間がかかった。川添にある点在する集落もあるが、それとは別に何であんな高いところにあるのだろうと不思議に思った。飯田市に戻ったが結構な距離がある。あんな辺鄙なところに、昔はどういう生活をしていたのだろう。町に出るには大変だったと思う。しかし、諏訪から高遠、旧長谷村を通って、旧上村を経て遠山郷から浜松に抜ける国道152号線なのである。何箇所か未舗装で冬季間は通行止めになる。信州は面白い所だ国道がこうであるかと思えば自動車専用道路のような農道もある。北の信州の山道も興味を持った。いつか飛騨や白川と北の信州に行こう。日本の里100選に選ばれているそうだがまた新しい信州を知る。二度と行くことはないと思うが。トンネルだけの三遠南信自動車道、でも地元にとっては貴重なトンネルである。

飯田市街に戻り、豊田何キロの看板を見ながら木曽に向かう。昼神温泉の脇を通って、清内路村、南木曽を通り、妻籠で少し散策するがそれ程見るものはない。奈良井より小さく、お店も小規模、寂れた感じがする。馬籠はパスしたが藤村ゆかりの地、無理しても行けばよかった。神坂PAからすぐなのだからあそこにスマートICができたら便利だが着けて欲しい。

そこから寝覚の床を見て、奈良井に行くがすでに店はしまっていた。人のいない町並みを歩くのも乙なもの、二三度来たがまったく記憶がない。「おひさま」の舞台にもなっているから人出は多かったのではないだろうか。そんな中に一軒の玄関の脇に大きな黒板があって、そこに聖書の詩篇が書いてあった。口語訳と書いているから大分古い人のようだ。新改訳といわずとも新共同訳がある。信州には無教会関係の人が散在しているようだからその一人かな?

じっくりではなく、駆け足は性格上のものと、じっくりは金がかかるが駆け足は走るだけみたいでお金がかからない。そんな事情もあってのわが家のGWであった。それに家内とは興味が違うから一人でないと駄目なこともある。小諸懐古園脇にある小諸義塾、そしてその中にある内村鑑三や明治の錚々たるキリスト者たちの写真を見ているだけでわくわくする。穂高にある井口喜源治記念館も然り、家内を含め集会の人たちはまったく興味を示さない。喜源治を新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵は援助していたが、彼の禁酒禁煙と妥協のない厳しさに対して、多少批判的でもあった。そんな非信仰的な事にすこぶる興味を持ち、肝心なことはいたって知が無い。ある牧師のブログに「無学歴、無資格」と書いている。どうも関東の教会で奉仕していたときに、そこの教会員の大学教授に言われたようだ。これはブログを読んで感じたのだがもし間違っていたらお許し願いたい。まさに私を差し置いてである。牧師がこうなら私はさらにとどこか開き直っている。

2011年5月3日火曜日

あこぎ 

福島原発のことで幾つかのブログをアクセスしている。原発は危険を伴うものだからそれなりの安全確保をやっているものと思っていたらそうではなかった。電気事業連合会の原発の安全確保に万全なんて画餅に過ぎないことを知る。企業として来るかどうか分からない地震や津波に対して巨額の金は掛けられないだろう。しかし原発はなぁ。ダルマ状態でも自己終息できるものであれば別だがそこまでは行ってない。

最近では、東電の電力事情の発表がうそであることが書かれている。コメントを読むと会社と国での原発ありきの発表らしい。ここまで往生際が悪いのかと思う。やるなら安全確保をもっと確かなものにしてから言えといいたくなる。そしたら胸を張っていえるだろう。インチキ企業じゃあるまいし、一流企業と国が姑息な手段をするなんて、情けない。まさに末期だ。国民というより、地元住民をなめている。お金で解決しようとする風土を作ったのは誰なのだろう。

ここから見えてくるは福島の原発被害者は相当いい加減に扱われるなぁと思った。彼らが一ヶ月も過ぎて頭を下げているのを見て感じる。それに謝ったって彼らは何の不利益を得ているわけではない。保障にしても何も約束していない。最善なんて言ったて、これしか出来ませんと言ってお終いになるのである。

チッソのパターンとダブルというよりまったく同じ轍を踏んでいる。放射能汚染は水銀中毒の比ではないはずだ。何でこんなことを繰り返すのだろう。砂糖に群がるアリが多すぎる。そしてこれらと戦っているキリスト者は少ない。なぜなら彼らの多くはそれらを享受しているから難しいだろう。それに「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした」からとの来世感もあるし、あまり他者の痛みの分からない蛸壺的信仰者としての言葉は説得力はないが。

2011年5月1日日曜日

原発で思うこと

最近、被災地の方々が復興に向けて行動している姿をニュースで見る。その道のりは実に厳しいなと思わされるがみな明るい。点のような働きであるがこれが点と点が線になり面になっていくのだろうなと思うとうれしい。映像は瓦礫の山々であるがそのような中に希望が見えてくるから不思議だ。

それに引き換え、原発で避難されている家々の映像が映し出されると、のどかそうであるがそこにあるのは放射能の恐ろしさを教えてくれる。そこには希望の希も見い出せない。しかし、原発の出来事を見ているとあらゆるものが凝縮しているようにも見える。イゴをぶっつけあっている人たち、それと関係なく命を賭けている人たち、ドサクサに紛れ込んで悪さをする人たち、そして我関せずで過ごしている人たち(我も)を炙り出さしてくださっているようである。

牧師の方々で原発に関して真剣に取り組んでおられる方がいることを教えられて、少し前向きで考えるようになった。原発云々も然りだがそれに付随したものにも目が行く、電力の浪費、リニアの問題も然り、幸か不幸か諏訪地方は通過しない。南アルプスにトンネルを掘って大丈夫か、新幹線や東名高速が有ってもまだ他の輸送機関が必要なのか、誰がそれを求めているのか等等。それと巨大な電力を必要とすることを知るとこれはやめるべきだと思うようになった。羽田成田間とか短い距離ですばやく輸送できるこんなところには最適ではないかなと素人なりに考える。利権が見え隠れるするのは穿った見方か。

高い所に立たなくてもキリスト者としてどう歩むべきか、どのような識見を持たなくてはならないかを考えさせてくれているような気がする。だからと言って答えを見え出したわけでもない。信じたら天国にでは済まされない時代に来ているような気もする。今日目の前にあるのはキリスト者が避けているマモンと向き合うことが必要な気がするがどうだろう。貧しい者の拘りかな。

2011年4月23日土曜日

ヘボン

キリスト者でありながらヘボンをヘボン式のローマ字を作られた方くらいしか知らなかった。「坂本龍馬を切った男」で一時話題になった「聖書を読んだサムライたち」(守部喜雅著 いのちのことば社)の中に、ヘボンという言葉が少し?載っていた。図書館からヘボンに関する本を借りてきて、初めてヘボンの業績が分かった。

四十代で医者として成功し、財も名誉も得ているのに、それを処分して日本に来ている。三人の子どもさんを幼くして亡くされ、12歳かであった子供さんをお父さんに預けての来日である。日本が大きく変わろうとしている時期に、命の危険のある物騒な中に、それとその信仰姿勢である。医者としては、日本人しか診ないという、特に市井の人の中に入っていこうとした。色々と障害があって実現するのは難しかったようだが日本人の中に入っていこうとしている様子がうかがえる。それはもう一つの目的「和英辞典」の編纂に必要性でもあったようだ。今でも通用する辞典のようで、これは宣教師に限らず外国人が日本語を知る大きな助けになったようである。「和英語林集成」は日本語聖書作成の複線にもなっているようだ。「日本語聖書」作成も超教派として、宣教団体のエゴを排除しようとしている。

日本での宣教の失敗は、送り出している宣教団体のエゴがあると聞いている。内村鑑三もそれでぶつかっている。戦後も然りである。あの当時でもそのような働きがあったにも拘らず彼はそれを排除して、日本人に福音が届きやすいように最善を願い、尽くし、そこには「私」がなかった。その最後が明治学院の創立である。

彼が創設に深く関わった明治学院の名前は知っていたし、集会の人であそこを卒業された人たちが何人かいることも知っている。私と同年代の姉妹があそこの夜間を卒業されたと聞いた時、彼女の向学心の強さに感服し、あそこを選んだ彼女の姿勢に敬服していた。それまでは知っている卒業生を見ていると、と?をもっていたが、歴史のあるキリスト教主義の学院であること、それは建物が古いというだけでなく、建学の精神が素晴らしい。それは今でも生きているような気がする。卒業生を見ても…。

日本はこのような人たちによって福音が伝えられたということは大きな感謝であり恵みである。それ程までに福音に価値があるということだ。皮相的な自らの信仰を恥じるが、かといってそれ以上のものを求められても私のうちにはない。でも改めて福音の価値の素晴らしさをヘボンの日本での働きを見て思った。しかし、クラーク博士もそうだったようだがヘボン夫妻もアメリカに帰ってからの晩年の生活は必ずしも恵まれたものではなかったようだ。天に豊かな報いがあることを信じて。

2011年4月19日火曜日

大本営発表 

枝野官房長官はまじめそうな人だ。しかし官房長官の原発の報告を聞いていると昔の大本営発表とどこかダブル。嘘は言ってないだろうがもっと大切な事実は言っていないような気がする。後手後手のような発表をしている避難区域拡大や原子炉の状況の報告を聞いているとそんな感じを受ける。すでに分かっていることを最後の最後まで公にしない。正直に危険性を発表して国民に理解を求めたほうがいいと思うが原発行政が間違っていることを告白するようなものだから勇気がいるだろう。正直言ってそんなことは出来ない。それより行くところまで行って被害を大きくしてからでないとできないような気がする。

今年の初めにNHKが四回のシリーズで「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」を放映していた。私は三回目かを見ただけだったが驚いたのは戦争に進んでいく過程があまりにもいい加減なのに驚いてしまった。後でHP を見たら『日本のリーダーたちは、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、最後まで勇気をもった決断を下すことはなかったのである。』と照会文の最後に書かれている。http://www.nhk.or.jp/special/onair/110306.html
それと今回の過程を見ていると全く同じなのに驚いてしまった。走り出したら止めることができない。そして末端の人たちに付けを回して、彼らは何もなかったように去っていくのだろう。国を思い、人を思うことはなく、自分の立場や組織、そして現状を守るということしかできない。

もう避難した人たちの多くは元に帰ることは出来ないだろう。補償も彼らが満足するには程遠いものになるような気がする。国民も税金を使うことに反対するだろうし、東電が地元に払った金額がその一部にされてしまうかもしれない。踏んだりけったりである。

民主主義とは少数者の意見を聞くというかそのような意味合いがあると何かで読んだ気がする。違った意見は排除することはあっても受け入れることはありえない。原発反対者に対しての理解を示してそのための手立てを少しでも考慮に入れていればこんなことにはならなかっただろうにと思う。出来ない相談だが。

最も危ないといわれている浜岡原発はわが中部電力のものである。あそこが可笑しくなったらもろ影響を受ける。あそこは傍観者ではなく、即被害者になる所だ。しかし危ないといわれているものが危なくなることはないような気がするがどうだろう。だからといって安心しているわけではない。原発もクリーンだランニングコストが一番低いといわれているが放射能を含んだ廃棄物の処理はその念頭にはない。それを考えたら高いコストになることは間違いない。 原発はやめるべきである。

2011年4月11日月曜日

311

震災から一ヶ月、各TV局 では特集を組んでいる。映像は繰り返して放映されているものだから少々うんざり、アナウンサーの声もどこか仰々しい。しかし少しづつ片付いていく様子を見ていると、その先をどのように形造っていくのだろうという大変さと楽しみがある。

原発を見ているとトップの決断力や姿勢が如何に大切か、優秀な頭脳が企業を左右するものではないことを教えてくれる。これは政治の世界でも小さな集まりでも上に立つ者の姿勢は変わらない。私には決断力も識見もないから、たとえ小さな集まりでも上に立つつもりもないし、その器でもない。

 原発を知らなければ、人影のないどこかのどかそうに見える田園風景が映し出されるの見ていると何が起きたのだろうと思わされる。被災地の人たちは今注目されているが少し経つとマスコミをはじめ日本人は他のことに目を向けていくだろう。残された人たちの戦いはこれからだ。十年、二十年というスタンスで物事を捉えていかないといけないかもしれない。忍耐が必要だろうが頑張って欲しいし、そしてこのことが日本という国が変わっていく一つのきっかけになれば決して意味のない出来事ではない様に思う。二万七千人からの犠牲と放射能汚染の上に立っていることは大きい。

2011年4月7日木曜日

三つのうめき 

ロマ書8章に被造物、人(キリスト者)、御霊の三つのうめきが書かれている。特に被造物のうめきでは高橋三郎先生のロマ書講義の解説の中で強い印象を受けた。御霊は贖うためのうめきであり、被造物と人は贖われるためのうめきである。 聖書を含めて知識は素人であるが、今回の地震や原発事故を通して、それなりに色々考えさせられ、また教えてくれる。被災者や原発の現場の人たちの痛みとか苦しみを思い浮かべるが、しかし本人でなければ、痛みや苦しみはわからないだろうなと思う。安易な同情心は当事者に対して失礼、ロマ書十二章十五節に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とあり、傍らに立たなけえれば分からないことだろうなと思う。 被災地の中で、原発の現場や背広組の中でのうめきが聞こえるようである。しかし考えてみるとこのうめきは自ら選んだ結果ではないだろう。人間がもたらしたものであり被造物はその選びが出来なかった。神は被造物を人間の添え物として創造されなかった。かれらのうめきは人間の比ではないような気がする。真の贖いなくしてうめきからの解放はないであろう。一つ一つが産みの苦しみにつながるものではないだろうか。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ロマ8:22)

2011年4月6日水曜日

新しい天と新しい地

ペテロの手紙第二の三章に終末を思わせる箇所がある。ペテロは最後に「・・・新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」と締めくくっている。このような天変地異や今の世の中の動きを見て、終末が論じられる。ある種の恐怖感を煽るようなもっていき方はどうだろうと思うことがある。 テサロニケ第二にある空中再臨、これが七年の患難期の前か後かとの論争がある。患難期後であると大患難に耐えられるかとの懸念があり、結論付ける知識はないが、どちらが正しいかは個人的には定かでない。今回の地震と津波、それに原発の様子を見ていて、これが有史以来初めての出来事ではなく、絶えず繰り返されてきたことである。私たちはそのような基盤に立って生きてきた。それに英知を持って時には克服してきている。新約の時代になって、まもなくユダヤ人は悲惨な経験をされる。勿論キリスト教徒も同じような経験を繰り返ししてきた。人と人との関係の中に、自然との関係の中にその基盤が如何に脆いかを教えてくれた。 今は、その脆い基盤の上に生きなければならない。しかし「…神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」と言われたものが、アダムの罪によって損なわれたとしても、すべてが反故になったわけではなく、約束された「新しい天と新しい地」が備えてくださっている。患難も再臨もそこに行く過程と見たら失礼か。約束の地は新天新地なのであるとそこに目を向けたいなと思っている。

2011年4月5日火曜日

思うが侭に

今ヨブ記を読んでいる。十二章十五節に「見よ。神が水を引き止めると、それはかれ、水を送ると、地をくつがえす。」という言葉に引っかかった。中国内地の旱魃は大変みたいだし、今回の津波は想定をはるかに越えている。その爪あとは大変なものだ。「地をくつがえす」この言葉を実感させられる。                                                             その前にこんなことばがある。 「しかし、獣に尋ねてみよ。それがあなたに教えるだろう。空の鳥に尋ねてみよ。それがあなたに告げるだろう。あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。 これらすべてのもののうち、主の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。」 ヨブ記十二章七節~九節。                                         ここを読むと、神を知らないのは人間だけではないのだろうかと思わされる。これらのものから学ぶ謙遜さを失っているような気もする。                                          創世記一章の二十六節に「「…地のすべてのもの、…支配させよう。」と仰せられた。」とある。原発の収束のメドは立っていない。真実はどうなのか分からないが、色々と問題点が指摘されている。それとあわせて、この言葉が何となく考えさせられる。「地のすべてのもの」を支配させると言われたことはどのような犠牲を払ってでも、人はそれをやらなければならないということなのだろう。まさに「神の慈愛と尊厳を見よ」である。

2011年3月31日木曜日

違った視点

信仰生活が長くなると聖書の視点で物を見、考える。そして、そこから結論を出してしまう。しかし聖書からといっても自分の聖書理解からの視点であって、必ずしも聖書からとはいえないだろう。同じキリスト者でも見解や結論が天と地ほどの違うことがある。同じ教会の中にあっても現実にある。 それよりもキリスト者でない人たちの視点が理解できなくなっていることに気づかされることがある。ある面で怖い。福音書にでてくる律法学者やパリサイ人の思考である。メシアを待ち望んでいながらメシアが来られたときにそれを受け入れることが出来なかった。自分とダブルが結論は違ってもその視点は理解できるようになりたいものだ。そうでないと痛みとか苦しみを理解することが出来ないような気がする。違った視点ではなく狭い視点かな。

2011年3月25日金曜日

使命感

昨日だったか、TVのレポーターが娘さんを亡くされたご夫婦をレポートされていた。亡くなれた現場なのだろうか二人で歩きながら、奥さんが「もう一度見せてくれます」と言われた。そしてTVモニターがアップして映像とともに流れてきたのは防災無線で「津波がきます急いで避難して下さい」と(記憶しているが)、繰り返す女性の声だった。この女性がご夫婦の娘さんだった。


インターネットで検索したら、『「早く逃げてください」--。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員、「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。』(毎日JPより)。


「娘の声で逃げて助かったが娘が・・・」と言いながら目頭を押さえていた。ご主人は穏やかな顔で、仕事に徹した娘を思い浮かべて、娘さんの避けられない現実を受け止めているようだった。どこかにいのちをかけた姿に誇りをもたれたのではないだろうか。それでもご夫婦のつらさが伝わってくる。


原発の現場の方たちもいのちを覚悟しているのではないだろうか。もう愛社精神とか滅私奉公なんて言葉は死語になった。実際はどうであるか分からないが、愛社精神はなくても住民のために自分たちがやらなければと思っておられるのではないだろうか。協力会社の社員も大勢いるだろうが思いは同じだろう。何かあった時のケアは格段に違うだろうに。自己中の世の中に、いのちをかけて他者のいのちのためにという精神は生きている。このようないのちをかけた方たちがいることを忘れないようにしたい。そして、このような人たちがいることを誇りに思う。屈折した人間の視点から・・・。

2011年3月22日火曜日

汚染

専門家はすでに懸念していたであろう放射能汚染が始まった。
放射能のニュースにならない前に原発が収束してくれれば良かったが収束はまだまだのようだ。来るべきものがきたというより、隠されていたものが露になってしまったような気がする。それでも今のうちに収まってくれるといいのだが、電気次第?

放射能濃度がニュースになって、ふっと思ったことは、日本は公害の先駆的な働きをしている。水俣病、四日市喘息を思い出す。川崎の臨海に工場群があったころ排煙が、20キロから上流の中ノ島あたりに降りてきて、あの一体は空気が悪かった。家内の姉夫婦が中ノ島に社宅があって、一時住んでいた。長野県の駒ヶ根に転勤になり、また東京に再転勤になったとき、もう空気の悪いところには戻りたくないとの理由で会社を辞めて、それ以来信州に住んでいる。モクモクと上がる煙が多摩川の土手から見えたのを今もよく覚えている。 あの工場群もなくなって、様変わりしたようだが。

水俣病は、猫や住民の奇病がチッソの廃水に含まれている水銀が原因だと指摘されていたのに企業ぐるみでこれを抹殺していった。そして排水を垂れ流し続けてた結果が今も苦しんでいる人がいる。あそこに企業は勿論、自治体も住民も企業優先の姿を見る。

これは日本だけではない。小学校のときに女生徒が頭を白くしたDDTは私たちの世代には懐かしい。あのDDTの危険性をレイチェル・カーソンは「沈黙の春」で指摘している。私が生まれる一年前に製造され、安価で、効果も大きかったが、彼女は環境汚染や人体に悪影響を与えていることを指摘した。企業は勿論、公の機関、同じ科学者からも批判され、無視された中で、まさに孤立無援の中で出版された。

人間が造り出すものは二律背反的な要素が多いから難しい。原子力も然りである。今回のできごとを通して、新しい何かが生まれてくることを期待したい。最終的には、人は神に立ち返らなければ、解決の道はないと思うが。観念的かな・・・。

2011年3月18日金曜日

一週間が経って  

東日本大震災が発生して一週間が経った。
原発はまだ見通しが立っていないが、復旧に少しづつ動き出している。避難された方が亡くなられたりで、限界に近づいていたのだろうから良かった。それでも生活の基盤が出来るまでは大分時間がかかるのではないだろうか。原発は気になるが動き出している姿を見るとうれしい。

中越地震のとき、知人が出身地で肉親がおられたので、何人かでお見舞いしたら、新潟日報社発行の報道写真集を送ってくれた。地震のすさまじさを感じたが今回の地震は桁が違う。でも内容は同じだ。悲しみや苦しみがあるがそのような中で笑顔がある。特に子どもたちの元気な姿がいい。人間は弱い器であるが生きる強さを持っていることを教えてくれる。東北人だからということではないと思う。

世界各国からの援助もうれしい。日本人は率先して援助してくれるからとあるブログで、被災した国の人が言ってくれたと書いておられて、読んでうれしかった。そんな中で、野球のセ・リーグは3月25日に開幕する。巨人の清武球団代表は「野球人は野球をやるのが責務。それが日常化の足がかりになる。自粛よりも行動を選んだということ」と、最もだと思う。がしかし東京ドームでナイターでやるという。電力逼迫の折、勇気ある行動だ。しかし亡霊のように誰かの声が聞こえる。菅さんもどこか拘っているものがあるらしい。被災民や国民をダシに自己実現は見苦しい。大きなつけを払わされなければいいが。

2011年3月17日木曜日

2011.3.11.2:46

電気事業連合会のHPに原子力発電の安全性についてQ&A方式で幾つか載っている。全体が原子力ありきだが、その中で地震と津波の項目がある。最初に原子炉の「止める」、「冷やす」、「閉じ込める」とあって、その後で安全対策として8つの項目が小さく載っている。だから大丈夫ですと暗に書かれているようにみえる。でも今回の事件で全く説得力がない。「止める」までは良かったが「冷やす」がいけなかった。海水を入れるのをためらったのだろうか。

避難された方のご主人が原発で働いている方をインタビューされていた。正確な言葉は忘れたが、ご主人が「厳しい」と、そして「頑張る」という言葉が印象的だった。ふたりとも暗黙のうちに「いのち」がかかっていることを認識しているのだろう。

いつも思う。いのちをかけているのは末端の人たちだ。偉そうなことを言っても「いのち」も「血」も流していない。イエス・キリストは人とは逆の道を行っている。それは下りていく世界であり、低くなっていく世界である。東京は東電の電力の三分の一を使用しているそうだ。原子力が欠かせないなら、福島や柏崎でなく、東京湾でも安心な原子力を造って欲しい。

2011年3月15日火曜日

収束、そして復興 

東京に住んでいる息子から電話がって、スーパーに食料品がなくなっていることを伝えてきた。地元のテレビでもそのようなことを流していたが、スーパーに普段のように買い物に行ったら、入荷しなかったのか買い占めたのか何もないコーナーが幾つかあった。明らかに買い占めたのは麺類、お米(一人10キロとあるのに二つ買おうとしているおばあさんに出会う)、驚いたのはトイレットペパーが亡くなっていたことである。オイルショックのときを思い出した。お米や紙類は不足することはないのに、人はパニクルとこういう風になる。東京在住のkさんと電話で話をしたら、スタンドは長蛇の列で給油が出来ない。道路が混んでいるのかなと思ったらその所為だったといっていた。駄目なら高速道路のスタンドでいれようかなと思っているといっていた。仕事している人は大変だ。こちらでも被災地優先で15リットルまで、東京ナンバーなので、もう少し入れましょうかと言われたがこちらに住んでいるからいいと断る。年寄りふたりだからどうにかなるが赤ちゃんや病人がいる人たちは、品物が欠けたら大変だろうなと思う。

パニクラないで、被災地の復興に協力しよう。

このようなできごとを見ていると私たちはどのような土台の上に立っているのだろうかと思わされる。そしてその土台がいかに脆いものであるかを教えてくれる。
人間の英知は、復興を成功させてくれるだろう。人間の英知の上に胡坐をかいていたのが、原発の問題ではないだろうか。内村鑑三は「読むべきは聖書、学ぶべきは天然、為すべきは労働」といわれた。また「われは聖書と天然と歴史とを究めんかな、しかしてこれら三者の上にわが信仰の基礎を定めんかな。」ともいっている。この言葉は今も生きていると思うし、学ぶという姿勢は謙虚でなければ出来ないと思っている。それを・・・。

このようなできごとがあると終末を思い浮かべる。そしてこの聖書のことばを思い出す。
「イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。『先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。』 すると、イエスは彼に言われた。『この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』
「「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」 マルコの福音書13章1-2節、4-8節

終末ではなく、その前兆を教えてくれる。神に立ち返るチャンスを教えてくれているようである。そして地上が全てであれば悲惨そのものであるが一過性のもであれば大分趣が変わってくる。以前、フジテレビのキャスターだった山川千秋氏ががんで亡くなる前に「死は終わりではない」という本を書かれた。死は終わりでなく、労苦を解かれて、永遠へのスタート台に立つのである。

2011年3月14日月曜日

明日に向かって

未曾有の地震、余震も続いている。災害の現場はほとんど手付かずのように見える。テレビは断片的にしか観ていないが、繰り返し津波の映像と、専門家の解説が流れている。惨状や人々の悲喜こもごもの姿を映し出している。膨大な残骸をどう処理するのだろう。最終的に亡くなられた方は1万を越すようだ。指揮系統を確立して、一日も早く住民が生活できる状態に回復して欲しい。

日本は、今、政治を含めてどこか閉塞感がある。今回の地震は、それに追い討ちをかけるような気がしている。しかし、このできごとを通して、日本に必要な物、失った物、本質的なものが何であるかを知る機会となれば、それはそれでいいいことではないかなと思っている。これを機会に日本再生を確立して欲しい。素人が大袈裟かなと思うが明日に向かって行くしかない。

原発もいい経験である。情報開示なんて言っても肝心なものが隠されているような会見なんて茶番だ。国民を愚弄するものであると怒りを覚える。原発はどこが安全なのか、危険なものであれば幾重にも補完するものがあってしかるべきではないだろうか。こうこうこうなっていますから安全ですといっている割には、こうこうこうとなっていない。原発があらゆる危機管理意識の薄いことを象徴的に示しているような気がするが言い過ぎだろうか。

私たちは成功から学ぶことよりも失敗から学ぶことが多いのではないだろうか。そういう意味で今回は大いに学ぶべきことを提供してくれたのかもしれない。それにしては多くの人命を失ったその代価は大きい。

二十世紀は人類が求めた幸福が幻想であることを提示した。それを踏まえて、二十一世紀は人間中心主義から神中心主義へと舵取りをする必要があるように思う。従来のキリスト者ではなく、聖霊によって変えられた者とならなくてはならない。それを求める前に自分が答えを出さなくてはならないだろう。出来る出来ないはわたしの力ではない。老い先短いものに何が・・・。

2011年3月12日土曜日

東北地方太平洋沖地震

今朝の4時頃、北信の新潟県境にある栄村で震度6の地震があった。諏訪地区は震度3、ふたりとも寝ていたが家内はわかってわたしはわからなかった。ニュースで見るとすごい壊れ方である。昨日は昨日で、今もその関連放送ばかりの大地震があった。家内の話では、家でも相当揺れて、蛍光灯が大きく揺れたといっていた。関西でもゆれたらしいがわたしは図書館に本を返しに行って、その帰る途中の時間帯のようだが、歩いてて気がつかなかった。車などでもそうだが走っていると相当大きい地震でないとわからない。車で走っていて、いやに電柱や木が揺れているなと思って停めてみると地震だったりすることを経験している。

それでテレビをつけて観たら現場を映しているのが流れていた。しきりに津波の注意報を流していたが映像だけだから静で特別崩壊した建物もなく、この間の地震と同じようにたいしたことがないと思っていた。そのうち喚起するようなアナウンサーの声に、テレビに目を向けたら、満潮時のように漁港の市場の床に海水が溢れてきた。そのままゆっくりと流れは奥のほうに行って、そのうちかごが流されて戻ってくるではないか。それからはっきり記憶してないが画面が変わって、流れの先を追っていた。一面畑で、ビニールハウスや散在する家もまばらなところをドミノ倒しのようにして流れていく。

少し先の道路で小さな車を停めて様子を見ている人がいたり(そう見えた)、別なところでは事故かどうかわからないが大型トラックと乗用車が行き交うかたちで停まっており、トラックの荷台には人がいる。水が押し寄せてくるのが見えたのか小さい車は走り出したが追いかけるように水が迫ってくる。逃げれそうだと思ったらその先から回り込むように水が来て間一髪助からない。その先を走る車は見えなかったから駄目だったようだ。トラックの停まっているところは少し高くなっているようでまだ大丈夫そうだったがその後はわからない。でも後で見てあの勢いだと多分駄目だったのではないだろうか。 それと少し先の道路に何台かの車が普段のように走っている。あの様子だと駄目になったのではないだろうか。

遠くから撮っているから遅く見えるが車が60キロの走りとすると100キロ近くあったのかなと思った。思ったよりも早い。家内と観ていて最初はこの間と同じでたいしたことないと思っていた。それでもしきりに津波警報で高台に非難するようにとアナウンスしていたから、家内が早く非難すればいいのにといっていた矢先のできごとである。そのうち別の画面はたくさん車が流されていく映像が映し出された。まるで映画の洪水のシーンを観ているようである。勢いよく次々と飲み込んでいく様は、黙示録にある「女を口を開いて水を川のように吐き出しているへび」の姿を思い出す(黙13:15)。

夕方のニュースといっても地震から流れ続けているが、津波のすごさを見せられ、あの惨状は現実とは思えなかった。インタビューの中に「たいしたことないと思ったが避難するように言われたので高台に避難した」と言って助かった人がいた。いつでもたいしたことないと思っても助かる人と助からない人がいる。どう行動するかである。崖ひとつ助かるか助からないか、被害に遭うか遭わないか。不思議だ。
テレビの前にいれば色々と情報が入ってくる。しかし現場ではその情報ははいってこない。それとそれをどう受け止めるかは難しい。テレビより町の広報車を回していったほうが確実かもしれない。そのほうが説得力があるように思える。防災無線はどう機能したのだろうか。未曾有の地震、人のできないことは、舌を制することだけでなく、自然界も然りである。どこかに自分もそうだが、制せられると思っている部分があるのかもしれない。これからどうなるのだろうか、回復までに何年かかるのだろう。壊滅的な状態だから形態が変わってしまうかもしれない。 広島や神戸と同じようにたくましく息づいてくることを期待したい。

20、30と死体が見つかったというニュースを見るといのちの尊厳なんて思い浮かばない。戦争映画の死体が累々とあるのと同じ感覚になる。それでも助かった人、一人だけ助かって、家族が助かっていることを泣きながら願っていた人、車に乗っていて流され、その車が屋根に乗っかって助かった人もいた。それらを見ると、助かる人と亡くなる人の境はと思ってしまう。そして命の尊さ、素晴らしさを覚えさせられる。

原発のトラブル、信じられない。最悪の状態を想定して、そのための対処をマニアル化しているだろうに、考えられない。どこかがおかしいが考えられるのは、危機意識がないとしか言えようがない。原発の仕事をしている人が下請けは一番危険な仕事をやらさられているようなことを言っていたが何となくわかる。上に行くほど益分は多く、危険なことや汚れた仕事はやらない。デスクワークだけなのである。そして何かあると責任は現場に転嫁する。まさかこんな構図ではないだろうな、原発の怖さを教えてくれたできごとである。中部電力は原発のコマーシャルをやめている。原発は放射性廃棄物の処理を考えたら安くもないようだ。水力は電力量が少ないし、風力、ソーラーとかほかの発電方法を考えないといけない時代になったのだろう。

2011年3月10日木曜日

to be 出版

to be 出版社というのがある。その名称の由来が、
『「to be」という名称は、東京大学総長であった南原 繁(1889-1974)の言葉、「何かをなす(to do)前に何かである(to be)ということをまず考えよということが新渡戸稲造先生の一番大事な考えであったと思います」からとられました。 』とある。

いつ頃だったか、キリスト教界で「being」、「doing」という言葉が流行った。田中信生牧師の「そのままのあなたが素晴らしい」という本を持っているので、出版発行日を見たら1996年になっている。その頃の前後かもしれない。今でもこの二つのことばをみることがあるし、神の視点と人間の視点を見る思いがするから、新天新地が来るまでこの言葉は生きているのだろう。

わたしが集っていた教会は伝道に熱心で、信仰生活即教会生活であり、活動イコール信仰的を当然と受け止め、そのために犠牲になってもそれを犠牲とも思わなかった。何もしていないと罪悪感を感じることがあるのはその影響もあるのだろうかと思うことがある。そんなところに「何かをする」のではなくて「存在」していることが素晴らしいというう言葉は新鮮で生き生きしたものだった。多分その頃工藤信夫さんの本が出版されて読まれるようになったこともあったのではと思う。そのとき新鮮に感じたこの言葉がすでに半世紀も前にキリスト者が語られていたことに驚いたが驚く方がおかしい。そしてそのような信仰の在り様もおかしいと思うのはわたしだけかな。

出版社の由来を知るきっかけになったのは、1996年11月に「第3回南原繁シンポジュウム」「南原繁の信仰と思想に学ぶ」という講演会を聞きに行って知った。この集まりは毎年行われるみたいで、今年も11月に神田一ツ橋の学士会館で行われる。ここの資料とか本を作成していて、そのときはそれだけだった。

南原繁に興味を持っていたのは、吉田首相が「曲学阿世の徒」と言わしめた人物とはどんな人物だろう。内村鑑三を師と仰ぐなら無教会人だろうし、内村は聖書の勉強には簡単に入れてくれなかった。昔高橋三郎先生は聖書講義を聴きに来た若い学生に「ここは興味を持ってくるところではなく、真理を探究するところだ」と、教会などでは来てくれるだけでも歓迎するのに、興味だけなら来てはいけないことを言われたと聞いて、無教会の厳しさを感じていた。矢内原忠雄にしても、写真を見ると如何にもいかつい顔をしている。長谷川町子の漫画に、ぺちゃくちゃしべっている人たちが矢内原のカランコロンと下駄の音がした途端、ピタッと会話がとまる。そんな漫画がある。実はこの話を以前いた教会のHさんにしたら怪訝な顔された。彼女のお父さんは無教会の伝道者で若くして亡くなって、その友人であった矢内原がお父さんの代わりをしてくれたと本人から聞いていた。優しい人で全然怖くなかったといっていたが考えてみれば友人のお嬢さんで、その友人は亡くなって自分が父親代わりならそんなものかなと後で思ったことがある。外の顔は違うのである。Hさんに怒られそうだが。

そんな無教会のイメージがあり、吉田首相の言葉に「全面講和は国民が欲するところで、それを理論づけ、国民の覚悟を論ずるのは、政治学者としての責務だ。それを曲学阿世の徒の空論として封じ去ろうとするのは、日本の民主政治の危機である」と強く反論しているから、どんなにいかつい人間かと思っていた。しかし写真を見たら白髪の温厚そうなおじいさんであり、どこからそんな気骨があるのだろうと思わされる。高橋三郎先生が師と仰ぐ三谷隆正先生は端正な日本人離れをした端正な顔をしている。この方は若くして亡くなられたが非常に謙虚な方であると何かで読んだことがある。この方とは親友でもあるそうだ。

戦後最初の東大総長として選ばれたというだけでもその人そのものをうかがい知れる。それ以上に優れた教育者であることが優れた教育者が育っていることをみれば、教育とは対極にいる人間でもわかる。南原の次に東大総長となった矢内原はキリスト教の伝道に熱心だったが南原はどちらかというと教育に心血を注いだようだ。だから「南原繁研究会」なるものができ継続されて会がもたれているのだろう。このふたりは内村の弟子でどこか好対照である。

2011年3月2日水曜日

当然のように

先日テレビで18歳のときに事故にあって、それ以前の記憶を失った方が出演していた。家族を含めて人の名前の認識が全然できない。そして日常生活の記憶も失って、お腹すいてもどうすればよいのか、まさに生きる術の全てを失ってしまったから赤ん坊以下になってしまった。家族や周りの戸惑いは想像を超える。本人と家族の忍耐と努力、特にお母さんの働きが大きかったようで、少しづつ回復していったようである。

今、聖書を完成された書として手にして読んでいる。現在のように完成されたのは4世紀頃といわれる。そして聖書が個人の手に入るようになったのは印刷ができるようになったこの近世のことである。それまでは聖書は教役者の手にのみであった。多くの人たちの手を経て、戦いがあり、多くの血が流されているものを手にしている。

福音者の中にみるユダヤ人は強烈な選民意識がある。罪人として退けている人々はそれなりの生き方をしているのだろうが、彼らに対する一顧の哀れみもない。律法を手にして、神を自分の手の内に握っているようである。先人たちの命を賭けた働きがあって、今日の聖書がある。当然のように、あるいは選民意識をもつような気分になるが心していかなければならないぁと思う。

2011年2月27日日曜日

キリストの栄光

聖歌402番「おかのたてるあらけずりの」の歌詞の最後の部分に「じゅうじかのなやみはわがつみのためなり」とある。この言葉にクリスチャンであれば誰も否定する者はいない。

しかし、何故イエス様はユダヤ人に限らず誰もがつまづくような形で来られたのだろうかと思ったりする。勿論聖書のことばで説明はつくことは分かっている。しかしである。聖書の中によく逆説的なことが書かれている。これとも関連があるのだろうか。

当然のように受け取っているものを逆の視点で見るとまた違った展開があるのではないだろうかと思うことがある。あるいはそのほうが正しい視点であったりする可能性もあるだろうなと思う。良くこれは偶像礼拝だといわれることが良くある。お焼香もそのうちのひとつである。しかし、マモンについてはあまり触れることはない。ある面を強調すると肝心なものが見えなくなることってあるなぁと思う。こんなこともそのひとつのような気がするがどうなのかな。

2011年2月24日木曜日

雑感

ベルリンの壁やソ連の崩壊は誰もが予想しなかったできごとであった。それからか共産主義の崩壊が始まって、中国は以前からだが北朝鮮も抗議デモがあったようなニュースがあった。知識があるわけではないがこの二つの国も現状維持はないだろうなと思っている。意地悪ばあさんの漫画に「これから国際情勢を勉強しなければ」と、新聞を広げるのだが、結論は「スターリンもチャーチルも(だったかな)永くないなぁ」だった。回りがギャフンだがわたしも似たような程度だ。

30年も前に山本七平氏が「勤勉の哲学」という本を書いている。「副題に日本人を動かす原理」とあって、鈴木正三と石田梅岩という二人の思想から書いている。内容は忘れたが、帯に「日本人が働くのは金銭のためではない。労働を芸術にまで高めた、四百年の伝統に基づく独特の『哲学』のためである」と書いている。

わたしらの世代は「勤勉」という言葉はからだに染み付いているのではないだろうか。農家に育ち、小さい時から働いてきた者にとって、働くことは時として喜びにつながるものがあった。物を造り出すこと、あるいはお客様のニーズに答えられて喜んでもらえることがうれしかった。その対価としてお金をいただくのである。貧しくとも心にゆとりのある時代だったのかもしれない。儲けるという発想は少なく、というっより才覚がなかったといった方が正確かもしれない。この間のニュースで、30代の若者が生活保護を受け、生活保護者は治療費は無料らしい。具合が悪いと言って睡眠薬を処方してもらい、それを売って、ギャンブルなどに使っているみたいだった。金額は忘れたが結構なお金になるようなことを放映していた。怒りを覚えるというよりも悲しくなった。彼だけでなく社会がそのような方向に持っていったものも少なからずあるのだろうなと思う。額に汗して働くのは罪の結果であるが、それだけではなく喜びも付随してあるものだと思う。働くことがに喜びではなく、欲望を得る手段にしてしまったのかもしれない。あるいはその根底に哲学の無さがあるようにも思える。どこかの国のようにお金だけの発想に成り下がってしまった感も無きにしも非ずである。

世の中の動きも混沌としてきており、政治を見るとその最中にあるのかなと思う。現実の厳しさが増して、弱者であるわたしらは、もろに直撃である。しかし明治、戦後と混沌としたところから出発したが、そこに「人」がいた。今も「人」がいる。「勤勉」と「誠実」を失わなかったら、これからの日本に悲観することはないだろう。「井の中の蛙大海を知らず」的発想である。日本は、創造の神を拒む民族であるが神に選ばれた民族でもあるように思う時がある。すべての民は救いの対象ではあるが。

2011年2月22日火曜日

何もなくて

大分前から立ちくらみがし、間をおいているが温泉で二回ばかり貧血で倒れた。一度は疲れていてその上長湯をして、最近は温泉に入ると湯船から上がる時に何となくふらつくようになり、いつだったか湯船から上がって更衣室で体を拭きはじめたらスーと気を失ってしまった。

この間の大雪で、食後すぐ雪かきをしたら気持ちが悪くなりかけて、やばないなと思いながら家に入って玄関で横になってしまった。なんともいえない気持ちの悪さであったが数分か横になっていたら落ち着いてきた。家内に言わせると大分顔が青かったといわれ、気分が回復するにつれ顔色も良くなってきたようだった。それと本を読んでいたりすると右目の奥と後頭部が縦に痛みを覚えるようになり、血圧も高いので、脳梗塞とかの病気があるのかもと思って、いつか市民病院にと思っていた。

それで延び延びになっていたが今日行って来た。受付に看護師がいて状態を話をするとどこの課に行ったらいいか案内をしてくれる。結果は神経内科と眼科、神経内科ではわたしの様子を見て、たいしたことないよと診察もしない前に笑いながらいわれた。その後で血圧を測り正常で終わり。もしかしたら今まで行っていた医院が廃院になったので行き始めている医院がみんな診てくれるよといっていたからそのこともあったのかなとも思った。

眼科も白内障があるがこれは年相応とのことで心配ないとの事だった。その前に検査をしたら老眼が進んで、今のメガネでは度数が低いので視神経が刺激するのだろうとのことだった。たしかにテレビを見ているときはなんでもないのに本を読んでいるときだけ痛くなる。それに以前に比べて字が読みづらくなった。車を運転しているときもメガネをかけている方がいいといわれ、何となく納得。

この月初めに胃が痛くなり、一週間サクロンを飲んでも回復しないので医者に行き、カメラをのんだが何でもなく、きれいなもの。カメラも初めてで、がんの前兆かと不安を抱きながらのできごとであった。ものづくりフェアに医療器メーカーが血管の老化を測定してくれるというので、血圧が高いから測ってもらったら、硬化度、最高最低血圧、脈拍、脈圧、はグリーンの中、それに血管推定年齢というのがあって67歳、年よりも若かった。今のところなんともなくてよかったが、父親が脳梗塞で倒れているから、その気はあるだろう。心臓もどちらも弱いから年相応に気をつけていかないとと思っている。

2011年2月19日土曜日

ものづくりフェアー2011

「ものづくりフェアー2011」を18,19日とララオカヤとテクノプラザで開催していた。おもに地元企業が出展している。学校展示も小・中学校、高校の生徒の作品の展示と大学が幾つかPR ?で資料などを展示していた。



県外だと岡谷と言ってもどこと聞かれることが多い。いつだったか同県人で聞かれたことがあって驚いたことがあった。それほどに知名度は低いのである。諏訪湖というと大体あの辺かと分かってくれる。天竜川の源流が諏訪湖であることはあまり知られていないようだ。



企業の大きさは分からないが7,80社から出展しているのではないだろうか。光学、精密加工、表面処理、電機・電子、機械装置、計量器、医療・福祉と多岐に渡っている。何となく寂れた街という感がないでもないが中々だなぁと思った。大きい工場は数社くらいではないだろうか、後は小、零細企業では?素人の目ではあるが製品を見ているとその技術力はすごいなぁと思った。独特の技術をもった企業もあるようだから、こんなに技術があるのならもっと発展して欲しいなぁと思うが中国に工場が移って寂れた日本の姿がここにもあるのかな。この街は土地が狭い所為か大きい企業は伊那や塩尻などにに移っているようでもある。

昔は絹糸の産地であり、家内の実家の二階は養蚕場になっていて、その面影が残っている。街には昔絹糸を紡いでいたのかなと思うような木造の大きな建物を何箇所か見かける。今も一軒、繭から絹糸を製造している会社がある。


戦前に工場が疎開してきて、戦後、精密工場が発展してきたと聞いている。それと起業家精神も強い土地柄でもあるのかもしれない。カメラが全盛の頃はオリンパスとヤシカがあり、諏訪ではあるが時計のセイコーもあった。そしてそれが発展したのがエプソンであるがその中に会社や工場が岡谷にあったようである。設備の点検保守の仕事を始めた頃、機器のプリンターは信州精器製だった。部品の補充が利かないので駄目になった器械から部品を補充して直していた。そんなことを思い出して懐かしく思う。このメーカーがセイコーの関連企業でもあり、エプソンの前身のひとつである。

これからは今までと違った展開になっていくのだろうが今あるものを生かしてさらに発展していって欲しいなぁと思った。

2011年2月16日水曜日

確定申告

今日から確定申告の受付が始まった。正社員の仕事をやめて、パートをやったりして数年になるが最初の頃は還付金が戻ってきてにんまりしていたが、今は年金だけだから納めるだけである。それも昨年より少なくなっているのはうれしいが、それは収入が少なくなっていると言うことだから痛し痒しである。来年度も少し下がると思うからどんな申告になるか楽しみでもある。ホントは眉間にしわを寄せないといけないのだがなるようになるだけだ。この歳まで面倒見てくれた方に任せて・・・。

初めの時から申告も添付するものが少ななかったので、それ程難しくはなかった。今は国税庁のホームページから数字を打ち込むだけ出来上がるから超楽である。こちらでは三回目だが最初大勢の人が来ていてその順番に従っていた。昨年は資料ができていることを伝えら少し待っていたら受け付けてくれた。今年は午前中は込むので午後行ったら割と少なかった。受付で資料ができている旨伝えたらすぐ受け取ってくれて、納付書もすぐ発行してくれてホッとした。皆さんが待っている中をさっと済まして帰れるのは気持ちがいい。性格的に問題だなぁ・・・。

冬の間は寒いのでつい車に乗ってしまう。今日はそれ程寒くはなかったので役所まで歩いて行った。2キロ弱、久し振りで足が少しもつれる。からだを動かしていないと加速度的に衰えてくるのを実感する。温かくなって自転車に乗ったらさらに分かるだろう。緩やかな坂で行きは良いが帰りが分からない。多分帰りはひーふー言うだろう。言っても乗れればいいがそれも覚束ないなぁ。

2011年2月13日日曜日

召された

伝道者のOさんが召された。
かの有名なTさんがブログにOさんのことを書いている。同じ伝道者として立っている立場?からか、先輩の尊敬しているキリスト者としてからか。

わたしにとって、専心伝道者として立っていることだけで尊敬に値する。Oさんはその上に開拓伝道されている。京都、広島、そして三原と、信者を育てながら、時には拒否されながらもである。

最初の出会いは、栃木県の奥湯西川の旅館での夏の聖書の学び会だった。もう45年も前の出来事である。最後の日に司会者が感想をと言われたが沈黙が続いていたので「さっぱり分からない」とさらにしらけるような言葉を発してしまった。信じて間もなかったころだった。すかさずOさんが「信じたばかりだとしょうがないが来年も再来年も同じだと困る」と言われた。そうならないようにと聖書を読み、自分なりに努力したが困る状態は相変わらずだ。

そこから細く、長い付き合いだった。家内の実家で家庭集会をやっていた時、軽井沢や群馬の行き帰りに寄って下さって、その都度、東京から出かけて行った。いつだったか長女の方と来られた時があって、ここだと気を遣わなくてもいいからと言われたことが印象に残っている。この小さな集会に重荷を持ってくださり、ウィークデーで寄るのではなく、日曜日を使ってくださった。いつだったかある集会から寄ってお話をと頼まれた時、この集会による予定だからと断ったら、不思議がられたとそんな話をしてくれた。どこでも来て欲しいのに忙しいから来てもらえない頃だったから、「そんなところよりもうちの大勢の信者に話をしてくれたほうがみこころだ」と言うようなニューアンスが汲み取れる。あの方はどこか反骨的なところがある。

それと印象に残っているのは、「クリスチャンは雑巾のようなものだ。散々使ってボロボロになって捨てられる。それでいい。」と、頭で理解できるがそれでも現実にはと思っている。驚くのはそれを地で行っていることである。テープを送っていただいて、他の人のは、ここがと思うことはあったがそのようなことは何もなかった。それで集会の中でギャップを感じたことが懐かしい。みかん箱に三つか四つあったテープをどうしようかと考えていたら、韓国から来ていた方に何本か貸したら、全部聞きたいと狭い家なのに喜んで貰ってくれた。20年以上たったテープである。

キリスト者として資質が違う、わたしはその対極にいる。定かに覚えてないが「磨けば光る玉もあれば磨けば砕ける玉もある」と、彼は前者でわたしは後者である。こちらに来て、さらにそれを確信している。わたしはブログのタイトル通り、食卓から落ちるパンくずを拾って十分。

2011年2月11日金曜日

春が 

今年は雪が少ないなぁと思っていたら昨夜から少し降りだして今日一日降っている。今冬二回目の雪かきである。東京では4月初め頃によく大雪があった。これは春を告げるひとつのシグナルのようなもので、冬の最後の足掻きのようにみえる。三月いっぱい寒いが、今日の雪を見ているとそんな感じを受ける。この雪は関東地方にも降っているようだ。

日本人は冬の最中(さなか)、春はまだまだ先なのに、新しい年を迎えるに当たって迎春ということばを使う。これは厳しい冬の先に暖かい春があることの希望なのか、あるいは現実を直視するのを避けているのかどちらなのだろう。あるいは両方かな。

聖書は、私たちに希望や喜び、そして平安を与えてくださる。現実が厳しいから未来に希望を与えてくれるのではなく、たとえ現実が厳しくともその現実の中に希望を平安を与えてくださる。それは「神の愛」がそうさせてくださる。

「愛は…すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して耐えることがありません。…いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番優れているのは愛です」。(Ⅰコリント13:4、6、7、13)と。        

ことばだけでなく、その裏づけをイエス・キリストの十字架を通して与えてくださった。

「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力なのです」(ⅠコリントⅠ:18)と。だから「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:3-5)。

人生の黄昏は何かと厳しいが永遠の春はすぐ近くに来ているのである。

2011年2月9日水曜日

ムラサキシキブ 

昨夜少し雪が降って、ムラサキシキブの木の周りに鳩が来たようで足跡があった。この木は、冬は枯れ木のようになってまことに貧相だ。しかし春に枝の先端に小さな葉が出てくるとあれよあれよと葉が鬱蒼と生えてくる。そして小さな花が咲き、実がたくさん成る。

葉が枯れて実だけになると、どこからか小鳥が来てその実を食べる。雀や鳩、名は分からないが色々な小鳥が来てついばんでいる。食べやすいところから食べて、ついに実はなくなったがそれでも時々来て地面に落ちている実をついばんでいる。

不思議に思うのは、ほとんど鳥など来ない所なのに、晩秋からこの季節になると来ることだ。それと窓越しで動いていてもすぐ逃げていく、視力がいいからだろう。人が食べないものでも植物が実を結ぶということはこういうことなのだと分かる。小さな花が咲き、実を結ぶこの木は鳥たちにとっては貴重なものなのである。神様の配慮を思う。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。マタイ6章26節

2011年2月6日日曜日

心に留める

黙示録の一章三節にこのようなことばが書かれている。

「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人は幸いである。時が近づいているからである」。

週のはじめに集まり、みことばを読み、賛美し、祈りをする。人の側から見れば小さな集まりであり、見栄えなき集団であるが、主は幸いなりと祝福を与えてくださっている。うれしいことだ。慰められる。素直に喜ぼう。

2011年2月3日木曜日

春はまだ先だが

一月は寒かったが月が変わった途端に少し温かくなった。冷え込みも緩み、日中も暖かさを感じる。今日布団を干したが膨らみ方が違っていた。少しでも寒気が緩むと何となくほっとする。といっても今日はマイナス5℃の6℃である。ということは一月が如何に寒かったということである。最高気温がマイナスの日が何日かあり、最低気温はマイナス10℃前後がかなりあった。それでも諏訪湖は全面結氷は無し、御神渡り(おみわたり)も期待していたようだが無しだった。まだ春は先だがこの暖かさで氷は解けてきているから、これからは無理だろう。

寒いところに住んでいると太陽の日差しと温かいことが如何に恵みであるかを実感する。聖歌の中に「原に若草が」という子供向けの聖歌がある。春が近づくと必ず礼拝で歌っていた。子どものような気持ちになって歌えるのである。残念ながらこちらでは礼拝賛美歌しか使わないので歌えない。

1、原に若草が青く萌え出すと
  雪解けの水が高く音立てる
  (くりかえし)
  私たちも春の喜びを歌おう
  春を創られた神様をを歌おう
2、風がやわらかく野原を通ると
  木の枝が揺れてさらさらささやく
3、遠くで家畜の声が聞こえると
  近くで小鳥が何か歌いだす
4、創られたものは春の日を浴びて
  春を創られた神様ほめている

2011年1月30日日曜日

ヘボン

図書館でヘボンに関する本を探して検索したがあまりなかった。その中から選んで「愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ」と「ヘボンの生涯と日本語」を借りてきて読んでいる。「ヘボン書簡集」も有って読みたかったが風樹文庫(信州風樹文庫http://www.5884atease.com/kanko/hujyu/bunko.html)にしかなかった。ここの本は借りられないのでいつか近くに行ったとき拾い読みしてみたい。「愛を…」は読み終えたが、最初手にしたとき表紙は絵で、字もルビつきでよく見たら小学校中学年以上向けの本だった。読みやすく、もちろん分かりやすかった。作者はキリスト者らしくヘボンをキリスト者としての視点で書かれている。「ヘボンの生涯…」は細かい字で詳しく書かれているから読みづらい。内容的には同じだから「愛を…」はダイジェスト版のような感じを受ける。私にはこの方がちょうどいいなぁと思った。レベルは小学生中高学年、彼らに失礼れかな。

ヘボンはヘボン式ローマ字を創ったくらいしか知らなかったがお医者さんであり、聖書の翻訳や明治学院を創った。明治学院はライシャワー元アメリカ大使のお父さんが先生だったくらいしか知らない。卒業生は何人かは知っているが。読み始めたばかりだから追々彼の働きのすばらしさが分かるだろう。楽しみである。

2011年1月24日月曜日

昼は冷蔵、夜は冷凍

朝起きてファンヒーターの電源を入れると温度がでる。今朝は4℃、最近は大体2℃とか3℃が多い。当然結露しているところは凍っている。最初10℃を切ったら寒いなぁと感じたが今は4,5℃だとそれ程でもなくなった。同じ温度でも朝より夕方日差しが弱くなってくると寒さを強く感じる。体感というものは結構いい加減なものだなと思う反面、何事も数値が正しいものではなく、案外体感の感覚が生活するには大切なのかもしれない。

どこで測っているのか判らないが諏訪地区の毎日の最高気温、最低気温などが気象庁のデータとして記録されている。他にも記録されてあるがこの二つしかみない。それによると最低気温は毎日マイナスで、マイナス10℃が2日ある。一月の最高気温は5℃で、3日ばかりマイナスがある。昼からパーシャル状態、夜は冷凍状態で、家の中は暖房を入れなければ冷蔵状態である。下手をするとパーシャルにもなる。これが二月、そして三月のどの変まで続くのか、日の入りは勿論、日の出も少しづつ延びてきた。春はそう遠くないがそれでも後一月あまり…。

2011年1月19日水曜日

人間は何をしてきたのか?

フォトジャーナリストの桃井和馬氏が書かれた本の題名である。「希望へ!」が本題かな?フォトジャーナリストとして世界中を回って、副題にー悲劇の現場をめぐってーとあるようにそんなところを4箇所ピックアップして書かれている。不法伐採されていくボルネオの熱帯雨林、成人の20パーセントがエイズに感染している南アフリカ、チェルノブリの原発事故でのベラルーシ、ルワンダのフツ族によるツチ族へのジェノサイド。

「人間は何をしてきたのか」と問いば「貧富と差別を生み出し、人間のエゴを露にしてきた」のではないだろうか。近代文明は、豊かさと利便性をもたらしたが、そこには人間の驕りと高ぶりを露にし、自ら滅びに向かっていくようなことをしてしまった。今大きな代価を払って、そのことに気づき始めて、そこから学ぼうとしているようだ。また学ばなければ「滅び」しかないことも分かってきたのかもしれない。「人間は自然の営み中に組み込まれている」ことを学ぼうとしているが、未開人と言われている先人たちは既に知っていたのである。

桃井氏は、悲惨な現状を指摘しながら、そこで生活している人たちや活動している人たちを通して、絶望ではなく希望を提示しているようである。それと問題が起きている対極に思い込みで動いている現実があると指摘されていたがよく分かる。何か知りたいと思ったら、①思い込みを捨てる必要がある。②事実を丹念に集める必要がある。その上で、③自分の頭で考える。この三つのプロセスが重要であると書いている。先の戦争を思うとまさにこの三つが欠落していることが分かる。クリスチャンでも極を少数を除いてはここから漏れることはなかった。すべての人はこのようなことはできないから指導的な人の責任は重い。ジェノサイドもこのような人たちの働きが大きかったようだ。

現代は気をつけないと思い込ませるような偏った情報が発信され、そして間違った情報で判断してしまう危険性がある。真実と偽りを見分ける目がないと簡単に惑わされるなぁ。信仰生活にも適用できそうだが、わが霊の眼はまこと覚束ないから…。