2011年4月23日土曜日

ヘボン

キリスト者でありながらヘボンをヘボン式のローマ字を作られた方くらいしか知らなかった。「坂本龍馬を切った男」で一時話題になった「聖書を読んだサムライたち」(守部喜雅著 いのちのことば社)の中に、ヘボンという言葉が少し?載っていた。図書館からヘボンに関する本を借りてきて、初めてヘボンの業績が分かった。

四十代で医者として成功し、財も名誉も得ているのに、それを処分して日本に来ている。三人の子どもさんを幼くして亡くされ、12歳かであった子供さんをお父さんに預けての来日である。日本が大きく変わろうとしている時期に、命の危険のある物騒な中に、それとその信仰姿勢である。医者としては、日本人しか診ないという、特に市井の人の中に入っていこうとした。色々と障害があって実現するのは難しかったようだが日本人の中に入っていこうとしている様子がうかがえる。それはもう一つの目的「和英辞典」の編纂に必要性でもあったようだ。今でも通用する辞典のようで、これは宣教師に限らず外国人が日本語を知る大きな助けになったようである。「和英語林集成」は日本語聖書作成の複線にもなっているようだ。「日本語聖書」作成も超教派として、宣教団体のエゴを排除しようとしている。

日本での宣教の失敗は、送り出している宣教団体のエゴがあると聞いている。内村鑑三もそれでぶつかっている。戦後も然りである。あの当時でもそのような働きがあったにも拘らず彼はそれを排除して、日本人に福音が届きやすいように最善を願い、尽くし、そこには「私」がなかった。その最後が明治学院の創立である。

彼が創設に深く関わった明治学院の名前は知っていたし、集会の人であそこを卒業された人たちが何人かいることも知っている。私と同年代の姉妹があそこの夜間を卒業されたと聞いた時、彼女の向学心の強さに感服し、あそこを選んだ彼女の姿勢に敬服していた。それまでは知っている卒業生を見ていると、と?をもっていたが、歴史のあるキリスト教主義の学院であること、それは建物が古いというだけでなく、建学の精神が素晴らしい。それは今でも生きているような気がする。卒業生を見ても…。

日本はこのような人たちによって福音が伝えられたということは大きな感謝であり恵みである。それ程までに福音に価値があるということだ。皮相的な自らの信仰を恥じるが、かといってそれ以上のものを求められても私のうちにはない。でも改めて福音の価値の素晴らしさをヘボンの日本での働きを見て思った。しかし、クラーク博士もそうだったようだがヘボン夫妻もアメリカに帰ってからの晩年の生活は必ずしも恵まれたものではなかったようだ。天に豊かな報いがあることを信じて。

2011年4月19日火曜日

大本営発表 

枝野官房長官はまじめそうな人だ。しかし官房長官の原発の報告を聞いていると昔の大本営発表とどこかダブル。嘘は言ってないだろうがもっと大切な事実は言っていないような気がする。後手後手のような発表をしている避難区域拡大や原子炉の状況の報告を聞いているとそんな感じを受ける。すでに分かっていることを最後の最後まで公にしない。正直に危険性を発表して国民に理解を求めたほうがいいと思うが原発行政が間違っていることを告白するようなものだから勇気がいるだろう。正直言ってそんなことは出来ない。それより行くところまで行って被害を大きくしてからでないとできないような気がする。

今年の初めにNHKが四回のシリーズで「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」を放映していた。私は三回目かを見ただけだったが驚いたのは戦争に進んでいく過程があまりにもいい加減なのに驚いてしまった。後でHP を見たら『日本のリーダーたちは、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、最後まで勇気をもった決断を下すことはなかったのである。』と照会文の最後に書かれている。http://www.nhk.or.jp/special/onair/110306.html
それと今回の過程を見ていると全く同じなのに驚いてしまった。走り出したら止めることができない。そして末端の人たちに付けを回して、彼らは何もなかったように去っていくのだろう。国を思い、人を思うことはなく、自分の立場や組織、そして現状を守るということしかできない。

もう避難した人たちの多くは元に帰ることは出来ないだろう。補償も彼らが満足するには程遠いものになるような気がする。国民も税金を使うことに反対するだろうし、東電が地元に払った金額がその一部にされてしまうかもしれない。踏んだりけったりである。

民主主義とは少数者の意見を聞くというかそのような意味合いがあると何かで読んだ気がする。違った意見は排除することはあっても受け入れることはありえない。原発反対者に対しての理解を示してそのための手立てを少しでも考慮に入れていればこんなことにはならなかっただろうにと思う。出来ない相談だが。

最も危ないといわれている浜岡原発はわが中部電力のものである。あそこが可笑しくなったらもろ影響を受ける。あそこは傍観者ではなく、即被害者になる所だ。しかし危ないといわれているものが危なくなることはないような気がするがどうだろう。だからといって安心しているわけではない。原発もクリーンだランニングコストが一番低いといわれているが放射能を含んだ廃棄物の処理はその念頭にはない。それを考えたら高いコストになることは間違いない。 原発はやめるべきである。

2011年4月11日月曜日

311

震災から一ヶ月、各TV局 では特集を組んでいる。映像は繰り返して放映されているものだから少々うんざり、アナウンサーの声もどこか仰々しい。しかし少しづつ片付いていく様子を見ていると、その先をどのように形造っていくのだろうという大変さと楽しみがある。

原発を見ているとトップの決断力や姿勢が如何に大切か、優秀な頭脳が企業を左右するものではないことを教えてくれる。これは政治の世界でも小さな集まりでも上に立つ者の姿勢は変わらない。私には決断力も識見もないから、たとえ小さな集まりでも上に立つつもりもないし、その器でもない。

 原発を知らなければ、人影のないどこかのどかそうに見える田園風景が映し出されるの見ていると何が起きたのだろうと思わされる。被災地の人たちは今注目されているが少し経つとマスコミをはじめ日本人は他のことに目を向けていくだろう。残された人たちの戦いはこれからだ。十年、二十年というスタンスで物事を捉えていかないといけないかもしれない。忍耐が必要だろうが頑張って欲しいし、そしてこのことが日本という国が変わっていく一つのきっかけになれば決して意味のない出来事ではない様に思う。二万七千人からの犠牲と放射能汚染の上に立っていることは大きい。

2011年4月7日木曜日

三つのうめき 

ロマ書8章に被造物、人(キリスト者)、御霊の三つのうめきが書かれている。特に被造物のうめきでは高橋三郎先生のロマ書講義の解説の中で強い印象を受けた。御霊は贖うためのうめきであり、被造物と人は贖われるためのうめきである。 聖書を含めて知識は素人であるが、今回の地震や原発事故を通して、それなりに色々考えさせられ、また教えてくれる。被災者や原発の現場の人たちの痛みとか苦しみを思い浮かべるが、しかし本人でなければ、痛みや苦しみはわからないだろうなと思う。安易な同情心は当事者に対して失礼、ロマ書十二章十五節に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とあり、傍らに立たなけえれば分からないことだろうなと思う。 被災地の中で、原発の現場や背広組の中でのうめきが聞こえるようである。しかし考えてみるとこのうめきは自ら選んだ結果ではないだろう。人間がもたらしたものであり被造物はその選びが出来なかった。神は被造物を人間の添え物として創造されなかった。かれらのうめきは人間の比ではないような気がする。真の贖いなくしてうめきからの解放はないであろう。一つ一つが産みの苦しみにつながるものではないだろうか。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ロマ8:22)

2011年4月6日水曜日

新しい天と新しい地

ペテロの手紙第二の三章に終末を思わせる箇所がある。ペテロは最後に「・・・新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」と締めくくっている。このような天変地異や今の世の中の動きを見て、終末が論じられる。ある種の恐怖感を煽るようなもっていき方はどうだろうと思うことがある。 テサロニケ第二にある空中再臨、これが七年の患難期の前か後かとの論争がある。患難期後であると大患難に耐えられるかとの懸念があり、結論付ける知識はないが、どちらが正しいかは個人的には定かでない。今回の地震と津波、それに原発の様子を見ていて、これが有史以来初めての出来事ではなく、絶えず繰り返されてきたことである。私たちはそのような基盤に立って生きてきた。それに英知を持って時には克服してきている。新約の時代になって、まもなくユダヤ人は悲惨な経験をされる。勿論キリスト教徒も同じような経験を繰り返ししてきた。人と人との関係の中に、自然との関係の中にその基盤が如何に脆いかを教えてくれた。 今は、その脆い基盤の上に生きなければならない。しかし「…神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」と言われたものが、アダムの罪によって損なわれたとしても、すべてが反故になったわけではなく、約束された「新しい天と新しい地」が備えてくださっている。患難も再臨もそこに行く過程と見たら失礼か。約束の地は新天新地なのであるとそこに目を向けたいなと思っている。

2011年4月5日火曜日

思うが侭に

今ヨブ記を読んでいる。十二章十五節に「見よ。神が水を引き止めると、それはかれ、水を送ると、地をくつがえす。」という言葉に引っかかった。中国内地の旱魃は大変みたいだし、今回の津波は想定をはるかに越えている。その爪あとは大変なものだ。「地をくつがえす」この言葉を実感させられる。                                                             その前にこんなことばがある。 「しかし、獣に尋ねてみよ。それがあなたに教えるだろう。空の鳥に尋ねてみよ。それがあなたに告げるだろう。あるいは地に話しかけよ。それがあなたに教えるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。 これらすべてのもののうち、主の御手がこれをなさったことを、知らないものがあろうか。」 ヨブ記十二章七節~九節。                                         ここを読むと、神を知らないのは人間だけではないのだろうかと思わされる。これらのものから学ぶ謙遜さを失っているような気もする。                                          創世記一章の二十六節に「「…地のすべてのもの、…支配させよう。」と仰せられた。」とある。原発の収束のメドは立っていない。真実はどうなのか分からないが、色々と問題点が指摘されている。それとあわせて、この言葉が何となく考えさせられる。「地のすべてのもの」を支配させると言われたことはどのような犠牲を払ってでも、人はそれをやらなければならないということなのだろう。まさに「神の慈愛と尊厳を見よ」である。