2011年8月30日火曜日

50周年

昨日は以前に集っていた教会のkさんがわざわざ東京から訪ねてくれた。今年の3月かに責任者を降りて、軽井沢のシニアのスタッフをやったり、教会の歴史を纏めている。その原稿をメールで送ってきて補足すべきことか間違っていることがあったら教えてとの事だった。家内と読んでも特別補足することもなくまた訂正すべきこともなかったからその旨メールで連絡する。むしろこんなことあんなことがあったのかと知らないこともあって、そうだったんだと家内と話をしていた。メールで淡々と書かれているので重要なところはもっと肉付けしたらと、一般論的に書いた所為か、会えば何か思い出すだろうということで訪ねてくださった。

しかし、正直言って、どこでもアウトサイダー的だからそんなものはなくて、表にできない裏的なものは結構あるのだがそれは匂いだけくらいにして、これはあまり役に立たない。むしろ雑談的なことが多く、食事をともにし、4時ごろ帰られた。翌日は浦和の先輩のクリスチャンであるAさんと来月は築西市のKさんに会えに行くというご苦労さんです。彼らの方が遥かに色々なことを知っているからここまで訪ねてくることもないだろうと思った。しかし教会で古くから共に居たファミリーは彼らを含んでふた家族しか居なくなったから懐かしさとゆっくり交わることもなかったからいい機会かなと思って了承したのである。

丁度50周年になるので記念誌を作ろうとしているのでそれに間に合わせようとしているらしい。最初はその目的ではなかったがそうなってしまった。資料として残すものと記念誌に載せるものと二つ作るそうだ。宣教師が米軍のチャペルを譲り受けて、私が集い始めた頃も結構なぼろだった。建て替える前は、寝ていると変な気分になるほど床が傾斜していたそうだ。それに雨漏りもひどく、それで10年前に建て替えたのである。

今は礼拝にはいっぱいで下手すると座る席がない場合もあるとか、それに集う人数にばらつきがあるそうと聞いて少し気になった。これからの課題を聞いたら株分けの問題だと言われ頷く、株分けの機運が盛り上がり、株分けされたら本物かなと思っている。地方は因習、都会はマモンとの戦いがあるがそういう戦いはなさそうだ。10人にも満たない小さな集まりであるが大勢集っている教会がそれほどうらやましいと思うのはなぜだろう。出て行く教会ではないからだろうか。株分けを期待し、祈っている。

我が集会は今一元気が、落語の「長屋の花見」を思い出す。長屋の住人が持ち寄りで花見に出かけた。それで酒を酌み交わしたら水だった。俺一人くらいは水でもがみんながそうだと水になる。誰かではなく自分がと思ってもこればっかりは頑張っても何とかなるものでもない。いつも問われる霊の世界である。

2011年8月27日土曜日

曖昧を旨として

よくアクセスするブログに「規格外クリスチャン・・・」とサブタイトルをつけているブログがある。なんとなくわかる反面、規格外ってあるのかな?という疑問がある。まぁクリスチャンという名前は広義で見るか狭義で見るかで変わるであろう。しかし、規格外ということはその対極にある規格外でないものがあることを教えている。

「隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン」(小岸 昭著)の中に元長崎市長の本島等氏のことが書かれている。「天皇の戦争責任はあると思います」発言で物議をかもし、そのことで銃で撃たれたが幸い命を落とすことはなかった。私の知識もこのくらいのものだったが、この方は隠れキリシタンの家柄で生まれ、おじいさんは明治政府のキリシタン弾圧の拷問で折られた脚を生涯引きずっていたそうだ。日本人は広島、長崎の原爆投下に対して被害者意識はあるが大戦での加害者意識が欠落していることを指摘されている。自虐史観と批判される人も居るだろうがこれも事実である。

自分も含めて人は被害者意識はあっても加害者意識は希薄である。あるいは被害者意識のみの人も少なくない。自虐的でもいけないが被害者意識の強い人よりも、物事がより客観的に見れるのではないだろうか。そのような立場で見ているからそうなるともいえる。どちらにしても何かを守ろうとすると客観的な見方はできなくなる。それはどこでも見られる。キリスト教会とて同じことが言える。

客観的な見方は他者の立場に立って見る事ができるのではないだろうか。先に何かを是とするとき、それが欠落する。本島氏を襲った人もそうだろう。本島氏はそのために命の危険に晒された。ある意味で命がけのことなのだろうと思う。傍観者的生き方の人間としては・・・。

傍観者的生き方とすれば、天皇の戦争責任問題もそうかもしれない。菊のタブーで沈黙していても、この大戦は天皇が意図したことでなかったとは故、天皇の名のもとで 諸々のことが行われてきた。そのことを声を大にしていう人は少ない。言えばいいかというものでもないし、かといってみんなわかっていることを沈黙することもなんだと思うが国民から尊敬されているからなお難しい。色々というほど知っているわけではないが見ていると責任の所在が曖昧になっているのを見る。だから取りようがないともいえる。この曖昧とした生き方は問題が出ると誰も責任が取れないようになっている。しかし権力を持つ者は上から下までその笠を行使する。そして責任を取る段になると・・・。そういう構図だ。曖昧を旨としてきた日本は、今問われているのかもしれない。政治の先送りもそんなところにあるのかな。

2011年8月23日火曜日

再インストール失敗

ネットやメールとワードやエクセルしか使わないのだが画面の案内に従って無定見にインストールしている所為か段々おかしくなり、ワードでローマ字変換はできるが周りの記号の位置が違ってきたり、立ち上がりが遅くなったり、なんとなくやりづらいので再インストールした。再インストールしたがネットがつながらず息子がきたときに見てもらったらドライバーが入っていないということで入れてもらい、マカフィーから無料のセキュリテイに、丁度更新で、すでに手続きされていたが返金してくれるとのことで五千円助かった。まっさらになったが正常に戻り助かる。

冬といっても6月初めまでコタツを使っていて、PCを机とコタツの間を往復して、外付けのHDDも一緒に移動していた。その所為かHDDが壊れ、再インストールするので外付けのHDDを買ってきてインストールしておいた。それで再インストールしたがネットが繋がらず、HDDに入れたものもやっているうちに消えてしまった。確認したのだがもしかしたら入っていなかったのかもしれない。知識もないのにといつも思う。

息子が直してくれるまで一週間ばかりあって、その間PCは使えなかった。お陰で静かなのんびりした一週間だった。今までは色々なものを入れていたがこれからは絞って身軽にしていこうと思っている。幾つかのターニングポイントになるような予感のする一週間でもあった。と書きながら文章を書くのは結構な時間を食うし、直ってからネットサーフをやっている。こちらに来て3年、信仰的な面でも考えさせられている。

2011年8月21日日曜日

半世紀前からの話

半世紀も前の話。
最初に就職したのが和文タイプライターを製造している会社で組み立てをやっていた。ドリルで穴を開け、タップでねじを切り、やすりで削って組み立てて、出来上がるまで二日から三日かかった。

和文タイプライターは、当時は花形で公文書作成には欠かすことができないもので、ワープロが普及しても公文書作成には採用されず大分経ってからだったように記憶している。当時の花形でも今博物館に行ってもない代物ではないだろうか、念のためにインターネットで「菅沼タイプライター」と検索したら、創業者の名前もあり、これは「歴史が眠る多磨霊園」というブログを書いている方の中にあり、そこには創業者の経歴が乗っていて、私が辞めて間もなく亡くなっている。辞めてまもなく労働争議が起こり、会社は倒産した。その後どのようにして始めたかわからないが稲城の方で会社を興している。

検索の中で、日本タイプライター製であるが戸籍用で今も現役で使われているらしい。電子タイプとかになって当時のものと大分違うがそれでも大分古いものらしい。個人的に和文タイプライターの収集を趣味にしている方がご自分が収集したタイプライターをひっくり返して活字がばらばらになり、それを入れるのに3時間もかかった旨のブログを書いていて、その中に写真が載っていたのが近い形だった。超過去のものかなと思っていたがそうでもなく、それなりに何かの形で留めているのに驚く。

田舎に居たときには、屋根にアンテナを張り、スパイダーコイルを手作りで巻いて鉱石ラジオを作り新潟のNHK放送をかすかな声をイヤホンで聞いて喜んでいたいたり、真空管式のラジオもラジオ雑誌の中に図面入りの本を買ってきて、部品を集めて組み立てていた。あの時には電気屋さんに部品を置いていたなぁ。上京してからはもっぱら秋葉原通いで、エスカレートしてアンプなどを組み立てるようになった。あの当時はパイオニヤはスピーカーメーカーに過ぎなかった。その秋葉原に20年近く働くようになって、その不思議さを覚える。休みを取って、一人寮で窓が響くほどの音量でレコードを聞いていたら、事務所が工場を挟んで先にあるのに、部長がわざわざ来て、隣近所に迷惑だからと言われたこともあった。ある時オーディオメーカーの人に「音楽が好きと言っても低音が出るとか出ないとか、高音ののびがとか言っているだけ」と言われたことが印象に残っている。確か同じ「音楽」でも質も内容も違う。

あの当時テレビ放送が始まっていて、丁度社長が紫綬褒章を受けたので、その記念に食堂にテレビを備え付けてくれた。その年の慰安旅行のバスの中では最初から最後までコマーシャルソングばかりを歌われていたのが印象に残っている。テレビを見るだけでなく、そのテレビに興味を持って、あの当時テレビ学校が次々と生まれてきたので、そのひとつに通うようになって、そしてテレビの修理がしたくて会社を辞めた。会社を前に辞めた方の下宿に居候しての転進である。

当時、テレビは高価で一般には手が出なかった。メーカーが日本で販売する物とアメリカに輸出する物の価格の差額の大きさが問題になった頃でもある。そんな中で秋葉原のある会社が自前でテレビを製造して販売していた。テレビキットとしても売っているのを買ってきて、組み立てて月賦で販売している小さな会社で働くようになり、そこで組み立てと修理をするようになり、趣味が仕事になったようで楽しかった。その会社も輸出用のアンプを造るようになり、そちらにも興味あったが、お客さんのアフターがあるので、それを引き継いでくれた方のところで働くようになる。そこもある店の修理を受けていて、そこはメーカー品だから修理が簡単だった。組み立て品は回路がはしょっているからとんでもないところに故障の箇所があった。

修理を受けていただけだったが事情があって社員となって働くようになる。その店は、ナショナルバンクをお客としていたので、仕事がしやすかった。店の主人が亡くなって、店に卸していた会社が秋葉原に販売店を持っていたので私一人引継ぎで移ることになり、そこで20年近く過ごすことになる。時々テレビのニュースの中で建物の外形が映し出されるとあの中を歩き回っていたなぁと懐かしく思い出す。職員でも行けないところを仕事の特権で出入りしていたのではないだろうか。ある時は、地下で銀行に貸し出す何々銀行何十億というパレットに積まれた現物の間を出入りしたときがあった。テレビのセッテングでこれがバンカーの最終目的かと「総裁」の椅子に座り心地はよくなかったが座った。

今天下りが問題になっているがあそこもそうで、ある短資会社ではトップが天下りの人ばかりだから生え抜きはトップになれないと言われていた。お陰で、トップは勿論、定年で主要なポストについている方がお客さんで仕事ができたから感謝している。あの当時は短資会社は三つしかなかったが今はひとつになっているのではないだろうか。なんとかフォレックスとテレビの画面で見るとここも懐かしい。何を書きたかったのだろう。









2011年8月5日金曜日

霧ヶ峰高原

この二日にシニアの集まりで、「霧ヶ峰高原ボランティア活動・焼肉会とマレットゴルフ行楽会」と少し長ったらしいタイトルであるがその集まりに参加してきた。マレットはやらないで、その後の参加になった。マレット・ゴルフ場近辺の清掃だったが殆どゴミはなく、その隣にあるキャンプ場での昼食を兼ねた焼肉会をにぎやかに行なう。毎回参加するわけでもなく、ただ参加のみであり、余り会に貢献していない。それでも焼き方をやりながら、和気藹々と焼き、食べ、片付けて、それなりに楽しかった。

皆さん諏訪地区は地元で庭のようなものだが、私は外様であるから久しぶりということもあって観光気分である。皆さん左折して降りていくのを私は右折して強清水を素通りして、車山肩と行く。標高1600前後の高原の頂上付近を走るのは気持ちがいい。車山肩で車を止めて、少し散策する。ニッコウキスゲが真っ盛り、実にきれいだ。デジカメだとうまく撮れない。一眼が欲しくなる。シーズンオフだと殆ど車は止まっていないがほぼ満杯状態。勿論県外ナンバーばかり、あっても長野ナンバーが一台。早々にそこを後にして、強清水で右折して八島湿原に向かう、何度も通った道だが、久し振りに走った所為か結構ある。そこで駐車場に車を止めて広場から湿原を眺めただけ、そこから下諏訪のほうに降りる。狭い道を下までは結構あった。それと狭い、対向車線があったらと思う所がいくつもある。幸い一台のみで少し広いところで待機できた。信州はこんな道が結構あるようだ。塩尻から行く高ボッチもしかりであるし、前に長谷村の先に行った時もそうだった。下栗の里も然りだったなぁ。こちらに車では信州は観光県、道路案内は良いというイメージがあったが今はその逆、案内が途中で消えることを何度も経験した。温泉もあり、自然は豊かだが、諏訪という地域の所為もあるかもしれないが人が・・・。

霧ヶ峰というだけあって、天気が崩れかかってきたので、走っていると霧で少し先は見えない。ヤバイと思って走っているとその前方付近は大丈夫良く見えた。下から見たら雲に覆われているように見えるのだろうなと思う。今度くる時は車山に登れるようにしたい。高ボッチの待伏山、 入笠山にと思っている。腰を痛めて、一度は断念したがハイキング的な山ならまだいけそうになったので、少し頑張ってみたい。前向きに考えると何となく元気が湧いてくる。「青春」という詩を思い出した。
中川語録(自分で勝手に命名)によれば、信仰に大切なのは、自発性、奉仕に必要な知識と能力、そして幻だそうだ。みんな欠けているなぁ。それでもへこまず前向きで・・・。