2011年12月27日火曜日

負の遺産

クリスマスの前後のことを書いていて、前からわかっていた事ではあるが発想が否定的であることを確認させられた。しかし、聖書は肯定的だと思っている。創世記に蛇が女に疑問符を投げかけるが神ははっきりしている。食べたら死ぬ、信じたら救われる。あなたは高価で尊いとぶれる事はない。そして、もしは入らない。サルにはもし?が入ってくる。だから斜に構え、前向きではない。罪の結果のそして育ってきた環境の中で培われたものをひきづっている。召されるまでこんな身体をひきづっていくのだろう。ハレルヤと叫べる人がうらやましい。何時かそう叫べるときが必ずあることを思いながら・・・。
追伸
みんなが右と言っている時に左を見る人も必要かも。


2011年12月26日月曜日

クリスマスが過ぎて

クリスマスイブもクリスマスも過ぎてしまった。相変わらず何をするでもなかった。意図的ではなくジ間的にである。ノンクリスチャンが「メリークリスマス」と言ったからといって文句を言うつもりもないし結構なことだと思っている。洋菓子屋さんのデコレーションケーキのショーケースの前の人だかりを見て、違う家族が同じ人の誕生を祝うとしているのかと単純に喜ぼうとしている。現実は親は子供たちが喜ぶ顔を子供たちはケーキを食べれるうれしさの故であろうことは良くわかる。

イエス・キリストの誕生を単純に喜べない一つに。神が人とならなければならないこと、受胎したときから人としてのいのちの危険にさらされていなければならないこと。サルのように何とかなるさと適当に生きて、何ともならない生き方とは違うのである。私にとって最も大きいイエス像はイザヤ書53章のイエス像である。個人的にはこれが愛の凝縮した姿かなと思っている。愛は複雑だ。能力によって価値を見出すのなら楽である。必要か必要でないか役に立つか立たないかだけでよい。しかし、存在しているから価値があるというのはある面で厳しい。人間にはそんな価値観はないように思う。あるとすれば親が子に対する思いがそれに近いのだろうか。サルには希薄である。サルにとって救われることよりもこのキリストと一体になれたらなぁと思っている。無理な相談であることは百も承知している。否、無理と言うよりその対極にいる。でもクリスマスを機会にこのことを考えてみたい。進展はないであろうが。


私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。


まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。



彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。



しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。  イザヤ書53章

2011年12月25日日曜日

オクラホマ

何でか忘れたが検索していて、ミュージカル映画「オクラホマ」を検索していた。そしてアマゾンで千円を切って売っていたので買おうとしたらロジャース、ハマースタインコレクションというのがあって、これプラス「南太平洋」、「回転木馬」、「王様と私」、「サウンドオブミュージック」、「ステート・フェア」のセットが1800円弱で本来の値段より一桁安い値段である。半世紀前の映画を見たいと思うのは、この世代しかいないだろう。若者は見向きも・・・。半世紀も前の映像は今一だがそれよりも懐かしさが先に立つ、わが青春の一コマである。だから家内に皮肉を言われても意に介することもない。

「オクラホマ」はよく覚えている。新宿コマ劇場のこけら落し的な映画だった。それにトッド・AO方式というシネマスコープより迫力のあるもので、当時話題になった映画である。英語のわからないサルでも冒頭の「オオー、ビューテルルモーニング・・・」はわかったし今でも鮮明に思い出す事ができる。「南太平洋」も懐かしい、バリ・ハイを歌った黒人の女性歌手、アニタ・ホールではなかったかなと思うがが印象に残っている。 それ以来黒人女性歌手が好きになった。「回転木馬」と「王様と私」は知っていたが観ていなかった。「サウンドオブミュージック」は公開される少し前にドイツ映画で同じトラップファミリーを題材とした「菩提樹」を観ていたのでこの方が好きだった。アメリカの映画は面白いがまさに娯楽映画でそれだけみたいな感じをこの二つの映画を観て思った。そして、ウエストサイド・ストーリーで完全にアメリカのミュージカル映画は嫌いになってしまった。「ステート・フェア」は観たことがない。調べたら製作は45年、サルが5歳と時である。他のものはその10年後に製作されている。2回と観たいとは思わないだろうが懐かしさで観る楽しみが増えた。年明けたらの話になるだろう。

2011年12月24日土曜日

ニーバーの祈り

きのうブログをかいていてふっとニーバーの祈りを思い出した。

神よ、
変え得ぬことを受けれる心の平静さを、
変えるべきことを変える勇気をわれらにお与えください。
そして、これら二つの見分ける英知を・・・
武田清子訳

小さな集まりにいる者としてもその中でも変えることの難しさとそのために勇気が必要である事を思わされている。そしてその勇気がないことも。そんな事を考えていると今を変えることは至難の業である事を思う。ましてや会社や政治を変えることなど至難の至難であることを思う。いうなれば電車を線路からはずして別な方向に変えるようなものだ。変えようとしている民主党、そして野田さん、菅さんのようにずーと首相の座にしがみついていると思われるから「不退転の決意」なんて言わないで頑張ってください。できたらわかりやすいことばで具体的に。

2011年12月23日金曜日

聖書雑感

政治に特別関心あるわけではないが最近の政治の流れをみていてわからないことだらけだ。政治の流れを変えてほしいとの願いで民主党に投票したがこんな結果になるとは思わなかった。期待したほうがおかしいのかもしれない。考えてみればこれが当然の結果かもしれないと思うようにはなっている。政治家に失望しているが希望を失っているわけではない。それは失望したらその先はないからである。ただそれだけだが。

わからないのは小沢さんの選挙区である岩手県が震災や津波で被害を被っているのに、政治家として何をしているのだろうかそれが見えない。しかし、ただそれだけなのかもしれない。ならさびしいなと思う。師である田中角栄は手法は問題あっても信念があったように思う。彼は抜け殻を踏襲して中身がないようにも見える。民主党のトップたちのていたらくがこんな形になったのかもしれない。

こんな政治の流れを見ていると、今まで聖書の列王、歴代、そして預言書の中に出てくる王たちの姿ををみて理解できなかったが、今はよく理解できる。あの世界を今、日本で現実に行われているような気がする。机上の空論のようなマニフェストは論外としても、原発の対応を見ていると、これだけの現実を目の前に提示されてもそれを変える見識がない。色々なことが明らかにされてもその先が見えていない。「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」箴言 29:18、幻を失ったら、羅針盤を失った船のようだ。そんな事になってはいけない。そして「主を恐れることは知識の初めである。箴言1:7とあるが神を恐れなければこうなる恐れがある。今の現実は神の警告であり、哀れみであるような気がする。このことに気づいてほしいと思うのはわたしひとりか、そんな事はない。


2011年12月20日火曜日

クリスマスに思う

サルはノンクリの時、周りがクリスマスだといって、ドンちゃん騒ぎをしていても俺はキリスト教徒ではないからと全く関心がなかった。キリスト者になってもノンクリが祝っているクリスマスと一緒にできるかとこれも無関心だった。それから大分経ってから、クリスチャンが世の中で行っているクリスマスに対して批判しているのを見て、主(ヌシ)のいないクリスマスでもクリスマスを祝っている事はいいじゃないかと思うようになった。なぜなら、わたしの小さいときは、ド田舎に住んでいたからクリスマスもサンタクロースも知らなかった。どういう形であれクリスマスという言葉があふれるだけでもいいではないかと、そうしたら実はこうですよと言えばよいと思っている。要するにへそ曲がりなのである。

上沼先生が先日の神学モノローグで「パウロの観たクリスマス」という題で書いておられた。奥様のご両親の住まいの近くでの街路樹のイルミネーションや家々のデコレーション、教会のクリスマスコンサートなどを観て、年とともにパウロのユダヤ性を考えるようになって、このようなクリスマスをパウロが観たらどう思うだろうかと問いかけていた。

最後に、「2千年の西洋の教会で捉えられてきたものが主導になって、 その上で聖書を見ていく。それが聖書のすべてだと思ってしまう。 避けられないと言えば避けられない。それでも、そうでない面がある。教会があまりにも西洋的な思考に動かされてきたためなのではないだろうか。聖書のなかのユダヤ的な面を真剣に捉えたら見落としてきたものが多くあることに気づく。」と締めくくっている。

サルはブラザレンというグループで生まれ育ってきたものであるからかそれがよくわかる。大切なものとして教えられてきたものが先人達の習慣に過ぎないものもあったりで、何これと思わされた事が幾つかあった。今も後生大事に守っているのを見ると、本人がそれを大切にしている事は尊重するが、それを人に押し付けるなと思う事がある。

世の中、制度疲労しているとよく言われている。キリスト教会も然りかなと思ったりするがどうなのだろう。今あるものを当然のように受け止めている事は、もしかしたら違ったものではとの「?」を持つことも大切ではないだろうか。なんでもかんでも「?」はいけないが。

2011年12月15日木曜日

ひと足早いクリスマス

サルが集っている岡谷集会は、月一で来てくださる三綿さんに合わせて、11日にひと足早いクリスマス集会を行った。いつも借りているところから場所を移しマリオという結婚式場を借りての集会となった。彼の企画立案で、こちらは場所の確保のみ、今回は経堂の婦人会のクリスマスと同じ形でやってくれる。聖書のメッセージとピアノの演奏、その中に讃美も加わって、いつもは一時間半、始まる時間は同じでも昼食を挟んで集会は5時まで続いた。楽しく、個々に交わりながら和やかなうちに過ごす事ができて感謝である。初めて来られた方から時折来られる方、三綿さんに合わせていつも来てくださる方と色々で、ノンクリスチャンは7人ばかり。市民新聞にも出したがこれは空振り、今は家族や友人、知人のつながりが多いような気がする。普段は10人に一人か二人欠けて、あっという間に終わる小さな集まりだが夕方まで賑やかな集会となった。

メッセージは「聖書が語るクリスマス」というテーマで、副題は?クリスマスはニュースである。
1、あなたの「創造主」からの「真実なニュース」である。
2、「罪からの救い」という「喜びのニュース」である。
3、「犠牲は神が払われた」という「愛のニュース」である。
この三つのポイントから私たちの現実の生活の中で出てくる問題の原因がどこにあるのかをわかりやすく話されて、そこから罪の問題、神の愛と人間の愛の違いなどを話してくださった。
一人の方は自分のことのように感じて、涙が出てきてしまったといっていたそうである。夜だったらぼろぼろ涙を流したかもしれないといっていたそうだ。彼が来る時にまた聞いてほしい。福音とはこういうものであるのかもしれない。人の苦悩の琴線に触れるのである。

ピアノ演奏もグランドピアノで、それもスタインウェイである。音痴のサルでもアップとグランドの違いがわかるほど音はいい。音楽には疎いが最初はバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」もうポピュラーになっている。音楽は人の心を和ませてくれる。久しぶりにそのことを実感させてくれた。メドレーなどを入れたら10曲以上ではないだろうか。演奏してくださった今西さんは今も家で子供さんたちにピアノを教えている。リタイアしたご主人と共に来てださり、彼が解説をしてくださった。元々は奥さんのご両親と親しかった。その関係で、彼らの結婚の時に電化製品を千葉の市原まで届けた縁なのである。ご両親は召され、店もなくなり、遠くでもあるのでそれで切れたかなと思ったら20年近く経って、三綿さんのお陰でまた繋がるようになった。今回で3回目である。遠い千葉からだがまたとおねだりしている。

今回は竹田由季子さんが讃美してくださり、経堂では何度も聞いているので、楽しみだった。久しぶりに聞いたら、声量があり、高い声の伸びがあるのに驚く、尋ねたらPTA のコーラスグループの指導をしてくださった方が発声法とかの基本を教えてくださり、それを意識して歌っているといわれて納得する。澄んだ伸びやかな声は、賛美歌に相応しい。またいつか聞きたいものである。

今回の一連の流れの中で、どういうわけか第一コリント12章のキリストのからだなる教会を思い出した。あるいは家庭集会の延長の認識の強い集まりから、個々の信者の働きが少し明確になってきたと思ったのだろうか。これからどうなるか。いつも借りている集会から自前の集会をと夫婦で願っている。誰にも経済的ゆとりはない。しかし、過去から現在を見、そして未来を予測するなら信仰はいらない。信仰は予測外の出来事、「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った。わたしは汚れたものです。」luke: 5: 8  こんな告白をしてみたいものである。信仰の薄き者であるが。





2011年12月10日土曜日

聖書を手にする幸い

先日、諏訪大社下社秋宮周辺の歴史と散策の集まりがあり、それに参加した。説明によると大社や社務所、境内あたりは変わらないが、あとはもう宅地開発?によってか住宅が建っていて、崖の部分とか家が建たないところに、かすかにその面影を残すのみである。跡、址ばかりだが当時のままに残っていたら壮大な感じになるのだろうなと思った。それと神社の中にお寺の跡があり、話によると当時は付属の寺院がたくさんあったそうだ。神社とお寺?と思ったが長い歴史の中で宗教の混交が起ったのかなと思う。説明されていたが良く聞こえなかった。諏訪大社上社は下社と大部違うような気がする。上社は実にシンプルでユダヤ教の幕屋や神殿を関連つけているような建物や配置がある。それに裏山にと言っても大分離れているが守屋山がある。ここは元々は岡谷の橋原にある洩矢(モリヤ)神社が引っ越したと言われている。そして上社から下社へと分かれたのであろう。時代の流れの中で時に迎合して栄えたものとそうでないものをこの二つの神社で思った。

キリスト教も長い歴史の中で、大分変わったのではないかなと思う。カトリックをはじめ何々正教といわれる類のものはそうだろう。本来ないものを付け加え、あったものを捨ててしまった。具体的にはどれと言われると答えに窮するがあるように思う。隠れキリシタンはその際たるものであろう。キリスト教のキの字も見出せない姿を見ると以下に迫害が激しく、そしてそれにどのように耐えて受け継いで行ったのかを思うと先人たちのしたたかさを思う。御神体が秤だったりするものもあると聞く、正統キリスト者は一蹴するであろうが神は彼らをどのように扱うのだろうか。天国に行ったときの楽しみでもある。

そのようなことを考えていると二千年、四千年と変わらない(誤訳はあるだろうが)聖書を今手にしているということは何と大きな恵みだろうか。いかんせん難しいことはわからない。しかし、新聞は中学生でも読めるように書いてあると聞く、聖書は小学生でも読めるように書いていると思うからその程度の知識で十分であるということだ。なら何とかついていけそう。難しい部分は学者や牧師に任せて解き明かしてもらえばいい。それでも原語で聖書を理解できたら更に聖書に対して興味が湧くだろうな、しかし聖書の知識が即いのちにならないし力にならない。「イエスは主である」と頭で理解できても身体で受け止めていないような気がする。信仰の薄き者よと言われそう。いや言われている。

2011年12月9日金曜日

暖冬?

今日は朝から雪が舞っていて、一面雪で覆われている。しかし、道路は車が行き交うので消えていた。たいした雪ではないから止んで、日が射したら消えていった。午後松本まで行ったが、さすが塩嶺峠は、路面は消えていても周りは白一色、千メートルくらいになると違う。遠く中央アルプスを見ると真っ白、手前の高い山は上の部分だけ、更に低いと雪は解けている。雪の降り始めは山の高さが歴然としてわかるから面白い。雪は今月にはいって2回目、何回降ってもいいけど雪かきをしないくらいの雪であってほしい。

10月は暖かく、11月も半ばまでは暖かかった。それ以降は去年と同じ気候である。今年は暖冬かなと期待したら、長期予報は12月は少し暖かく、1月は平年並み、2月は寒くなるとか。すでに予報は外れて寒い。2月が一番寒くなるのに平年を下回るのかと思うと、もう身が縮んでいる。以前に書いたが少し畑をやっている方のようだが、雨が降ってもいいお天気、日が射してもいいお天気、雲ってもいいお天気で、いつもいいお天気ですと。雪はスキー場では欠かせないが雪の下の土の中に農作物をおくと、天然の冷蔵庫になるから雪国では、雪も大切かもしれない。

自分の都合のいいようにものを考えてしまうから、そうでないとつい不満が出てしまう。わたしに困る事でもある人にとってはいいことであることはたくさんあるだろう。何事も感謝して受ける心の広さを持ちたいものである。しかし、家内が具合悪い時に優しくできない挙量の狭さを考えるとこれは建前のこうあれればとの思いかもしれない。

2011年12月2日金曜日

ひかりごけ

先日、時折散歩というかウオーキングをかねて歩いて15分のところにある神社の近くにこんなものがあった。