2011年1月30日日曜日

ヘボン

図書館でヘボンに関する本を探して検索したがあまりなかった。その中から選んで「愛をつたえた青い目の医者 ヘボン博士と日本の夜あけ」と「ヘボンの生涯と日本語」を借りてきて読んでいる。「ヘボン書簡集」も有って読みたかったが風樹文庫(信州風樹文庫http://www.5884atease.com/kanko/hujyu/bunko.html)にしかなかった。ここの本は借りられないのでいつか近くに行ったとき拾い読みしてみたい。「愛を…」は読み終えたが、最初手にしたとき表紙は絵で、字もルビつきでよく見たら小学校中学年以上向けの本だった。読みやすく、もちろん分かりやすかった。作者はキリスト者らしくヘボンをキリスト者としての視点で書かれている。「ヘボンの生涯…」は細かい字で詳しく書かれているから読みづらい。内容的には同じだから「愛を…」はダイジェスト版のような感じを受ける。私にはこの方がちょうどいいなぁと思った。レベルは小学生中高学年、彼らに失礼れかな。

ヘボンはヘボン式ローマ字を創ったくらいしか知らなかったがお医者さんであり、聖書の翻訳や明治学院を創った。明治学院はライシャワー元アメリカ大使のお父さんが先生だったくらいしか知らない。卒業生は何人かは知っているが。読み始めたばかりだから追々彼の働きのすばらしさが分かるだろう。楽しみである。

2011年1月24日月曜日

昼は冷蔵、夜は冷凍

朝起きてファンヒーターの電源を入れると温度がでる。今朝は4℃、最近は大体2℃とか3℃が多い。当然結露しているところは凍っている。最初10℃を切ったら寒いなぁと感じたが今は4,5℃だとそれ程でもなくなった。同じ温度でも朝より夕方日差しが弱くなってくると寒さを強く感じる。体感というものは結構いい加減なものだなと思う反面、何事も数値が正しいものではなく、案外体感の感覚が生活するには大切なのかもしれない。

どこで測っているのか判らないが諏訪地区の毎日の最高気温、最低気温などが気象庁のデータとして記録されている。他にも記録されてあるがこの二つしかみない。それによると最低気温は毎日マイナスで、マイナス10℃が2日ある。一月の最高気温は5℃で、3日ばかりマイナスがある。昼からパーシャル状態、夜は冷凍状態で、家の中は暖房を入れなければ冷蔵状態である。下手をするとパーシャルにもなる。これが二月、そして三月のどの変まで続くのか、日の入りは勿論、日の出も少しづつ延びてきた。春はそう遠くないがそれでも後一月あまり…。

2011年1月19日水曜日

人間は何をしてきたのか?

フォトジャーナリストの桃井和馬氏が書かれた本の題名である。「希望へ!」が本題かな?フォトジャーナリストとして世界中を回って、副題にー悲劇の現場をめぐってーとあるようにそんなところを4箇所ピックアップして書かれている。不法伐採されていくボルネオの熱帯雨林、成人の20パーセントがエイズに感染している南アフリカ、チェルノブリの原発事故でのベラルーシ、ルワンダのフツ族によるツチ族へのジェノサイド。

「人間は何をしてきたのか」と問いば「貧富と差別を生み出し、人間のエゴを露にしてきた」のではないだろうか。近代文明は、豊かさと利便性をもたらしたが、そこには人間の驕りと高ぶりを露にし、自ら滅びに向かっていくようなことをしてしまった。今大きな代価を払って、そのことに気づき始めて、そこから学ぼうとしているようだ。また学ばなければ「滅び」しかないことも分かってきたのかもしれない。「人間は自然の営み中に組み込まれている」ことを学ぼうとしているが、未開人と言われている先人たちは既に知っていたのである。

桃井氏は、悲惨な現状を指摘しながら、そこで生活している人たちや活動している人たちを通して、絶望ではなく希望を提示しているようである。それと問題が起きている対極に思い込みで動いている現実があると指摘されていたがよく分かる。何か知りたいと思ったら、①思い込みを捨てる必要がある。②事実を丹念に集める必要がある。その上で、③自分の頭で考える。この三つのプロセスが重要であると書いている。先の戦争を思うとまさにこの三つが欠落していることが分かる。クリスチャンでも極を少数を除いてはここから漏れることはなかった。すべての人はこのようなことはできないから指導的な人の責任は重い。ジェノサイドもこのような人たちの働きが大きかったようだ。

現代は気をつけないと思い込ませるような偏った情報が発信され、そして間違った情報で判断してしまう危険性がある。真実と偽りを見分ける目がないと簡単に惑わされるなぁ。信仰生活にも適用できそうだが、わが霊の眼はまこと覚束ないから…。

2011年1月15日土曜日

小さな善意

今タイガーマスクの伊達直人さんが各地でランドセルや文房具、それに現金を施設などに寄付していることが話題になっている。こういう世相だから何か善意をと思う思いがあってのことだろう。昔はこういう善意というものが日常茶飯事的にあったような気がする。私も20代前半の頃、月の後半になるとお金がなくなり、明日からの昼食どうしようかと思いあぐねていると手紙の中に何がしかのお金が入っていて、これで今月はもつとほっとしたことが何回もあった。苦労されているから人を気遣うことが出来るのだろうと思った。その点、親は貧乏していても子どもが心配でもそこまでの気遣いはなかったなぁ、貧乏でも農業をやっていれば食べれた時代だったから食べれないという苦労は知らないなとそのとき思わされた。親不孝していたからそれ以上のことは思わなかったが。

ただひとつ気になることがある。施設にランドセルを送るとき、そこの施設に一年生になる子が何人いて、男の子と女の子は何人なのかを調べたのだろうか。余っても困るが足らなかったらどうするのだろう。施設で用意するだろうが物が違いばこれもつらい。善意は相手の立場に立ってやらないと、受けとる側が困惑する場合だってあるだろう。その点物よりもお金で好きなように使ってというのがいいのかも知れない。若いとき、職場で困っていそうなので手助けしてやると「小さな親切大きなお世話」とよく言う人がいた。助かることは互い分かっていたからどうってことなかったが困る善意も困る。でもこういうのをきっかけに、自己中心的世界から他者に目を向けていく世界が広がれば、そして相手の立場に立って自分が何ができるかを考え、行動できたらいいなぁと思う。日本人も捨てたものではないなと思った出来事である。

2011年1月13日木曜日

過疎化

上諏訪駅前のデパートの「まるみつ」がこの2月20日で閉店する。閉店セール第一弾が明日までというので家内と行って来た。セールといっても品物が豊富というほどでもなく余り購買意欲を駆り立てるものもなかった。下諏訪にあるジャスコよりいいかなと思うが建物も古くお客が来たいという雰囲気はない。各フロアーがつながっている隣の「諏訪プラザ」は照明も暗く陰気臭い感じだった。余程の目玉がない限り人は来ないだろう。こんなところに人が来るのだろうかと思った。どんな店か分からないがそんなところで店を開いている人がいることに感心する。

車が主要な交通手段となっている今は郊外型のショピンセンターにお客を奪われている。事実諏訪インターの回りにはそういうお店がたくさんある。きれいで品物が豊富となればお客は必然的にこちらの方に来てしまう。寒くないときはたまに諏訪湖の周りを自転車で走るが上諏訪駅から少し離れた線路際の小さな商店街は寂れていてシャッターが閉まっているというより廃屋に近いものまでもあった。温泉街から少し離れるがイメージとしてはあまり良くないなぁと思った。役所の人たちも地域の活性化でお悩みのことだろうな、頑張ってほしい。

2011年1月12日水曜日

準備をしていて

いつもメッセージの準備をしていて感じることは、聖書のこの箇所からとかこのことを話そうと準備すると少しづつずれてくる。メーンの部分が脇になるかさっと終わってしまう。準備をしていて思わず苦笑いをしてしまったりすることもある。今回も然りである。ヤコブがペヌエルでのある人との戦いを中心に話をするつもりだった。もちろん中心にはなったが、広がってアブラハムが父親のテラとウルからカナンに向かって出かける話からになってしまった。プロジェクターで地図を写して説明するといいのだがそれがないので地図をプリントして説明した。施設にあるのを借りればいいが使い方も分からないしそのうち購入したいと思っている。

準備していて思わされることに意外な発見をすることがる。意外かどうか分からないが創世記は50章ヤコブの誕生は25章にそしてその死は50章に書かれている。エサウの子孫やヨセフの物語が10章くらいあるが創世記の半分に渡って書かれているのを見るとすごいなと思う。信仰の人アブラハムやヨセフに感動するがヤコブはどこかずる賢いのでいい印象は受けない。しかし12部族の祖であり、神に嘆願する人はいても唯一神と戦った人である。ヤコブはアブラハムよりもっと示唆に富んだ人物のような気がするがどうだろうか。その辺が分かったらいいなぁと思う。

ペヌエルでの前後は彼のターニングポイントでもある。兄エサウを恐れて綿密に周到に準備しながら、しかし彼には平安を得ることはなかった。宿営地に休みながら夜中に「ヤボクの渡し」を渡っている姿を見るとそのことが分かる。でも33章にはいると彼はエサウと会うためにみんなの先頭に立っている。以前だったら一番最後にいたであろうにと思う。何を恐れ何を恐れるべきでないかを知ったのではないだろうか。

かつての経験から兄エサウは自分に危害を加えるものと思っていたであろう。そのために周到に綿密にそして不安の極致にあったであろうにエサウが全くそのような思いのないことを知って、すべてが徒労に終わった。しかしこんなパターンは程度の差はあっても日常茶飯事のことのような気がする。「人を恐れるとわなにかかる。」prov:29:25 や思い煩いは大半がこんなもののような気がする。湖上のペテロを笑うことができない。準備しながらこんなことを思いながらも私もまだペヌエルの前のヤコブ状態であることは否めない。神と戦えるときはいつか或いはないか。

2011年1月11日火曜日

新年学び会

恒例の群馬での学び会に行って来た。行きは更埴回りで200キロ、帰りは和田峠を通って150キロ、運転しているときはそれほど感じなかったが夕食を食べてテレビを見ているうちに眠くなりそのまま2時間ばかり寝てしまった。それだけ疲れていたのだろう。前は勇んで出かけたが今はどうしようかと行きつ戻りつしているのをみていると疲れと共に歳だなぁと思った。

「大いなる福音宣教のために」のテーマでシンガポールの集会の兄弟が語られる。キリスト者の使命は宣教、そのために明確なビジョンが必要なことを語られた。もちろん海外宣教とか伝道者になるというのではない。話の中でも宣教地は自分の置かれているところとも語っていた。

メッセージ1は宣教ー原則
パウロがどのような宣教の思いを持っていたかをロマ書を通して語られた。
1.私は負債を負っている。
2.用意ができている。
3.私は恥とは思わない。

神の宣教プランは、
1.大宣教命令
2.聖霊による召し
3.宣教のための準備

宣教の奉仕のための資格
1.霊的な資格
2.実際的な資格
3.健康の面での資格、肉体的、精神的

そして送り出す側の責任と個人としての資質及び準備を語られたように思う。

メッセージ2は「宣教ー実践」
1コリ9:22のみことばから「魂を救う、何んとかして、何んとしても」と、そして初期に福音がどのように広まって行ったのかを話さる。今日福音伝道のアプローチをどのように進めたらよいのかを具体的に話され、最後に働き人が直面する諸問題を話された。

救われて感謝できればオンの字の信仰が如何に次元の低いものであるかを思い知らさる。自分を含めて周りにそれすらもできない人がいることを思うと考えさせられた。自分にもこれがあれば、あれがあれば出来るのだがと思うときがある。そうではなくて「主に対する熱き思い、救霊の渇き」であることを教えられる。 二つとも欠けている老いた体に何が出来るかと問われると答えられない。しかしこの問いかけにどのように答えていくかを考えなくてはならないと思った。

最後の分科会には、M伝道者の「ひとりひとりのクリスチャンが宣教の担い手になるには」に参加して、 宣教の前提、
1.主の命令
2.主の渇きを知る
3.実行
実行では、担い手として
1.権利を捨てる
2.十字架を負っているか
3.服従しているか
と語られる。特別な働き手としてではなくキリスト者として当然の姿勢であろうと思う。色々な面で余りにも欠け過ぎている。しかしチャレンジしてみたい。 そうでないとその先はないような気がする。

メッセージはもちろんだが久々に会う兄弟姉妹の交流も楽しみの一つである。最初に会ったとき大学生であった二人の兄弟は年代の差はあるが、ひとりは神学校を出て伝道者となり、またもうひとりの兄弟は集会の責任を取っている。そして責任者を降りた兄弟もいて、時代は若い人たちに移りつつあるのかもしれない。この人たちの姿勢がこれからの諸集会の方向を示してくれるだろう。若者に期待するが何もない老いも捨てがたい。主がどのように扱われるかを楽しみにしたいものである。

2011年1月9日日曜日

伝える力

池上彰さんがすべてのテレビのレギュラーから降りると今話題になっている。ネットに視聴者の色々なコメントを載せていたのを紹介していたが皆それなりに一理ある意見だと思った。賢明な方であろうからよい選択をなさるだろう。この方の書かれた「伝える力」が今もベストセラーになっているらしい。

実は私も購入して読んだ。発行日を見たら2007年5月で私が購入したのは7月の10刷目のものだった。月に一回、3-40分位話すのだが四苦八苦している。本の中で分かりやすく話すにはそのことを深く理解していなくてはならないとあった。分かりやすく話せないということは・・・である。読んで3年から経っているが年月の割には進歩は今一なのである。何が欠けているかよく分かっているからめげずに聖書の使信を伝える努力をしよう。

2011年1月8日土曜日

知識もなく

以前いた集会にパソコンの詳しい人がいて、仕事でもそのようなことをやっているのかなと聞いたらそうではなかった。子ども頃にラジオを組み立てたりしていたラジオ少年だったらしい。それが高じてというかその延長線にパソコンがあったようだ。同じ集会で子ども頃アマチュア無線をやっていた人もいたが大学受験と共に卒業したみたいだ。今は故郷に帰って集会の責任を取っておられる。

前にも書いたかもしれないが私もラジオ少年だった。それが高じて、ラジオ・テレビ学校に行き、テレビの修理をしたくて、テレビ修理をするようになった。真空管や部品などを買いによく通った秋葉原で仕事をするようになり、離れて20年近くなるが今も懐かしく思い出される。そこで仕事をしていて、一つ残念だったというより悔しかったことは、パソコンが全く分からなかったことである。今と初期の頃とは大分違っているが。

以前単純にパソコンが調子悪いのでインストールしなおしたらおかしくなって苦労した。その名残でメールが一つインストールできていないようで、それが毎回出る。正月明け時間があるので設定しなおしたらメールの住所録をみな飛ばしてしまった。部分的な設定かなと思っていたがもしかしてと思ったが後の祭り、ヨブに語られた神の言葉を思い出す。もうデルはいいと思ったが他のメーカーも基本的は同じか。年末に削除したのもあり、必要なものだけを入れて質素に簡素に70をスタートだ。

知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。 job:38: 2

2011年1月5日水曜日

召される

ALS で長く闘病されていた群馬のK 伝道者が召された。以前いた集会によく来ていただいて、ソフトな話し方とユーモアに富んだお話を懐かしく思い出す。最後に来られたときも既に着替えやコップを持つことができなかったように記憶している。話すことは問題なかったが家族の介助が必要だった。知り合いの方のお嬢さんの結婚相手の方のお父さんが同じ病気で会いたいということで運転手としてお嬢さんのお母さんと相手の方と家内で4-5年前に訪ねたことがあった。

介護施設の設備を個人の家に持ってきたような整った設備を見て、これだったら奥さんが介護するのに楽だなぁと思った。あの時は声が小さかったが30分位話すことができた。お二人とも実に平安そのものの顔をされていて、お見舞いに来られた人が逆に慰められるだろうと思った。何か一言を書いてと言われたときにそのようなことを書いた記憶がある。存在しているだけで人を慰め励ますことができる貴重な存在であったが家族にとっても勿論だがG集会にとっても大きな損失であろう。もしかしたら集会の雰囲気が変わるかもしれない。

諸集会が多様化していくのかなと思わされていく中で唯一ぶれのない方だと思っていた。貴重な方を失ってしまった。労苦を解かれて平安のうちに天に召されたであろう。そして残された家族に平安と慰めが与えられるようにと祈る。

ひそ〇さんご連絡ありがとうございます。G集会からファクスを集会宛に頂いたのを昨日の夜頂き、分かりました。K伝道者が健在であったら集会に繋がることが出来ただろうな等と思ったりしています。アウトローではないですがアウトサイダー的な人間なので目は・・・。集い、賜物が生かせるようにともあきらめずに祈っています。

2011年1月1日土曜日

新年を迎えて 

暮れから正月にかけてブログを書けるということは割とのんびりできているということなのだろう。静かな年末であり、正月の始まりであった。ゆっくり起きて、聖書を読み、思い巡らしながら祈って今年のスタートをきれたのは感謝かなと思う。できることは限られているだろうがいつでも主を覚えられることができればそれで十分かもしれない。こうしたいありたいとの願いは幾つかあるが、
『むしろ、あなたがたはこう言うべきです。 「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」』 jas: 4:15
の言葉に従って生きたいものである。どんなことが起き、どんことを教えられるか不安と期待で胸が膨らむ、風船のように簡単にしぼむ存在ではあるが。