2011年6月28日火曜日

汗を流して

家内の実家の斜前に隠居屋があって、今は空き家になっている。もう空き家になって2、30年からなるそうだ。汲み取り式で下水は垂れ流し、下水を整備しないと使えない。それに建物が古いから今は倉庫代わりに使っている。といってもほとんど物は置いてないが。先日、雑草が大分伸びていたので、4人で草刈をした。こまめにやればいいのだが、春と秋くらいしかやらない。

そこに、柿やもみじの木などの大きな木が6本ばかりある。昨年、干し柿にして、3,40個作ってそれなりに美味しかった。しかしもみじはさらに大きく隣の家にまで枝を伸ばして、落ち葉は大変なようだ。玄関前などは去年の落ち葉で、高級絨毯のようにフワワするほど積もっている。幸いとなりも空き家になっているのと大半の落ち葉は、屋根を伝わって敷地内に落ちるみたいなので文句は来ない。持って行った鋸は折りたたみ式だから、せいぜい直径10センチ未満まで、切りたいのは直径20センチからある。切りかけたが無理と分かって、その場はやめて帰ってきた。

昨日、大きい鋸を買ってきて、早速切りに行った。上下に少し切り込みを入れてあったのに加えて、切り込んでいくが、最初良かったが段々切っても進まないようになってくる。これは根気の問題かもしれないと辛抱して鋸を動かすとその内、下側がかたくなって鋸が動きにくくなってきた。見ると上の部分が少し広がってきている。鋸を上側に持ってきて切るとどんどん進む、段々切り口が広がり、そのうちめりめりと言いながら地面に落ちてくれた。上から見るとそれ程でもないが落ちてみると枝ぶりは広い。切り株に足を乗っけて、へっぴり腰で木にへばりつき、その先の枝を3本ばかり切る。

下に降りて、枝を一本一本切っていく、どれからどのようにと考えていくのが楽しい。ここ最近、考えるという思考を停止しているからかもしれない。ここあそこと切って、最後に丸太のようになった木をそのまま脇に置こうとしたが動かない。3:2の割合で切ることにした。これも大変、上から下から斜めからと切って、切り終える。しかしそれでも持てない。もう切り分ける気力ない。転がしながら脇に置くのが精一杯。そのとき中腰になって持ち上げたら腰を痛めてしまった。腰を斜めにすると痛いので体を上下して物を取っている。顔を洗う時はしゃがんで洗面のところに顔出して洗っている。その日の夕方に温泉にゆっくりつかり、その所為か腰を斜めにしなければ大丈夫になった。

この歳になると、ある日、ある時、突然襲ってくる。腰は2年前に痛めていたが、それを意識しながらもついうっかりが出てしまう。若い時はついうっかりで済むが年をとるとこれが命取りになる。今回はたいしたことはなかったからいい自戒になった。それに体を動かして、汗を額から流したのは久し振りであったから気持ちよかった。週に1、2回こんな汗を流したい。私は頭ではなく、体を動かすのが性に合っていることを再確認にする。今回は自分の拘りで切ったが柿以外、まだ4本ある。家内の姉妹たちの了解を得たら、またチャレンジしたい。少し自信がついたのと汗をかきたいために。

2011年6月24日金曜日

二つの見方

ブログで原発や民主党のことなどを読んでいると、見方や関心のもち方が色々あるなぁと感心する。自分がノンポリ的人間だから、原発廃止を唱えている人たちの見識の高さに敬服している。そんな中でフッと思ったことがある。

昔読んだソルジェニーツインの「収容所群島」と、最近でもないが読んだV・E・フランクルの「夜と霧」の違いである。同じように理不尽といえる中で収容所に入れられている。その収容所での生き方というか見方が全然違うような気がする。両方とも収容所の中の出来事が書かれているが「群島…」が体制派を批判している姿が良く分かる。読者もそのことに異論を唱えることはないであろうと思う。しかし、「夜と霧」はナチスに対する批判はない。「心理学者、強制収容所を体験する」が本題だそうだから、まさに体験記として読むとそこでどう生きるかが着目点にしているのかもしれない。

記憶が間違っていなければ、収容所で家族が殺されているはずだ。そのことに対しても何の批判もなかったように思う。体制を批判する時には見識と勇気を持たないといけないがそこまでで、フランクルは、収容所という中で、収容者は勿論、管理する側も「生きる」ということでは必死であり、そこは同じであることを語っているようでる。不当な扱いを受けながらも同情しているようにも感じた。ものごとを冷静に見ていて、いかに劣悪な状況の中で生きていくか、人間としての尊厳を失わずに生きる生き方は崇高である。

極限の状態の中で、人間の本性を教えている。「人間とは、人間とはなにかを常に決定する存在だ、人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」。死を乗り越えた存在を知っているような発言だ。

2011年6月22日水曜日

白を黒と

立川談志が国会議員に立候補しようとした時か、なった時か忘れたが、師匠の小さんが政治家になるには白を黒と言えないと駄目だと言ったように記憶している。政治の世界を見るといつもそのことを思いだす。「清濁を飲む」力量も必要だろうし、ある意味でまともな神経では務まらない世界のような気がする。

民主党政権になって新鮮さを感じたが、災害復旧や原発の対応を見ていると、この集団は政治のアマチュア集団ではないかなと思うときがある。理念はあっても政治が出来ていない。勿論一般市民からは見えない、分からない面はたくさんあると思う。自民党政権時代は分かりやすかったように思う。利害がうまく絡まって、政治家も官僚も動いていたように思う。落語の「三方一両損」ではないが「三方一両得」をして、当事者はにんまりなのである。これが諸悪の根源になっていることも否めないが、民主党にはそれがない。新鮮さはあっても、理念では物は動かない。しかしその理念さえどこかにいってしまったようだ。官僚が背後で動いているのか、動かないのか分からないが、形骸した理念に縛られているようにも見える。もう形骸した理念もないのかもしれない。政治のアマチュアではなく、政治のプロであって欲しい。

それと気になるのが一つある。枝野官房長官が記者会見?する時、壇上に上がる前に一礼する。何なのだろうと思っていたら、どうも国旗に礼をしているみたいだ。国旗は丁寧に扱わなければならないが礼をするまで必要だろうかと思う。たかが日の丸の旗だ。この行為が日の丸や君が代を特別視して礼拝の対象にしようとする危険な思想があるような気がする。日本人は「お上」意識で上は上なりに、下は下なりに動いていくみたいだ。どうなるニッポン、考えすぎかな。

ひそぷさん

ヒソプさんコメント有難うございます。いつはじめるのかなと思っていました。早速お気に入りに入れました。ただ、発信のレベルが違うので難しそうですが?それに英語が・・・。

ブロッガーはそうなんですか、検索に使っているのでそのブログを使っただけなのです。それにただ書くだけですから(笑)。元気ですといっても聖書的(詩90:10)にはもう齢は終わっている年代ですから程度は知れています。立ちくらみの傾向は少しありますが薬の所為もあるようです。この日曜の午後に諏訪湖周辺を自転車で一周しました。最後の2キロ余りが緩やかな上り坂になりますからこれがしんどいです。今回も走れた。これがいつまで出来るかとの思いで走っています。老いの悲しさです。これからもよろしく。

2011年6月16日木曜日

いつもの日帰りコースで

安房トンネルが有料になるということで、いつか行きたいと思っていた飛騨の高山と白川郷に昨日行ってきた。高山だけのつもりだったが地図を見ると高速道があり、近いので行くことにした。昨年菅沼合掌集落を見ているのでそれほどでもなかったが家内が観ていないので行くことにした。

松本まで高速で、そこから上高地に向かって走る。まもなく信州特有の山と山の間を川と道が蛇行して、少し広いところに集落がある、そんな風景が二つばかりあって、手前にはM集会のK兄姉が住んでいる。かつては村の中心地だったから集落なんていったら怒られるかもしれない。さらに走ると沢渡に着く、上高地に行くにはここで車を降り、専用バスで乗り換える。駐車場に人が立っていて呼び込みをやっていた。さらに進んで、大型が行き交えないようなトンネルをいくつもくぐり抜ける。直進は上高地、警備員とゲートがある。そこを左折するとまもなく旧道とトンネルとに分かれる。
旧道葉碓氷峠やいろは坂の比ではないようだ。時間があったら走ってみたかった。

忽然と現れる大きなトンネル全長4キロチョッと、快適な走行である。出たところで直進が富山方面、右折が平湯温泉街で帰りに湯につかるところである。左折して、すぐまた平湯トンネルを抜けて高山方面に向かう。集落に出るまでは信州と同じ、カーブ、カーブでギヤをシフトダウンしてもブレーキを踏む、少し走ると平地になり、高山の街に入る。メーンの商店街がアーケードになったいるのは雪が積もる証拠か、見るべきものはそれ程なく、陣屋跡と市の資料館に寄り、古い町並みを歩いて、一時間、平日の割には観光客が多かった感じがするがあまり買っている人は見かけなかった。奈良井宿などを見ているのでそれほどの感動もなく、次に向かう。

高速の入り口に道の駅があって、そこに寄り、野菜を少し買う。高速は飛騨清見から東海北陸道に入り、殆どがトンネル、降りるの直前のトンネルは11キロ以上あるみたいだった。白川郷インターで降りて、川原で昼食をとる。ここの道の駅に寄ってみたがお土産屋さんみたいで、魅力がない。これはどこでも同じような気がする。白川郷は歩いて散策できる程の広さで、合掌造りが散在している。家内はアイスクリームを私は五平餅を食べながら歩く。家内の指摘で山の上に展望台があることを知り、回り込むように上り、そこから集落が一望できる。全体が見えて実にきれいだった。若い写真屋さんが3人ばかりいて、写真と撮ってあげて、相手のも撮りさりげなく売り込んでいた。集落をバックにいい記念になる。

トンネルだけの高速はつまらないという家内の言葉で、一般道を通ることにした。ナビは勿論、大雑把な地図しかなく、高山方面の看板を見て、一般道を走ることにした。後で分かったのだが回りこむように走り、20キロ余りのロスをする。しかし変化の富んでよかった。山道を走り、ダム湖か何キロも続くのには驚いた。飛騨清見から高山へは高速で走り、市内を抜けない道を走っていたら、気がついたら来た道を走っていた。途中高山市街の看板があったから、行きはそこから曲がったのだろう。安房トンネルに入る手前で、ひらゆの森の温泉で湯につかり、体がだるくなるかなと思ったらそのようなこともなく、ゆっくり、のんびり湯につかる。露天にも入って気持ちよかった。

帰りは、高速に入らずに途中から右折して塩尻方面へと向かう。余り自信がなかったが、前に富山ナンバーの大型のトラックが走っているので、塩尻方面というか諏訪方面にいく車だなと思って、後についていくことにした。案の定、そうだった。通ったこともある部分もあったが、暗いのと久し振りだったので迷うことは明白であったから助かった。夕食を食べて我が家に着く、8時半に出かけ、20時半に帰った来た。12時間、340キロあまりの旅?であった。これも諏訪湖を自転車で一周するのと同じで、自分のできることを確認しているようだ。それは次にできないかもしれないとの思いがあるような気がする。これは老いの悲しさだ。

2011年6月9日木曜日

曖昧を旨とする日本人

旧約聖書を読むと、イスラエルの国がダビデ、ソロモンと続いた王国がついに滅んでバビロンに捕囚となっていく様をみると、典型的な内部から壊れていく国の姿を見ることができる。よく言われる国が滅びるのは外敵からではなく内部からと言われることがここでも示されている。

津波、原発に端を発した諸々の現象は今日の日本の姿を映し出しているようだ。被災された方々の頑張りや忍耐が映像から伝わってくるが国は何をとの思いがしてしまう。現場サイドではそれなりに一生懸命やっているのだろうが被災民にどれだけ伝わっているのか疑問である。顔が見えないとはこういうことを言うのだろうか。

原発の事故での避難は割と早くやったのを見て、これは大変なことかなと思ったが事実だった。しかし後になれば分かることを伏せていると言うのは、被災民を馬鹿にしていると言うか、愚弄しているようにしか見えない。パニックにならないようにとの善意かもしれないが国民をその程度にしか見ていないと言うことだ。お上意識そのものであり、上意下達思考である。その思考が太平洋戦争の悲惨な結果になったのであるとわたしは思っている。人々もそれに慣らされているような気がする。

ウェキペディアこんなのが載っていた。
「この言葉はリンカーンのオリジナルではない。今知られている一番古いものはジョン・ウィクリフ(1320年頃 - 1384年)が聖書を英訳した著作の序言に"This Bible is for the government of the people, by the people, and for the people"(「この聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである」)とあるのに始まる。」

主権在民ということばがある。皮肉的に言えば選挙の時だけ、後は主権は我にあらずである。大阪の橋本知事は「、「教育行政、教育現場の大きな時代の転換点。国歌の起立斉唱だけが問題ではなく、職務命令に組織の一員である教員が従うという当然のことをやらなければならない。これまでの個人商店的な教員を、学校組織の一員としてみる第一歩が踏み出せた」と話した。」(msn産経)

決めたことは守らなければならないが思想信条に優先されるべきものではないと思うが、ましてや教職という仕事はわたしの年代では「聖職」意識があるから一般の公務員と一緒にすべきではないと思っている。現代の教員は単なる一つの職業として捉えているなら別だが、それと大阪府の教職員の現状が酷いのか?教育現場がそうかどうか分からないが、今日色々な意味で「時代の転換点」に立っていることは間違いないようだ。ただ良い方向に行かないのが今までの姿ではないだろうか。

2011年6月8日水曜日

自然豊かな信州

こちらに来て三年になろうとしている。出かけることは少なく、家にいることが多い。それでも日帰りコースで信州を散策している。この3日には3日-5日の間で「木曽漆器祭・奈良井宿祭」があったので行ってきた。昔行ったことがあったがほとんど記憶にない。初日で金曜日の所為かそれ程多くもなかったが、それでも帰る昼頃には駐車場が満杯に近かった。店先に並べてある品物を見ながら会話を聞いていると遠くから楽しみに来ている人たちが結構いるのに驚いた。お箸と味噌汁のお椀くらいしか使っていないが、様子を見ていると漆器が好きで色々なものに使っているようである。確かいいなぁと思うものは高い。それらの物を日常的に使っている人はそれなりの生活をしている人たちであることは分かる。お箸とか金額的に安いものを並べていたが店によっては奥にいいものを展示している。結局、お椀の特価品とプレゼント用にサラダのフォークセットを買ってきた。

奈良井宿は、朝の連ドラで人気があるようだが、5月の連休に寄ったのでパスした。目的はこれだけでなく、権兵衛トンネルを通って伊那に出て、温泉に入ってくることである。奈良井宿の少し先から山道に入り、といっても十分車は交差できる。しかし、ほとんど車は走っていない。さらに走ると広い道に出た。山の中の川原の脇でおにぎりをほおばりながらの昼食を食べる。それから幾つかのトンネルを通り、最長(約4.5キロ)の権兵衛トンネルを抜けると伊那である。トンネルを幾つもくぐり、急峻な山並みの間を走っていると昔の人はどういう風に行き来したのだろうかと思わされた。標高1500mに権兵衛峠があるから山越えは大変ではなかっただろうか。冬は厳しいだろうな。

5月の連休に行った下栗の里も飯田から三遠南信自動車道と言う名称の2キロあまりの矢筈トンネルを抜けていく。ここも旧道のような所にトンネルがあるが昔は峠越えなのだろう。すぐ近くに1200mの山があるから1000mくらいはあるのではないだろうか。急峻な山に囲まれた落ち武者の里かと思わされる川添えにある集落が続いている。昔の人は大変だったろうなと思うと共に昔の人たちのすごさを感じる。

木曽は川と道路と所々に集落があるという風景である。伊那は、伊那谷といわれるように、木曽と違った趣がある。急な坂を下りていくと天竜川があると言う雰囲気である。でも車で通る分には真に素敵な風景である。生活するには厳しいが実に美しい自然に満ちている。安曇野あたりを散策するのもまた違った趣がある。安房トンネルが無料のうちにあそこを通って飛騨の高山へと思っている。その時も日帰りの予定である。

伊那のかんてんぱぱに寄って買い物をして、途中ファームなどで野菜などを買う。蓑輪町のながたの湯に入って帰ってきた。100キロの旅。ながたの湯の途中に大芝の湯があった今度はそこに寄ろう。自然と温泉、魅力的な信州である。冬も好きなればいいのだが今もって抵抗があるが、信州パンサイくらいで。

ただ書くだけ


こちらに来てから朝に日記を書いている。発端は、子供が使わない大学ノートがかなりあり、どうせ使わないだろうとこちらに持って来た。日記は夜は夜中まで起きてぎりぎり何かをしているから書くのは駄目なので朝に書くようにしている。朝は聖書を読んだり、祈ったりする時間があるのでその間に書いている。前日のことを書くからリハビリにもいい、最近は思い出すことが少なくなったなぁと感じている。それといつもではないが、テープを聞いたり、本を読んだりしたときに要約を書いている。断片的で要約にはなっていないが、聞いたり読んだりしただけだとすぐ忘れてしまうからこれもリハビリである。もう一つパソコンのブラインドタッチの練習にもなる。最近千鳥足のような指の動きが少なくなった。しかし数字や周辺は眼で追わないとだめだがこれは無理のようだ。

ブログを書いているのも全く同じ、何かを発信しようなどとは思っていない。それでも誰かが読んでいると思うと少しその辺は意識する。誰にも教えず。聞かれても教えず。言うなれば、家の片隅で、誰にも分からないように、こっそりお菓子を食べている構図であるが、ブログは家がガラス張りのようなもの見ようと思えば見えてしまう。それと文章を書くのは頭の中で色々考えるから考える人ではないのでこれにもいいかなと思っている。知っている方のブログを見ていると中々しゃれているし、そうでなければ中身がいい。独り言くらいはいいが、独りよがりになりやすいのでそんな矯正も兼ねているのかなと、なっているかどうか分からないが。ブログ本来の意味がなくて、わが身の諸々のための発信である。

ただ書くだけであるが意図してそうしているわけでもない。実はコメントが書けない。唯一書けるのは、一つだけである。偶々別なことで登録していたヤフーのブログでコメントが書けるスペースがあって、ただ書くだけでよかったから書けただけである。お陰様で今もコメントをたまに書かせてもらっている。また交流もいただいている。そんなわけだから自分のところに来るのもただ読むだけでそのまんまになっている。だから気がつくのも遅い、スパムというところに入って、気がつかなかった。偶々クリックしたら一件あった。2月で文面を見るとどうもヒソプさんのようだ。すみません。分かってやっているのではなく偶々クリックしたらそうなったというとてつもなく覚束ないのである。

最近、いつもアクセスしているブログで、共感を持った文書があったので、そのまま載せて、少しコメントを書いたら、その方から直接コメントをいただていた。どうして分かったのだろうかと思うが名前を入れて検索すれば分かるのかなと、これからはもろではなくブログ名だけに留めようと反省している。メールの返信のように文を見ながら書くと書き易いのでつい、小嶋牧師失礼しました。実はこのブログ、地名になっているのでどこだろうと興味を持ってアクセスした。以前仕事で都内近辺を車で動いていたので、地図を見るまでもなくあの辺かと思わされることがある。こちらもそうで、ただそれだけで何となく懐かしさを覚えた。難しいことを書かれているが分からないなりに何となく興味をを抱かせる。教会員にはしたくないようなキリスト者だがインターネットのつながり位ならゆるしてくださるだろうとアクセスしている。

2011年6月2日木曜日

飼いならされて?

私は社会の底辺に生きている者であるからその視点でしかものが見えない。政治に関わるの選挙の時のみ、経済は無縁の世界。キリスト教も単純な信仰、神学のシの字も縁が無い。聖書のことばをそのまま受け取っているだけである。言うなれば、小鳥の雛がくちばしを開けて親鳥のえさを受け取るだけのようなものである。雛は親鳥に信頼をおいているから、ただ口をあけていればいい。そうすれば生きていけるのである。しかし人間の場合には、時にはおいしいといって毒を食べさせる。雛は思考力ゼロだと思って、偽りをあたかも真実のようにして安心させる。ところが原発のように自らボロをそれもボロボロと出してくる。怒る前にあきれてしまう。そしてそんなことまでして短い人生なのに、と同情してしまう。それで彼等の努力に答えるように、文句も言わず黙々とおいしそうに毒を含んだものを食べる。これが底辺で生きる者の術である。

人はバベルの塔の出来事のように一つになろうとする。「みんなひとつになろうよ」と今コマーシャルで流れているがまさにそうだと思う。しかし、そう叫ばれている時は少数者や弱者が置き去りにされる。政治や行政は二つの目を持たないといけないと思う。ひとつになろうとする目とそこからこぼれる者に対する目をそれが血の通った政治であり、行政であると思う。

今の日本を見ているとバベルの時代であり、ノアの洪水の時代でもあるような気がする。時代を見る目は、今を見、未来を見る目が必要だ。イエス・キリストは世の中を変える改革ではなく、聖霊によって、弟子たちを変え、人々を変えて自己改革をなし、そして世の中を変えていく。人は自分を生かすのではなく、他者を生かすのである。キリスト者はそれができるのである。

2011年6月1日水曜日

老いの才覚

曽野綾子さんの「老いの才覚」を読んでいる。あの方の書かれた本は好きなような嫌いなような、ちょっと複雑である。多分共感する部分と反発する部分があるからだろう。率直に書いているのは分かるがどこか厳しい。しかし示唆に富んだ言葉も少なくない。

正しいかどうか分からないが「老いをどう生きるか」を問うているように思える。そして、多くの老人がそのように生きていない。反省するところもあり、これからの行き方に参考になる。生きる姿勢の問題、聖書の中にその答えはあるが、老キリスト者は自分を含めあまり生かしていない。老化度を測る「くれない指数」は面白い。耳が痛いが自分でできることは自分で、自立した人間になることが大切であることが良く分かる。そうすればお世話になる時に卑屈にならずに感謝して過ごせるのかもしれない。

「老いを生きる」。老いはその人の生き方を裸にする。だから真摯に生きる生き方が求められる。人の目も気になるが、主権は我になしと、主のみこころを求めて生きれたらと願う。

あるブログから

―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰―
           巣鴨聖泉キリスト教会牧師 小嶋 崇

「「現代大衆的福音理解」に対する問題提起、検証」の副題?で講演の資料が載っていた(http://cwn.way-nifty.com/cwn/2011/05/nt-579c.html)。小嶋牧師の「大和郷にある教会」というブログを「お気に入り」に入れて時折読んでいる。私には難しいが何か示唆するものがある。このことも然りかな。

まず現代福音派の「福音」、「救い」の理解はどんなものかと、日曜学校の教材を通して論評し、「罪の罰から救われる方法を語る」にほぼ等しいと書いている。

次に「神学的説明」を「聖書」と「実際の歴史」に照らして、六つのポイントを挙げている。
 ①イエスの十字架刑は私たちの受けるべき罪の罰を表しているか。
 ②イエスの死が私たちの受けるべき罪の罰の代償であるとする「刑罰代償死説」
   は十字架刑を必須とするか。宣教途中で祭司長たちの反感を買い、彼らに殺
   されたら「救い」は成立しなかったか。
 ③ローマに対する反逆罪として用いられた十字架刑が私たちの贖罪のために
   必須であったなら、なぜイエスは即「メシヤ宣言」して暴動を起こし、ローマに
   捉えられて十字架刑にならなかったのか。
 ④十字架の死までの「イエスの生」は、罪を犯さないことだけに意義があったの
   か。
 ⑤十字架の死だけが救いのために意味があるのなら、「神の国」宣教-病人の
   癒し、悪霊の追い出し、神の国の教えを説く-の意味は何か。
 ⑥なぜイエスはユダヤ人として生まれる必要があったのか。イスラエル民族の歴
   史に何の意味があるのか。神の御子は時代・文化に関係なく降臨し一直線に 
   死なれて贖いは完成したのか。
上記のような問いかけの下に「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」を、実際の歴史と福音書の記述とつき合わせてみると、その非歴史性、抽象的な性格が浮き彫りになってくると言えるのではないか。

・ 当時のユダヤ人にとって十字架にかけられたメシヤは失敗の証左である。イエスの死後、弟子たちのメシヤ運動が持っていた選択肢は、①解散するか、②イエスに変わる別のメシヤ(最も可能性の高いのはイエスの兄弟ヤコブ)を立てるしかなかった、と推論できる。
・ イエスの復活は、当時のユダヤ人(弟子たち)が実際に信じることは困難であった。「死者からの復活」はユダヤ人一般の信仰であったが、それは終末的な出来事で、神にある義人が一斉に復活して『来るべき世のいのち』に与るというものであった。福音書のイエスの復活描写は、その意味で弟子たちの戸惑いや不信仰の姿をそのままにしている。又十字架の出来事に比較して、復活記事には旧約聖書預言成就の言及や暗示が殆ど見当たらない。
・ 使徒たちのメシヤ信仰は復活の事実から遡って(旧約)聖書の記述に照合して「イエス(預言者メシヤ)の言動/行動」を検証した結果辿り得たもの、と捉えられる。
と三つの点を挙げている。

「福音を語る」とは何か。使徒的福音説教(ケーリュグマ)を検証する。
・Ⅰコリント15章…復活顕現と目撃者証言の中核性
・ 使徒の働き2章…イエスの死は「刑罰代償死」としてではなく、ユダヤ人指導者の罪として糾弾されている。
・ 福音書、「最後の晩餐」箇所…イエスの死の意義は「新しい契約(新しい『出エジプト』的出来事)」の基礎であり、それを発効させるもの(過越しの犠牲)として位置づけられている。
・ 福音書におけるイエスの十字架刑の記述には「刑罰代償死説」のような説明はなされていない。
・ ガラテヤ書簡…十字架はイスラエルを代表するメシヤが被った「契約の呪い」(3:13、比、申命記28章)であり、「真の捕囚からの帰還」(1:4、比、申命記30章)である。

「現代福音派の大衆的伝道説教、救いの方法提示」は使徒的福音の視点から見る、福音の提示ではなくその結果得られる恩恵の実を表している。福音とは「イエスはメシヤ(真のユダヤ人の王)またすべてのものの主」であることを宣言することである。この福音の宣言を聞いて信じ従う者が「神の民」に加えられ(義認)、救いを受けるのである。


上記のように細かく考えたことはないが問われていることを考えれば確かにと思う。以前から思っていたことは、滅びからの救い、罪からの救いを強調するとイエス・キリストの十字架は単なる「刑罰代償」になってしまう恐れがないか。語り手がその意図がなくても受け手はそのように受け取ってしまわないだろうか。そうなるとイエス・キリストとの人格的?な結びつきが希薄になり、信仰がご利益的になる可能性がある。福音はその人を変える力があるがそれを希薄にしてしまう恐れがないか、「私」の主権の行使はあっても、「主」に従うという「主の主権」の行使は希薄にならないだろうか。自分もそのような経験の中にあるからいつも念頭にある。

イエス・キリストは公生涯の第一声が「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の国の到来を告げ、「初めに、神が天と地を創造した」し、「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない」と新しい天と地を約束している。そんなことを思いながら福音(よき知らせ)を思い巡らしている。