2012年1月31日火曜日

たった9名の映写会

N姉妹の召天式の前日に上京する。それは「大地の詩」ー留岡幸助物語ーが25日に「なかのZERO」の視聴覚ホールで上映会されるのでそれに合わせたのである。

2時に開演なので昼過ぎに出る。久しぶりの電車で気持ちがいい、歩きなれた駅までの道、パスモでワンタッチで入れる改札、普段はカー・ツウ・カーだから歩く事も少なく、階段は更にである。ホームに上がるのにエスカレーターに乗らず階段を上がる。気持ちがいい、そして広いホームで電車を待つ、ひとりではない。電車の中で流れていく風景に目をやる。電車のいいのは本が読めることである。普段の移動は車、そんな中で出来るのは脇見運転をチラチラくらいである。新宿では、連絡通路を通らずあえて西口地下の雑踏を歩きながらJRの改札へと向かう。まさに群衆の中の一つの顔である。

着いたのは15分前、まだ入れないので、通路続きに区の図書館になっているのでそこで時間をつぶす。新聞をと思ったがみな読んでいる。こちらもそうだがリタイヤ?した人かよく新聞を読んでいる光景を見かけるここも同じのようだ。そういうサルもそのひとりであるが。新聞が読めないので身近なコーナーを覗いていたら「レィチェる・カーソンの世界へ」という本があり、「沈黙の春」の著者である事を知っていたのでこちらに帰って図書館で検索したら茅野の図書館にあったので早速予約をする。楽しみである。

上映の前に監督の山田火砂子さんの挨拶があり、製作の苦労話をされながら次に救世軍創立者の山室軍平、障害者の父と言われた糸賀一雄を撮りたいと言っていた。「日本は戦争に負けてから、自分の国の素晴らしいことをした人たちを忘れ去っていく傾向にあるのではと思います。もっと自分の国の素晴らしい人たちの事を考えてもらえたらいいなと思い、無名でも人の為につくした人達の映画を作ろうと思いました。」と、映画を作るのが好きだといっていたが80歳杖を使っている時もあるがお元気である。留岡幸助はどちらかというと無骨な男で、主演の村上弘明は男前、顔からいったらミスキャストだが映画くらいはいい顔でにはおもわず笑ってしまった。

作家の中川李枝子さんが「あの膨大な内容を映画一本に凝縮なさるのはさぞ難しかったことと・・・」と書いていたが観え終えて実感した。2時間近い映画だが観ている側では淡々としたもののようにも観える。典獄(刑務所長)有馬四郎助は本間俊平の本の中にも出てくるがどのような人であったかがわかった。当時は行くことすら大変な北海道に、教誨師として赴き、多分囚人らは虫けらのように扱われていたであろうその人たちの中に入って人間としての覚醒を与え、典獄自らが囚人達の待遇改善を図っていった姿を見ると脱帽する。人間愛がなければできないことだ。今のキリスト教界ではあまり見れないような気がする。

鉱毒事件を起こした足尾銅山の古河市兵衛が彼から金銭的援助を受けることに反発してやめていく二人の職員の姿と共にちょこっと出ていた。今日でもそうだろうが事業を行おうとすると金銭的には苦労は多いと思う。孤児三千人を養ったといわれる石井十次は倉紡の大原孫三郎や後のライオンの小林富次郎から定期的に経済的援助を受けていたのであのような大きな事業ができた。社会的には魅力のないこのような事業を行おうとしたら信仰や信念がなかったらできない。キリスト教の冠を掲げて福祉事業を行っていても金儲け的なものもあると聞くからそのようなものとは明らかに違う。「神の前に人はみな平等である」を旨としている。

福音主義の教会では救いが第一で、「この世のことはこの世の人に」の感があるような気がする。当時と今では状況が違うだろうが先駆者達の目線は今日のキリスト者にあるのだろうかとふっと思う。というよりないような気がする。勿論サルには感心があってもアクションがない。傍観者なのである。これが一番いけないパターンである。留岡幸助の映画の内容を書かなくて脇ばかり書いてしまった。同じ区の建物なのだが隣には大勢の中高年が集っていた。地下で広くない視聴覚室に立った9名の視聴者しかいない。あそこの一割でもと思ったがこれが現実なのだろう。午後の2時、リタイヤ組か主婦でないと集いない。2月8日にお茶の水のクリスチャンセンターでは午後の5時からだから勤め人も観れる。多くの人が来られることを願う。今日のキリスト者に欠けているものを示唆しているようにも思った。





















2012年1月24日火曜日

N姉召される

経堂集会のM兄からN姉が召されたお電話を頂いた。サルが信州に来る時はお元気だったが姉妹の様子を聞くたびに弱っていたので気になっていた。今度会った時はサルであることはわからないだろうなと一抹の寂しさがあったがついにの感がある。85才、走馬灯のように色々な思い出が浮かんでくる。でも別離という感はしない。久しぶりの東京、姉妹のお陰で二つの願いがかなえられる。

○○ぷさんまたアクセスできなくなりました。たった一日の喜びでした。それでもまたアクセスします。

2012年1月22日日曜日

再びアクセスできて

○○ぷさんまたアクセスできるようになりましたね。
またアクセスできるようになるだろうとお気に入りに入れたままにして、時折ですがアクセスしていました。昨日アクセスしたら繋がりました。でもいつから?殆どアクセスもコメントもありませんがコメントがきてもすることもまた返事をすることもしないようにしています。それでここで・・・。

2012年1月21日土曜日

雪雑感

今冬初めての大雪?で車にも大分積もっている。雪になると冷え込みが柔らぐから助かる。それで日中に陽が差してくれると最高。日陰はダメだが陽の当たるところはどんどん溶けて、道路も車の往来で雪はなくなる。これが一番なのだがそうはいかない。予報では来週後半また雪が降りそうである。今日は一日雪がちらついていたが雪かきするほどでもないし夜はみぞれのようになっているので冷え込みがそれ程でもないのでほっとしている。

今冬は暖冬かと期待したのに十二月はさむく、一月もさむい、気象庁に文句を言いたい。二月は平年よりさむいというがこの予報は外れる事を願うがどうなるだろう。どちらにしても三月まで忍の一じでいかなくては、それでも冬の至福の時がある。それはシャツなどを着る時に暖めてかる着るので、着た時に暖かさが肌に伝わってきてとても気持ちがいい。それと電気毛布を使っているので暖かい布団に入った時の気持ちよさは最高、まさに至福の時である。貧しいキリスト信徒の冬の一齣。

2012年1月20日金曜日

固いのは頭だけでなく

今日(日付が変わってしまった)真向法という体操の講習を受けてきた。簡単なストレッチのようなものだった。しかし、脚を開いて身体を前に出すようなことをするから内股の筋肉が痛くなってよく体が動かなかった。サルより年配の人が殆どだが同じような人は一人か二人、中には脚を広げて胸が床につく人が二人ばかりいたのにびっくり、驚きである。普段使わないところだから運動不足がてき面である。
簡単なストレッチだから毎日は難しいがそれでも週に三回くらいはやりたい。

考えてみればどこもかしこも固い。固くあってほしいと願うところは軟弱だし、柔軟性に富んでほしいと思っているところは硬直しているし難しいものだ。固いからだのお陰で考えさせられた今日一日でした。

2012年1月18日水曜日

本間俊平

今、村上弘明主演で「大地の詩」―留岡幸助物語―が上映されている。公開は東京中心であるが地方でも公開されているようだ。一般の映画館ではなく、会館とかホールなどで上映している。サルも「筆子、その愛」は、中野のZEROホールで観た。会社が中野区にある所為かここでの上映が多い。信州では公開しないだろうから2月にお茶の水で上映するから上京して観てみたいなぁと思っている。東京も久しぶりなので寄りたい所もあるしと思っているがどうなるか。

この映画を製作したのは現代ぷろだくしょんで既に常盤貴子主演の「筆子、その愛」―天使のピアノ―で日本初の知的障害者施設を夫亮一と共に創設した石井筆子の物語を製作している。その前には松平健主演で「石井のお父さんありがとう」―岡山孤児院-石井十次の生涯―が製作されている。「筆子その愛」を中野ZEROホールで観たときに「石井のお父さんありがとう」のDVDが販売していたので買って観た。キリスト者として名前くらいは知っていたが映画を観て、世の中で取残されているような彼らに目を向けた働きの大きさを教えられた。少年の感化事業や障害児、孤児たちに目を向けて先駆的働きをした人を取り上げている監督でプロデューサーの山田火砂子さんはキリスト者?有名な役者を使っているが、儲かるような映画ではないようだし、ZEROでは切符切りをしていた。それに身体が少し不自由そうなおばぁちゃんという雰囲気だったからどこからあんなエネルギーがとその時に思った。

明治、大正、昭和の初期の時代に活躍したキリスト者となると内村鑑三、新渡戸稲造はよく知られている。しかし、社会活動をされたキリスト者となるとクリスチャンでも良く知っていないのではないだろうか。救世軍の山室軍平、賀川豊彦、田中正造などはどうだろう。若い時に救世軍で働いていた姉妹を知っている。彼女に言わせるとこんな信仰生活でいいのかしらと集会に集うようになったときに思ったと云っていた。まず実践があるらしい。救世軍の廃娼運動は有名である。日本より外国で良く知られているといわれる賀川豊彦、彼の理念が今日のユーロの理念の根底にあると知って驚いた。最初に協同組合や労働組合を作り指導した人だと聞いている。足尾鉱山の鉱毒問題で生涯を奉げた田中正造。集会関係を見ていると内村とかその弟子といわれる矢内原忠雄などの名前は聞くが社会活動家の名前は皆無に近いような気がする。集会に限らず教会も然りなのだろうか。神学的なものがより重要であるだろうからなぁ。サルはこれくらいしか知らないが社会の各方面で大きな働きをしているキリスト者は大勢いるのだろう。老害と叫ばれている方もいるようだが。

若い時にサルがキリスト者だと知って、「本間俊平の生涯」(三吉明著)という本をある方がくれた。製本もしっかりしたものではなかったがサルにとってインパクトのある本だった。著者は以前に「本間俊平伝」を著していて、あとがきに「本間俊平は色々な意味で、もう一度味わってみなければならない、いわば大切な人物である、と私は思っている。」、そして「特に青少年問題や、 非行児の問題を扱う人たちに噛みしめて味わっていただきたいとの願いから、・・・全く想を新たにして、決定版のつもりで書き改めた」と書いている。年代は昭和41年6月のもの、半世紀近く経っているから今はどうなのだろうか。

明治6年に生まれて、昭和23年に75才で亡くなっている。23歳の時にキリスト教に導かれ、24年に留岡幸助から麻布の霊南坂教会で受洗している。一介の大工であったがこのとき既に留岡幸助の影響か出獄者を引き取り世話をしている。大工であったが東宮御所造営にかかわる頃には石工や職人を纏める立場にあったようである。造営のため大理石が必要なためにその一つとして秋吉台に赴くが結果は否だった。しかし、そのことが縁で大理石採掘をするようになった。そこで出獄者、非行少年を預かるようになる。秋吉台で本格的に採掘したのはこの人らしい。建物のみならず電機の配電盤にも外国製から国内産に移行する中で使われるようになり、大メーカーと取引をするようになった。

安川電機の創業者である安川第五郎が創業間もない頃、八幡製鉄所の鉄鉱石の売買交渉のために来日していた李氏に付近に大理石採掘があるなら見たいというので、取引のある本間大理石採掘所に案内した。「・・・主人らしい一老人が応接し、自分で採掘の現場と加工工場(工場というより掘っ立て小屋)を詳細に案内しつつ説明され、李氏も大いに得る所があったらしい。・・・ホテルで李氏と夕食を共にしながら本間という人は如何なる経歴の人物だろうか、普通の石屋とは大分違う感がすると語り合ったが、私も前もって先生の経歴を識らずに只取引関係だけでお訪ねした事でもあり、その時は李氏に一切説明する事は出来ずにすんだ。この事があって間もなく、左手に聖書を右手にハンマーを振り、大理石採掘事業を通して若い前科者や迷える青年を導いておれるのだと聞いて、初めて我々の疑問が解けたのであった。」と書いている。一介の取引業に過ぎない本間俊平を先生と呼び、自ら本間宗の信者と自認している。

本間俊平は事業よりも大理石採掘を通して、出獄人や問題を抱えた青少年が更正するのが目的であった。このような時に師範学校の先生が研修のような形で来ていたようである。そしてその教え子が修養生として来るようになった。先生から影響を受けたひとりに玉川学園を創立した小原國芳がいる。彼は自分の全集48巻の中に11番目に「秋吉台の聖者本間先生・玉川塾の教育」を入れている。思い入れがいかに強いかを教えられる。

小原國芳は招かれて成城小学校の主事になる。今の成城学園のところではない。牛込といって今の早稲田大学の近くにある私立の学校である。小原國芳は今の成城学園や玉川学園の成り立ちをこのように書いている。
「・・・牛込のお化け屋敷そのままの古校舎の中のお正月の式をすませ、子供たちに配った蜜柑の余りや、するめをかじりながら、夢の学校は次から次へと展開していきました。
『ああ、金がほしいなァ』腹のドン底から、うなると、
『先生、ゼヒ、本間先生に貰いにいってよ!』と皆が言い出す。・・・
『だが、おい、出掛ける旅費がないのだ』というと、誰いうとなしに、年越しの財布を開いては、ありったけの金を一円、二円と皆が出す。十一円何がしが集まったのです。それで、とうとう終列車で西へ立ちました。」と、これでは足らないので徳山にいる奥さんのお父さんに電報で金の工面を依頼して、牧師をしているお父さんが献金の中から大切に取ってあった五十銭銀貨を紙に包んで渡してくれた。婿がかわいいのか娘がかわいいのかと書いている。

秋吉に着くと「『忙しいあなたが、新年早々何の用事じゃ』
『先生、金貰いにきました』
『金貰いに?素寒貧のワシじゃ、金は一文もない。一体、何するんじゃ』
『どうしても、もう高等学校を作らねばなりませぬ、何処からか貰ってください!』
『一体、いくら要るのじゃ。むう、二百万!そうだろうね。○○のおばあさんがね、女の身で何千万と儲けたものだ。神様の御用に貰ってくれろって、その一割、ちょうど二百万円、持って来たものじゃ。俺には神様が下さるから要らぬといってつき返したものだ。その後、いろんな人がそのお金を貰ってくれといってきるが、二三遍、かけ合って見たが、遺言状がないといって、物にならぬのだ。・・・帰りに会って見たまえ、電報打ってあげる。当主に当たる前には大事な人が居る。××××(ヴォーリス)という西洋人じゃ。一つ会って見たまえ。』と早速、長文の電報を打ってくださる。」

そうして数分間腕組されながら、
「『む、そうだ。十哩、郊外に出ろ。まだ武蔵野は広い。安いはずだ。学校を作ったら、あたりが騰貴する。そして、土地を半分売るんだ。コロンビア大だって、そうだった。福岡の安川さんの学園だってそうだ。』・・・
『成程』ピリッと来ましたが、只一つ困った事には、小学一年生から350名の子供をどうして十哩通学させよう!
『先生、小学一年生の子供たちをどうしましょう。』と失望の問いを発すれば、
『馬鹿いえ!お前がいい学校を作れば交通は必ずついてくる。交通のついて来ないような学校ならツブレちまえ!』
何という天来の響きでしょう。・・・
『そうだ!交通のついて来るような学校を、おれはキット作るんだ。つくらねばならないんだ。』
その瞬間、トテモ大きな精神的飛躍と大覚悟た湧きました。・・・」

東京の地図を広げて、
「『東北本線の方はだめ、北には人は行かなぬ。千葉の方はダメだ。本所、深川を通るのが汚い。中央線はもう八王子で行き詰まりだ。そうだ、やはり相模の平野じゃ。東京から横浜、小田原とズーっと東海道線は弓なりに曲ッとる。キッと、新宿から小田原へ一直線に将来、汽車ができるに違いない。この方向だと、』小田急電車が現在通っているそのままに指で線を引かれる。」

事実、当時は経堂までしか小田急は来ていなかった。成城学園は更に三つ先である。そして成城学園は高台にあり、後に東宝が買いに来たそうだ。坂の下に東宝のスタジオがあった。玉川学園もそうである。売った土地は今はどちらも高級住宅のイメージがある。それに玉川学園の駅前にはパチンコ屋はない。風致地区になっている。成城学園はどうだろう?隣の駅にはあるが成城では見かけないが。

大倉喜八郎が「はじめは本間君と呼んだ。何時とはなしに本間さんと呼ぶようになった。然るに今日では本間先生といわねば相応しくない気持ちになった。」と述懐かいしている。
森鴎外は大正2年の中央公論に「槌の一下」という題で本間俊平のことを書いている。鴎外は本間俊平の伝記を書きたいと願っていたそうだが書くことが出来なかった。
徳富蘆花は「石工に化けた英霊が、大理石を採掘しつつふれあふ人の心の衷に、神を喚び醒ましつつある。」と、まさに聖書のことばを実践した人であり、接するひとりひとりに心を注いだ人である。

「戦争末期からかけての毀誉褒貶は少なくない。しかし、克く彼の時代と、先生の育った温床を見ねばならぬ。忠君愛国孝道の中に生育し、自ら無学と称しているが、一度キリストによって贖われた体験の宗教は、実は自分としては良く知りぬいて、よく利用されることも知りぬいていたのである。勇敢にして何の弁明もせず正しいと信ずる道を歩んだのである」と遊佐俊彦は書いている。
内村鑑三や矢内原忠雄は後世にまで残るであろうがこのような人は過去の人間として、あるいは福音から外れた人として忘れ去れるであろう。しかし彼の最後のメッセージの聖書のことばは、自分にも語るかのように「この時イエスは教えて宣べはじめて言ひ給ふ。なんぢら悔い改めよ、天国は近づきたり。」(マタイ伝四章十七節)と。

2012年1月13日金曜日

集会は”ブレズレン”か?

いつもアクセスしているブログに上記の本があったので興味を持ち、ついでにパンフレットの「どの教会に集うべきでしょうか?」もいっしょに出版元に注文をする。あめんどうさんから本の案内のはがきを頂いてそのままになっていたのを丁度注文しながらサルの無定見さに自分であきれているがこれが我が本質なのである。

ブラザレンに生まれ育った者として、信仰のカルチャーショック?を与えたナウエン、どちらも興味がある。ナウエンのは後に読むことにして早速薄いページのを読ませてもらった。どちらも頷けて読めたが教会あるいはブラザレンのことばに拘っているんだなと、普遍的教会は完璧だが地域教会は不完全なものだと思っている。よりみことばに忠実にとの思いは良くわかるが完璧はありえない。どこか欠けるものがあって当然、それを受け入れる事が必要ではないだろうかと思った。ちょっと大雑把かな?

「大事なことは、聖書の教えのとおりに集まっていると確信できるところに集うことです。・・・今日、多くの教会(集会)があるなか、集うべき教会(集会)を探し求めるうえで最も大事なことは、神のみことばによって導かれることです。・・・新約聖書に目を留め、そこに記されている原則や模範に従っているところを捜し、確信できるところに集ってください。」(どの教会に集うべきでしょうか?)とあったがこのような選択ができるのは聖書の知識においても信仰のありようにおいても成熟したキリスト者でなければできないのではないだろうか。そのような信者だと問題点も見えてしまうかもしれないなぁ。となると地上で普遍的な教会を探さないとと思うがどうだろう。これは批判としてではなく、実際問題として不可能ではと思った。勿論サルの信仰の基準だから低い低いレベルでの話。

ブラザレンで生まれ育った者であるがサルの集っている教会がブラザレンであることを知ったのは大分経ってからだった。断片的にではなるがブラザレンのことを知ってくると歴史の流れの中での必然性を感じ、この先にはまた新たなものができてくるのではないだろうかと思ったりしている。分裂していたものが統合に向うかもしれない。イエス・キリストの下で一つになるのであるが。

分派とか宗派のことばに拘るのだろうか。「キリスト者」の名前も最初は侮蔑的な意図を含んでいたようである。「ブレズレン」の流れでもそれほど拘ることはないのではないだろうと思うがどうだろう。東京の王子にある専門学校が学校の案内に田中角栄が出身の学校ということで彼が名誉校長とパンフレットに載せていた。ところが田中が問題を起こしたらすぐ我校とは関系ありませんと但し書きが出た。問題あるからとこうもあっさり引っ込めるのには驚いた。卒業生である事には間違いないしそこまでと思ったが世の中ってこんなものなんだなぁと変なところで納得したことを思い出した。諸集会というのもそうなのだろうか。大分端っこのほうにあるのだが事実ブラサレンの流れの中にあるし、卑下も驕りもない。問題点も幾つか見えるがそれを問題にするつもりもない。なぜならどこかに欠けたものがあるからである。黙示録にある七つの教会が今日もあるということだ。「我教会はスミルナやフィラデルフィアの教会のようです」と自信をもって言える教会はあったらすごい。その自信は敬服に価する。知りたいとは思わないが。

2012年1月11日水曜日

牧師病?


上沼先生がウイークリー瞑想で「牧師病?」というタイトルで書いている。ある番組を観ての感想である。前後をはしょるがそこに出ていた牧師をこのように書いている。「牧師丸出しで、すぐに説教調になるのです。聖書の教え通りにしていればすべてがうまくいくと言うことを巧みに説明するのです。多くの場合に説得するのです。それがあまりに鋭いので黙る以外にないのです。 子どもさんたちは逃げられないのです。
…テレビ番組なので、そんなに気にしなくて良いことなのですが、 何とも後味が悪い思いが残っています。他人事でないし、結構どこでも似たような場面に出会うのです。癒しがたい牧師病なのでしょうか。」これを読んでいて、キリスト者が陥る危険性を指摘されているような気がした。

集会あるいは教会の姿を見ていると、違ったものを排除するような気質があるような気がする。排除というより違ったものがあってはいけないという発想だろうか。それと信仰は一つ、信仰の幼子をそのようなものから護らなければならないという護り、他に聞くという姿勢が少ないようにも思う。聞いているようで何も聞いていないなと思う事がよくある。絶対的なものと相対的なものを識別する大切さを求められるのかなとも思う。前にも書いたがニーバーの祈りの大切さと難しさを覚える。キリスト者として心しなければならないなと思う。

2012年1月9日月曜日

信じるということ

今は旧約の大家になっているT教授が大学一年の時同じ集会だった。ある時雑談している中で、「無教会は色々議論して結論に持っていくが集会は即結論にもっていく」と批判としてではなく、無教会と集会の特徴を端的に云ったので中々的を得ているなぁと感心した事があった。あの当時は無教会も教会も批判の的だったから雑談でしか云えなかった。今も批判されている方々もいるようだが多くは内村鑑三を優れたクリスチャンの一人である事をメッセージの中で語っている。隔世の感があるというか半世紀もしないのになんだこれはと思うことがある。ある意味で批判は控えに、わが信じる道を邁進してほしいものだと思っている。今も実直に批判されている方々もいるようだがオープンに属している所為か無教会や教会に対して以前に比べたら理解を示しているように思うがどうなのだろう。

サルは牧師のいない集会で育った一信徒に過ぎないから聖書の専門的知識はない。求めても無理だから単純に聖書を神の言として信じている。だから聖書の専門知識のある人から見たらおかしいと思われる事があるだろうなと思っている。事実神学校で勉強された若い伝道者と交わった時に指摘された事があった。難しいかそういう考えもあるのか位でしか理解できないから神学論争はできない。単純な信仰でわが道を行っている。しかし、玉川カルテットのテーマソング?ではないが「金も名誉もいらないがわたしゃも少し聖書の知識がほしい~」と叫びたいのは本音である。しかし、たとえ批判を受けても聖書を神の言と信じることができるのはサルにとっては奇跡なのである。そして少しでも理解できる事は恵みなのである。

2012年1月3日火曜日

新しい年に

「大晦日、越すに越されず越されずに越す」ように、2011年から2012年になってしまった。今年はどんな年になるのだろう。日本や世界もさることながらこの身の回りがどのようになっていくのかそして本人は?
昨年の11月15日に書いたパンセのことばがサルの信仰生活の生き方に少しでも添える事ができれば上々であろうと思う。簡単な事ではない。だから常に頭の片隅においていくことにしたい。