2012年7月31日火曜日

丁度4年に

去年はどうだったか忘れたが今年の夏は年の所為もあってか暑く感じる。それでも都会の蒸し暑さはないから助かる。しかし、風があれば問題ないが風無しだとカラッとした暑さもきついものである。それでもクーラーをオンにしていないだけまだいいのかな。

こちらに来て丁度4年になった。何かと問われれば何もない。サルの場合は幾つかの要素が重なって、一つの結果なり行動がなされる。それは弱さの一つなのかなと最近教えられている。柱となるビジョンがないのである。或いは後で整えられるということもある。こちらに来たのも同じくである。

最近自分の弱さを教えられている。今までの生き方の中の根底にこれが流れていることを知った。父を嫌って東京に出て来たがある時父から田舎から逃げている自分を教えられる。年の所為もあるのだろうがここに来て逃げ場が少なくなってきていることを実感するがそれでも逃げるかもしれない弱さを抱えている。それでも主が最善のことをなしてくることを信じている。しかし、これが曲者で肉には何の心地よさも与えてくれない。不安や恐れだけである。でも後に平安が訪れてくれるから感謝である。まだ来てはいないが。

本間俊平は留岡幸助の影響でか免囚事業のような働きを秋吉台で大理石を掘っていた。「本間俊平の生涯」の中に日記が紹介されて、「事業は失敗する。人は逃げてしまう。神は見えなくなり、希望はほとんど絶え、信仰の山より、ずるずる引き落とされるような気がする時がある。こんな時に、自分のつかまって行くところは聖書のことばだけだった。」と記されている。同列に置くのは申し訳ないが同じ気持ちを抱かされることがある。今もそんな気持がないでもない。色々なことがあっても帰るべきところがあることは感謝だ。こういう時も大切なのだろう。ターニングポイントになればいいが・・・。


2012年7月27日金曜日

暑い

梅雨があけた途端に暑くなった。寒いのもしんどいが暑いのもしんどい。この暑さを真冬に、この寒さを真夏にといつも思うが自己中の極みである。まぁ熱帯夜はないから関東地区に比べたら贅沢かもしれない。昨夜は夕立があってほっとする。よく見たら三日月が出ているではないか、こんなことは初めて、これこそ恵みの雨である。暑さ寒さも彼岸まで、まだまだ先の話ではあるが。

2012年7月20日金曜日

同じことばでも

キリスト者が「神」と言えばすべてのものを創られた方「創造主」を思い浮かべえる。しかし、多くの日本人は「神」と言えば聖書でいう「神々」である。同じことばでも人によって大分違う。日本人にとって「すべてのものを創られた神」はイメージできるだろうか、むしろ否であろう。それは難しいのではと思っている。分業的な「商売の神様」、「学問の神様」は単純で分かりやすい。進化論の影響か人の誕生も偶然として見、必然なるものは有り得ないような捉え方が一般的かなと思っている。偶然の中に愛はない。必然の中にのみ愛がある。

罪を語り、裁きを語り、救いを語ってもどこか空振りしているような気がする時がある。神々の神ではなく、すべてを創られた神をどのように伝えることができるか難しいことである。「福音」ということばも然りである。グッドニュースがグッドニュースになっていないときがある。一面的な聖書の使信を伝えてもことばだけであれば伝えたことにはならない。神の愛をどのように語ればよいか分からなくなる時がある。無限に広がるものをある枠の中にはめ込んでしまって、神の愛を矮小化していないだろうかと思うことがある。

2012年7月11日水曜日

おひさまファーム 6

今回は7回目なのだが前回はその日に東京に行って金曜日に帰ってきたので書き込みはパスしてしまった。前回はチンゲン菜、ほうれん草を植えていた畝にダイコンの種を蒔く、それを不織布で蔽う。他には今植えられている野菜の追肥、ネギの土寄せ、それにトマト、ナス、キュウリの「わき芽かき」、これが良く分からなかったが今回もう一度やってわかった。幹と葉の間から出ている芽をとる。これをほっとくと成長して花が咲き実を実らす。その分本来実を実らす実が成長しないのだそうだ。各々切る程度が違うので慎重にやる。キュウリなどは花どころか実も成っていたがばっさり切った。勇気がいる。これを見ているとあれもこれもと首を突っ込み実の成らないわが信仰を思う。少し痛みを経験して切るべきものはばっさり切る勇気と力が必要。ブロッコリは、切った後に雨水がたまらないように斜めに切る。知恵だけでなく痛みを覚悟して・・・。


毎度、丁寧に説明してくれるのだがその時は分かってもいざ実技?となると分かっているのは最初の一つだけ(時にはわからないこともあり)、後は他の人のを見ながらやっていたり、先生や職員が来た時に又教わる。みんな一緒にやっているから見よう見まねができるからいい。一人だとギブアップである。

たった4本のキュウリだが食べきれなくなるほど続けて出来たりする。トマトも実がなってきた。色づくのはまだ先のようだ。キュウリ、ナス、シシトウなども実が成りだすと次々と大きくなっていき、成長の早さに驚く。二人でやっていてまだまだ、否最後までこんな調子なのだろう。

2012年7月7日土曜日

痛みを知る

今、大津市での中学生の自殺が話題になっている。学校や教委の対応はいつも聞くパターンである。法律的なことは分からないが警察も対応してくれなかったようだ。子供さんを亡くされたご両親の苦悩を思うと心が痛む。

こんな事件を見ているとイソップ物語の「少年と蛙」?だったかを思い出す。少年が池に投げている行為は他意はなくとも池の中にいる蛙にとっては死の恐怖にさらされていることである。やる方は他意がなくともやられる方はまさに死活問題なのである。もし意図的であったら?それはもう萬屋錦の助の「破れ傘刀舟」ではないが彼が最後に発する言葉「許せねぇ、てめえら人間じゃねぇ!叩っきてやる」という台詞を思い出す。

パスカルはパンセ「347」にこのように書いている。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとえ宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。(前田陽一・由木康訳、中公クラシックス)


ある意味で何も考えていないのかもしれない。原発の問題と同じように考えているのは自己保身か?親であっても子供に対して最善を考えても最善をなすことは不可能ではあるが。


痛みや弱さは生きるうえでは障害になるかもしれないがこれを知らないで生きることはある面で悲劇であるような気がする。イエス様は「泣く者とともに泣き、笑う者とともに笑う」その人に寄り添えながら忍耐を持って人間復興(神とともみ歩む)を願っていたのではないかなと思ったりもしている。パリサイ人や律法学者はこれをやらなかったというか出来なかった。考えさせられる。

2012年7月3日火曜日

幻がなければ、民はほしいままにふるまう

題は聖書の箴言 29章18節前半のことばである。
政治にそれほど関心があるわけではないが昨今の政治の動きを見ていると冒頭の箴言の言葉を思い出しす。時とともにその要請は変わってくるからマニフェスト云々は問うつもりはない。変わっていく中でそこに丁寧な説明が必要ではないだろうか。消費税が上がることは生活に即響くから大変であるが多くの国民は理解を示していると思う。借金を作り続けた自民党はそのことに沈黙しているがこのことについてどういう考えを持っているのだろうか言い訳も聞かないように思うが。そして、昔の民主党のように揚げ足ばかりを取っている。自分たちの政策をなぜ提示していかないのか。一連の出来事を見ているとこの国をどのように導いていくのかそのビジョンを持っているのか疑問に思う。ビジョンを持った政治家や官僚が必ずいると思っている。いつか表に出てくることを期待したい。

アメリカの政治家は演説がうまい。若い時から自分の意見を発表する機会があり、またそのためにどうしたら聞く人たちにアッピールできるかを訓練させられているようである。日本では「阿吽の呼吸」が大切で、そんな機会も少なく、そのような土壌も無いのかもしれない。しかし、いつか党首討論なんかで自説を賛成反対は別にしても相手も聴衆もうなるようなそんな討論を聞きたいものである。

「大事の前の小事」とか「小事は大事」と言う言葉もあるように小さいことの大切にしてその積み重ねで大きなことをしてほしい。どうも大局云々で小事がスポイルされているような気がする。このことはある意味で政治家なり官僚は国民を国民として見ていない証左ではなかろうかと思っている。国益だけ、或いは自分たちの利益だけを求めていると国は滅びていく、ビジョンを持ってこの国を思うと同時に近隣諸国に思いを向けて行動してほしいものだ。国の正義は国益だけを求めて滅びに向かう。既に滅んだり滅びつつある国があるようだが。

2012年7月2日月曜日

ケセン語訳聖書

月一回の礼拝後の話しを昨日する。
最近読んでいる「イエスの言葉」 ケセン語訳 山浦玄嗣著 (文春新書)から少し話すが相変わらず説明が抜けていたかなと反省している。毎回のことである。まさにサルは猿並みなのである。別に自虐的ではない。

ケセン語訳聖書を東京新聞の1月7日付の土曜訪問と文春新書の帯びに標準語の聖書より分かりやすいと書いてあったがあれには異論がある。たまたま何かで入れた山上の垂訓と放蕩息子のたとえ話を聞くと殆ど分からない。新潟でも北の方に生まれ育っているから東北地方の言葉も混ざっているので他の人より少しは分かるのかなと思っているがそれでも分からない。と言っても田舎に帰って本物の方言を聞くと殆ど分からないからあまり説得力はないが。

思考は硬直的傾向なので読んでいてなんでこんな言葉がと驚く、否定的ではなく肯定的に捕らえてのことであるが。本の中で「本当の幸せへ」の項を紹介した。ヨハネの福音書14章6節からで、
「わたしは道であり、真理であり、命でる。」新共同訳。
これを
「俺は、人を本当の幸せに導く!」
「俺は、人が本当に幸せになるなり方を教える!」
「俺は、人を幸せに活き活き生かす!」

何回も聞いてきた言葉でそれなりに頷いて聞けた言だがこのように訳されるとまたそれなりに味わいがあっていい。「道」本当の幸せに導くもの、「真理」そのなり方、「いのち」生きている躍動感を与える。どちらかというと聖書解釈に目が行ってしまうが実生活の中に如何に聖書のことばが生かされるかといったらケセン語聖書の方かもしれない。原語からより忠実にもすばらしいが実生活で生かされる聖書のことばは身近な言葉でなされたらなおすばらしいのではないだろうか。それと「悔い改める」を「心をスッパリ切り換える」と訳されて、悔い改めも分からないことはないがこちらの方が具体的でとてもいい。今まで「悔い改める」は時には罪を認めるくらいの認識しかなかったのではないだろうかと「天国行きの切符を手にするもの」と揶揄される所以ではなかろうかと思わされている。