2012年8月31日金曜日

8月も

暑い8月も今日で終わりである。といっても明日から涼しくなるわけではない。
それと、いつも来てくださっている伝道者のM兄が奉仕等でパスされたので、さらに長くも感じた。
関東地方の暑さをニュースで見ていると暑いなんていわれないかもしれないがそれでも暑つかった(現在進行形ではあるが)。
釧路在住の牧師のブログをお気に入りにいれて読んでいるが時々暑い日のことを書いている。あの北海道で?どこか悲鳴に近い感じで書いているから今年の夏はただものではなかったようだ。

暑くて寝つかれないということはないが今夏は夜中に目が覚めてしまう。下手すると3時過ぎに目が覚める。少しづつ延びているが今朝?3時半、昨日は4時半かな、最近はそのまま起きて本を読んだり、今日はブログを書いている。そして眠くなったら又寝て7時頃起きるこんなパターンがこのところの毎日である。

このところ朝晩は凌ぎやすくなったので夕方小一時間ばかり歩いている。運動不足の故か中性脂肪が高い。血圧も高いのだがこれは年の所為もある。もう一週間になるから三日坊主はクリアーしたがいつまで続くか疑問である。。ただ歩くだけであるが運動不足の所為か胸が痛くなったり、ふくらはぎが痙攣しそうになる。それでも体が少し軽くなったような気がする。それにお腹が空腹時でも満腹のような体形であるからこれを空腹時は空腹時の体形にしたいとの気持ちもあるので頑張りたい。食欲の秋になったら戦いがあるのかなぁ努力は必要である。

2012年8月24日金曜日

渇くことのない水




「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」john 4:13-14

昔、母方の伯母の葬式に伯父が近づいてきて、「お前、パンも大切だよ」と言われたことがあった。ただそれだけの会話で終わったが田舎でクリスチャンになったことを知ったのだろう。商売というかそういうのに機敏な伯父らしいなと思った。ご忠告を聞き流したので今もって「日ごとの糧」のみで荒野の生活の中にいる。イスラエルの民が荒野で「あぁ肉が食べたい・・・」という気持ちが良くわかる。

パンよりも大切かはわからないが「水」も生きていく上で大切である。山で遭難した人が助かった要因に沢の水を飲めたとか水を飲めて助かったことを良く聞く。今年は熱中症の話題が多かったように思う。それだけ猛暑だったのだろう。水の補給の欠如が要因である。パンがなくとも水があればいのちの保持につながるのだろう。

教会では偶像崇拝という言葉をよく使う。一言で言えば「神ならぬものを神とする」。イスラエルの歴史を見るとまさにその歴史である。だから具体的な例としてメッセージにもよく出てくる。しかし、現代の偶像の一つである「富み」についてはあまり触れないのが多少不満を感ずるところである。

聖書の中に偶像ということばが出てくるから良く使われるのだろう。でも一般社会でも使われるが教会ほどの認識はないように思うがどうだろうか。偶像というより宗教といったほうが通りはいいかなと思っている。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と言われたイエス様の言葉は現代の宗教の姿を映しているように思うがどうだろう。今日の宗教が信仰より金儲けに重きを成している感がする。批判するつもりはないがそうせざるを得ないところに宗教の問題点があるような気がする。そしてお互いに納得しながらまた渇く行為をしているのである。

教会も人の集まりである以上この問題は避けて通れない。現に金銭が絡んでごたごたしている教会を身近に見ているとそうだなと思う。一応表向きはいいこと言っているが以前にもあったし、キリストの名の下に人を裁かないでほしいなと思うがそうでもないらしい。信仰共同体であるから信仰の一致ができなければ出るか出されるかはしょうがないのだろう。そこに人々が集まるからキリストの名の下に実は指導者の顔があるのかもしれない。真にキリストの名の下に集まるなら誰でもいいわけだけどそうは行かない。そこに人の集まりの難しさがある。というより「いける水」を飲んでいたつもりが「渇く水」を飲んでいるのかもしれない。

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」。ここにはプロテスタントもカトリックも教会も集会もない。そうでないのは真に「渇くことのない水」を飲んでいない所為かもしれない。ちょっと短絡的か。


2012年8月18日土曜日

いのちのパン

ヨハネの福音書6章48節に「わたしはいのちパンです」とイエス様が言われたことが書いてある。このことばは何か分水嶺のように思えた。

五千人あまりにパンを与えて満腹させたことは、弟子を含めて民衆が自分たちを守り、日々の糧を備えてくれる方としてのメシア待望であることが推察される。14,15節でダビデの再来を願っていることをうかがわせるようにヨハネは書いている。これは日本の神々が拝跪する者の願いを聞いてくださる神であるのと変わらない。

そして追い討ちを掛けるように23節で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」と断言している。そしてこのことばで多くの弟子が去ったことも記されている。

ここに「日々の糧を与えてくれる神」か「いのちを与えてくれる主権を持った神」かの選択が求められる。ロマ書11章22節には「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。」とある。口語訳では「神の慈愛と峻厳を見よ。」となっている。どちらかというとこちらの方が好きである。

キリスト者でも「日々の糧を与えてくれる神様」が良い、なぜなら「わたしが主権者」だから、いのちのパンを与えてくださる方であるなら「わたしが主権者」ではあり得ない。いのちのパンを与えてくださる方が「主権者」なのである。

イエス様が霊の世界を語っているのに弟子を含め民衆は肉の世界のことしか頭になかったことでもあるのかも知れない。ここで、同じ言葉でも基盤が違っていたら交わることはできない。この宣言を通して「いつくしみ」に留まるか「厳しさの中」に置かれるかその選択を聞く者に問うているように聞こえる。

2012年8月17日金曜日

花火大会

夏の風物詩である花火大会が始まっている。東京にいた頃は隅田川の花火が有名であるがこれはニュースでしか見たことがない。身近に見ていたのはせいせき多摩川、現在はやっていないようだ。その下流にある調布の花火大会を多摩川べりが道路になっているのでそこを通るときに身近に見たり、家の近くだと高いところから見たりしたくらいである。

こちらに来て諏訪湖の花火の大きさと身近に見ると音の大きさに驚かされる。お腹に響くのである。いつだったか湖畔端で見たので火の粉が降りかかってきたこともあった。まさに圧巻である。8月になると上諏訪の湖上で観光目的で毎日花火が打ち上げられる。15日がクライマックスの花火大会、旅行会社がバスをチャーターして来ているそれだけ規模が大きいのかもしれない。毎年少しづつ趣向を凝らしてやっているようだ。最後にやるスターマインはすごい。遠くから見ているのに皆さん思わず拍手していた。9月はじめに新作花火の大会がある。15日ほどではないがこれも規模が大きい。

身近に見ても帰りが電車も車も混むので最近は対岸から見るようにしている。それでも湖岸の周りは人でいっぱいである。東京の雑踏は平気というより好きな方なのだが観光などでの混雑は嫌い。だからそういう所にはあまり行きたいと思わない。花火も然りである。それと花火は華やかだがパッと咲いてパッと散る。この短さが人生の儚さとダブルようであまり好きではない。逆に家内はこのようなのが好きだから促されて付き合うように行くだけである。

15日が上諏訪、16日は対岸に当たる釜口水門まえでの灯篭流しと岡谷の花火大会。義姉夫婦と見物に行く、規模は全然だけれど目の前に上がるので圧巻である。帰りはお茶をご馳走になって11時過ぎに帰ってきた。その頃にはあの大きな駐車場はほとんど車はなし、それに走っている車も少ない。花火を見るよりどちらかというと駄弁りングが好きである。

2012年8月10日金曜日

おひさまファーム 7

今週の月曜日が研修日であったが雨のため水曜日に変更になった。今回はダイコンの間引きと追肥だったから楽だった。オクラも大きくなって実をつけ始め、実をと採ったら脇の葉を切るとると言われ、気がつかなかったので大きくなり過ぎたのが一本あったので収穫し、その脇の葉を切り取る。細かく刻んで納豆で食べたら皮は硬く感じなかった。

野菜を幾つか作っていて面白いなぁと思ったことは、キュウリ、ナスの成長の早さとトマトがちっとも赤くならないことで、当たり前なのだが種類によってこうも違うものかと感心する。特にトマトは成長が遅く、赤くなれば鳥に突っつかれ、トマト同士がくっついているからそこから腐ったりと手間の割には実入りのないような気がする。庭のミニトマトのほうがほっといても実をつけ赤くなってくる。それでもこの間3個ばかり採れて食べたらおいしいというほどではないが味が青臭くてトマトらしかった。

キュウリは4本だけだが食べきれなくなるほどよく取れる。最初にそのように言われたがたった4本でと疑っていた。しかし、言葉通りだった。キュウリのことさい疑ったのにイエス様のこと信じることは桁が違うと思った。だから信じられることに感謝している。ナスとキュウリ、それにたまにネギを採ってくるだけだが最近はスーパーで野菜を買わない。買っても高いものではないが家計が助かる。それと特別おいしいというものではないけれどスーパーで買うのは味がないことに気づかされる。どこか気のせいもあってか贔屓目かコクがあるように思うのは親ばか的心情か。

2012年8月8日水曜日

終戦記念日

8月は広島、長崎、そして終戦記念日と続く、田舎に生まれ育ったから戦争の悲惨さはあまり経験がない。私より少し若い友人は東京の戦火をお母さんの背に負われて、火の粉をかぶりながら逃げ惑ったことを今でも鮮明に覚えているといっていた。それでも5歳で戦争が終わったがこの短い期間に現在の自分があることを思うと戦争のひとりの被害者かなと思っている。この年代は同じような経験をしているようだ。それで病気になっている人を思えばたいしたことではないのかもしれない。

8月になると太平洋戦争、原爆投下の問題が話題になる。客観的に見れば愚かなことであるが非常事態の中ではそんなことはまかり通らないであろうなと思う。「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も・・・」と行かなくても打たれるままにしていれば争いは起きないだろう。国の面子やプライドが為せる業かなと思っている。

人々の罵声の中で何も弁解せずに十字架に向かって行ったイエス様、解決の道はこの道しかないが「かれらは平和の道を知らない」だから戦争はなくならないだろう。批判するつもりはないが記念式典を見ている(あまり見ないが)とどこか空しさを覚えるのはサルひとりだろうか。物事を斜に構える性格もあるのかな。

「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てくださいrev:22:20

2012年8月6日月曜日

干天の慈雨

このところ晴天と暑い日ざしが朝から射していたのに今日は朝からドンよりの曇り、天気予報は午後の中ごろより雨の予報だったが朝から雨が降ったりやんだりしていた。今日は農園の講習会だったが中止、長袖のシャツでもいいような気温で日差しもなく絶好の講習会と思っていたのに残念。8日の水曜に変更、もう気温は元に戻りそう、かさねて残念。

暑い日が続いていたので老体には助かる。図書館は休みで、家の外に一歩も出ることなく過ごしてしまった。午前中の講習がなくなったので読みかけの本を読むことが出来てよかった。お陰で晴耕雨読を経験する。それほど難しい本ではないのに、読むうちからどんどん忘れていく、大分前からで、一時はノートにメモしていたがあまり変わらないので、それもやめた。しかし、読み過ごしていたり、勘違いしていることが指摘されるようなところもあるので、あっそうかと頷くこともあるので、それが楽しみである。落穂拾いのごとく少しでも得ることがあれば後は残らなくとも可である。

2012年8月2日木曜日

準備するなかで

今度の日曜日に30-40分ばかりの話をするのでその準備をしている。準備する中でふっと思った。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」john 3:16

キリスト者にとって当然のように理解されている聖書の神はすべてを創られた方である。しかし、日本人にとっての神は極端な言い方をすれば欲求を満たしてくれる神であり、たたりをなだめる神でもある。そのような神認識をもっている人たちに聖書の神をどのように伝えればいいのだろうと思う。ましてや三位一体の神となるとさらに難しさを思う。

商売繁盛の神様、学問の神様、安産の神様、実に分かりやすいがそこには人とのいのちの交流はないように思う。創造されたということは創られた者への責任がある。だから三位一体の一格が崩れても?その責任を負おうとされている。それは三位一体の神でなくなる危険性を持っていると思われないだろうか。神々にはないが三位一体の神にはその根底にあるのは「愛」であることが分かる。

永遠のいのちや新天新地が約束されているが罪からの救いを強調するとこのすばらしさが判らなくならないだろうかと思ったりしている。サルも朽ちないいのちとか労苦や悲しみのない世界くらいにしか捉えていなかったのではないだろうかと反省している。永遠のいのちのすばらしさ、やがて来る新天新地のすばらしさをモット知りたいと思う。あまりにも肉に束縛されているが故に見えない、知り得ない。