2012年9月30日日曜日

何故なのだろう

原発事故が起きて放射能汚染の問題がTVで議論されている時、ある番組で京大の小出裕章先生が真剣に危険性を説いている脇で多分東大の若い先生だと思ったがその脇で冷ややかな顔をしてそれを否定していた。大したことではないようなことを言っていたので専門の先生が言うのだから大丈夫だろうと安心していた。ところがどっこいチェルノブイリと同じように棄村しなければならない人たちが出ているのに何これと思った。

尖閣の問題も石原都知事が東京都が買うと言い出してこんなことになった。中国の品格のなさは問題だが一概に批判できない。十四億円から集まったということはそれだけ関心があるということなのだろう。最初彼は良くTVに出ていたがことが大きくなってから出なくなった。本人が出たくないのか報道機関が取材しないのか分からないがどちらにしても無責任だと思う。

アメリカで牧師がコーランを誹謗してイスラム圏の反感を買ったりするのと同じなのかなぁと思う。かつてスペインがユダヤ教徒からキリスト教徒に改心した人たちを異端尋問して迫害したように自分と違うものを排除するだけでなく抹殺することが神の御心と信じる恐ろしさを覚えたが形は違っても同じことが繰り返される怖さを覚える。「過ちを二度と繰り返しません」この言葉は死語になろうとしている。

2012年9月28日金曜日

ペトロ岐部

遠藤周作著「銃と十字架」を読み、松永伍一著「ペトロ岐部」を今読み終えた。松永氏は最後にこのように記している。

[ヨハネ伝十二章に言う「誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにあらん。もし死なば、多くの果を結ぶべし」(24節)を、わが身の営みにしようと魂を浄化し、日本式十字架にかけられて死んだ時、キリスト教の側から見れば「イエズス会士の輝ける殉教」の一例に過ぎないとしても、わが国にとっては十七世紀に世界を歩いてユダヤ教徒、イスラム教徒などの生態をも知った最大の国際人を、鎖国の徹底化と引き換えに殺した不幸な事件ともなった。そればかりか、日本史は鎖国の要因をつくった人物たちの名誉を封じ込めてきたから、キリスト教信仰の自由が保障された後も、ペトロ岐部の流した殉教の血のなかに「一粒の麦」が宿っていることに誰も気づかずにきた。歴史はおのれの活性化のために無意味な血を流させれるものだが、そのことに無頓着であるならば、罪は歴史に負わせるのではなくわれわれが負うとしかるべきであろう。ペテロ岐部もその罪の自覚の上に立ちあらわれる「日本人の一典型」である。宗派の問題はそこで超えられるはずである。]

と結んでいる。

一人の殉教者の姿を通して時代の流れを見ていくと、純粋に信仰に生きていく者と単純ではないが布教を通して自己の利潤を得ようとする者の二つの姿を見る。そして関わってくる為政者の姿が浮き彫りにされる。同じキリスト者でもキリシタン、カトリックと距離を置いて見ていたが読みながら良し悪しは別にして同じ信仰者としての視点で見、また松永氏の言葉で日本人という視点からも見ることができた。それでもこの困難と受難の中で信仰を捨てることなく突き進んで行く姿は想像を超えている。何が彼を動かしているのだろうか。同胞とかキリストとかに対する「愛」と一言で言えない何かがありそうな気がする。キリストの死が裁いた人たちを逆に裁いているようにペトロ岐部の死は日本を日本人を裁いているような気がする。或いは為政者をか。

なたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。matt: 7: 2

曲がることのない一本の道を歩んでいくと人を右と左に分けていく、言葉は遊ぶことが出来るがこれは「いのち」がかかっている。ペトロ岐部はその道を歩まれた。お恥ずかしいがサルは歩めない。


2012年9月25日火曜日

最近思うこと

マタイの福音書十八章に「一万タラント借金して払いないので赦された人が百デナリ貸した人を許せなかった人」の事が書かれている。一タラントは六千デナリである。これでもすごいのに万とくると比較の対象ではない。

でも考えてみれば罪赦されているという事はこのようなことではないだろうか、しかし些細なことでも人を許せない自分がいる。夫婦二人で向き合っていると許していないものがお互いにあることに気付かされる。そんな時は一瞬気まづくなる。お互いどこか許せないものを相手に持っているからであろう。そんな時は大体お互いに持っているプライドに触れるからである。それを無くさないとだめだぁと思っている。これは百デナリに拘っているからである。そして一万タラント許されていることが意識の外にある。

マルコの福音書の一章にイエス様がツァラアトの人を「深くあわれ」んで癒していることが書かれている。夫婦が気まずくなるのは向き合って、相手が良く見える時である。深く憐れんでいる時は寄り添っている時である。痛みや苦しみを共有する時に気まずい思いはない。イエス様はツァラアトを病んでいる人とその苦しみ痛みを共有されていた。否、共有される方なのである。

福音宣教が金科玉条のようになると百デナリ許せなくても福音は語られる。許せなかったら語ってはいけないと言うのではないがどこか何かがスポイルされているような気がする。何かどこかでボタンのかけ違いをしているような気がしてならない。家内との関係も然りである。解決の方法も少し分かってきたと思っている。ただそれができるかどうかは別であるが。

2012年9月24日月曜日

長野市に

私たちの集会は午前中で終わる。松本や佐久にある集会は逆に午後から始めている。多分遠くから来られる方がいるからだろう。わが集会は逆で車で十分とか十五分で来られる。午後の時間は空けておくというか借りる単位が午前、午後、夜間となっているので昼までなのである。月に一回は午後まで借りているが。

午後は空いているので長野にある集会の特別セミナーなるものに行ってきた。「日本宣教の光と影」という題で、「キリシタンの時代の宣教」、「明治期のプロテスタントの宣教」、「昭和期のキリスト教(主に戦前)」、「日本のキリスト教徒と海外宣教」、「今日の日本の教会の現状と展望」、そして質疑応答とあった。最後の二つしか聞けなかったが前に話されているのも興味あるのでCDを注文してきた。これらの知識は断片的なのでサルも然りだが集会の人にも聞いてほしかったこともある。届くのが楽しみである。原稿を読むようによどみなく話されていたから、一回1時間半X5=7時間半か長いなぁ。

ここの集会のセミナーは他ではやらないことをやろうとしているのがモットーらしい。だから集会に関係なく、キリスト者でお医者さんとかキリスト教関係の専門家の方を呼んでいるようだ。今回の
講師は新潟聖書学院院長の中村敏先生、新発田市の生まれだというので興味もあって行ったことでもある。休憩で少し話せたが同じ市の出身といっても先生は旧市内出身、サルは町村合併で市になった。多分そうだろうなと思っていたことが当たっていた。この違いは大きい、高校生で信仰を持ち、聖書神学舎、トリニティーと勉強されている。著作も5冊、「マンガ日本のキリスト教史」が出版されるそうだがその監修もされている。キリスト教の教師であり、牧師でもあるからオールマイテイーであろうがどちらかというとキリスト教宣教史が専門なのかな。当然とはいえ豊かな知識に驚かされる。年齢は9歳違うがこの年では似たような者、出身の市も同じ、同じなのはここまでで、知識と信仰は・・・。ただ聞くだけの者だが(右から左と流れるが最近はかすっていくことが多々)知らないことを知れることは感謝である。先生、長野集会の愛兄姉様ありがとうございました。

新潟聖書学院と云われていたので新潟市にあるのかなと思っていたら柏崎聖書学院が改名したそうだ。車だったら長野から岡谷と同じくらいの距離である。またいつかメッセージや話す機会があったらいいなと思った。越前、越中、越後はキリスト教の信者が他県に比べて少ないそうだ。田舎ではキリスト教のキの字も知らなかった。それでも中学生の時、ラジオを組み立てるようになって、新潟市から流れる放送の中に「ルーテルアワー」があった。ドラマ形式で内容が余韻の残るいい印象を受けていたことだけは記憶にある。これがキリスト教かなというメージが残っていたのかもしれない。プレゼントの請求で毎回繰り返される「千代田区富士見町、富士の見える町、何丁目何番地、ルーテルアワー何係り」という台詞はよく覚えている。車で仕事をするようになって、都内を走っている中で、中央線の飯田橋駅の近くを通った時にルーテルの看板を見てここだったのかと田舎でのラジオ放送の出来事を思い出した記憶がある。サンタクロースもクリスマスも関係ない少年期であったからキリスト教は新鮮だったのかもしれない。しかし「あなたは罪人です」は否定しないが強烈だった。今覚えば聖書のメッセージはどこか否定的であるような気がする。今もそのトラウマに囚われている。



「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」mark 1:15 なのである。


長野市は月の初めにも行って、今月は二回目、百キロは遠い。軽井沢八十キロ、飯田もそのくらいである。どこかに行くには天竜川沿えを除いてすべて峠越え、信州は広くて高い。標高の高さは隣の隣の茅野市が日本一で岡谷市は二番目か三番目、寒いわけである。市の講演会で東京から来たある講師は「長野は山と高原だけ」と云われた。頷ける。信州人は新潟平野の広々とした稲田を見て驚かれる。サルに当たり前の光景であるが。

2012年9月19日水曜日

小説石狩平野に思う

若い時に読んだ船山馨の小説「石狩平野」を今思い出している。明治初期に開拓移民として、家族とともに北海道に渡った鶴代という女性の生涯を描いたものである。或いは作者は鶴代を通して明治から太平洋戦争の終結までの日本を、そして日本の選択の間違いを指摘するように描こうとしているのかもしれない。

鶴代は社会の底辺に生きながら世の中の流れに妥協することなく自分が正しいと信じる道をたくましく生きていく、たとえそれが自分に不利益になろうともそれを崩すことはなかった。戦争が終わり焦土と化した東京の焼け野原に子供を失いながらも残された二人の孫の手を取り「この子らが大きくなるまで頑張る(そのような台詞だったと思った)」とすくっと立っている姿を思い出す。もう老人となっているのにあの逞しさが印象に残っている。最後のシーンだと思った。

明治、大正、昭和(戦前)がどんなものであったか国民の多くが諸手を挙げて戦争に加担していく中で、毅然としていく鶴代の姿は本当に正しいものは何かを問いかけ、国民受けするような言動も、それは偽りに満ちていることを指摘しているような気がする。戦争中は息子の庇護の下にいれば「お母様」でいられたのに息子の生き方を善しとしないで厭いて社会の底辺に生き、貧しい生活を選択する。無学な鶴代が真の答えを出しているように見える。ちょっと読み込み過ぎかな・・・。

今、色々なことが起きている。今までほっといたツケがここに露呈したのかもしれない。民主党も酷いが半世紀も自民党は何をやってきたのだろうと思う。その反省もない姿は情けない。経済優先も貧しいときはいいかもしれないけど理念がないとエコノミックアニマルと云われても仕方がない。いまだにその片鱗があるような気がする。原発事故が子供たちに与える影響が深刻なのに経済界はそれに頬かむりしているようで悲しい。経済界も厳しい状況であるからわからないでもないが経済一辺倒もなんだぁと思ってしまう。マモンと言う神に拝祈している姿はどこもかしこも同じか。マスコミもサンケイと朝日のハザマで・・・と云ったら失礼か。「神の正義」はキリストの再臨を待つしかないのだろうか。チョット大袈裟かな。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」mark 1:15

2012年9月18日火曜日

おひさまファーム 8

昨日はおひさまファームの講習会であった。もう14回目の講習である。いつもながら丁寧に説明してくださるのだがそれが災いして逆に次々と忘れていく。それでもいくつかが残っているから少し経験が身についたのかなと思っている。野沢菜とチンゲン菜の種まきで、最後の種まきになった。今回は前に播いていた春菊とほうれん草の不織布をとった。暑かった所為か芽の出が悪くまばらで、人によっては新たに播いていたようである。私もその種を貰ったので様子を見ながら空いている所に播こうかなと思っている。

毎日のように水をやりに行っているが同じようにやっていても育ちの違いがでるので他の見て一喜一憂している。暑さでしなびていても水を播くと生気を戻すので水の威力を改めて教えられる。春菊やほうれん草の後から播いた大根は順調に芽を出し育っているを見て同じ植物でもこうも違うものだと感心させられる。子育てと同じでほっといても育つ子と細心の注意を払って(そんなことはないか)もだめな子といる。野菜作りも然りであると思った。それとどんどん実が付けていくものと遅々として育ちが遅いのもある。

もう終わりに近づいているナス、キュウリ、トマトがある。ナスはたくさん取れるが大きくなるのはゆっくりである。それでも2,3日ほっとくとイラク大きくなっていたりする。キュウリは一日で大きくなる。まだ小さいと思っていても翌日は大きくなり過ぎるくらいになっている。今はその勢いもなく、元が太くても先が細かったり、曲がったりしている。今も花が咲き実を生らしているがその中で小さな実が枯れてしまったのがあったりするからそれがどれだけ育つかわからない。

トマトも実がなっても大きくなるのが遅く、更に赤くなるのも遅々たるものである。折角の実が虫に食われたり、鳥につつかれたりしている。

オクラとピーマンとシシトウが収穫中。オクラは綺麗な花が咲き実をつける。これもすぐ大きくなる。
すぐ大きくはならないがびっしり生っているのがピーマンとシシトウ。近所に上げてもまだ食べきらない。今も元気で実を付けている。頑張らなくてもいいよと言ってあげたい。キュウリも最盛期はそうだった。もう見るもという感じだったが最近少なくなってきたのでちょっとさびしい。ナスもそんな感じを受ける。現金な者である。野菜も個々に違うのであるがワンパターンで水をやり、ぼかしを播いている。肥やしはどうも聞いていないようだが折角作ったので処分に困って播いている。デリケートな野菜に無神経な我なり申し訳ないが愛のないのがこんなところにも出るという次第である。それでも野菜つくりの難しさと楽しさを教えられる。たかが野菜つくり、されど野菜つくりである。農家の方に大袈裟なと言われそう。

2012年9月17日月曜日

ペドロ岐部

遠藤周作の「銃と十字架」を図書館から借りて読んでいる。ペドロ岐部にスポットを当てた物語である。作者がカトリックの信者であるという先入観があるのかそんな視点で見てしまう。

戦国から江戸幕府初期の歴史をカトリックの宣教を軸に丁寧に書いている。一人の少年が神学校に入学し、キリシタン禁制で多くの信者とともにマカオに追放される。さらにインドのゴアから陸路エルサレムに行き、ローマにたどり着く、陸路を通ってエルサレムに行ったのは彼が始めてだそうだ。アフリカの喜望峰を通っていくのも命がけだが距離的には短くても更にの感がする。今日でも命がけでもある。そこで神父となり、迫害の日本に赴く、ポルトガル、喜望峰、インドのゴア、マカオ、アユタヤ、マニラと移動して、そこからルバング島に行き、日本にへと向かう。難破しながらも日本の漁船に助けられて鹿児島に上陸することができた。追放されて16年目に再び日本の地を踏むことができた。しかし、それは殉教の死を意味することでもある。迫害の中に多くの困難を経て身を投ずる信仰の強さは計り知れない。フェレイラや千々石ミゲル、トマス荒木などの棄教者にも触れているがフェレイラは別にして棄教者に対する理解も示している。

史実に基づいているが小説であるから読みやすい。あとがきに「彼は今日まで私が書き続けた多くの弱い者ではなく、強き人に属する人間である」とあるが作者の人となりを見る思いがする。これを読みながら長與善郎の「青銅の基督」を思い出した。こちらはフィクションであるが人の機微を思い出させる。南蛮鋳物師が踏み絵用の青銅のキリスト像を制作したことから起きる悲喜劇?である。彼は鋳物師としての誇りを持って製作した。しかし、キリシタンであるかつての恋人は、あまりにもすばらしいキリスト像を見て、彼が信者でなければできないと誤解して喜んで殉教していく。役人もまた信者でなければこんなキリスト像は作れないとこれも誤解してキリシタンとして殺してしまう。それぞれの思惑で動くが真実ではない。彼と彼の作品を理解していたのは通っていた廓の遊女だけであるというのは作者の皮肉か。

皮肉といえばホーソンの「緋文字」も同じだなぁと思った。最後の方で母親の胸に抱かれている娘が母親の胸に縫い付けてある緋文字の「A」を自分がその結果であることを知らずに無邪気にいじっている。これは姦淫した印であり、一生涯付けていなければならない。この子が大きくなったときにこれをどのように捉えるのだろうと思った。立場場不利益であるだろうが人としてどこが違うのだろうかという問いがある。母親が毅然として緋文字「A」を付けているとしたら、姦淫という倫理上の事実はあっても真実の愛と偽りの愛を告発しているように見える。彼女が裁かれたのではなく、逆に彼女によって裁いた人たちが裁かれたのではないだろうかと思っている。キリスト者の偽善、結局人は見えるところからしか判断できない。聖書に基づいていたとしても自分の感覚で物事を判断し結論しているのではないだろうか。たとえそれが理にかなっていたとしてもそこに「いのち」はない。「いのち」は絶対者なる神に畏敬の念を持って拝するということがない限りないように思う。愛がない限り、人は自分の立場を守るということしかできない。

松永吾一著の「ペトロ岐部」がある。この方はノンクリスチャンだから、また別の角度で書かれていると思うから読んでみようと思う。ペトロ岐部の立体像が見えるかもしれない。カトリック、プロテスタントの枠を超えて、彼の信仰のありようを知ることは大切かもしれない。

あの頃はスペイン、ポルトガルは改宗したユダヤ人を日本でのキリシタン迫害のようなことをやっている。それをペトロ岐部は知っていたはずである。そしてアジアで彼らがやっていたことも、作者はそのことを控えめに触れている。すべてを知った上で、まさに、キリスト教信者ではなく、キリスト者としてキリストを見すえて歩まれたのではと思う。

2012年9月15日土曜日

シューマンプラン

「シューマン宣言(シューマンせんげん)とは、1950年5月9日にフランス外相ロベール・シューマンがフランスと西ドイツの石炭・鉄鋼産業を共同管理することをまとめた声明。ジャン・モネの提唱の影響を受け、この宣言の目的は、フランス、西ドイツ、ベネルクスの各国が戦略上の資源を共有し、相互での紛争の火種を除去し、ヨーロッパの永続的な安定をもたらすことである。シューマン宣言を基礎として、1951年に欧州諸共同体のなかの最初の共同体で、のちの欧州連合につながっていく欧州石炭鉄鋼共同体が創設された。」(ウィキペディアより)


伴武澄氏の萬晩報の「EUの基礎をつくったシューマン・プラン」より抜粋では、

シューマン外相の爆弾的提案

 一九五〇年五月九日、西ヨーロッパ連邦議会の外相会議の席上で、シューマン外相は次のように提議した。「フランスはドイツにおけるその勢力圏の石炭と鉄との管理を、すべて投げ出して、超国家機関に託し、ドイツと握手し、ザールの石炭、ローレンの鉄を共同経営に移す用意がある――」と。このシューマン提案は世界を驚かした。一ばん驚いたのはフランスそのものであった。ドイツの復興を最も警戒しつゞけて来たフランスが、他国にさきがけてドイツと仲直りをし、その復興を助けようというのだから、驚くのが当然である。イギリスも驚いた。石炭は国有となし、鉄も国家管理に移すことに議決しているイギリスとしては、ドイツが、鉄と石炭とを手に入れて、イギリスの競争相手となることは由々しい一大事だからである。

今、尖閣、竹島、そして北方領土と話題になっている。国同士の争いに発展しなければと誰もが憂慮していることであるがサルも然りである。各国のナショナリズムがどのように展開していくか不安である。世界が一つとなっていく中で自国の営利を強引に追求することは赦されないであろう。エゴに近いナショナリズムが台頭してくるのか退けられていくのか各国民のナショナリズムと国の指導者の資質が問われていくような気がする。低俗なナショナリズムが戦争へと駆り立てて行ったのではないだろうか。

そういう意味でシューマン外相はすごいなと思う。利害ではなく理念がなければできないことだろうと思う。キリスト者として色々批判する人もいるが賀川豊彦のような国際人を今必要とされているのではないだろうか。低俗なナショナリズムが台頭しそうな今日、共に利益を受けるグローバルな発想が必要とされているような気がする。

2012年9月6日木曜日

最善のものを

こちらに来てから何度か東京に行ってひとつ教えられたことがあった。以前住んでいた所に息子がひとりで暮らしている。最初行った時は散らかっていたが行く度に片付いているようになった。わたしたちが行くと家内は料理と洗濯、わたしは片付けと諸々の直しをやる。6月に行った時は来るとわかっていたのか掃除もしてあり片付いてもいた。わたしがやったのは前回時間がなくてできなかった3.11の地震で壊れたコンセントの交換と細長いボックスが倒れてガラスの部分が割れて紙でカバーしてあったのをプラスチックの板に入れ替え、本棚もぐらついていたので補強したくらいである。

家内はいつものように洗濯をし料理を作っていた。お天気も良いので二日に掛けて布団も干す。一回干せばいいだろうと思っていたら家内がわたしたちが来た時しか干せないからと息子のベッドの布団をもう一回干してといわれて2回も干す。料理も帰った後でも食べられるようにとおかずを少し作っていた。

家内は息子のことを思って色々やっているの見て、私はコンセントを替えたり、プラスチックの板をはめたり、本棚を直したりして、それ自体は悪いことではないがそれによって息子が利便性を得たかというと何もない。コンセントには延長コードがついているから延長コードをはずさない限り全く関係ない。ボックスも紙がプラスチックになっただけでこれも然りである。直さなくてもいいというわけでもないが直さなくても生活に支障があるわけではない。わたしも壊れているから直すという感じで、これによって息子が助かるからという思いはない。

一方家内のやっていることは、直接助かることばかりである。洗濯はしなくてもよいし、カーテンも洗ってもらった。料理も作ってあるから帰ってきてから何か作るということもしなくても良い。それに布団も2回も干してもらっている。わたしと家内の目線の違いを教えられた。目線がわたし自身か息子かの違いがある。わたしは自分の側に立って事をやっていたが家内は息子の側に立ってやっている。布団も一回干せばいいじゃないというわたしともう一回という家内、ここに父親と母親の違いを教えられる。ここに息子にいいようにと思う母親の姿がある。

神様はわたしたちに必要なもの、最も大切なものを備えてくださっている。そのために私たちに必要なものだからと御子イエス様を犯罪者の一人のように十字架に掛けることも厭わない。イエス様は十字架に架かられたのではない、神によって架けられたのである。恥辱の神として。自分の罪からではなくイエス様の十字架が臨むことによってわかるわが罪である。たとえどのようであっても人が主体ではなく神が主体なのである。そのことを真に知れるのは再臨のイエス様に出会ったときかなと思っている。


2012年9月1日土曜日

9月になって

9月になってもどうってことないのだがなんとなく暑い夏が過ぎたのかと思うとホッとする。歳をとると寒い冬も暑い夏も苦手になった。身体が元気で活動的なときは良いのだがそうでもなくなると凌ぎやすい時が一番、気候的にも精神的にもさらに肉体的にもである。

上沼先生がニュッサのグレゴリウスの言葉として「箴言と伝道者の書と雅歌の三つの書を、人生における青年期、壮年期、老年期として読んでいる。倫理的な生き方から、哲学的な経験を通して、霊的な世界に至るプロセスとしてみている。」と本で紹介している。最初に読んだ時面白い捉え方だなと思った。本来の意味はかわからないが自分なりに何となく納得できる。老年期になった所為だと思う。そして何となく慰められている。

同じようなことを書いているが歳をとるとあらゆるものが衰えてくる。若さは色々ものが隠してくれるが若さがなくなると隠されているものが露わにされていくそれは見て美しいものではない。否むしろ醜いものだったりするからあまり見たくないものである。でも目をつぶるわけにはいかない。正視しないといけない。それは真実と向き合うことである。

箴言は箴言であり、わたしたちに何かを求めてくる。伝道者の書は人生の悲哀を味わわせてくれる。雅歌は恋の歌である。「あの方のすべてがいとしい」、ここに何かを求められることもない。或いは神との関係で失恋ということもない。わたしのすべてが受け入れられているのである。否その更に上のレベルで受け入れられている。自分も他者も受け入れ難い姿であるのにと思うと神と私の関係がそのようなものであることを教えられる。信仰者の歩みはどこか能力主義的であるように思えてならない。神との関係はそうではない筈だ。福音書の中でのイエス様の姿や言動がそうである。放蕩息子を取り扱う父の姿はそうである。しかし信仰者は放蕩息子に目もくれることもなく兄の姿を颯爽と示している。自分の中にもあるからどこかで自分を受け入れることができないでいる。