2012年10月31日水曜日

ガソリンの値段

10年か20年前だったろうか信州のガソリンの値段はどの位違っていたか忘れたが東京より安かった。だから信州に行った時には必ずガソリンを満タンにして帰ってきた。今は東京の方がはるかに安いから東京に行った時には満タンにして帰ってくる。

今、諏訪地区のガソリンの価格は平均154/L前後である。しか、峠ひとつ越えて塩尻に行くと140/L前後である。諏訪地区と14/Lも違う。どこが違うのだろうか?諏訪地区を見ると協定かなと思っているが塩尻は一軒安いと他もとなるのだろうか。卸値はそう違わないだろうにと思っている。買う立場としてはうれしいが実際内実はどうなっているのだろう。安いだけがいいとは限らないが東京と信州くらいの距離的な違いはあれば理解できるが峠を越えてすぐ隣である。あるいは20号線が木曽と松本方面の19号線に変わり、それに伊那、飯田方面の153号線がある。車の往来が諏訪地区と桁が違うのかな、それなら分かる。

そういえば諏訪大社の始まりは、
「高天原(たまかがはら)の天照大神(あまてらすおおみかみ)によるの豊葦原(とよあしはら)の大国主命(おおくにぬしのみこと)への国譲りを迫る三人目の使者である建御雷之男神(たけみかずちのかみ)に対して大国主命の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)は国譲りを承諾しました。一方その弟である建御名方命(かけみなかたのみこと)は国譲りに反対し、建御雷之男神と力比べ、今で言う相撲をしました。結果は建御雷之男神が勝ち、建御名方命は信州の諏訪まで逃げ、国譲りに同意しました。二人の息子が国譲りに同意したことを受けて、大国主命も国譲りに同意しましたとされているものです。そして建御名方命はその後諏訪の地を離れない事を約して許され、信濃の国の国造りをしたと伝えられています。」(諏訪大社研究記ブログより)

それに加えて、
「出雲系の稲作民族を率いた建御名方命がこの盆地に進入した時、この地に以前から暮らしていた洩矢神(もりやのかみ)を長とする先住民族が、天竜川河口に陣取って迎えうちました。・・・結局洩矢神は負けてしまいました。その時の陣地の跡には今の藤島明神(道路拡張工事で道路の脇に小さな祠があるのみ)と洩矢大明神が天竜川をはさんで対岸に祭られており、・・・洩矢大明神の祠は、現在、守矢家の氏神様の祠ということになっています。」(神長官守矢資料館のしおりより)

勝ち負けはあっても負けた先住民である洩矢の人々は新しく来た出雲系の人々に虐げられたわけではなかった。建御名方命が諏訪大明神となり、その子孫である諏訪氏が大祝(おおほおり)という生き神の位に就き、洩矢神の子孫である守矢氏が神長(じんちょう)という筆頭神官(神長官)の位に就いた。敵と味方が仲良くするというこの諏訪大社の経緯はここの風土を表しているのだろうか・・・。

建御名方命が諏訪の地を離れないという約束をされて許されたということは、ここは盆地で山に囲まれているから他に攻めていけないこともあるからかなと、逆も言えるが。ぐるり山に囲まれて、ひらけている八ヶ岳山麓は標高千メートルで塩尻峠と同じ高さ、他所に行くには幾つかの峠を越えて行かなければならない。唯一天竜川添えだけが、しかし平地といえるかなぁ。700mを切るのは辰野町の先のようだ。何を云いたかったのか・・・。

2012年10月29日月曜日

上諏訪ぶらり

先日、上諏訪に用があって出掛けた。温泉街は素通りしているが野暮用で○○の湯に寄る。ロビーの広さに圧倒されるが良く見ると受付の脇の使用人の出入りは結構痛んで手入れなし。ホテル経営の厳しさを垣間見る思いがした。ホントかどうか分からないが? 此処の温泉街も色々な規模の旅館があって結構高いホテルもいくつかある。その一つなのかな。次に銀行に行って用を済まし、時間が早く終えたので近くの阿弥陀寺に行くことにした。20号線を茅野のように向かい元町の交差点を霧が峰方面に向かう。諏訪二葉高校の前の急カーブを曲がって少し行くと阿弥陀寺の看板があり、そこを右折して急な坂道を上がっていくとお寺の駐車場に着く、駐車場といっても4、5台が精一杯。

阿弥陀寺の入り口は、石垣風の獄門(たけもん)と云う変わった山門で、家の門よりも低い感じがした。そこをゆっくりと登っていくと少し平らな所があって、そこは第二駐車場となっている。軽だって容易に登れないような狭い道で第二駐車場もないものだと思った。そこから少し歩くと本堂があり、左側は大きな岩の絶壁である。第二駐車場も大きな岩の絶壁になっている。それより更に高い、その高いところに蜂の巣があって結構大きかったが大丈夫なのだろうか。その前を通って建物の裏側に回るように行くと更に高いところにお堂が建っている。絶壁の中腹のようなところである。Y字のようなところから諏訪湖が見える。狭いが他と違った味わいがある。諏訪湖が標高760m、直線距離で2km余り、急な坂道を上がるから標高は1000m、今でこそ住宅街から近いが昔はあそこまで行くのに大変だったのだろうなと思う。老杉、古松の大木があり、昔は深山幽谷といってもおかしくないところである。あそこで今もであるが修養道場として用いらている。その辺は余り興味はないが辺鄙な山の中にそういうものを建てる心理に興味が湧く。

宗教はこのようなスタイルを好むがイエス様は大衆の中に大衆と共に歩まれた。ここが宗教とイエス様の違いかなと思った。

昼も少し過ぎたので食事をすることになり、家内が以前義妹と息子さんとで食事をしたところに案内してくれて食べる。高島城、やぐらと石垣だけのと云っては失礼だがわが田舎もあやめ城といいながら石垣しかない。お笑いに人がYシャツにネクタイをしていながら背中は何もないようなそんな感じである。その脇を通ってすぐ城の名前の食堂がある。定食屋のようで好きなおかずを自分でとる。家では余り食べれないてんぷらと大学芋をそれに酢の物を取って、ご飯と味噌汁が最後に盛ってくれてお金を払う。うまいシステムである。色々な種類があるのでまた行く機会があったら寄って食べたい。その後、塩尻に行った時も食堂の看板で入った店も定食屋だった。看板も外装も綺麗だったが中は昔の定食や来る日と職人さんや外で働いている人のような人たちばかり、独身の時はこのような店があって良く寄っていたから懐かしかった。

食べた後は、湖岸に出て、湖添えにボート場、ハイツ、そして畑に水をやって帰ってくる。ホントは奥蓼科やその先に行って、紅葉を見たいのだが野暮用は当分続きそうなので今年はパスになりそう。近場で歴史散歩である。

2012年10月25日木曜日

冷めた目

いくつかのブログをお気に入りに入れている。ほとんどキリスト教関係の個人のブログである。それとメルマガのようなものも二つばかりある。その一つは、サルのメールを知っているのでそれで送ってくだっている。増やしたり減らしたりと心変わりをしながらである。それらを読んでいて、色々とその信仰のありようが違って面白い。同じ福音派の牧師でも聖書的?神学的では取り上げ方が違っていて面白い。神学的になるとわからないので聖書を「神のことば」として捉えて書かれているのが一番共感を受ける。

よく信仰告白したときに感動して泣いたとかそのような感情的な事は此処最近ない。どこか坦々としている。人生の2/3近くを聖書にふれて生きていると日本人であること以上にキリスト者であることが自然のようになっている。ある意味で日本人が分からなくなっていると言った方がいいかもしれない。これはキリスト者の中にいる時はすこぶるいいがそうでない時は戸惑うのである。日本人であることを忘れてしまった。まず日本人であることを再自覚しないといけないと思っている。思考、論理、ナドナド。そこから聖書にのっといてみることが大切なような気がする。福音の押し付けはそれが正しくとも相手に伝わらない。自己満足的、上から目線的になるような気がする。それとどこか福音が矮小化されているような気がしてならない。救いだけの福音ではないと思っているから今はまともではないかも、以前の信仰と今の信仰の葛藤の中にいる。今の信仰の方が正しいと思いながらそこにインパクトとなるものがない。

今日はドラフト会議だった。ニュースで知ったほどで余り興味が無い。巨人の原監督の甥とかいう人が二年越しで巨人に入れたとか念願かなって良かった。しかしドラフト制が良いとは思わないがどこかゴネ得のようで江川事件を思い出して気分が悪い。まぁセントラルの他球団に叩かれないように頑張ってほしいと思う。阪神が桐蔭の藤浪選手を引き当てた。駄目監督の唯一のヒット、今年のペケが帳消しになるほどの超ヒットである。藤浪選手の活躍を期待し、阪神よ彼を大物に育ててください。来年は期待しませんが再来年は優勝を期待しています。

2012年10月11日木曜日

変なことを考えている


善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」  1kgs 3: 9


これはソロモンがイエスラエルの民を治めるために神に求めた言葉である。それゆえ求めたものは与えられ、それに加えて富と誉をも与えると約束される。事実与えられた。しかし、彼は700人の妻と300人のそばめを持ち、彼女たちを愛したが故に神の怒りを買う。そして神は王国が分裂することを語る。イスラエルを偉大な国になしたソロモンであるが彼にはこれだけの女が必要だったとも云えないだろうか。バプテスマのヨハネが必要とした着る物はらくだの毛の着物で、食べ物はいなごと野蜜だけで良かった。主の働きをする時に人間の側から見ると面白い。



しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」  matt 15:27


カナン人の女が悪霊につかれた娘を救ってくれるようにと願ったがイエス様に断られたときの言葉である。彼女に必要な物は食卓から落ちたパンくずで良かった。彼女はそれ以上のものを求めていなかったと見ることもできる。神の業が現れるために偉大な行為もあれば人が顧みることもないような小さなこともある。神の業がなされるために人の側は何を求め、何を必要としたかを見ると面白い。

2012年10月3日水曜日

富士見町散策

先日シニアの方々と富士見町を散策した。といっても午前中座禅、午後に富士見公園の歌碑と近くの白林荘見学、そして八ヶ岳の麓にある鉢巻道路にまで行ってカントリーキッチンでお茶とケーキでくつろぎ、そこで解散だけのものであったがそれでも疲れた。

座禅は山梨県境に近い三光寺というお寺でやったが今年で二回目である。仏教のことは良くわからないが禅宗の曹洞宗で座禅堂?がある。田舎も曹洞宗で母親が農閑期かで近所のおばさんたちと永平寺に行ったことを覚えている。何で行ったかわからないが。伯父さんと伯母さんはは鶴見の総持寺にお墓がある。少し離れたところに石原裕次郎の墓があるそうだ。伯父さんの法事の時に裕次郎の何回忌かの記念の催しがあるそうでその準備で大勢の人が来ていたのを思い出した。

座禅はただ座っていればいいくらいに考えていたが色々シキタリがあるのに驚く、座布を三本の指で支え持つ、薬指と小指は汚れているからだめなのだそうだ。薬指がと思った。堂に入る時は左側の左足から、出る時は右足から出る。足を組むのも作法があり、手の位置も同じく、右手が指一本先において輪を作る。座る時はまず合唱、そして向きを変えて合唱、後ろ向きで草履をぬいて淵の木にお尻がかからないように座る。そこは食べ物を置く場所でもあるそうだ。そして向きを変えて壁に向かって座り、座布を敷く、足を組み、手を組み黙想する。丁度この時、時々頭の右側が縦にそって痛むことがある。その時だったので黙想よりも頭痛との闘いであって、ドラがなるまでの長かったこと頭はあと何分だろうのカウントダウンのみであった。今回は時間があったので立ち座禅?説明されたが良く聞こえなかった。足の半分づつを動かして歩く、そして堂内を回る。それと警策(きょうさく)も一人づつやってくれた。叩きやすく痛くないようにと頭を左に身体を前向きにの姿勢をとる。音も大きく痛かった。一つ一つの所作はそれなりに理にかなっているのかなと思ったがどうなのだろう。

その後本堂に移り、唱和しながらお経を読み、お坊さんの話しを聞く、俗に言う講話であろうか。お経は漢文?意味するところは素人にはちんぷんかんぷん、聞いた言葉はいくつかあったがハラミタとか勿論意味はわからない。仏教の講話は人生の生き方とかお経の説明をするのだろうか。お経の意味が分かるように読んだら親近感が湧くだろうにと思った。カトリックでラテン語を使うようなもの信者には分からない方が有り難味があるのかもしれない。形ややり方はどうであれ、座禅は黙想するのにいい方法だと思った。カトリックでは黙想の家があるそうで一般の方にも開放しているといわれているが興味がある。

その後、ここ食堂?と思わせるような素人の手作り感のあるお店に行って昼食をとる。名前もこるリ、おばあさんが面白い人だといわれていたが店には出ていなかった。その名前のるり子をひっくり返して付けた店名に遊び心があっていいなぁと思った。(聞いたときはふざけた付け方だと思いながら親近感が湧く)定食500円均一、サルは久しぶりにカキフライ定食を頼んだ。値段の割にはおいしかった。あの店の雰囲気といい、値段といいもう一度生きたい。狭い道を入ったところなのに他県ナンバーの車もあり、それなりに知られているようだ。

そこからすぐ近くの富士見公園小さな公園である。そこに伊藤左千夫、齋藤茂吉、島赤彦、森山汀川の歌碑がある。サルはあまり興味はないが丁度東京からこの碑を見るために来たという老夫婦に出会う。その道の人には知られているようである。それとなんかに碑に希典書というのがあった。乃木大将のものであろう。そちらの方が興味が湧いた。その後昼食を食べたお店の裏あたりになる白林荘に行く、これは犬養毅の別荘だったところだそうだ。白樺が多かったのでその名前がついたようだが贈られて移植したりしたもののあるとか、広い敷地と屋敷、それに二間だけの別亭?青年将校たちに殺されなければここで生涯を終えたであろうにと思う。昔の造りはどことなく質素に感じるがどこかゆとりも感じられる。東京の岩崎邸や飛騨の武家屋敷も同じような印象を受ける。

そこを終えて最後は大分走って八ヶ岳の麓に添って走る?鉢巻道路にあるカントリーキッチンでコーヒーとケーキを個々に頼んでくつろぐ、美味しかった。接客も都会風だったがどこか冷たい、こるりと対照的、接客は好きでないがもう一度行きたいなと思った。帰りナビ使ったら諏訪南インター案内されて少し遠回り、高速を使わないようにすればいつもの道を案内されたようだ一つ利口になる。

富士見は良く知らなかったが歴史のある町である。そういえば今中幸雄さんはドイツに住んでいたところに似ているといわれて此処に移住して、讃美の家を建てている。昔は高速がなくて国道を通っている時、冬の富士見の坂は難所だった。諏訪湖圏と違った良さがある。