2013年1月28日月曜日

黒崎幸吉著 註解新約聖書 web版?

長野県にあるN集会はユニークな集会である。何時だったか特別セミナーを企画されて参加した時に責任者のO兄が挨拶の中で「他の集会でやってないようなことをやっていきたい」そのようなことを言われた。事実、最初は記憶が正しければ精神科医の平山正美先生だったと思う。感心があったのか大勢の方が見えていた。関西の知っている方も数人で車で来られていてやぁやぁご苦労さんと言葉を交わしたことを覚えている。ただ「平山兄」と呼ばれていたのには何か違和感を感じてその旨言ったが生意気だったなぁと反省している。その後は兄と言ったり先生と言ったりしているようだ。お話も専門のことより聖書の話の方が多くて何箇所も聖書を開いたのでなんか聖書の学び会のようだなと思ったことと先生というより兄弟が学んでいるような親しみを覚えたことが印象に残っている。

そのHPのリンクに「黒崎幸吉著 註解新約聖書」(web版)が紹介されている。諸集会にはアンチ無教会的(教会も然りか)なところがあるので昨年の9月にO兄の学生時代に同じアパートだったという恵泉塾の水谷恵信さんが来られると知って聞きに行った。80キロも離れているところからなんで来たと聞かれて後藤敏夫さんのブログを読んでいる旨伝えたら納得された。どうも余計なことを書くがその時になぜリンクしているのかO兄に聞いたら「黒崎幸吉の注解は偏っておらずとても良い」そのようなことを言われてなぜかほっとしたことを覚えている。諸集会は聖書のみといいながらどこか狭さを感じる。一つの解釈だけがあって他は否定する傾向がある。その良い例が艱難前か後かの再臨問題である。サルは幾つかの本を読んでいるが(2冊だけ)今もって良くわからない。

最近黒崎幸吉著 註解新約聖書 web版をお気に入りに入れて聖書通読の時にここではなんて書いているかなとよく検索する。それと(文語訳、口語訳、塚本訳、前田訳、新共同訳、NIV併記) とあるから親切である。作成者は「この註解書は黒崎自身の解説にある通り、聖書本文と註解の活字を分けることにより、聖書の本文のみを連続して読むことも、一節一節註解を参照しながら読むことも可能となっている。また、権威ある専門書ではなく、万人が極めて自然に理解できることを目指したことから、大変わかりやすい文体が使用され、活字の大きさを工夫することによって新約聖書を全10巻にコンパクトに収めることに成功した、量、質ともに大変親しみやすく、且英知がまんべんなく組み込まれた秀逸の註解書となっている。」と記している。確かに節ごとに区切ってあり手短に解説しているから分かりやすい。注解書のコンサイズ版であるがかといって軽くはない。残念なのは新改訳は著作権の問題で併記できなかったらしい。ある方が別なところで金儲け主義云々と批判されていたがどうなのだろう。作成された方は黒崎幸吉の孫に当たる方らしい。黒崎幸吉の妹さんの祝さんは江原萬里の奥さんであり、その次女に当たる方は以前集っていた集会に娘さん夫婦と集っている。どうも作成者のお父さんとは親しいらしい。そんな関係で祝さんの葬儀が登戸学寮に行われた時には集会の兄姉は下働きをした。そのとき高橋三郎先生にもお会いしたが挨拶で終わったのが残念だった。先生が登戸学寮の寮長で祝さんが会計をやっていた時はしょっちゅう口論していたようなことを言われ余りいい印象をもっていなかったように記憶している。そのとき先生は弔辞を読んではいるが何でこんなことを書いてしまったのだろう。パンくずを拾うとこうなるのかな。

「エデンからゴルゴタまで」を読み終えて

こちらに来てから本を買うというとアマゾンで買うことが殆どである。といってもそんなに買うわけではない。それもブログを読んでいてその中に紹介されている本に興味を持ったものだけを注文しているだけである。読むのが遅いから斜め読みをすることも多々あり、ある時は読みながら他のことを考えていて気がついたら字ずらを追うだけだったりしている。元々健康だけが取り柄で性格と頭は問題ありだからしょうがない。

そんな中で後藤敏夫さんのブログに紹介されていた「エデンからゴルゴタまで」井上良雄著の説教集を読み終えた。説教集の所為か読みやすく、分かり易かったが時間がちょっとかかった。その前に読んだ同じ著者の「山上の説教」は早く読めたのに・・・。、多分老眼が進んでいるから字が大きいか小さいかで読む速さが違うからその所為もある。生まれ育った信仰基盤は教会、無教会に対して否定的、そして日基などはさらに論外である。尊敬できる教会の牧師や無教会の伝道者に出合って今はなくなったがしかしそのトラウマは今も生きている。だから日基の教会で話されているという先入観が読みながらどれも共感するのになぜだろうと思ってしまった。

著者の人間理解というか人間の本来もっている人間的(罪といわれるものも含めて)なものに共観をもって語りそれを聖書に結び付けている。大雑把な捉え方かな・・・それしかできないが。前から教会が持っている福音理解、罪の理解が矮小化されていないだろうかと思っていたがなんか読んでいてそれを更に頷けるようになった。サルのつぶやきとして「カトリックのマリヤ崇拝などを通して異端と決め付けるあなたがたは彼らがユダヤ人迫害を正当化し、階級制をつくり、聖書が語っていないものを付け加えている彼らとどこが違うのか。自分たちだけが正しいとしあたかも神の代理人と自負している姿は律法学者パリサイ人そのものではないか」と、誰につぶやいている・・・?

2013年1月25日金曜日

雪一色の中で

この間の雪がまだ残っている中で今朝も少し雪が降って回りは白一色である。毎年のことながら雪一色になるとどこからともなく鳥が来て庭の紫式部の実をついばんでる。その仕草を見ていると面白い。実を一つつまんでは頭を上げて左右を見てはまたついばんでいる。今朝もメジロだろうか番の鳥が来て一羽はフェンスに一羽は熱心にキョロキョロしながら実をついばんでいた。フェンスの鳥も大丈夫と思ったのか降りてきて二羽で熱心に実をついばんでいた。彼らが飛び立っていったら入れ替わるように少し大きい鳥が来て同じように実をついばんでいた。目が良いのかレースのカーテンが少し動いたりするだけで飛び立っていく、それにキョロキョロしている姿を見ていると臆病なのかなとおもう。それに危害を加えるわけでもないのにさらに大きな鳥が来ると飛び立っていく、そんな姿を見ていると飽きない。紫式部の冬は枯れ木のような姿をしているが春になり青葉が出始めると勢いを増して枝や葉がはいえて大きくなる。いつも枝を少し切らないと駄目で根元は切り株のあとが沢山できる。もう伐ろうかと思うが冬に鳥がついばみに来るので雪で餌を探せない時の貴重な食料だと思うと切れない。その鳥たちも来なくなる時がある。その時は先端のついばみ難い実も無くなっている時である。絵本の「大きな木」の切り株だけになった木のように今年も鳥たちが皆ついばんでくれたのだと思うと何となくうれしい。雪のある冬の一つの光景である。

2013年1月19日土曜日

にっぽん音吉漂流記

幾つかのブログをお気に入りに入れて毎日のように読んでいる。殆どキリスト教関係の人である。できるだけ絞っているので削除したり、また入れたりとその時々によって変わるブログもある。ブログの中に本の紹介をされていることがある。興味があるとまず図書館にあるかどうか確認し、あったら予約をする。無ければアマゾンにあるか確かめる。新刊もあるが発刊が古いのが多いから殆ど中古品である。しかし、ブックオフ同様で注文カードが挟まっているような本が多い。大体安いものが殆どである。英語は解らないからパス、高価なものは難しいものが多いからパスしている。

あるブログは有名なキリスト者の言葉をよく載せている。格言のような言葉である。牧師をされているからか良く知っているなぁと感心している。どのブログだったかすぐ忘れてしまったがそんなことで今年に入って何冊か読んだ。そのなかの一つが「にっぽん音吉漂流記」である。

最初の日本語聖書として有名なギュツラフのヨハネ伝とヨハネの手紙の翻訳に携わったといわれる岩松、久吉、音吉たちのことに興味が湧いて、三浦綾子さんの「海嶺」を読み、フィクションがあるのでちょっと物足りなくて「にっぽん・・・」を図書館で借りて読んでいる。本の最後に資料的なものが紹介されてあり、資料としてもとの思いでアマゾンで確かめたらあったので注文して1昨日かに届いた。あとで注文した本が先に届いたりしている。

一年以上も漂流して助けられるのを見ていると3.11の漂流物が一年以上経って北米西海岸に漂着していることに驚かされる比ではない。物でも驚くのに生身の人間がと思うと奇跡そのものである。そして鎖国の故に国を目の前にして帰れず異国で生涯を終える悲しみや苦しみはいかばかりであろうかと思うと心が痛む、彼らのあとで遭難して助けられた人たちが祖国に帰ることができたこのことは彼らの特に音吉の働きによるとのことで自分が叶わなかったつらさを彼らに負わせないように努力している姿にイエス様が言われた「神を愛することと隣人を愛する」ことの二つの大切な戒め二戒を実行しているように見えてうれしい。鎖国から開国へとの歴史の流れの中に彼らも一つの歯車となったのではと思う。教科書に載っているような歴史上の人物は大きな働きをしたかもしれないがまた大きな過ちをも犯しているような気がする。イザヤ53章のイエス像があらゆるものを変える秘訣を教えている。それは世の中の働きと全く違う働きなのである。

ナショナリズムを煽って大切なものを失おうとしている今日、鎖国の時代も今も人々が是とされないものであれば世の中は変わっていないのではと思う。それで和辻哲郎の「鎖国」を注文してこれから読もうとしている。そこから日本人の姿が浮き彫りになるか何かのヒントを得れば幸いである。楽しみになるか。

2013年1月18日金曜日

ネコはコタツで

先日の大雪で雪かきをしていたら隣の子供さんもお父さんと一緒に雪かきを手伝っていた。そのうちお父さんは車で出かけて子供達だけでやっていたが小学生の彼らは楽しみながらふざけながらそして最後に自分達の背丈よりも大きな雪だるまを作って玄関の脇に飾っていた。駐車場が隣同士なのでそこを雪かきしていたら2,3回かいては一服しているサルを見てお兄ちゃんが手伝いましょうかと声をかけてくれたが「ありがとう、のんびりやっているからいいよ」とことわったが彼は優しい。そのあとも二人でふざけあっていたが子供達にとっては雪は格好の遊び道具であり、大人にとっては迷惑なものでも子供は遊びに変える遊びの天才である。

昨日は歩いて諏訪湖の様子を見ながら図書館にも行くつもりで出かけようとして外に出たら寒いのでつい車にでかけてしまった。今日も歩こうかと思ったが読みかけの本が読み終わったのが2時ごろになってしまったのでパス。気温は3時がピークであとはつるべ落としのごとくどんどん下がる。日は大分延びたが明るくても寒い所をそれも風があるとそこを歩く元気は余り無い。ついコタツの中に留まってしまう。行くべきか留まるべきの戦いは当分続くが「冬来たりなば春遠からじ」、すでに1月も下旬となっている。今しばらくの辛抱である。しかし、電気毛布で暖めてある布団の中に入る時のあのぬくもりは何とも言えない。寒いところでなくては味わうことのできない至福の時でもあり冬も満更でもないといえるのはまだ元気な証拠かな・・・。少し無理をしているが。

2013年1月14日月曜日

コタツでパソコン

寒くなってくると机に座ってパソコンをやっていると足元が寒くなってくる。暖房用の毛布を腰に巻いてやったりしているが足まで包むから面倒くさい。こちらに来た時に義妹が手持ちで未使用の昔のコタツに漆塗りのコタツ板をプレゼントしてくれた。コタツとして使っている時はそれでもコタツ板が漆塗りだからそれなりに風情があった。しかしテーブルとして使う時はコタツがむき出しになるから半世紀前の代物のごとく丸くて細い足でテーブル用ではないから風情は全くない。まだそんなものをと言われそうな代物である。それを今まで使っていたが80センチ角で縁が出っ張っているので置く物が限られる。コタツは座って何でもできるようにと物を置いているのでパソコンを置くスペースはない。

昨年暮れに長方形の大き目のコタツを買った。クリスマスの時に夕食時に大勢人が来るのでそのために買ったがその時はテーブルとして使っていた。今日も二人の婦人が始めて我が家に来られたのでこのコタツを使った。弁当持参しての食事だからお皿だけなので4人分なら十分である。そのまま使うことにしてパソコンを置いて今打っている。腰から下はコタツの中で暖かい。ファンヒーター点けなくとも毛布をかぶっていれば寒くは無いので助かる。それに細長いから家内のものとの住み分けができて、それにもぐりこんで横になってもゆったりしているから助かる。最近の新築の家は夜間の電力を使って蓄熱をして日中その熱を放出しているからある程度暖かい。古い家はそうは行かないからこのような家にはコタツはすこぶる便利で重宝である。

2013年1月7日月曜日

信仰と希望と愛

信仰
信仰というと「何かの宗教を信じる」と理解されやすい。しかし、人は多くの信仰をもって生きている。人は当然のように思ってやっていることの多くは、絶対的な確信ではなく、信仰をもってやっている事柄である。絶対的なものでない限り信仰が必要である。

間違って信じている場合もある。
原発は、事故が起きる前の電気事業連合会(電事連)HPでは「原子炉は二重三重に安全対策を施してありますから安全です」と書いてあった。そして疑うこと無く信じていた。
福島の原発事故が起きて、これが嘘である事が分かった。何時であったかテレビで京大の小出裕章さんが原発の危険性を熱心に説いているのに、その隣にいた東大の先生はそれを一笑に付していたからそうだと思っていたらこれも間違っていた。

信じる対極にあるのは疑うことである
人は、間違っていることを信じて、正しいことを信じられない傾向にある。聖書は多くの人たちに疑われている。
「神なんかいないよ」、「神がいるなら、なぜ沢山の不幸があるのか」と。そこには、罪の問題がある。罪は「的をはず」という意味である。それは、本当のことが偽りのように、偽りがあたかも本当のことのように思わせる。そのような状態の中に、人は隷属させられているのである。救いとはそのようなものからの解放を意味するものでもある。

4世紀の神学者 グレゴリオの言葉
キリストによって人間が救われるということはどういうことなのか。それは人間が神とともに働き、そして最初の人間アダムの堕罪以前の状態、すなわち恩寵に満たされ、何らの不足も不満も不安もない、そして、神とともにあたかもその友となって暮していた状態、神の友となるという状態への回帰である。まさに神の友である以上、もはやこの世の何者をもその心の主とする必要もない。したがって、誰の手下でもないということ、それゆえ、本当に自主的であるという状態である。(シロクマさんのブログより)                    

希望
19世紀のイギリスの政治家でベンジャミン・ディズレーリーの言葉に「絶望は愚か者の結論である」。しかし、賢者と言われる人でも然りである。
ユダヤ人で精神医学者であったV・E・フランクルはナチスに強制収容所に入れられ、奥さんと二人の子供さんをそこで殺された。人間の極限の状態を体験しながら同時にナチスと同胞たちを冷静に観察している。その中で希望の無い人から次々と死んで行き、強く生きる希望を持った人だけが生き延びていることを書いている。希望は生きる力の源である 。希望の対極にあるのは絶望である。悲しいことに希望を持てなくて、自ら命を絶つ人が後を絶たない。

愛は、信じる力と希望を生み出す。人は過去を振り返り、現在を見て、未来を予測する。当ることが多いかもしれない。しかし、それだけなのである。愛は、過去も現在も見ない。未来だけをみる。未来に希望をもって、可能性を信じるのである。『イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた』(マタイ9:2)。そして、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた(マタイ9:6どれだけの人がイエス様と出会い、生きる希望と永遠のいのち得て人生を歩み出しだであろうか。

2013年1月4日金曜日

三が日

知人の賀状に「聖書教理がわかる94章」、副題に「キリスト教神学入門」 J・I・パッカー著を翻訳したことが載っていたので早速アマゾンで注文したら二日には配達されて来た。年が明けてアマゾンも郵便局も忙しくないから早かったのかなと余計なことを考えながら封を切る。
神学は苦手だが知人が翻訳したというので取り寄せたのである。字が細かいのと聖書箇所の引用が多くあるので老眼の度が進んだ者にとっては簡単には読めそうも無い。教理的な知識が殆どないのでゆっくり時間をかけて読むにはよさそうだ。一昨年にシーセンの組織神学をブラインドタッチの練習を兼ねてパソコンに入れた。組織神学の勉強になり尚且つブラインドタッチも上達するかと思ったが七ヶ月かかって「二兎を追う者は、・・・」の結果になった。しかし、年の初めに宿題を貰ったようでうれしい。正月早々楽しみが増えた。

箱根駅伝も終わり、我が家の正月も終わりである。選手には申し訳ないが必ずあるアクシデント、これを期待している向きもある。それに選手や大学の状況がわからないのでその意外性に驚かされるのも期待している一つでもある。選手にとってシンドイことが観ている側としては面白い。選手のコンデションの調整は勿論のこと二人もリタイアした真冬の中で走る選手の健康管理も大変だ。
雪も無く昔に比べたらはるかに走りやすくなっているのだろうがたとえ能力にすぐれていても生身の人間である。栄光を受ける者、挫折を味わう者、どちらもこれからの人生に寄与してくれるのだろう。

こちらに来て始めて諏訪大社の下社に行って来た。勿論参拝ではなく人出の観察でる。三日の午後の三時過ぎという時間だった所為か人はそれほどでもなかった。出店も客はまばらというより殆どいない状態。不景気になって以来どこでもこのような店は暇なようである。参拝もしないで興味半分であちこち覗いている不謹慎な者であるから善男善女の中には入れてもらい無い。
夕方過ぎに義姉をケアハウスに送り、それから夕食を食べて三が日は終わり。大晦日から面倒を見ていた家内のすぐ上の義姉夫婦様ご苦労様でした。サルたちは元日に、暮に貰った蟹を持って、夕食の食材の一部を提供しただけ、夕食に与ったのは勿論である。

2013年1月1日火曜日

年末年始

「味噌越しの底にたまりし大晦日、越すに越されず越されずに越す」。年末になると若い時に聴いた落語の小噺の中にあったこの言葉を思い出す。

借りがあって工面に四苦八苦しているわけではない。しかし、年を越す前にあれもこれもと思っていても一つ二つと残ってしまう。それをやってしまわないと困るわけではなく、物事を片付けてすっきりして新年を迎えたいと思うだけである。新年を迎えるといっても挨拶回りや新年の挨拶に誰かが来るということでもなく、むしろゴロゴロしているようなものである。まぁ気分の問題、それでどうなる訳でもない。元日早々ブログを書いているということは暇の証拠、というより暮れからそのままになっていたので書いているのである。

例年は家内がコタツに入って紅白を観、サルはそれほど興味は無いのでパソコンとにらめっこしたり、本を読んだりしているが今回はコタツにもぐって終わりごろまで寝ていた。国民的行事らしいがどこが面白いのかわからない。歌は嫌いではないがワザワザ観たいと思わない。その後始まっているがテレビ東京のジルベスターコンサートを観る。15分しかないが丁度零時に終わる演奏の緊張感が何とも云えない。まぁ曲の時間はわかるからそれを逆算して丁度終わるようにしていれ場いいことだがそれでも演奏者も聴衆も緊張しているのが伝わってくるような感じを受ける。今回はだと思うが最後の演奏がコマーシャルで中断して終わってしまった。

何時もはその後にNHKの行く年来る年を観たり、他局のを観てお休みとなる。今回は家内はそれで寝たのだがサルは今まで興味も無く、観る事はなかった「朝まで生テレビ」を最後まで観てしまった。田原さんはじめ出席者は自己主張的な印象があったが今回見てそれなり肯けるものがあってよかった。それに最初気がつかなかったが顔といい、名前といいどこかで見た顔と名前だなと思ったら昨年の秋に市の主宰で講演会があった講師の藻谷さんだった。田原さんが指名して質問していたが好意的に見ているようでうれしかった。皆と噛み合わなかったところがあるがあって、どちらかというと違和感的、その中で何回かとなりに座っていた草間さんがフォローしていた。以前聞いていたからも谷さんの言わんとしていることが良くわかり、他の人たちは抽象的に聞こえてしまった。統計の数字から読み解く、それを徹底していると良くわかることがある。藻谷さんはそれをやっている。今の円安、株高はご祝儀相場、これからによってはどう変化するかわからない。その点、藻谷さんのは統計の裏づけがあるから説得力があるがでも誰も肯定しない。政治の面には色々あるだろうがこれからの国をどうするかのビジョンがないと国は右に左にと定まらない。色々な見方があり、生き方がある。これからの日本をどうするかでは思いが一致しているようで良かった。これから見るかどうかは解らないが。民主の大塚耕平さんが日銀出身だとは知らなかった。聞いていてなっとくできる方だ。民主党にもこのような方多くいればいいのだがと思ったがどうだろう。

元日はそんなことで9時まで寝ていて、朝食のお雑煮は別々、既に家内は社会人の駅伝を観ていた。二日三日は箱根駅伝、新しい年は社会人と大学駅伝で始まり、その後からやることをはじめる。今年はどんな年になるのだろうか意に添わぬこともあるだろう。しかし、一年が終わって主に感謝できる年であることを願う。わが祈りとすることができたらと思う祈りである。

病者の祈り
 
大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことが出来るように健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱が与えられた
 
幸せになろうとして富みを求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
 
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
 
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ
 
ニューヨークリハビリセンター研究所の壁に書かれた患者の詩 (作者不明)