2013年3月29日金曜日

戸の外に立って叩く

教会の戸を外から叩いているイエス様、ラオデキヤの教会がどのような教会であるかが何となくわかる。叱責のみのサルデスとラオデキヤの教会、ラオデキヤは現代の教会を示しているとよくいわれ、駄目な教会、駄目な信者の代表のように言われる。確かにサルは富んではいないが後は該当するから耳が痛い。それに「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙 3:15-16)と言われると更に身が縮んでしまう。

「冷たいか熱いか」は信仰的にと教えられてきた。サルは熱くはなれないがさりとて冷たくにもなれない。どっちつかずのなまぬるさが好きではないが居心地が良いのでつい、なまぬるい湯に浸かって居心地の良さに煮沸されても出れないでしまったかえるを連想してしまう。フランシスコ会聖書研究所の聖書では「冷たいか熱いかの対比ではなく、冷たいか熱いかとなまぬるいの対比であると、「当時ラオデキヤの近くには水源地がなく、遠方からひかれてくる水が、生ぬるかったので、」と書いている。確かに言われてみれば暑い時には冷たい水を寒い時には熱いお湯が人を癒してくれる。信仰的にとも頷けるがそうすると水の効能が偏ってしまう。或いは水そのものに触れてはいないのだろうか。

教会の中心である主が教会の外にいるということが如何に異常であるかがわかる。しかし個人として見ると結構あるのではないかなと個人的には思っている。日常の出来事が時には第一になり、結構、主は隅っこに置かれていたり、下手すると外に追い出している現実がある。人間である以上、プライドがある以上、大なり小なり避けて通れない。たとえ忠実に仕えている牧師や集会の責任者であっても本当に信者に仕えられるかと問いば否であろう。神ではないから求めることは酷である。

暑い時の冷たい水、寒い時の熱いお湯、どちらも心地よいものであるが得てして熱い時に熱い湯、寒い時に冷たい水、傷口に塩という知恵のない事をしまいがちになる。これは知恵のない故に許されるとしても主が我が心の扉の戸を叩いている時があることを意識しなければならないなぁと思っている。主はこんな教会(個人)でも戸を開けさいすれば中に入ってきて共に食事をしてくださる。しかし、戸を叩いているのに気がつかないという問題だある。精々心の扉を薄くしてすぐ気がつくようにしないと。




2013年3月28日木曜日

東山魁夷館へ

馬籠から一日置いて、前に来た時に行きたいと言われたがその時は丁度休館日だったので行けず今回になった。長野は大きいので南の飯田も北の長野も100キロもある。それについ遠くまで行くからあそこにここにと間口を広げてしまう。それ故ひたすら走るという事になる。今回も松代の池田満寿夫美術館にもと二つの休館日を避けて選んだのである。しかし、松代は今は長野市に編入しているから近いので助かる。

長野ICで下りて慣れないナビで右に左にと善光寺を回りこむように美術館に着く、日本画はあまり好きでなく、食わず嫌いなのかもしれないが東山魁夷も然りである。しかし、今回観てよかった。元々風景画が好きなのでヨーロッパの風景画が多く展示され良い印象を受けた。来れはあくまでも自分好みで絵の素養があっての印象ではない。あくまでも自分の好みである。それと中学生(旧制)の時に描いた自画像に驚いた。自分の基準でいうのもなんだが人の顔を描くというのは結構難しいものである。うまいと思ったがこの後で観た池田満寿夫の絵の中に少女というのがあった。何だこれと思った絵が誰か(忘れた)に褒められてこれがきっかけで画壇に名前が覚えられるようになったような事が説明文の中にあった。(細かい記憶は過去になったが)そんな基準なのである。隣の信濃美術館に寄るが一般の水彩画の県展がやっていたが皆さん素人なのに上手だ。以前今も書いているようだが昔のお客さんで何とか会に所属して発表会を開いている。作品を描くためにヨーロッパまで行っている。そして感心している。そういう意味で小学校の同級生も油絵を描いていて会の発表会に風景画を出していてこれも上手だなぁと何時も思う。今は先生が亡くなられたので会の発表会はなくなったそうだが。

何時か善光寺に行きたいと思っていたのでいいチャンスだった。そして善光寺の隣に信濃美術館があることを地図を見て知る。車を置いて善光寺にと本堂の太い柱、厚い床に圧倒される。地震にも倒れることなく立っている。しかし本堂の中には大勢のお参りの人がいたが線香臭さはいただけない。信者でもないからご利益は勿論ない、期待もしていない。行って意外だったのは坂になっていることである。それにそれほど広くはない。昼は門前の蕎麦屋さんでざる蕎麦を食べる。ここは戸隠の近くだから戸隠蕎麦だったのだろうか。馬籠は色が濃く固くてこちらは白くて柔らかかった。でもどちらも美味しかった。ナビと道路の看板を頼りに松代にと向かう美術館の近くに来たら何も言わなくなった。以前きた事があるのだが全く記憶がなかったが何時も覚えていない家内がナビしてくれて着くことが出来た。池田満寿夫はわからない。ピカソに影響を受けたそうだがなら解るわけがない。完成というか精神構造というか普通の人とは違うものを持っているのだろう。だからあぁいう絵を描けるのかもしれない。不思議な人だ。多才の人のようた。帰りは隣の竹風堂でドラ焼きを買ってお土産とする。勿論自分たちの分も買ってである。

あるいとすぐのところに松代城址があるのでそこを覗く、門と石垣だけの小さな城址である。それでもどこか古を思えださせる。上田城址の方が風情があるように思うが規模も違うか。後帰るだけなので坂城町の公社の風呂に入って帰って来た。HPで見るとよく見えたが何処にでもあるのと同じ様なものだった。来て初日は地元の温泉ロマネットで同じ様なもので悪かったかな、本人は上山田温泉に入りたかったがあそこは銭湯だから安い代わりに石鹸が必要のようなのでやめたが入ってみてもよかったかなと反省している。

高速に入って塩尻北あたりから渋滞していてレッカー車も行く、途中で事故のため松本ICで下ろされた松本市街方向が込んでいたので反対の波田町方面に出る。そこから広域農道に出て安曇野ICに出るつもりだった。しかしその道は渋滞、考える事は皆同じ、地元の車が脇道に入ったのでついて行ったらどうも違うところに行くようだった。適当に走っていたら交差点の手前に案内板が右に梓川SA-ETCとある。右折して走るとすぐ高速道路が見え、まばらだが車が走っている。すぐついてゲートを入るが入ってからややこしい。真っ直ぐ行くと本線に入るようになってSAには入れない。曲がりくねった方に入ればSAには入れたかもしれない。広くないパーキングにトラックにバスが追突している。後で知ったのだがSAの入り口付近で小型の乗用車がガードレールに当たって反対向きになったのを避けるためにトラックがハンドルを切りすぎて横転してしまった。それを避けていた観光バスが後ろから来たトラックに追突されて、ブレーキが利かなくなって側道を走り休憩していたトラックに追突したという次第なのである。一人亡くなっている。重大事故の案内板は嘘ではなかった。梓川SAから入る車は地元の人たちのようである。がらがらの道を走るのは気持ちがいい。安曇野ICから続々車が入ってきた。最初におまけがついた長野道であった。

2013年3月27日水曜日

馬籠へ

先日、息子が奈良井宿に行きたいとの事で2-3日の予定でこちらに来た。そこは割りと近いので私たちがまだ馬籠に行ってないのでいっそ馬籠、妻籠と木曽路を北上して奈良井に行ったらという事で出かけて来た。

中央高速で飯田から更に先の恵那山トンネルを過ぎて中津川ICで降りる。ICの手前の神坂PAに付近の地図の看板があり、その脇に小さな案内板に「馬籠1㎞」とあった。そこは高速バスに乗る人たちの出入り口でもあるようだ。あそこにETCのゲートがあったら馬籠に行くのに楽でいいのに、事実、知人はPAに車を置いて歩いて行ったといっていた。最近はSAにETCゲートがあるのをよく見かける。NEXCO中日本さん考えてくれませんかね。

中津川ICから少し戻るように19号線を走る。2車線のバイパスになっていて車の数もそれほどでもなく走りやすかった。曲がるところを確認しながら少し走る。馬込の看板が見えて右折し県道7号線に入る。それで道なりに行けばいいのだが少し走ると馬籠の看板が目に入ったが行き過ぎてしまい後の車は左折していくのでUターンして山道をカーブしながら上がっていく、集落もあまりなく見えても下のほうにある。どの位走っただろうか少し平坦な道になり集落が見えて、その先の信号に馬籠の字、しかしそのようなものは見えない。更に前の車についていくと大きな建物があり、細い道を入って行くからついて行ったがそこはお寺で墓参りの車だった。20日、春分の日、お彼岸である。戻ってさらに進むとようやく駐車場が見えそこに入ったが案内図は更に先にもありそこまで行って停める。

初めての馬籠、結構な坂になっている。一番上の見晴台から下に下りていく、似たようなお店があり、違うのは蕎麦屋さんが何軒かがあるくらいである。せんべいと豆とだけのお店があってつい中に入って買ってしまったが家族に何処にもあるよと言われた。五平餅のような団子もあり、食べながら歩く、観光地だが特別興味を持たせるようなものはあまりない。小さな集落の端にある宿、こんなところでなんでと思った。妻籠から歩いたらここになったのだろうか。どう表現したらよいかここは岐阜県だが飯田から入った遠山郷もそうだが山の上に集落がある。今でこそ車があり飯田まで長いトンネルがあって簡単に行ける。でも昔は下に下りるまで結構あるのにどうして生活したのだろう。その下といっても飯田からは隠れ里のような所である。昔は炭なんかを焼いていたのだろうか。そう言えばいつ何処でか忘れたが昔は炭を焼くのに何日も山にこもって焼いたと聞いた。何日か月か忘れたが田舎でも奥に入った集落では炭を焼いていた事を思い出した。当時は貴重なものだった。そんなんで生計を立てていたのかなと思うと同時に長野県はそんなところが多いので落ち武者なんかの格好の場所だなぁと思った。

馬籠は長野県に属していたが生活圏が岐阜県の中津川市にあるので今は岐阜県中津川市馬籠となっている。確かに中津川から山に入る感じで、妻籠に行くには峠を越えて行く、中津川は下に下りるだけでいいから大分違う。馬籠を後に妻籠に向かったが結構走る。信号があるところに出たらそのところが妻籠だった。ここは更に小さい観光地である。駐車場は整備されている。ゆっくり歩いて以前来たときより店が閉まっているなぁと思った。ここで生計を立てるのは大変だろうなとそんなことを思ってしまった。そこをそこそこに北上して、「目覚めの床」に案内し、奈良井と向かう既に雨が降ってきて、私たちは車の中で息子だけは傘を差して奈良井宿を歩く、降っていなければマリア観音があるのでそれを見てと思ったがもうそんな元気はないし、また何かの機会にくる事があるだろうと先に進む。ケアハウスに知人を訪ねて帰って来た。250キロの旅であった。

2013年3月18日月曜日

えんだくり

この名前は栗のイガが開いた状態が笑っているように見えるので「笑んだ栗」ということらしい。これはこの間N伝道者と家内と家内の姉が尋ねた家の娘さんが書いた本の題名なのである。ⅠとⅡがあってそれを頂いてきた。読みかけ中の本があったり、読むのが遅いこともありようやく読み終えた。

重い脳性小児マヒの故に書く事と話すことが上手くできない。生活の不便さを思うと大変だろうにと思うが文面からはあまり窺い知れない。それを逆手は大袈裟かな、しかし文章からそれを感じるから自然に読める。書き手の人ととなりを感じさせる。


第一章 わがままなからだ

アテトーゼという妙なヤツ

 アテトーゼ、という言葉をご存知ですか。
 脳性マヒの特徴の一つで、無意識に出てしまう動作のことです。
 アテトーゼという妙なヤツはとてもわがままで、ところかまわず現れるので、本当に困ってしまいます。医学的なことはよくわかりませんが、私たち脳性マヒ者のからだはヤツらにとって、よほど住み心地がよいとみえ、みんな居座れています。
 どうせ一生アテトーゼという気ままなヤツに居候されるのならば、仲よくつき合っていきたいと思うのです。
 特に緊張したり「これはこぼしてはいけない」と意識したときなどに、なんの前触れもなくアテトーゼは勝手に突然襲いかかってきます。すると、こちらも慌てて、手に持っているものを放り投げてしまいます。
 また、興奮するとアテトーゼというヤツは、とても喜んで活発に動き始めるので、思わぬ動作になってしまい、このちらはたまったものではありません。
 ただ、アテトーゼというヤドカリも、本能的に自分の住いを守ることだけは知っているらしく、決して借宿に向けてはものを投げません。ただし、借宿以外には、どちらの方向へ投げているのか、投げたものがどちらの方向に飛んでいくのかは、投げた本人すら、まったくわかりません。
 つまり、もし、その行き先不明の物体によって、他人が被害を被ったとしても、責任は取りかねるというわけです。一応、本人も、アテトーゼを出さないために、からだ中に力を入れて、防御の姿勢で作業をしているつもりでありますが、包丁など危険なものを使っているときには、私からできるだけ離れていてもらいたいものです。
 後略
こんな次第なのです。

2013年3月16日土曜日

ほんの少し前までは寒い日が続いていたのにあっという間に暖かくなってきた。信州の地も寒い所為か一気に春がやって来る。諏訪湖の写真はまだ冬景色だがそのうち替えないとと思っている。

子供の頃の冬の季節は家の前の県道(今は国道)は雪で車は通れなかった。朝雪が積もっていると隣の家までカンジキで雪踏みをするのは子供の役目、我が家は一軒やだから他の家の何倍もある。既に足跡があるときは大体曲がりくねってることが多い。それとは関係なく往復してカンジキで4列くらいの道にして橇が通れるようにする。真っ直ぐ踏み固められた道を見るとなんか達成感が湧いて気持ちがよかった。2月に雪が降らなくなると日中太陽の熱で融けた雪がざら目のようになって夜中の寒さで凍って歩ける。お陰で朝学校に行く時は田んぼの中を歩くことが出来る。大分時間が短縮するからうれしかった。中学校が小高い丘にあって2月の雪が凍る時期は裏山が格好の遊び場となる。2年の時の教室は本校舎から体育館を挟んであったからうるさくない先生だと昼休みに男子のほとんどはワイワイ云いながら滑っていた。あの頃は時計を持っているのは先生くらいで生徒はもっていないことをいいことに昼休みが過ぎているのを知りながら時間がわからなかったととぼけて遊んでいたことが懐かしく思い出す。しかし、担任ではなく他の先生にピンタを貰ったのは勿論だが。物がないときはこういう言い訳が堂々とできる。文明の利器は生きることを窮屈にしているようだ。それと春が近づいてくるとバスが通れるように除雪車が来る。白一面の世界から道路だけが黒い土を覗かせる。固くなった雪でも土の固さには叶わない。土がこんなに固いのかと実感するときでもある。それと雪が融けてくると道路によく小銭や万年筆が顔を出す。今年はどんなのが落ちているだろうとこれも楽しみだがあまりいい物は落ちていない。それと2月になるとピタッと雪が降らなくなる。そうすると寒いがその代わり満天の星が輝いて月と星の輝きが白い雪に反射して真昼のようになるのも寒さの中での楽しみである。

信州諏訪は雪がなくていいけれどもその分寒い。諏訪湖も凍っても渡れないので「しみわたる」ということができないのでつまらない。今年は雪も多く除雪した雪が家の脇や道路の脇に置いているが陽が差しても日差しが弱くちっとも融けなかった。しかし暖かくなったら蹴飛ばしてもびくともしない凍った雪があっといいうまに小さくなっていく様を見ているとすごいなぁと思う。地震にしろ太陽の日差しにしろ持っているエネルギーの大きさに驚く、人間が自然をコントロールしようとしてから自然界はおかしくなったのではないだろか。どちらにしろ春の太陽の恵みを改めて感じる。嬉しい春だ。桜が咲いて来たら又春の恵みを思うだろう。パソコンもコタツから机に戻して、足の冷たさも耐えられるくらいになって今打っている。後は懐だがこれは当分というより地上の営みが終わるまで終生の友のように付き合っていくだろう。できれば縁を切りたいが惚れられた弱さ邪険にもできない。否、サルがシツッコク付き纏っているのかな、この方が正しいかも。

2013年3月9日土曜日

一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (最後)

その後、ターナーさんはチョクチョク我が家へやって来る。戦友の林さんや柳沢さん(何れも戦友、病臥中)も見舞ってくれた。林さんはキリスト教信者になった。
そして彼は私に目を輝かせてキリストを語ってくれる。絶対者を・神を想定する必要を認め乍らーー、
私にはまだ釈然としないものがある。
私は素朴な質問をくり返す。
ーー神とは何か。
ーー原罪とは何か。
ーーキリストでも 釈迦でも どちらでもよいではないか。
最近 私は肢体不自由児の質問を代弁した。
ーー神が 愛ならば
ーー神が 全能ならば
ーー神が 公平な審判者ならば
   何故私だけが歩けないのか
   手が動かないのか
   物が云えないのか
   何故 聞こえないのか
ーー私達に 罪はあるのだろうか
ーー私達は 生まれてきただけである
ーー何もしない 悪いこともしない だのに何故
   私達だけが苦しまねばならないのか
   何故?。
彼は色々云ったがよくわからない。そのうち英文で解答しようと約束した。
 彼は近いうち沼田から移動すると云う。信州の方へ来たいとも云った。峨々たる八ヶ岳屋アルプスの風物も気に入ったらしい。何故にと聞いたら、「神の啓示(リノベレーション)である。」と云う。
沼田では既に後継者が出来た、私がやるべき努めは一応終わった。地の塩になる為に、新しい土地へ行かねばならぬと云う。
 彼は何処に行くのであるか。ーー否々、我々自体何処へ行きつつあるのであろうか。
核と自動車と物価に脅(おびや)かされ、低級なアメリカ文化に汚染され、次第に経済的野獣と化しつつーー。
 かくの如くにして、我々自体いかなる手によって、果たして何処へ導かれつつあるのであろうか。
(昭和四十四年九月八日)


一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (続々)

夕暮れ近く、尚も俘虜の員数のことで云い合っている副官と私をせきたてて、収容所長たる東海林部隊の大尉は、歓送迎会を開催した。昭和十七年春、ジャワ島タンジョンプリオク第一俘虜収容所の一室である。
その日、山本中尉と私は、収容所引継ぎのために先発として、バタビアの伊原兵站司令部よりやって来たのであった。
会する者は、収容所長の大尉以下幹部数名及び山本中尉と私、これに俘虜の幹部佐官級の英人数名計十五名位。
テーブルには押収のビールを林立させ、手製の料理を並べたてて、大尉の挨拶、乾杯で宴会は始まった。じっとしていても汗が滲み出るような南国の夜である。ビールが五臓六腑に沁み渡る。飢えていた俘虜連中は、殊に嬉しそうにグィッグィッと飲み乾す。
忽ちのうちに大さわぎとなった。日本軍が、「万朶の桜か襟の色」と軍歌をどなれば、英軍も亦歌う。
チッベラリーだけはわかったが、あとは全然わからない。手拍子よろしく足を踏み鳴らし、テーブルを叩いたり、そのうち酔っ払って勝手にわめき散らす。日英語入り乱れてである。彼我酩酊、こうなれば敵も見方もない。日本軍は勝ち続けているが、英軍も、なお最后の勝利は我にありと云って譲らぬーー、が現実はこの収容所でも一人二人と斃死して行く、いつ死ぬのやら、ましていつ帰れるのやら。日本軍は豪州を目指して意気尚旺んであるが、果たしてこれもどうなる事やら。
第一線歴戦の東海林部隊の面々はこれで任務終了。故国への凱旋ときめこんで有頂天である。飲んだり、唄ったり、わめいたり、肩を叩いたり、頬をすり寄せたり、殊に外人は大仰である。
 いい加減酔っ払って、一寸小便に立った。帰ってみると、いつの間にか更紗のサロンも清々しい細腰窈窕たるジャワ美人が二人、大尉の両側に侍っている。大尉は悠然と肘掛け椅子に腰を下ろして… … …
が何とこれは、いつの間にやら上着やズボンは云うに及ばず 褌 まで取り払って、誠に一糸まとわぬ見事なスッパダカになっている。やせて陽にやけた赤銅色の肌は歴戦の後を思わせるが、股間がだらり… … …と珍妙である。殊に美人との対比に於いて。
そのうち大尉は立ち上がってダンスをやろうと云い出した。早速「俺がお手本を示す。」と、私の所に来て相手をしろと云う。私が断ると今度は六尺豊かな英軍中佐をつかまえて始めたものの、まるでぶら下がってるような格好になった。おまけに股間がブラブラする。奇妙ともなんとも云いようがない。英人連中は益々興にのって囃立て乍ら、これも適当にダンスを始める。矢張りお手のものである。えらい騒ぎとなった。
 先程から私の横で、何やら口論していた日本軍の炊事伍長と兵器軍曹が、猛然と取組み合いとなった。潮時を見て何とか伍長を引き離した。私は重要な炊事関係の申し送りが終わっていないのが気にっていた。小男の伍長をせき立てると「よし、これから皆に紹介しよう」と先に立った。可成り酔っている。
真っ暗な収容所の真中に、真四角の奇怪な建物がっている。これをとり巻いて、幾つともない焚火が不気味に焔を上げている。一日中半切れのドラム缶の釜でメシを炊いているのである。かまども半切れのドラム缶である。まだ夕食の配給が終わらぬらしい。ただでさえ暑いのに、この焚火で炊事場の中はむれかえるようだ。
伍長の号令で、炊事要員の俘虜がズラリと一列に並んだ。二十数名、全員パンツ一つである。薄汚い。伍長は交代者として私を紹介した。この時、ターナーさんが登場した。通訳をしてくれたのである。
 さて、お別れの乾杯と云うのであろう。伍長はビールを運び込ませ、各人に一本宛分配した。ところが、飢えているのだから無理もないが、渡し終えるや否やガブリと王冠を噛みあけて、グィッとラッパ飲みする者が幾人か出た。虫の居所が悪かった。伍長の怒声が飛んだ。「バカヤロウ! 飲めとも云わんに!」ツカツカと出て行った伍長は、今渡したばかりのビール瓶を先頭から引手繰ると足下へ叩きつけた。そして次から次へと引手繰っては叩きつけて行った。止めたが聞かばこそ、余程疳にさわったらしい。先程の酒と喧嘩が手伝って荒い。忽ち幾人かが足に負傷してしまった。折角の別れの盃も糠よろこび、何の事やらアッケにとられて情けない顔をして佇んでいる俘虜を尻目に、私を促して伍長は炊事場を出た。「クソッタレメ!。」伍長は何故か腹の虫がおさまらぬらしい。
 翌日、伍長は炊事関係の仕事を申し送ってくれた。スッカリ凱旋気分で、戦争みやげの鰐皮の財布やバンド・ライターなどを見せびらかした。同時に英軍ランス・コーポラル(伍長勤務上等兵)ターナーさんを正式に紹介して、助手とするように推薦した。
その日から彼との付合いが始まった。糧秣兼衛生兼営繕係の私と柳沢上等兵の助手と云うわけである。
彼は開戦時、シンガポールに商社マンとして勤めていたが、急進撃の日本軍に追われて、炎々たる重油タンクの猛火の中をジャワに逃げ、ジャワ陥落と共に日本軍の俘虜となったのであった。英人としては小柄で、人懐こく感じのいい青年で、私どもは彼を大変に重宝した。
 色々な事があった。俘虜三千六百何名の相手は、ベラボウに忙しかった。日の出から日没迄、熱帯の太陽に焼かれ乍ら真っ黒になって約半年一緒に駆け回った。やがて併し交代転進の日が来た。彼は自分のシガレット・ケースに、《○坂》と漢字を彫り込んで贈ってくれた。名残り惜しみつつ、「何処へ行くのか?。」《多分豪州へ、シドニーでラング君(俘虜の一人、医科大学生)のマザーに会ったら彼のことを伝えよう。」
当時の日本軍はまだ勝利の美酒に酔いしれていた。それから三年後には、敗戦で身分が顛倒しようなどとは夢想だにしなかった。まして、生きて故国でターナーさんと再会しようなどとは、誠に神ならぬ身の知る由もなかったのである。これをターナーさんは神の導きであると云う。然りとすれば、かの裸踊りの大尉や、みやげを見せびらかしてはしゃいだ気の短い炊事伍長ら東海林部隊の勇士達も凱旋はおろか、やがてガダルカナルの露と消える運命を辿ったのであるが、これも亦、神の導き給うところであったのであろうか。又かの俘虜達も、泰緬鉄道其他各地の強制労働にかり立てられて、生きて故国の土を踏み得た者は幾人あったのであろうか。神の意志とは果たして何であろうか。(続く)







一枚のプリント ひとりの宣教師のこと (続き)

他人のものを無断で転載するのは著作権?プライバシー?に違反するか分からないが半世紀近くも過ぎており、余りスポットライトを浴びることもなかったように思われるひとりの宣教師のことが書かれているので紹介がてらブラインドタッチの練習を兼ねて本人の了解無しで転載する。

 クオ   バディス
QUO VADIUS (何処へ行くのか)

               ○坂○穂

年賀状が来て、電話がかかってきた。沼田の英人ターナーさんからである。いつの間にかロンドンから帰って来ていたらしい。是非会いたいと云う。
約束の日、彼は我が家にやって来た。ボロ自動車を運転し、細君同伴でーー一寸太ったか。久し振りである。何回目かの久し振りである。戦争中ジャワで会って、戦後は大阪で会って、沼田で会ってーー、あれから何年であろう。
ジャワで会った時、彼は戦時俘虜であった。戦後の大阪では、英国系大会社の幹部社員であった。
苛烈な戦争を超えて、お互いに不思議な再会を喜び合ったものである。昭和二十六年であった。
彼は収容所時代のことを感謝し、お陰でほんとうのキリスト者になる事が出来たと語った。
ーー収容所では、礼拝堂の建設はしたが、ついぞキリストについて語った事はなかったが?
ーーいや、貴方々と交代した朝鮮の義勇軍の中に、鉄本さんと云う人がいて、その人の感化であると云う。その鉄本さんは鉄砲を担ぎ乍ら、賛美歌を唄って歩いた、そして神を説いた。三年以上俘虜生活を続け、終戦も間近い頃、苦しみ抜いた揚句、自らも遂に神を発見したと彼は語った。恩人たる鉄本さんの行方は今も不明であると云う。
昼間は会社勤め、夜は伝道に従事して忙しい。近く結婚すると、美しいフィアンセの写真も見せた。
 沼田で会った時は、既に一切を捨て去り、完全な伝道者になっていた。いかなる教会にも属さない、すべて聖書によると云う。
結婚して家庭を持ち、もう子供が四人もあった。裏の土地を売って、聖書館を建てたいと土地の測量をしていた。昼食はインスタント・ラーメンとクコのお茶だけのお粗末なお食事であった。
その後、英国から手紙が来た。何に行ったのか知らない。じき帰ると云って来たが二年程も英国にいた。そしていつか又沼田へ舞い戻っていたのであった。
積もる話を交わして我が家に一泊し、翌日、案内がてら塩嶺峠まで見送った。晴れて風の強い日であった。八ヶ岳が厳しく、冬の寒空を突き上げていた。松本を経て長野へと、大きく手を振って彼は走り去った。
 バスを待つ間、峠の売店をひやかすと、中風のおやじが、オロチョン族直伝の朝鮮人参液の秘法を話してくれた。おやじも若かりし頃、大興安嶺のどこかをうろついていたらしい。人参液には、彼の青春が秘められているのかもしれない。人間の運命不思議である。ターナーさんは、すべて神の意志であると云う。南方での彼との不思議な邂逅も神の導きであろうか。ーーその夜のことは忘れる事ができない。三十数年昔のあの夜のことを。(続く)


一枚のプリント

昨日、N伝道者が諏訪の知人を訪ねるので家内の姉と家内を誘ってくれた。実はその方は義父の中学時代の同級生で軍隊でも上官として一緒だった。そんな縁で誘ってくれたのだ。100歳になられたとかお元気である。後で知ったのだが新田次郎や元国会議員の林百郎も同級生、弟さんは若くして亡くなられたそうだがともに東大を卒業されたとか教育に熱心な信州諏訪を実感する。今も老舗の味噌屋さんの相談役として頑張っているようである。古い趣のある建物は歴史を実感さてくれる。義兄とは図書館で待っていて終わったら迎えにいくということだったがちっとも連絡がなく結構話し込んでいたらしい。お陰でたけしの対談集を拾い読みし、永六輔の新刊の本を読めてよかった永さんのは途中で終わったので図書館で検索したらわが街図書館にもあるので予約する。貸し出し中だから何時になるやらと思いながらついでに永六輔・加藤登紀子の対談集も予約する。

連絡があり迎えに行くと家内たちは勿論N伝道者、そして奥様が私たちが来るのを待っていた。そこそこに挨拶すると奥から娘さんがショッピングカーを押しながらやってくる。さもしいサルは何かお土産?と思ったが残念、お母さんのステッキを持ってきただけ、気のつく方で優しい方と聞いていたのでそれを実感する。奥様が通りかかった従業員の方に主人はと声をかけたら店の方にいます今出てきますと云い終わらないうちにご主人は味噌のパックを抱えてきる。美味しい味噌を三人に、別の味噌屋さんの500円でてんこ盛りが出来る味噌でも美味しかったのに相当美味しそう。建物の一角に売店があり、喫茶や食事が出来るそうでいつか寄ってみたい。

娘さんが出された本をお土産に頂く、帰ってきて本をめくって拾い読みしたら面白そうなのでそのうち読んだ感想を書こう。一緒にプリントが袋に入っていたので拾い上げたら
 ク オ   バ ディ ス
「QUO VADIUS」(何処え行くのか)の字が飛び込んできた。これはポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチの有名な本の題名である。この方が捕虜囚虜所の所長をされていたのだろうかそこにイギリスの捕虜として収容されていたターナーさんが宣教師として日本に来られて交流が始まったようだ。軍隊でのこと義父のことが少し書かれている。半世紀前に書かれたA4、5枚の文章である。読んでみると自分を含め日本がどこに行こうとしているかのその言葉のようである。しかし、キリスト者はこの言葉にドキッとする。いい言葉でもある。

2013年3月8日金曜日

医院で

3ヶ月ごとにお医者さんで高血圧と中性脂肪を下げる薬を貰っている(薬は薬局)。この前は去年の11月の初めだから丁度4ヶ月ぶりである。計算してみると一週間に5.5日しか飲んでいないことになる。朝食後すぐ飲むのだが結構飲み忘れている。以前にお年寄りが毎食後とか幾つもの薬を飲まないといけないのに飲んでないことを聞くが今は良くわかる。自分のことは自分で出来るケアハウスなどでも職員が薬は管理しているようだ。定期的にそして食前食後で飲む薬でもきちんと飲むのは難しい。

今回は血液検査をしたが大体規定値の中に入っている。唯一中性脂肪だけがダントツに数値が高い。薬を飲んでいても駄目なのである。丁度寒い時だったので外に出ることもなく出ても車だから明らかに運動不足、先生にも言われた。暖かくなったらと少し歩き始めるが少し歩くと心臓が痛くなる。10分か15分歩くと落ち着くが去年より今年と歳をとったことを実感させられる。どんどん歳をとり何もできなくなったときに信仰のありようが分かるのだろうなと思わされる。

2013年3月4日月曜日

見つかりました

何時だろう。大分前に何かで検索していてアクセスしたらオャと思った。以前お気に入りに入れていたブログだった。神出鬼没のようなブログだから・・・。教会はイエス様が主であり、主権者であり、絶対者である。教会は意図するしないに関わらず律法学者やパリサイ人の立場に立ちやすい傾向にあると思っている。信徒と牧会者が麗しい関係にあるとすばらしいなぁと思う反面、逆にそこに入れない信徒の疎外感を生む、そこには主を本当の意味で主としていない姿を垣間見る。斜に構えるサルの視点。

2013年3月1日金曜日

春だ~

今日から三月、ここ二三日は暖かい。この間の月曜日はファンヒーターの温度計はLo表示、壁脇の棚の温度計で0.1℃で今冬一番の寒さであった。それを境に段々暖かくなってきている。その前から日も早くなり、暖かさも増してきたのか玄関の凍ったドアが日が当たるとすぐ融けてくる。一月には日が当たってもそんなことはなかったから日差しそのものも強くなったのだろう。布団を干してもそのことを感じる。

昨日は久しぶりに図書館まで歩いた。20分かかるが手袋をはめなくても寒さを感じなかった。図書館を出てから少し歩くつもりで駅の近くの冨士アイスで今川焼を買って(家内が小さい頃からやっているお店、繁盛しているとは云えないがそれなりお客さんが来ている。安くて素朴な味が云い。サルはケーキを目の前にしても耐えられるが和菓子それも餅とアンコを前にしたら耐えることはできない)、丸山橋を渡って、トヨタの販社から左折して天竜町を横切るように歩き、田中小学校から北上して小井川小学校脇を通り、だるま堂に出て家にようやくたどり着く、図書館から丁度一時間最後の方は足がもつれるようになった。それに湖に向かって分からないほどの傾斜だが上る感じが分かってきつかった。帰ったらじっとりと汗をかき、シャワーを浴びる。普段洗面所はファンヒーター入れるのだが入れなくても寒くなかった。寒い時なんか4℃、夕方前ということもあるが格段の差である。三寒四温、これから寒い日があってもそれほど苦にならない。今日忍べは明日は暖かいと思うと苦にならない。春はいい。何となく浮き浮きしてくる。それと殆ど融けなかった雪が大分融けてきた。一昨日は一日家の中だったので昨日午後に出かけようとしたら屋根の雪が氷になって融け落ちていた。氷の塊である。直接あたったら大怪我モン、雪国で屋根の雪が落ちてその雪で亡くなられた方のニュースを聞くがアンナ柔らかな雪でと思っていたが雪の硬い塊になっている。まさに凶器である。これから雪崩の遭難が気になる。気温が上がり雪がどんどん融けてくるのを見るのはうれしい。それと春になると聖歌の652番(聖歌総合版710番)「春に若草が」の歌を歌いたくなる。残念ながら我が集会では「礼拝讃美歌」しか使わない。何時かはと思っているが。

1.原に若草が青く萌え出すと   
  雪解けの水が高く音立てる
    くりかえし 
   私たちも春の喜びを歌おう
   春を創られた神様を歌おう

2.風がやわらかく野原を通ると
  木の枝が揺れてさらさら囁く

3.遠くで家畜の声が聞こえると
  近くで小鳥が何か歌いだす

4.創られたものは春の日を浴びて
  春を創られた神様褒めてる