2013年7月23日火曜日

憤りを超えて

<福島第1原発>汚染水海洋漏れ、地元漁民ら怒り

毎日新聞 7月22日(月)21時57分配信
 「やっぱりか」「なぜ今日なのか」。東京電力福島第1原発の敷地内で出た放射性汚染水について、22日、懸念されていた海洋漏れが「あった」と認めた東電に対し、原発事故の影響で漁自粛が続く福島県の地元漁協は怒りをあらわにした。計り知れない風評被害の拡大へ不信感や危機感をのぞかせた。【中尾卓英、神保圭作、高橋秀郎
今朝、パソコンを立ち上げたらこんなニュースが眼に入ってきた。
選挙が終わった途端にこんなことが発表されるとはうがった見方をしてしまう。
原発被災地は塗炭の苦しみを味わっているのにそんなことは何処吹く風の如く物事を進めていこうとしている姿に憤りを越えて哀れである。政治も経済も亡霊に憑かれたように動いている。
人間のやる事に完全はないが間違っている事をあらたむることの難しさを改めて知る。真実は何処に。

2013年7月18日木曜日

「福音」という言葉

「〈ギ〉ユーアンゲリオン.古典ギリシヤ語では,このことばは良い知らせに対する報いであったり,それを伝えた人への報酬を意味すると共に,その知らせ自体をも指した.元来は勝利の知らせであったが,後には,喜びをもたらす知らせを意味するようになった.」と聖書辞典に載っている。
そういう意味でマルコの福音書に「「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(mark: 1:15)と言われたイエス様の言葉は、イスラエルの回復という意味で良く分かる。

しかし、今日福音派といわれている人たちの「福音」は「罪からの救い」が強調されてそれがすべてのように捉えられていないだろうかとふっと思うことがある。勿論これは大切な事であることは良く分かるがこれだけが強調されると「福音」がご利益的なものになってしまわないだろうかと。先日もあるところで「地獄に行かないで天国に行ってもらいたい」と会話の中であった。これもよく分かる。しかし、そのためだけにイエスさまは来られたのだろうかとふっと思った。もし罪からの救いだけであればイエス様でなくても御使いでも十分ではと全く根拠なき言葉だが思っている。良く分からないがもっと人格的な結びつきではないだろうかと思っている。人がどういう常態かというよりもどういう関係かの問題を放蕩息子の譬から教えているのではないだろうか。単純化することは分かりやすいしサルもそのような所で生まれ育ったから良く分かる。もしそうでなかったら聖書に更にふれるということもなかっただろう。しかし、そうするとあるものがスポイルされる嫌いがある。今、そのことで悩んでいる。聖書の言葉を伝えるということにおいても聞く者がそれで納得するか否かは別にしても「罪だ審きだ地獄だ」と言えば分かりやすい。そして「天国」があると。それとすべてのものを創造された神を物を製造されたような捉え方をする。しかしそこには愛情を込めても人格的な結びつきはない。人との人格的なふれあいの少ないサルにとってはチョッと耐え難い。神を全人格的に語るというのはサルにとっては難しい。「福音の再発見」、まだツンドク状態だが答えを得ることが出来たら幸いである。

2013年7月13日土曜日

信州も暑い

このところ全国的に記録更新をしている。標高800メートルのこの地も暑い。車を運転していて日差しの強さに太陽が近づいているのではないかと思った。なんか昔の人が天動説を信じていたことが分かるような気がする。天が動いて太陽が遠くに行けばいいのだと。今年の冬も寒かったがいつも寒暖のときに思う。この暑さを冬に、冬の寒さを夏に、そうしたら暑さも寒さも和らげる事が出来るのになぁと馬鹿なことを考えている。

2013年7月8日月曜日

聖書的

長谷川町子さんの「いじわるばあさん」の四コママンガに「世界情勢を勉強しなければ」と新聞を読み、その結論は(名前は前後するが)「チャーチルもスターリンもトルーマンもドゴールも先は長くないな」(正しい言葉は忘れたがこんな言葉だった)。家族がぎゃふんとなるのだが我が論評も然りである。前もって断わっておく。

難しいので斜め読みも多い「一キリ」さんのブログを読んでいるとアメリカの福音派について語りながらある教派を念頭においてしっかり語っているような気がする。そこで生まれ育った者にとっては彼らの問いかけが良く分かる。というより自分も問いかけてきた事であり、これも現在進行形でもある。染み付いた物はたとえ間違っていると思ってもそう簡単に軌道修正はできない。チョッと大袈裟だがある意味でユダヤ人キリスト者の苦悩が分かる。

日本人キリスト者の現実を見せられるような文に出会った。上沼先生のブログにこのように書かれてあった。東京の東久留米にある宣教師の子供さんたちの学校であるクリスチャンアカデミーで勉強されている人たちがアメリカに散在していて、三年に一度、場所を変えて同窓会をしているそうだ。奥様もその一人とか、その中の一人の方が日本に行ったときの驚きを語っていた事が書かれていた。

「・・・異文化を経験して豊かになっている成人としての誇りを持っています。 その感覚は自然にこちらにも伝わってきます。異文化を経験し、そのなかで何かを考えていて、それゆえに理解されないことがあっても、それはまさに与えられた豊かさなのです。

そんなことを経験している人がしばらくぶりに日本に戻って驚かされたことは、日本の教会とクリスチャンが、自分の親たちが教えた生き方をそのまま踏襲していて、その虜になっていて、御霊の自
由と豊かさを欠いていることだと、立ち話で話してくれました。何とも納得させられることです。初代の宣教師がその文化と聖書理解を持って取り入れたことが日本でそのまま聖書的なものとして生き残っているのです。そのような親の世代の遺産に驚かされることがあっても、その違いも認めることができ、しかもそれも自分たちの一部として生きているのです。」

柔軟性の欠落は、サルの中にもあり、それで困っている事は多々である。硬直した発想、それがわかってもどうすることもできない自分の姿。生まれ育った地域の風土がそれを生み出したのか和辻哲郎の「鎖国」を読んで、辿っていくとそこにまで行くのかなと思わされているが少し大袈裟かな。


2013年7月7日日曜日

止揚学園

先日、止揚学園から「創立50周年記念の集い」の案内が来た。昔、少額でも寄付をするとこのような案内をよこしてくれる。どこかの教団?のように、移転してコレコレのお金が必要ですと寄付の要請が来て寄付をすれば次回も必ず来る。しかし、それがないと次はなしである。これはこれではっきりしていていい。
この学園を知ったのは、信仰を持とうかとしていた頃に「百万人の福音」誌に特集として載っていた。古いお寺だったかを改造して始められた学園の初めの頃である。
障害児の父として尊敬されている糸賀一雄の「この子らに光を」の思想に反発して「この子らと共に」だったと思ったがそれがここの学園の根底にある。
「救らいの父」と言われた光田健輔さんも患者の隔離政策の批判によって批判されていると聞く、当事としては画期的なことであろうと思う。糸賀さんもそうであろう。疎外されて、座敷牢に入れられていたような子らに光を当てただけですごいと思う。
それでも福井さんは差別を感じた。言われてみれば然りである。困っている人に何かして上げる思想は「善意の悪」である。これがサルの中にもあるから困ってしまう。どこか自分が高い所にいる。
二十代の何時ごろか忘れたが訪ねた事があった。平屋の小さな建物だった。子供たちもそれ程多くはなく、知らない人におびえるようにしている子もいれば、サルの傍に来て親しそうに話し続ける子もいて、特別に障害がどうのこうという印象はなかった。その時に案内してくださったのは面条さんである。
福井さんとは本を通して知ることになった。何時だったか近くの保育園に福井さんの講演があるとのポスターを見て聞きに行った。子供の座る小さなイスに座って、男性はサルを含めて数人もいなかったのではないだろうか。子育て真っ最中のお母さん方の生き生きとした顔に囲まれての講演会であった。内容は忘れたが終わって挨拶に行こうとしたらわぁーとお母さん達が福井さんを囲み、頭の薄くなったおっさんが(失礼)こんなに人気があるなんてと思ったのが実感である。関西だけでなく東京でも有名な存在である事を知った。待っているのも照れくさいので失礼したがそんな思い出がある。
福井さんは彼らに対しての真剣さは半端ではない。いい加減が着物着て歩いているようなサルにとってチョッと煙たい存在、会えたいが怖いが本音である。でも大きくなった学園、そこで生活している人たちの姿を見たい気持ちがある。多分自分のいい加減さが少し矯正されるだろうと思っている。勿論そのためではない。学園の真摯さをこの目で確かめられたらとの思いである。

和田ぁー

スポーツニュースはWBSを観た後で見るので、WBSも途中だったり、下手すると見ないことが多くなった。その前に眠くなって布団に入ってしまうからである。
先日、和田監督の女性問題がヤフーに載っていた。まずいなと思ったら案の定、1昨日かなヤフーに「巨人連勝、4.5差」とあった。それでも昨日は阪神が勝って巨人が負けたから3.5差になったが腹が立つ。
「・・・は芸の肥やし」と言われたのは昔の話、それに芸人じゃない。スポーツに携わって女性問題で駄目になった人間はいくらでもいた。どこかの監督のようにウン億で解決してくれるような球団ではないことは分かっているだろう。
以前にも誰か忘れたが女性門題だったかギャンブルだったか忘れたが開幕中に明らかになり、それからずるずると負けていった事があった。野球はメンタルなスポーツなのである。
これで差が広がったらどうするの、そうなったらもう来期は無し。それでなくても来期は無し。
阪神が勝つか巨人が負ける試合しか興味がないので、眠いのと合わせて更に見なくなる。それはそれでいいのだがそれでも腹が立つ。

2013年7月3日水曜日

「鎖国」を読んで

和辻哲郎の「鎖国」をようやく読み終えた。文庫本で活字が小さく、それに昔の漢字を使っていたりで読みづらかった。時にはページを斜め読みしながらの牛歩のペースである。

日本の鎖国について色々書いているのかなと思ったら最後の最後にチョコット。日本史は勿論のこと世界史も大雑把な事しか分からないので細かく書かれても分からないのだがマルコ・ポーロ直後あたりから書かれている。ある面でキリスト教の宣教史的なものがあるように思う。ヨーロッパ特にスペイン、ポルトガルが中心になって、アフリカの西海岸から東海岸へ、そしてインド、アジヤと貿易を拡大していく中でのキリスト教の布教から語られている。丁寧に書かれいるから読むのが大変なのだが書くための資料は膨大なものであろうと思うと脱帽である。山田長政の名前は知っているが彼だけでなく多くの日本人がアジヤに進出して活躍していたようだ。倭寇というのは(13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部を中心に東アジア地域で活動していた海賊の総称。略奪行為だけでなく、密貿易も行っていた)海賊とか初めて知った。

それとアメリカ大陸発見がその後であることが面白い。東海岸から西海岸へそこから太平洋の各諸島を経てマニラへ、当時の人たちの冒険心って強いなぁと思う反面、山師的な人間も多かったのだろうなと思う。それだけヨーロッパは閉塞していたのだろうか。インドのゴア、そして中国のマカオは既に貿易とキリスト教の拠点となっていた。そしてマニラである。

鎖国というと信長あたりかなと思ったら、信長はキリスト教には興味を示さなかったがヨーロッパについての興味は旺盛であったらしい。「「未知の世界に対する強い好奇心、視圏拡大の強い要求を持っていた。と著者は書いている。布教を、教会を建てることを許し、武士を始め多くの信者が生まれた。何時かぶつかったかもしれないが彼の死は、キリスト教の衰退を意味したようだ。秀吉から宣教史追放が始まり、徳川に入ってもまだ家康の時はそれ程でもなかったようだが家光からそれが徹底されたようだ。

ポルトガルが地道に日本の文化を踏まえて宣教して行く中で後発のようなスペインの強引な宣教が反感を買い、それに新教のオランダが加わって、日本人にキリスト教の混乱を招いたのも一つあるかもしれない。著者が書いているように秀吉や家康らの「視界の狭小にもとづくものであろう」書いている。それと「為政者の精神的怯懦」という言葉も使っている。まさに為政者の心の狭さを思う。

日本の敗戦を「科学的精神の欠如」挙げている。日本軍の言動を観ていると頷ける。さかのぼれば秀吉や家康にたどり着くのであろう。信長のような人物は日本には馴染めなかったのだろうか。自分の姿を見てもその精神構造はこの延長線上にある。キリスト者としてもマイナスであろうことは良く分かる。しかし、この殻を破るのは至難の業、否、出来ないかも知れない。日本のキリスト教史を知りえただけでも良かった。信長のイメージも変わった。というより知らなかった。秀吉や家康は予想の範囲だが。