2013年9月18日水曜日

日々の大切さ

お気に入りに入れている後藤先生の「どこかに泉が湧くように」の中に「ジャン・バニエという人が、生活共同体において大切なのは、非常に単純な日常生活の繰り返しに幸せを見出せること、と語っていました。」と読んでハッとした。東京に行って、非日常の生活にホッとするものを感じると書いた後だったからである。このことはある意味で普段の生活に満足していないという事でもある。リタイアしてそれ程忙しくもなく、時には一日がだらだらと過ぎていくこともある。子育て、仕事、または何々をという目的は今なく、あっても断片的なものである。しかし、目的があればいいというものでもない。内面的なものであろう。共同体にしろ、個人にしろ「非常に単純な日常生活の繰り返しに幸せを見出せること」は大切なことはわかるがそう簡単ではない。このことを覚えながら色々思い巡らしてみたい。

2013年9月14日土曜日

THE BIG ISSUE

東京に行くと必ず買う雑誌である。車で行っても一日は電車で移動するから大体新宿を通る。秋葉原や神田方面に行く時は御茶ノ水に寄るがそれでも行きか帰りかに新宿のオアシスにも必ず寄る。それにヨドバシカメラもあるのでここも時間があれば寄る。定番コースみたいなものである。そして南口の甲州街道の交差点にタイトルの雑誌を売っているおじさんがいるので必ず買う。雑誌を持って手をかざしていてもあまり買う人はいない。これがどんな雑誌か知らない人が90%以上だろう。
これが就労支援の雑誌なのである。定価300円で160円は販売員の利益になる。そしてお金をためて自立していくのだそうだ。中にはホームレスのような人もいるようだ。しかし自立しようとしている人だけが売っている。サポートするためには買ってあげてほしし。ドトールのコーヒー二杯分でお釣りが来る。見かけたら人助けだと思って買ってちょうだい。人は助けたようで助けられていることを知るでしょう。その経験をしてください。東京では賑やかな街角に立っています。礼儀正しいですよお願いします。

非日常

一昨日東京に日帰りをしたが車ではなく高速バスで行った所為かノンビリすることが出来た。片道2時間半のバスではゆっくり本も読めたし、異動も電車の中ではただ乗ってればいい。銀座4丁目の丸の内線の乗り場は結構歩くがそれも大したことはなかい。乗って荻窪の字を見て新宿から東高円寺まで通勤で乗っていたことを思い出し懐かしさを覚えた。狭い通路に大勢の人がいてもその流れ逆らうことなく歩いていたから何の抵抗もない。忙しい生活ではないが普段の生活から離れて行動するとたとえ忙しくともどこかホッとする。非日常的な生活って精神的にいいのかぁ。何故か落ち着く、バスから降りて車で走り出した途端何か現実に戻ったみたいで、また毎日の日常が始まるのかとそれでも夜中に殆ど車が走っていなかったからよかった。これがもっと車が走っていたらより現実的になって面白くなかっただろう。

2013年9月13日金曜日

とんぼがえり

いつもの時間に起きて朝食を取り、8時前に家を出る。車で岡谷インターから高速に入り、諏訪インターで下りる。指定の場所に行くと10台からの車が駐車していて、中型の観光バスが停まっていた。掃除をしている人がいたので「この車」と聞いたら、「この車ではなくて後で来ます」と待つが定刻になっても来ない。ここが始発ではと思ったが松本から来るそうだ。数人が集まっているだけ、これではと思ったがそういうことで納得、少し遅れて到着して乗るとそれなりに人は乗っている。中型の観光バス。車中で恵信さんの本を読むが東京近くまで目も気分も大丈夫でホッとする。道を挟んだホテルサンルートの前に新しい発着場が出来ていて、幾つかの業者が共用しているようだ。

オアシスの前を通ったので時間がなかったがつい覗いてしまった。本を読むように度の一番強い眼鏡にしていたので本のタイトルが素ではボケるし眼鏡をかけると更にボケる。いつも使っているのだと丁度いいのに二つ持って来なかった事を後悔する。配置が変わったりしているのと正しいかどうか分からないが以前来た時よりハウツーものが多いような気がした。気の所為かな。そこでH姉妹と会う、幼稚園の子供さんが健康診断で近くに来ているので時間があって寄っていたらしい。誰にも会うつもりはなかったので・・・。

早々に失礼して駅に向かう。携帯を切っていたので開けたらK君から、静かなところで電話する。パスモをチャージし地下鉄で行こうとしたが乗換えが分からずJRで有楽町まで行く、銀座4丁目を目ざして歩くが和光は思ったより近かった。そこを右折して次の信仰を左折と信号を変わったので交差点の手前で横断。角でK君が立っていてギャラリーに案内してくれた。田舎からMさんが来ていた。同じ集落のAさんも名古屋から来ていて、半世紀以上ぶりの再会、何時だったかも同じ集落のEさんも小学校以来で分からなかった。回りは知っていても本人同士は「あなた誰?」の笑い話になる。サルは観るだけだが彼女は人物画を描いているそうだ。一通り観て、Kさんのも観る。田舎のMさんの裏から風景を絵にしたと言っていた。稲の間の水の色が独特である。それが冴えると思ったがどうなのだろう。そのうち習志野から何時も一緒のSさんとSさんが見えて彼女たちも一通り観てランチへ、近くで三崎からの店で刺身丼を食べる。それから浅草へ、子供が小さい時以来だからホントに久し振りである。あの時は人が少なかったが賑わっていた。外国からの人が目に付く、東南アジア系のツアーも目に付く、panasonicの小旗を持っていた人も東南アジア系の人だった。それに東建のハッピを着た人もおり、久し振りで昔と違うなぁと感じたが実際はどうなのだろう。
昔、お客さんの家が仲見世で着物を売っていて何度が届け物をしていたからあそこに行くと懐かしさを感じる。少し歩いて隅田川の対岸からスカイツリーを見る。Mさんは既に展望台に昇ったそうだ。東京タワーもそうだが地元にいるとすぐ行けるからとそのままが多い。また浅草から戻り、ギャラリーで少し交わって、下の息子と新宿で夕食を共にするので失礼する。彼らは夕食も一緒にするらしい。MさんとAさんは近くのビジネスホテルで予約を取っていた。翌日は皇居近辺を散策するらしい。東御苑を勧めてが金曜日は休みらしい。東京駅を外から眺めてもよいなぁと思った。

丸の内線で新宿に向かい新宿三丁目で下りて伊勢丹口に出る。デパートに入ったらそこは食品というかお菓子売り場、思いついて家内にお菓子を買うがデパートはそれなりの店が出店しているのか高い。そこを出て電話をしたらもう本人は近くに来ていた。ルミネのレストラン街で食事をし、混んで来たので別な所でお茶と捜しながら歩いていたら発着場の隣にドトールのような喫茶店があったのでそこで時間いっぱい話をする。ネット関係の勉強をしているが就職はどうなのか資格試験を一つは取らないととその準備をしているらしい。サルも五十二歳で失業した時、再就職は初めての仕事だったから大学の新卒並みだった。それでも仕事に就ければいい。時間が来たので喫茶店を出て、「見送られるのは照れくさいから俺は左、お前は右に」と言って分かれる。首都高速は継ぎ目がゴトゴトするので中央道に入ってから朝の残りの部分を読む、八ヶ岳SS辺りかな目が疲れたので目を閉じて終点まで、11時少し前に着いて家内に電話して走るが殆ど車はなし、30分で着いたがここが都会と違うところ寂しい。こちらに来て感じた事は都会の雑踏の中にいると何故かホッとする。映画の題名ではないが「群集の中の一つの顔」であるからだろうか。談合坂でトイレ休憩丁度一時間チョッと時間的には真ん中なのである。お金も安いし新宿の駅前に着くしバスもいいものだ。これから一人の時はこれにしよう。チョクチョク行きたいものだ。

2013年9月7日土曜日

読後感

「福音の再発見」を読み終えた。活字も大きく平易な言葉で訳されているがサルには簡単に読めない本である。福音という言葉に疑問はないけれど福音という言葉はもっと幅の広いものではないかなと漠然と思っていたことと天国にという言葉が強調されて、救いが全てであるかのように語られていることに多少疑問を持っていたのとサブタイトルに「なぜ、多くの若いキリスト者が、今日、教会を去ってしまうのか?」のタイトルにも惹かれて買った。しかし、これは勤めても長続きしない息子のことで悩んでいた時、「若者はなぜ3年でやめていくのか」多分こんなタイトルの本があって買ったことがあった。読んでみたら能力のある若者が会社の旧態依然としたやり方に不満をもって辞めていくことだった。息子と対極にあるのでこれは違うと思った。去っていく信者を思い浮かべて、少し心当たりを感じる。これは「福音」理解と違うかもしれないが。

書かれているのはアメリカであり、著者は新約の聖書学者である。大学で学生に聖書を講義している。聖書を知り尽くしている方である。そこから今日の「福音」理解に疑問を呈している事はそれなりに意味があることかもしれない。

高校生の時に信仰を持ち、教会のありようはサルが生まれ育った教会と同じ様な形態をしているようだ。そこで経験していることが今日の「福音」理解につながっているようだ。サルが生まれ育った教会は牧師制を取っていないというよりそれに否定的である。神学なども否定的ではないのかな?
指摘されている救いが強調されている福音主義の教会である。福音主義の教会からも異端視されているのかな?コチコチの原理主義なのかもしれない。

信じるだけでなくキリストの弟子としていく伝道が必要であるとの指摘はまさにそうであろう。産後の肥立の悪いサルは逆説的な意味で頷ける。そのことを思うと以前いた教会が大きくなったきっかけは、教会関係の宣教師ではなく、ナビゲーター関係の宣教師だった。彼は教会のやり方を踏襲しながら形だけのやり方に疑問を呈し、少しづつ変えていった。独身であった所為か若い学生や社会人と生活を共にして、若者を育てていった。また喫茶店やレストランで食事をしながらマンツーマンで勉強会をやったりしていた。サルは食事をして交わるくらいだった。勉強したり何するには硬すぎるからこのくらいが精々だった。今教会の責任を負っている責任者の何人かは彼が若い時に育てた人たちである。知人は家を新築した時、日本に来た時に使うために部屋を用意していた。彼がアメリカに帰ってから日本に来た時にある国会議員から教会に電話があった。彼も弟子のようである。彼は多くの人に信頼と尊敬を受けていた。生きて働く信仰が他者を生かすのだろう。

人間完璧ではない。カトリックからプロテスタントそれをプロテストしたと言われるわがグループ、だからと言って物事が解決したわけではない。問題は相変わらずあるのである。そこにあるのは人間の肉の問題が解決していないからである。牧師や指導者は真に謙遜でない。そんな中に集う信者は問題を指導者に仰ぎ、それを解決の糸口とする。○○はこう言ったという風に、聖書から言えと言えたくなる。前にも書いたが高橋三郎先生は信者に対して、自分たちが立っている信仰の自負を戒め、今ある信仰はプロテスタントの信仰、カトリックの信仰から受け継いできたものであることを忘れないようにそのようなことを言われていた。確信が強ければ強いほどこの危険性はある。サルが出来ているわけではないし寧ろ下の下に存在している者であるが。

良きサマリヤ人

イエス様の譬話は分かりやすいというより単純であり、聞き様によっては結構皮肉的である。しかし、
「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです(matt:13:13)」
とあるように結構理解されなかったようである。律法学者はあからさまに自分たちのことを言っていることがわかったみたいだ。それといざ実行するとなると至難なのである。ここがイエス様のイエス様たる所以かと変な所で感心している。
サルにとって神学とか学とつくものとは全く縁がないから聖書をそのまま読んでいる。そして、こういうことをやっている。
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです(2pet: 1:20
牧師のみならずまともなキリスト者ならあきれるであろうことを実にまともなようにやっている。集まっても数人、兄弟は三人だから月一で聖書の話をしなければならない。信者でない方もいるので福音になったり学びになったり両方だったりと中途半端になることは多々である。
そんな中で、月に一回東京からM伝道者がファミリーで、その時に若い兄姉も一緒に来られるので総勢15-6名からになる。何時もは午前中だけだがその時は午後もあり、あぁこれが集会だと実感する。まさに至福の集会である。そして、
彼はいたんだを折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまではmatt:12:20。この言葉の通りで、折れそうな消えそうな信仰に励まし恵みを頂く、故に至福なのである。奉仕のない者でも朝から晩まで(少し大袈裟)しっかりスケジュールのある集会にいた時は不平タラタラだったが現金なものである。「いい加減が着物を着ている」サルではあるが。

そんな中で15日に話す。今回は「良きサマリヤ人のたとえ」からと少しづつ準備している。ここは何回も聞いた所であるが二つばかり気付かされた。面倒な事にかかわりたくないという見方をすれば祭司やレビ人はまさにそうである。しかし、裸で倒れて半死半生の様だったら彼らは神殿の務めに差し支えるのではないだろうか。もし死んでいたらレビ記や申命記に死体にふれたら穢れると書いてある。もしそうすると神殿の務めは務まらない。彼らは同情心がないからではなく、大切な神の神殿の務めを優先したに過ぎない。考えてみればこんな事は今日でもある。個人を守るか全体を守るか、そしていつも個は後回しになっている。社会もそして教会もという感じを受ける。サマリヤ人を褒めるということは自分を批判している事だ。ナタンに叱責されたダビデのように自分のことはわからないのである。人には色々肩書きがあって、それで自分を束縛している。サマリヤ人はそんなものはなかったようだ。死人かもしれないがもし生きていたらと介抱したのだろう。彼に拘るものは何もない。同じ様に罪人の所に行って「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と言われても頓着なく彼らと共に食事をし、飲み回っていたイエス様も何も拘るものはなかった。





2013年9月4日水曜日

オイター

先日知人が入院したので病院に尋ねた。三階なのでエレベーターでなく階段を利用したら五、六段上がったところで膝が痛くなってしまった。移動は車か自転車、歩く時は平地、坂もない。だから膝が弱っていることを確認できない。こんな事があると初めて分かる。時折、歩くよりは自転車がと思って乗っているが今は数キロくらいであるから膝に負担はかからない。緩やかな坂にはなっているがギヤダウンすればそれ程苦は感じない。

最近まで、テレビ東京(ケーブルテレビなので観れる)のWBSを観て布団に入っていた。最近は、途中で眠くなったりするとそのまま布団に入る。昨夜も阿倍さんのブレーンである濱田さんがゲストとして出演していたがそれを脇に見て布団に入ってしまった。ある時は十時代のドラマを観ていて眠くなったので寝たら夜中の三時に目が覚めてしまった。これから夜が深まるというときである。
朝は朝でというより早く寝た分早く目が覚めるから夜中に目が覚めてトイレに起きてそのまま起きて本を読んだりパソコンを見たりする。それから一、二時間起きてまた寝て、六時前か7時前におきる。最近は時間が前後するがこんなパターンである。
お陰で日中よく寝る。まず朝起きて聖書を読み、朝食食べると眠くなり、そのまま横になり一時間くらい寝る。午後も一回くらい横になる。下手すると二時間くらい寝ている事がある。それと集中力がなくなったから本を読んでも字面を追っている事が多くなった。小説等はいいのだが聖書関係の本はそれ程難しくないと思われるのでも駄目である。そういう今ももう眠くなってきた。現在時刻午前十時十五分、これから寝る。