2013年2月27日水曜日

御言葉による性格判断


2sam 22:26-27
あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
    (ps 18:25-26に同じ聖句あり)

2013年2月25日月曜日

ルカ伝15章より

 人は、
1.神を知り、
 a.存在として
  b. 人格として
2.自分を知り、
3自分への.神を知る必要がある。

 ルカ伝15章より、
1節の人たち-必要性を認識していない人たち
2節の人たち-必要性を認識している人たち

 人は迷っている状態であり、失われた状態である。
1.迷い出た羊-いのちの関わりを示している。死に直面している。
2.失われた銀貨-価値を示している。むなしさと直面している。
3.失われた息子-神との関係を失いそして取り戻した。
先週来られたM伝道者の言葉より

出すあてなしのラブレター?

今冬は寒いのかはたまた歳の所為でものぐさになったのかコタツに入っている時間が多くなった。一週間に二日くらいは一歩も外にでないでTVもそれほど見ることもなくPCとにらめっこしたりしている時もある。本を書館で借りたり、アマゾンで買ったのを読んでいる時もある。それに本を読むのが遅いのでそれで時間がつぶれることもある。それと午後にBSか7ch(東京では12ch)で映画をやっているので興味あるのを観るとそれで2時間はつぶれる。しかし古いのが多いから見たいのは少ない。観たいと思うのがあったりすると丁度用があって出かけなければならいなんてことも多々ある。結果的に余り観ない。でも観ると若い時を思い出して懐かしさを覚える。映画を終えると3時から3時半少し間をおくと4時から地元のTV局で「水戸黄門」の再放送をコーヒータイムに合わせて観ている。それほど面白いとは思わないが印籠のワンパターンが年寄り向きなのだろう。若い人には興味が湧かないだろうなと思いながら観ている。打ち切りになるのも納得できる。しかし地方のおじいさんやおばあさんはさびしいだろうなと思っても観ている。結局TVは5-6時間以上観ているのではないだろうか午前中は殆ど観ないがそれでも計算すると結構見ている。これが楽でお金のかからない生活である。これだけだとちょっとわびしい。

今、高血圧と中性脂肪の薬を飲んでいる。お医者さんに運動不足の一言で片付けられている。知り合いの方に毎朝犬の散歩をかねて歩いている人がいる。血圧も中性脂肪も標準なので言われたことに納得している。じゃぁと運動の表を作ってみたものの書き込めないので空欄の連続である。10日経ったらお医者さんに薬を貰いにいかなければならない。その時血をとって検査をするので数値を下げたいために歩こうと思っている。しかし来週は話の当番、準備のために流れそう。否流してしまいそう。いつもこの次にはと思いながら相変わらずで下手するとポーンと数値が上がっている時がある。今回はどうなるか?

そんな日々だったので以前メリル・テニイの新約聖書概観を短くまとめて、福音書対照表も合わせた作った。読んでもわからないかなと思うほど短くして、対照表もどうも時間の流れと違うようなところもある。コタツにPCも置けるしと対照表から始めてみた。3枚を6枚に増やしたが福音書は時間の流れに沿っているが必ずしもそうなってもいない。同じ様な出来事でもそうでもない。その辺参考資料が幾つもあるわけでもないから結構難しい。やっても中途半端になるだろうなと思いながらもやるかとやり始めたがどうなるか。知人の翻訳したのをと思って少しやり始めたけどどういうわけかこちらが気になって始めてしまった。人に見せるほどでもなく、自分でも殆ど見ないだろうなと思いながらやり始めた。そんな時に若い時に歌われていた「出すあてのないラブレター」という歌詞の歌があったなぁと思いだして検索してみたらNHKの「夢であいましょう」で永六輔、中村八大コンビで作られ、デュークエイセスが歌っていた「おさななじみ」の5番目の歌詞であることが分かった。番組と彼らの歌声が半世紀を経てタイムスリップしてよみがえってきた。渥美清さんがまだそれほど売れていなくて「丈夫で長持ち」の自己紹介をしていて何時だったか違う番組でか永六輔さんが彼のことを「丈夫で長持ち」と言いながらセットの脇でよく休んでいたと言っているのが印象に残っていた。そして亡くなられた時の状況を知り、あぁあの時から大変だったんだと改めて渥美さんの芸人としての姿勢に感動したことを思い出している。

5 出すあてなしのラブレター
  書いて何度も読み返し
  あなたのイニシャル何となく
  書いて破いて捨てたっけ

今やり始めたことはまさに「出すあてなしのラブレター」なのである。何度か読み返すかもしれないが淡い恋心ではないが誰かに見せたいという人もいない。家内はもっと他にと冷めた目で見ている。これは主の目かもしれない。もしかしたら何かから逃避しているのかもしれない。でも下手の横好きで自己満足的でもいいかと・・・。

2013年2月13日水曜日

雪のお陰で

昨夜から降っていた雪は朝方には止んでいた。車の屋根から落ちそうになっている雪を見て予報通りの大雪になっていることが分かる。五時過ぎに起きて外に出ると新聞配達の車か底をこするように車輪のあとを残していた。雪は膝近くまであり長靴がぎりぎりのところまであったから多分30センチくらいはあったと思う。後のニュースで分かったことだが諏訪は26センチ他はおしなべて11センチとあったから諏訪地区は特別だったようだ。それにここは塩嶺峠が近いからさらにである。雪かきをしていてスノーパウダーのような雪で軽くて前回よりは楽だったがそれでも丁寧にやることもなく大雑把にやる。年で体が持たないから家の脇と道路までの歩道の分を大雑把にやっただけである。早い時間だったから誰も起きている人はいない。大雑把にやってもそこを丁寧にやる方がいるからそうしているのかもしれない。

少し休んで出かけようとして玄関を出たら雪かきをして出かけた方、やっている最中、これからという方、ようやく7時を過ぎて動き出した感がする。いつもだと車で道路の雪はぐしゃぐしゃになるか路面が出ているのだが今回は雪を踏み固めた上を走っているので変な感じがして少し怖かった。県道に出たら除雪されていたがノロノロ状態、事故があったのかと思われるほど動かない。駅前の西友までは数分で行けるのに20分もかかってしまった。

西友の駐車場は雪だらけでポツポツと車が止まっているが昨夜から止めていたのか雪が山のように積もっている車が多い。家の近くの西友にも数台止まっていたがここは駅前の所為かその比ではなかった。これからか長靴から靴に変えている人もいた。店でオニギリとお茶を買って駐車場前の道路にマイクロバスが来るのを待つ。ここに来る途中で携帯がなったのを思い出して、待つ間携帯を確認すると高速バス会社からだった。中央道が通行止めになっているので中止とのこと、しょうがないかと帰り、帰ってきたらみんな雪かきがされていて雑にやっているところもきれいにしてあった。雑にやってもこうしてくれる方がいるから安心して雑にしている。雪の大部分を処理してあるからサラからやるよりははるかに楽なはずである。手づかずの駐車場の雪かきをして雪かきの作業は終わる。

小渕さんのブログにヘンリーナウエンのシンポが埼玉の宮原にある聖学院大学で行われるとあったので是非と思って応募した。それが今日なのである。久振りの東京、それに以前いた集会の夜の集会にも出られると喜んでいたのに、それと高速バスも初めて、色々と久しぶりの東京を散歩して歩きたいと思っていた。東京はただぶらりと歩くところが沢山ある。華やかな東京ではないがそんな所がある東京が好きである。普通では縁がなかったというところだろうが御心ではなかった。次の機会に期待したい。でもなんで東京に行く道が閉ざされたのだろう。ナウエンも集会にも出られるのにと思ったがそれは我がサイドのこと神は別の考えがあるのだろう。そこが面白い。でも残念でした。


2013年2月9日土曜日

地の塩、世の光

聖書の中に「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界(世)の光です」(matt 5:13-15)という言葉ある。あの有名な山上の垂訓の中の一説である。もう垂訓なんて云わないのかな? その後に各々の効能なりが書かれているから熱心なキリスト者は「我は地の塩、世の光にならん」と頑張っている。あるキリスト者は我関せずと我が道を行く、問われても「だから何」と問い返されるのが関の山である。

キリスト者とは「イエスをキリスト」と告白するものであり、更に云えば
  「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、
    次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
   また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(1cor 15: 3-5
パウロの告白を「我が告白」とする者である。
キリスト者であることも地の塩、世の光であることも働きではなく立場である。塩気をなくしてもキリスト者ではないと云えない。光を失ってもキリスト者でなくなったとは云えない。多くのキリスト者は、「キリスト者=、地の塩=、世の光=こうでなければ」という意識が強いのではないだろうか。だからそれに見合わないとキリスト者であることにX点をしてしまう。サルもそのような捉え方を根底でしているから解らないでもないが考えてみれば主が「あなたがたは、地の塩です。・・・あなたがたは、世界(世)の光です」と云われたことを否定しているといえる。主が語られたことを否定しているということは不遜であるし非信仰的である。それは「ガンバリズム」の成される業であろうか。

この世は定まっている時はない。絶えず変化している。その一点を見て結論付けるのは間違った結論に導く可能性がある。不変なのは「神の言」だけである。
塩気をなくした」と思っても永遠ではない。一過性のものと捉えたい。主が「あなたは「地の塩です。世の光ですと云われた事は不変である。なぜなら自分のうちに塩も光ももっていない。主がそのように宣告し、その源は主御自身のうちにある。そして、
 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、」matt:12:20
と云われた。我らは芯にすぎない。主が油を注いで燃えるのである。しかし、油のコックは我らの手の内にある(通り良き管として)。暗闇の中に太陽の光は必要ない。ほの暗き光で十分である。
最後に
     いつも喜んでいなさい。
   絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはなりません。
預言をないがしろにしてはいけません。
しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。
悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。

1thess 5:16-24)

2013年2月7日木曜日

考えさせられたこと



「想定を超える災害にどう備えるか」
~大津波から生き抜いた釜石市の子どもたち、その主体的行動に学ぶ~

これは昨年の9月に市の「生涯学習大学」講演会での演題である。
諏訪地区は、「2006 年7月17 日から19日、長野県中央部の岡谷市、諏訪市、辰野町かけて梅雨前線の豪雨により広範囲にわたって土石流、斜面崩壊、浸水が発生した。被害は、岡谷市湊地区死者7名、川岸東地区1名、辰野町飯沼1名、辰野町小横川1名の死者の他、多数の家屋の全壊、浸水などの大きな被害を出した。」(国土地理院の報告書より)

岡谷市は湊地区で7名も亡くなった土石流の大きな災害を経験しているので防災に関しては関心が高いのではないかなと思っている。(その割にはホールはいっぱいになっていなかったが)講演会の紹介にこのように書かれていた。

「釜石市の津波防災教育の事例を中心に地震大国に住むものとして、これまでの防災の意識はどうだったのか、これからの防災のあり方はどうあるべきかなどについて、お話をうかがいます。」

講師は釜石の奇跡で有名になった群馬大学広域首都圏防災研究センター長で群馬大学大学院工学研究科教授片田 敏孝 先生。

忘れっぽいので細かい話は忘れてしまったが防災に対する熱き思いが伝わってきたのが印象に残っている。それと何時来るかわからない津波に対してあれほど熱心になれるのかとそれが不思議でならなかった。サルはどこかさめたところがあるから直ギャップが大きく感じたのかもしれない。しかしTVでも放送されたように上級生が下級生をかばいながら避難する子供たちの姿を見てこれが防災訓練の結果なのだと納得した。親に依存するのが子供であるのに自主的に行動するとは繰り返し教えてきたからであろう。そんなことが頭にあったから読んだ本は暗い気持ちにさせられた。


「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」  


あの大津波で石巻の大川小学校は108名の生徒のうち70名が亡くなり、まだ4名が行方不明だそうだ。先生も10人亡くなっている。これは学校がなくなったに等しい。それと子供たちは学校の管理下にあると言うことは学校の責任であることを改めて教えられた。それは親から見れば子供の命を学校に預けたことになり、学校は親から子供の命を預かっているのである。責任重大である。読んでいるうちにそんな責任重大な要の教育委員会がどれだけ認識しているのが疑問に思った。そして役所の典型を見、時には弊害になるものかなとも思わされる。原発事故の国や東電の対応も同じ様なものだなと思ったが。

地震から51分も運動場に置かれて、近くに避難しようとした時には津波の第一波がすぐ近くに来ており、逃げ遅れて多くの犠牲者を出してしまった。上級生の中には山にと行きかけたが先生に戻されたようだ。他にも山に避難しようと言った子供がいたようだが先生はそれに答えなかったようだ。
多分、先生たちもここまではという思いがあったのではないだろうか唯一生き残った先生が一人いたがその報告もどこか矛盾があるらしく、今は具合が悪くで面会謝絶とかで直接聞くことができないらしい。遺族の疑問に市も教育委員会も納得の行く報告はされていないようである。組織というものは守ることには強いから非があるときは磐石である。

釜石を褒め、石巻を非難するつもりはないが災害や不測に備えることの大切さと難しさを教えられたような気がする。結果として命にかかわることである。大人は経験則で物事を判断する傾向にある。大川小学校の先生もこの判断ではなかったのだろうか。片田先生も大人の無理解に苦労されたようなことを言っていた。逆に大人を当てにしないで子供たちに自主的に行動するように指導したのが良かったのではないだろうか。

以前に特老の設備を見ていた時、年に二回消防の避難訓練を行っていた。形だけのこんな訓練役に立つのかなと思っていたが机上で理解するのとたとえ形だけでも実際に行動するとでは雲泥の差があるなぁとはじめて思った。机上は頭しか動かないが行動は体が動くこれが大切である。片田先生も釜石の現実があったからよく言われるけれどそれまでは疎んじられていたのではないかなと思う。人は目の前の利害しか考えない。それに添ってしか行動しない。それが原発問題でも働いているような気がする。教会の世界にも教えているような気がするがどうだろう。





2013年2月5日火曜日

信頼

堕罪はエバが蛇の誘惑に負けて食べてはいけない「善悪の知識の木」の実をとって食べたことに由来する。しかし、誘惑に負けたというより神に対する信頼を捨てたのではないだろうか。もうあなたを必要としません。私たちは充分自分の力で生きて行けます。こんな生き方って現代でも見れるような気がするけどなぁ。


2013年2月2日土曜日

鳥たちが

大分雪は消えたが日陰や庭先はまだ白一色である。しかし、紫式部の枝の下は茶色になっている。鳥たちが実を食べにきた時に落とした実や木の皮などが落ちて茶色くなっているので何となく汚い。最近鳥たちが来なくなったなぁと思ったらそんな状態で尚且つ実はひとつもない。しかし、雪が消えたら地面に落ちた実を拾いにまたやってくるだろう。雪で餌を見つけにくくなってくる鳥たちを観ていると聖書の中に在留異邦人や貧しい人のために田んぼに落ちた落穂を拾ってはいけないと書いてあることを思い出す。ルツ記を読むとそう書いてあっても落穂ひろいは邪険にされたようなことが伺わせる。収穫の邪魔になったりするからかもしれない。そのお陰でルツはボアズと結婚できた。イスラエルの民は奴隷の民、イスラエルの王国は異邦人の女から始まっている。主イエス様はガリラヤの辺鄙な村で育った。みな何一つ人間的に誇るべきものがない。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(eccles: 3:11)なぁ?