2013年8月29日木曜日

ひしがれた心



人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。
                                            箴言 18:14


知人の女性の方がめまいと吐き気が酷くて入院された。病院に尋ねた時、特別の治療をされているわけでもなさそうなので、暑い日が続いてお盆も近づき普段でも忙しくされているので過労かなと思った。少し前に会った時に疲れ気味の顔をされていたのでこれ以上にスリムにならないようにといっていのだが・・・。倒れないと駄目なほど頑張る方なのである。
最初に尋ねた時は少し落ち着いた顔をされていたのでホットして帰ってきた。2週間で退院が延びたので再度尋ねたら落ち着いた顔が消えていた。先のことを考えると不安でしょうがない旨言われ、看護師さんにも言って慰めてもらったと、少し落ち着いたようなことを言われたが平安のある顔ではなかった。

頑張り屋で仕事での集中力はご主人も感心するほどである。妹さんが亡くなられた時、中学生になろうとしていた一人っ子の甥子さんをわが子のように面倒を見ていた。茨城に住んでいたから近くではない。色々弱さを持っているが自分がコウと決めたら人がどう言おうとやっていく強さがあった。彼女を観ていてまさに箴言の前半の言葉を実践してきた。しかしその強さが崩れた時、心は精神的におかしくなるほどに耐えられないのである。彼女に限った事ではない。サルも何度かそんな経験がある。マイナス思考の上、トレードマークのように「顔はでかいが心臓はノミだ」とよく言っていた。忘れっぽいサルは何で解決したのか記憶にないが絶望がぴったりだった。

考えてみて、キリスト者として固く立っていたとしてもそれがキリストの上に立っているか否かはアクシデントが起きた時に明らかになる。健康、能力、経済、社会的地位等々、これがキリストに固く立っているような錯覚を与える。真実の姿を見せられるのは辛い。しかし自分の真実の姿を見せられる事は感謝な事、何故ならその前の自分は虚像に過ぎない。歳と共にそんな姿を見せられていく、嬉しくないが感謝な事だと思っている。そして主は「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」(1コリ10:13)。まさに紙一重の所で留めてくださる。そんな経験を重ねながら人は謙虚になっていくような気がする。何度も経験しながら謙虚とは程遠いサルではあるが。今まで彼女は「病苦をも忍ぶ」事ができた。これから「ひしがれた心」になった時キリストを必要とする事を経験するだろう。サルもこれから何度こんな経験をさせられるのだろうか。

この地上は移り変わっていく、確としたものはない。たとえどのような事であれ、喜び、感謝できる事は幸いな事である。しかし「たとえそうでなくとも」感謝な事だ。立つべきものはこの世のものではなく「みことば」だからである。こんな言葉を「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マル9:24)と何度も繰り返すのだろうな、その度に、この約束のみことばによって立つことができるだろう。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。(ヨハ14:27)
               








2013年8月23日金曜日

平和の道を知らない

今日は朝から曇り空で午後からは雨になった。夜になっても降ったりやんだりしている。お陰で暑い夏は一服の感があり、暑い夏も一区切りかと思わされている。東京辺りはゲリラ豪雨?で大変のようだがこちらは一息ついている。光に変えて、ついあちらこちらとアクセスしているがそれも一段落して、今ブログを書いている。

メールやブログを書く時は、元々そして今もだが文章を書くのが苦手なので時間がある時でないと書けない。携帯は短い文章でいいのだが逆に変換が面倒なのでこれも苦手である。手紙を含めて文とつくものは苦手である。だからブログなどを書いている。多くのブログは何かを発信しているように見受けるがサルは読める文章を纏める文章をの願いで書いているが簡単ではない。


今週前半は珍しく何かと用があって時間を取れなかったが漸く凌ぎやすい天気もあって時間が取れるようになった。今日の凌ぎやすい一日に、もう猛暑も踏ん張れなくなったかのなとの思いに少しほっとしているとこの8月を振り返ってみたくなった。8月は広島、長崎の原爆投下の記念日があり,その後の終戦記念日がある。そしてお盆があって、何かと区切りのつく月ではないかなと思う。気候だけでなく、暑くなったり冷静になったりしないといけない季節でもあるのかもしれない。

原発事故以来、放射能の問題がクローズアップされている。福島の原発の惨憺たる姿を見ていると事故の解決を思考しているというより国民に何かやっていますよとアピールしているに過ぎないのではないかと素人なりに考えてしまう。根本的ではない。或いは手立てがないのかと思ってしまう。こんな危険なものを安全ですと国も電事連も国民を騙していた事のツケの大きさを思う。こういう危険もありますよと国民に伝えていれば電力会社も国民も心構えは大分違うと思うのだが。それとそのような危険なものを輸出しようとしている事自体信じられない。「トイレのない高級マンション」誰が住むだろうか。汚物を垂れ流して、処理の方法が確立していないなんて唖然とするばかりである。

広島、長崎、終戦の記念日の式典はTVのニュ-スでチラッと観るだけだった。政治家の言葉だけの中身のない文章は聞くだけ無駄である。好き嫌いは別にしてもアメリカの大統領の演説のうまさに感心してしまう。聞くものに訴えかけてくる。それが受け入れられるか否かは別にしても。政治家に限らず日本人はその辺が下手である。そして8月は靖国の問題がある。何故あそこだけに祀らなければならないのか、中国本土,台湾,朝鮮半島の人たちの中には日本人として戦った人もあろうにそれが差別されていることもあるようだ。細かい事情は分からないがどこかメリハリがはっきりしていない。国のために命を奉げたと政治家は言うが奉げたわけではない。命を奪われたのである。命を奪って、年に一回靖国に行って事終われリではまさに英霊は浮かばれないであろう。そのような事が起きない為に政治家として何かしてる?何かしているとしても本質のものではないであろう。

根本にあるのは「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(rom 3:18)。人は何を恐れるかによってその人の生き方が決まる。クリスチャン、ノンクリスチャンに関係なく単純である。色々と言動を通して平和を希求しているようでも「彼らは平和の道を知らない」( rom 3:17)。と言えるかもしれない。イエス様の生き方が「平和の道」を具現している。それは美しくも力強くもない。イザヤ書五三章を通して具現された。基督者もこの道は好まない。しかしここにしかないように思える。お前はと問われた今は答えられない。いつか答えられたらと願っている。

2013年8月22日木曜日

早い

何時か光にと思っていたが今日ようやく光に変えた。ネットの検索をすると早い。お気に入りに入れている一つのブログは映像が多い所為かすぐフリーズしてしまう。そのうち「プラグインshockwaveが応答していません」と出る。今でも出るが前ほどではないので何とか読める。

以前にNTTの代理店の人かよく勧誘の電話がかかってきた。今の家は人が来ると狭いので出来たら引越ししたいなと思っていたので引越ししたら変えると言っていた。何度かかかってきて最後の方ではまだ引っ越しは?と聞かれてまだ目途は立っていないと言ったらそれからはかかって来なくなった。ほっとしていたら何時だったかチャイムがなるので家内が玄関に出て、何やら話をしているので知っている方でも来たのかなと思っていたら家内が戻ってきてNTTの代理店の方だった。代理店というより受託販売会社が正式な名称のようだ。

色々数字を出して勧められたのでそのまま契約する事にした。何時かはと思っていたし暑い中を来られたのでそれに月額は安くなる計算だったがプロパイダーでは光は今の倍近くなる。と言ってもそれ程でもない。昔に比べたら格段に安いのではないだろうか。NTTは光で苦戦しているようだから必死のようだ。契約したのも話をしている中で東京から来たことを話したら「どちらに」と聞かれ、「多摩だよ」と答えたら、「私は杉並」でこちらに転勤で来ていると言ったので、「杉並の何処」、「清水町です」、「あぁ環八の四面道から入ったとこだね」、「よく知ってますね」と話が弾んでしまった。杉並区の施設の仕事を少しやっていたヨシミもあってか契約に何の抵抗もなくあっさりサインしてしまった。後でよく見たら工事代サービスかと思ったらしっかりあって俺もいい加減だなぁとつくづく思った。勿論後悔はしていない。電話ではどうにでも言えるが家まで来られるとこの暑いのに、それに何時かは入れようとしていた光だから。寧ろ遅いくらいだ。年と共にスローモーになっていく中で唯一早くなったものがあって喜んでいる。パソコンの買い替えもう少し延びそう。

2013年8月17日土曜日

花火大会

この時期何処でも花火大会がある。諏訪地区でも毎年15日に上諏訪の「諏訪湖上花火大会」があり、16日には対岸にあたる釜口水門の前で岡谷の「灯篭流しと花火大会」がる。今回は上諏訪の花火大会が豪雨で中止になったが岡谷の方はお天気良く風もあって花火大会にはふさわしいお天気だった。規模は小さいがすぐ目の前で見ることができ、打ち上げ音がお腹に響いてくる。

前日は午後になって激しい雷雨でどうなるか心配していたが夕方になったらやんだので家内の姉夫婦が確保してくれた場所に行き、食事を始めたらポツリポツリと来て、それが激しくなり近くに雨宿りをして始まるのを待つ、始まる頃に少し小降りになったので戻って2,3発上がっているのを見ていたが本格的な雨になってしまったので早々に引き上げた。姉夫婦の家まで歩いて7,8分、傘を差していながら背中から靴の中までびっしょり、そのまま失礼して帰ってシャワーを浴びてすっきりする。帰えり道、道路が川のようになっていて、ワイパーを最速にしても前が良く見えないくらいだった。走りながらこの雨が長く続いたら、ニュースにあるような集中豪雨の災害になるのだろう。後で市の広報で雷雨と川の増水に注意するようにとの放送がなされて、中には床上浸水の家もあったようだ。

花火大会の出来事は東京のキィ局からも放送されていた。事実、鉄道も止まり、高速も通行止めとか。TVで帰れない人たちが駅前などに溢れていた。今年は隅田川も中止になり、福知山では事故がありで主催者や花火師さんにとっては散々の年になったようだ。

15日には体育館の広い駐車場がいっぱいで停められるスペースがあるところは停められてもう停めるスペースはどこにもないほどである。キャンピングカーもあり、至る所に県外ナンバーの車があるのに驚く、去年までは下諏訪の漕艇場近くで見ていたがそこで中年のご夫婦に会って話をしていたら静岡から毎年来ると言っていた。あそこは諏訪湖の対岸にあたるところである。好きな人は好きなんだなぁと変なところで感心したことを思い出した。県外ナンパーの車の多さを見ていると諏訪湖の花火もそれなりに知られているようだ。「たかが花火、されど花火」か。

2013年8月16日金曜日

終戦記念日に思う

昨日は終戦記念日だった。
全く戦争を知らない世代ではないが殆ど知らない。寧ろ朝鮮戦争が小学校の頃に始まったので毎日のように新聞にその状況が載っていた。地図上に対峙している位置が出ていたので、一喜一憂していた事を思い出す。

いつもこの時期になると複雑な気持ちになる。日本人特有のあいまいさが露呈するような気がしてならないからである。広島と長崎に原爆投下された日時に市の広報で案内があり、一分間サイレンが鳴る。今年は初めてサイレンが鳴っている間黙祷した。昨日は正午にサイレンが鳴ったようだが出かけていて気がつかなかった(我が家には市の防災ラジオがあって広報の放送がラジオから流れてくる)。それでもどこか内向きの感がする。外に向けてのメッセージがはっきりしない。

当時長崎市長だっ本島等さんが議会での質問に答えて「天皇にも戦争責任はあると思う」の発言が大きな話題になり、それで右翼に襲撃されるという事件があった。まさに触れてはいけないものに触れたの感がする。ある意味で触れてはいけないものがあってはならない。
しかし、日韓の執拗な日本非難を思うとアメリカがベトナムで行ったことはベトナム国民はどう捉え、アメリカはどう対処したのだろうか。対外国となると外交下手の日本の姿が浮き上がってもくる。

概観を終えて

先日、メリル・C・テニイの新約聖書概観の「初代教会の諸問題」をパソコンにうつし終えた。「福音書」から始まって、「教会の誕生と推移」の中にある「初代教会の記録」を終え、次の「初代教会の諸問題」が終わった。概観には他の部分もあるがこれでジエンド。いま少しづつ変換違いをチェックしている。引用箇所を確認しながらやっていると遅々として進まない。それに買ってある本が幾つかあるのでそれを読んだりしているので更にである。まぁ復習する意味も兼ねているので急がないでやっている。「福音書」と「初代教会の記録」は終えたのだがもう一度チェックしようと思っている。

信仰生活は長いが聖書は受け売りで知識は勿論実もほとんどでない。「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(heb: 6: 1)とあるがまだ初歩を後にするわけにはいかないのである。まして「成熟を目ざして」は論外。お恥ずかしいなんて言葉も出ない。初心に帰って、垢を落とし、「イエス入門」を読んで、スタートである。

「意地悪ばあさん的」発想だが今日のキリスト教界の諸問題はタイトル通りで初期の頃から現代に至るまで変わらないのに驚く、時代は変わっても人の本質は変わっていないということだろうか。
逆に初代教会の問題点を含めて諸々のものを見ていくと答えが見出せるかもしれない。イエス様がどこにあっても中心である。それならブレても戻ることが出来る。それと自分の中にもあるが「主を喜び賛美する」といっても自分の教会の中だけで他の教会の信者と共に喜び賛美できないような固さがある。我が集まりには二つあって、共に交わろうとする姿勢は少ない。ある意味で共有できないということだ。何か大切ものが欠落しているような気がしてならない。

2013年8月15日木曜日

オ・ボーン

昨日からお盆休みになったのか何処となく静かである。お盆に備えて買い物をしているのか昼に西友の前を通ったら何時もより車の数が多かった。それにうなぎを焼いているお店も何時もより多かったなぁ。お盆休みに合わせて、この暑さを凌ぎ、スタミナをつけてこの夏を頑張るためにチョッと贅沢をの発想は・・・。
お盆は先祖の霊が来る唯一の時だから大切にしなければならないのだろう。そのことは分かるが他の時は何処になどと野暮な質問はなし、しかし、良く仏前に報告するというのはその辺の絡みはどうなっているのだろう。お供えも然りである。仏教、神道などは教義は確立しているのだろうがこちらの諏訪大社のいわれを見ても複雑である。少し調べようとしたがこの頭では無理である事を知って早々に諦めた。家内の実家の集落には「洩矢(モリヤ)神社」があり、これが上社に引っ越したと「神長官守矢資料館」の職員が言っていたが「大祝(オオホオリ)」、「御射山(ミサヤマ)」、四月十五日の「御頭祭」、過越しの祭りの近くである。そして神社の裏山には(少し離れているが)「守屋山」がある。興味は尽きないが・・・。
主点をどこにおくかでも見解が違ってくる。地元の人が大切にしているものと余所者であり、基督者であるサルとでは興味の視点が違う。ユダヤ教との関連がよぎる。
時代と共に色々付け足していくような感じを受ける。だから原型が分からなくなってしまう。混交主義なのだろうか。日本の宗教の形態はこのようなものが多いような気がする。日本人の賢さが本質を見失っていく姿に、否、厭いてそれを見ようとしない・・・。日本人の姿このようものなのだろうか。カトリックのマリヤ崇拝なんかも似たようなものか。マリヤに抱かれている幼子イエスは、大人では困るのかもしれない。




2013年8月8日木曜日

ある本を読み終えて、考えたこと

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の冒頭に「大学二年の七月から、翌年のの一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。」の文章を読んでどういう展開になるのだろうと思うと同時に「つくる」とは好対照な状況であるのに何か共感を覚えた。読み進んでいくうちにそれは消えていったが。

同じ年代にサルも同じ様な事を考えていた。当時、オートバイに乗っていて、これで転倒したら多分死ぬだろうと、半分期待しながら乗っていた。その頃はヘルメットは必須ではなかったから頭を打ったら多分駄目になっていただろう。しかし、何度も大きな事故を起こしてもかすり傷一つも負わなかった。あるときは故障で停まっているスバルの軽に追突して、宙返りしながら車の前に尻餅をついたことがあった。前輪は駄目になったがお尻を少し痛めただけだった。人間のからだはこんなにもよく飛ぶのかなと感心した事を半世紀経った今でもよく覚えている。何度か事故を起こして、「俺は死ねない」生きる算段をしなくてはと思った。そんな時にカトリックのラジオ放送を知り、ある時駅前で一枚のチラシが外人が配っていたので興味半分貰ったらこれがキリスト教のチラシだった。生きがいを求めての信仰だった。産後の肥立ちは至って悪くて今もそれを引きずっている。大人になれないキリスト者なのである。

「色彩を持たない…」の言葉を「つくる」の姿を見て、生活はある種の優雅さがあって、どちらかというと同世代からうらやましい生活をしている設定だが彼には名前だけでなく、いい意味でも悪い意味でも確かに色がない。男としてのギラットしたものもナヨットしたものも、それは年上の恋人という設定もそして彼女に促されて行動している事もそれを裏付けているような気がする。それは友達としてはいいかもしれないが夫としてはふさわしくないというかうまくいかないような予感を与えている。だからか明日彼女に会うという日で終わっている。「彼の巡礼の年」とあるがこの巡礼は終わっていないし、彼の生き方を変えない限り、巡礼は続くけなければならないだろう。リッチなように見える生活が更に色のない「つくる」を浮かび上がらせている。

2013年8月7日水曜日

ある本を読み終えて

図書館に予約して2ヶ月待ってようやく借りることが出来た村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んでいるというか読み終えた。ちょぼちょぼ読もうと読んでいたが昨夜というか今朝というか夜中に目がさめて、眠くなるまでと読み始めたらつい最後まで読んでしまった。

上村春樹と村上春樹を間違いるほどであるからのファンではない。ただ話題になっているので興味をもって借りて読んでいるだけである。サルは「何だこのふざけたタイトルは」であり、どこか荒唐無稽さを感じてしまう位の認識しか持ち合わせていない。小説が通り一遍でなく、色々と複線が張ってあるのが謎解きのように、「あぁこれはこの事だったのか」と読み進んでいくうちに分かってきて全体が見えてくる。

村上春樹の作品は彼自身を良く知らないと良くわからないのではないだろうか。そこに隠されているものが分かったら更に面白いものになるのだろう。荒唐無稽に隠されているものがある?
たまに話題になっている小説を図書館で予約して読んでいると聖書関係の本は簡単なようでなんで読みづらいのだろうと思ってしまう。翻訳本が多いからかなぁ。正しいかどうか疑問だが翻訳本を読んでいると原語が分かるなら原語から読んだらもっと分かりやすいのではと思うときがある。唯一理解で来る日本語、その読解力の欠乏している者のつぶやきであるが。

2013年8月3日土曜日

話を準備する中で

聖書をそのまま神のことばとして受け入れている中にいると聖書の言葉がパターン化していることに気付かされる。或いは自分だけの事であるのかもしれない。多分そうだろう。今回も、

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(gen 2: 7)

このことばを一くくりに理解していた。しかし、「土地のちりで人を形造り」と「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」と「そこで人は生きものとなった」の三つに分かれる。最初は他の動物と同じであるgen 2:19。(この三つは時間差はないのかもしれないが最初のところでは動物と同じ様に生きることが出来たはずだ)。次は動物と違うところである。その結果初めて生きる者(共同訳)となった。動物は最初のところで生き物となった。人は「いのちの息」を吹き込まれて生きる者となった。

神は人をご自身のかたちとして創造された」(gen 1:27)ということはこういうことだったのかと納得した。

そして「神は愛です」(1john4:16)とあるように人は愛するものとなった。しかしそこに深い煩悶が生まれたのも事実である。まさに愛がある故に・・・ 




2013年8月2日金曜日

語るに落ちる?

麻生さんが今話題になっている。
今の世の中でナチスのナの字をいうことは良い事であれ悪い事であれ禁句である。田舎の年寄りでも知っている事を内輪の会で、それに聴衆の笑いを聞いていて何という連中だと思った。一流といわれるジャーナリストが主宰されたそうだが学のないサルでも唖然としてしまった。

まぁあっけらかんと本音を語るあたりはさすが麻生さんだと思った。いつかチョンボすると思ったがこんなに早くやるとは…。アベノミックスが心配だ。鳩山さんもそうだがお坊ちゃまとはこういうものなのだろうな。まぁ形は違うが民主党の何とか大臣だった人といい勝負だ。それでも麻生さん頑張って~。