2014年3月22日土曜日

聖書通読

2kgs 5: 1

アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。

一年で聖書の旧新を読み終える聖書通読は年を取ってからは無理なので数年前からそれこそ一日一章で遅々と進まない聖書通読だった。今年は一日一章読んでも頭に入らないなら全体の流れがわかるように一年で読み終える一日四章にチャレンジしている。

エクセルで各巻の章を打ち込み巻をかさねるごとにそれを足していく、それと各月の日を出してそれを足していく、そうするとどのくらいの進み具合がわかる。今は第二列王記を読んでいるから順調である。ただこれはサーっと読むから流れは分かっていてもじっくり味わうという風にはいかない。悪い癖の斜め読みなることも多々ではないが少々ある。出エジプト記の神殿の寸法などはまさにそうである。わが知力と信仰では具体的な神殿の建物のイメージがわかない。知力の欠如と建築には疎いということで納得させている。それと第一歴代誌の最初は系図の羅列でこれも苦手である。

それでも今まで読み過ごしていた箇所にフッと立ち止って新しく教えられることもある。目からうろこほどではないが何か新しい発見をしたような喜びを感じる。若い時は若いなりに教えられ、年を取ったらとったでそこで教えられるものもある。うれしいことである。聖書の解釈が正しいかどうかは別問題であるが。

聖書を読んでいてこの人がどのような人物かを紹介するのに一節か二節で紹介しているのもあれば、最初と最後に分けて紹介している場合もある。アラムの将軍ナアマンや取税人ザアカイなどは前者で金持ちの役人などは後者である。
今第二列王記を読み終えてナアマンのことを考えている。エリシャは不思議な預言者?である故に
か異邦人であるナアマンが登場している。ツァラアトに侵されていながら王に重んじられ、尊敬されているとはナアマンは軍人としても人間的にも優れた人物であると思わされる。それに奴隷に過ぎない少女の言葉を信じて夫に進言する奥方も偉い、彼女の言動に女主人を動かす何かかがあったのだろうか。またエリシャがナアマンにヨルダン川に七たび浸かるように言われたとき彼は怒って帰ろうとしたときにそれを止めた部下たちも偉い。ヨセフを買い取ったポティファルとは好対照である。飛躍するが世的と言われるかもしれないけど世の中の人に尊敬されるようなキリスト者になることは大切ではないだろうか。彼方だな~ぁ。





2014年3月21日金曜日

愛する人々へ

この題はニ-チェが母親と妹にあてた書簡集である。この本を図書館で借りて読んでいる。1951年に出版されているからもう半世紀以上の前のものである。紙は茶色に変色している。福翁自伝を読む前は同じ日本人である諭吉を一万円札の顔と義塾の創設者くらいの認識しかなかった。ましてやニーチェなどはさらにである。キリスト者になってから名前と写真位は知っていたが写真で見る鋭い目にキリスト教に反対し晩年は精神的な病気に罹って亡くなった位である。キリスト教に反対していたからその結果だなどと誤った認識をして納得していた。

ネット見ると色々書かれているが実際どうなのだろう。本を読んでいると彼の別な一面が見えてくるような気がする。少なくとも以前のような否定的な捉え方はできなくなった。学生時代は成績優秀で勉強だけではなく、深く音楽を愛しているのがよくわかる。楽器も扱えるようだ。音楽を愛するということは人間的にも何か優れたものを見るような気がする。それに文面から母親に対する態度は謙虚である。後半は妹に宛てた手紙が多くなっている。その手紙を読むと妹思いのお兄さんという感じがピッタリであり、信頼を置いている様子がうかがえる。どこにでもいる妹を特別な思いで見ている兄の姿がある。こんなニーチェを否定的な発想で捉えていいのか疑問に思う。若くして大学教授になったが教授時代の後半は頭通と目に悩まされていたようだ。本の最後の説明によれば長年にわたる精神的肉体的な過労と睡眠剤の常用が直接の動機となったような書き方をしている。そうであることを願う。

ボンへファーの婚約者との書簡集を読んだことがあるがそれほど感じなかったがこの本はニーチェに対しての偏見を持っていた所為か少し考えさせられた。そして晩年の彼の苦しみが少し理解できるような思いがする。彼のことを肯定的にもう少し知りたい。しかし、気力、体力、知力とオールナッシングだから無理かな?

2014年3月19日水曜日

震災を覚える祈り

震災を覚える祈り

神よ、
震災を経験した私たち
すべての思いを
受けとめてください。

私たちの痛みを、
私たちの悲しみを、
私たちのうめきを、
そして
私たちの怒りさえも、

月日が経ち、
私たちは恐れ、
惑い、動揺したことを
忘れ始めています。

あの大きな地震の揺れを、
あの巨大な津波の光景を、
そして目に見えない放射能の
影響を記憶にとどめ、
後世に正しく伝えて行けますように。

多くのものを
失った方々がいます。

家を失い、家族を失い、
ふるさとを失い、
思い出とともに
未来への希望も失いました。
しかし、神よ、
あなたは試練とともに逃れる
道を備えてくださることを、
万事を益としてくださることを
約束してくださっています。

仮設住宅や避難先などで
生活している方々、また、
その方々とともに歩んでいる
人々に力を与えてください。

神よ、
私たちはあなたを信じ、
信頼します。

あなたは必ずや、
痛みを安らぎに、
悲しみを喜びに、
うめきを笑いに、
そして怒りを愛に
変えてくださいます。

さらに、私は希望します。
どうか、私たちを、
災害や戦火で苦しむ世界中の
人々のための慰め、励ましの
器としてお用いください。
主のみ名によって。

アーメン


茨城キリスト教大学で毎日祈られている祈り。
(3/6の関根一夫牧師の礼拝メッセージより)

2014年3月12日水曜日

三寒四温

最近ポツリポツリと自転車に乗るようになった。それは暖かくなったということだ。昨日もといっても今は〇時を少し回ったところだが図書館に行くのに自転車で行った。風が通るようなフリースを着て行ったので少し寒かったがマフラーをしていったのでその辺は助かった。この間は役場とすぐ近くの中電へ、そこから図書のカードの読み取り部分が剥げてきたので再発行は届け出の図書館でと言われ岡谷の図書館まで行った。あちらブラブラこちらブラブラと13.5キロ余りの旅、超久しぶりの自転車でお尻が痛くなってしまった。

引っ越してここは二重窓でない所為か寒い。それにダイニングは暗い。日中でも明かりをつけたりしている。だから私の部屋になるはずの南側の板の間は明るくてどちらかというと暖かいので人とTVと炬燵が引っ越して居間にしている。ダイニングは家内が料理作るときと食事のときだけ、朝食も炬燵で食べている。その後TVは見ずに二人で別々だが聖書を読むがその前に起きたらダイニングの温度と居間の温度をチェックして、もちろんファンヒーターをオンにする。今朝は3度だったが最近は5-6度が多い。それから炬燵に入って日記を書く、前日のを思い出しながらである。あまり動いてないので書くことがないから数行で終わってしまう。それに最近は忘却という言葉が生き生きと生きてきている。「忘却とは忘れ去ることなり、忘却を忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」と書いてピンと来る人は相当な年齢でサルの前の世代の人である。以前は貧しさがヒルのように離れなかったが今はそれに加えて忘却が纏わりつき始めた。キリスト者であるから邪険にできないつらさもある。こんなことを書くのも暖かくなった証拠である。

2014年3月11日火曜日

二種類の悲しみ

3.11、震災から三年たった。今日は各局特番を組んで放送している。あの時は遠い信州にいて揺れさい気が付かなかった。ニュースで漁港の荷上場に少しづつ水かさが上がってくるのを見て、それほどでもないのかなと思ったらどのくらい時間がたっていただろうか次に見たときは田畑?を燎原の火のごとくすべてをなぎ倒し、川を逆流して行く様に唖然としてしまった。そしてあの結果である。

昨日のニュースで石巻の大川小学校の亡くなられた児童23名の遺族の方が訴訟を起こされた。哀しいニュースであるがそれよりも行方不明を含め児童74名、教職員10名が亡くなられたということがもっと悲しい。助かる命がと思うと胸が詰まる。
群大の片田教授の講演会を市のホールで聴く、先生が指導していた釜石の小学校は全員無事、整然と避難する子ら、その姿に安閑としていた大人たちがつられて避難して助かった。高学年の子供たちが低学年の子供たちをサポートしながらの避難である。先生が提唱している「想定にとらわれるな、最善を尽くせ、率先避難者たれ」の避難三原則を彼らは実行した。大川小学校でもこのような指導を受けていたらと思うと残念である。

傍観者のようなサルでも悲しみを覚えるから亡くなられた遺族の悲しみに加えて何倍も何十倍の悲しみがある。しかしTVの特集を見ていてこの悲しみに二種類の悲しみがあることがわかった。それは被災者でも震災と原発の二つである。そして原発には憤りをも感じる。今あるいのちが脅かされている。それを守ろうとする姿は遠い信州からでは見えない。住み慣れた緑や豊かな大地を目の前にしてその土地を捨てなければならない住民の苦悩はいかばかりであろうか。悠々自適に暮らせるほどの保証をしてくればまだどこか納得するかもしれない。しかし住民は離れ難い地を捨てざるを得ず国は住民を捨てている図式を見る。現代の足尾鉱毒事件である。国も政治家も何一つ変わっていない。「戦後レジュームからの脱却」?「戦前から引きずっているものからの脱却」では?神が与えたチャンスを顧みることのなかったイスラエルの民とダブる。サルのできるのは「い・の・り」、東北の人たちの忍耐と頑張りに励まされながら。

2014年3月6日木曜日

福翁自伝

慶応義塾の創設者で一万円札の顔くらいの認識しかない福沢諭吉の自伝である福翁自伝なるものを読んだ。自伝であるから生い立ちに始まって11の表題があってその表題ごとに短く区切った小見出しがあり、短くて読みやすく理解しやすい。小見出しごとに名前とか出来事とかの説明が小見出しの最後に書かれているからわかりやすい。一般的には本の最後のほうにまとめて書かれているから一々面倒だがこれはすぐ読めるからすこぶる便利である。

口述筆記(後で本人が加筆訂正)のようである。彼を全く知らなかったから彼の人となりを知ることができた。明治時代に活躍したキリスト者もそうだったが彼も下級武士の出身でその悲哀を経験しているようである。お父さんを早く亡くし、お兄さんも若くして亡くなっている。そしてお母さんは身分制度のはっきりしている時代に分け隔てなく付き合っていたようで中津では女の乞食の虱を取ってあげていたそうだ虱をつぶすのを手伝わされたが嫌でたまらなかったと書いている。でもこのお母さんの姿は彼の生き方に大きな影響を与えたのではないだろうか。小さいときは腕白らしくと言っても兄弟げんかはしたことがない。それに本を読み始めたのは14-5歳の頃とか周りに比べたらだいぶ遅い。中学生が小学生の中で勉強しているようでちょっと気恥ずかしかったようだ。しかし意味を理解するのには長けていたようで時には先生を超えていることもあったとか。

長崎遊学、大阪修業、緒方洪庵塾でお世話になり、そして江戸へ蘭学から英学へと変わっていく、幕府初めての使節、咸臨丸でのアメリカへ人がしり込みするような状況の中でその随員にと頼み込んで同行いる。後に使節として依頼されて渡欧もしている。この時には400両貰って100両をお母さんにあげて親孝行をした。アメリカでもヨーロッパでも大量の本を買ってきている。色々誘いがあった政界には興味を示さず。もし政界で活躍したら大きな働きをしたと思う。一市井人として生きた人だが政財界をはじめ皇族の中にも多くの知己を得ている。

幕末から明治の中に生きて身の危険を感じるときもあったようでその中で我が道を行くことは余程の識見がないとできないことだろう。体制と人が変わっても攘夷という狭い考えに固執した時の政治を見ると豊臣、徳川が日本をダメしたその延長にいるような気がする。戦後世界に目を向けた日本をまた内向きの日本にしようとしている姿を見ると残念というより悲しい。日本の繁栄を願っての行動だろうがそれは滅びの世界に踏み出す一歩である。彼のような広い視野に立って政治なりをやっていたら日本もだいぶ変わったかもしれない。でもいざやるとなると周りは動かず思うようにできないかもしれない。在野だから言えることもある。そのような世界に見切りをつけて人を育てることにまい進したのは正解かもしれない。新潟の郊外に敬和学園というキリスト教主義の高校がある。初代校長の太田俊雄さんが大阪でアメリカ軍が学校を軍に徴用されていたとき雇った通訳が下手でその期間通訳をしたそうだ。そのとき高い給料を払うから通訳を依頼されたが高くても子供の教育が大切だと断った。彼らは教育はそんなにいいのかなぁと言われたとか本に書いている。それと戦後キリスト者で学校を起こした人がいる。教育って最も意義のあるものかもしれない。その対極にいるサルから見てもそう思う。東大の戦後初の学長であった南原繁も教育に情熱を注いだ一人でもあるようだ。教育基本法に深く関わった人ではないだろうか。

信州では小諸義塾の木村熊二、研成義塾の井口喜源治が有名だが期間は短かった。そういう意味で今も続いている福沢の慶應義塾はすごいなぁと思った。読んでいて福沢諭吉の偉大さを知り、一万円札で続いている顔の意味が分かるような気がした。学問のすすめも買ってあるがもう少し暇なになったら読もうどんな印象を受けるか楽しみでもある。







 




彼の業績や遺志が今の大学にどのように生かされているか

大人のおもちゃ

パソコンがXPなのでその内に買え替えないと思っていたがそのままになっていた。先月の始めプリンターのインクがなくなったのでイデオンに買いに行った時に店員に8の特価品はないかと尋ねたらソニーのが一台あった。そのままにして2-3日か経って行ったらもう現品しかないとのことさらに安くなるかと尋ねたらならないとのことであきらめて帰りかけたら他の店にあるか確認してくれて一台あるとのことで予約をして帰ってきた。2-3日かると言われたが翌日電話があり早速取りに行ったが話の準備などもありそのまま手付かずに置いていた。

何日か置いて開梱して分厚い説明書を期待したら薄い説明書とプロダクトキーのナンバーが入っている紙のカードのみ、詳しいのはPC本体に入っている。最初のセットアップがわからず全くギブアップ、あきらめかけていたが気を取り直してやっていくうちに少しづつできるようになってきた。と言ってもわかってできたというよりいじっているうちに形になったというほうが正解、だからそのプロセスがわかっているわけではない。8とその後8.1の本を買ってきて読みながら一つ一つ牛歩のごとく覚えていく、今もその進行形である。パソコンに限らないのだろうがわからないとその先に進めない。セッテングでプロパイダーにメールしたり、移し替える為にソフト会社にメールしたりしている。こんなのはまだいいほうで最初は電源SWはボタンがあるからわかったがオフがわからず電源SWで取り敢えず切っていた。多少でもパソコンのわかる人が見たら唖然とするような驚きを与えるだろう。それは信仰も然りであることがわかるから何事も右習いなのでる。

XPで十分なのであるが買え変えざる得なくて買ったが難しいのはもちろん、便利なのところもあり、それはそれでいいなぁと思う。ただフルはもちろんのことどれだけ使いこなせるかが力量のバロメーターである。オートバイにはもう乗れないと思うが乗れてもせいぜいスーパーカブくらいなのにハーレーを乗る羽目になったような感じである。そしてカブで十分なのであるが250㏄位に乗れたらなぁと思わないでもない。2-3割できればいいのだろうが半分否7‐8割り方できるようになれたらと思っている。これがあると便利であるが無いと生活できないわけではない。エネルギーと時間を使い、四苦八苦してそれでも投げ出さないのを見ると何かこれは大人のおもちゃだなぁと思ってしまう。