2014年6月27日金曜日

人を裁くな

matt 7: 1-2
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

この前に「日々、謙遜と感謝」と書いた。それを成すにはこのみことばは大切である。知識や経験が増えてくると自分なりの形が出来上がってくる。それに合致すればいいがしないと批判が頭をもたげてくる。それが正しければいいが概して独りよがり的なところがある。たとえ正しいものであっても気をつけないといけない。一旦受け入れ咀嚼してから事を進めなければいけないと思っている。思っているということはやっていることではないから難しい。サルはキャパが小さいからすぐパニックになる。そして否定的になるのである。この聖書のことばをよく知り、実践すべきだと思っているが現実に遭遇したら多分逆の結果が出るだろうなとも思っている。だからそれを防ぐために謙遜でなければならい。謙遜になるには失敗も自分の中に欠けているものを見い出しても失望落胆するのではなくそれを示してくださった主に感謝することであると思っている。思っているということは実践とはちょっとギャップがある。ちょっとで済むかは疑問であるが。キャパが小さいということはすぐ人を物事を裁いてしまうきらいがある。前にも書いたが昔電気屋に勤めていた時、お客さんが店の名前で呼び捨てにする人、さん付けそしてくれる人、サルの名前を言う人と色々だった。私が変わるわけではなく、お客さんの資質がそこに見えるのである。サルの名前をさん付けで呼ぶ必要はない。呼び捨てで結構なのであるがさん付けで呼んでくださるお客さんが偉いのである。自分を義とすることは福音書に登場する宗教指導者が見本を示してくれているしサルも実践している。しかし義は主の御手に委ねてと思っているが…。



見えるということ



john: 9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
9章は生まれつき目が見えなかった人がイエス様によって見えるようになった出来事で費やしている。この盲人の癒しが安息日であったが故である。多分、癒されて日が安息日でなかったら問題にはならなかったであろう。
ここでもイエス様特有の皮肉がある。言葉で指摘するのではなく現実の出来事をとして指摘されると誰にでも問題の本質がわかってくる。
若いときに聞いた話であるが何か雑談をしていた時にか誰かが急に祈り始めたそんな状況だったと思う。そのとき一人の婦人は慌てて頭に手を置いたと、そんなことを聞いたことがある。
1cor:11:10
ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
私たちの集まりは、このみことばを実践しているからよくわかる。もう一つ同じ若いときに、祈り会に教会に集っていた姉妹が来られた。一般の教会では当たり前のことなので彼女も祈った。同じグループなのでどきまぎしたことを思い出す。それは、
1cor:14:34
教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。
この言葉を実践して、姉妹は公では祈りさえしない。以前いた集会は祈り会を兄弟と姉妹に分かれて祈っている。今いるところは小さな集会なので祈り会なるものはないができれば以前いた集会と同じようなやり方をするであろう。形が出来上がるとそれを壊すのは至難の業である。しかし、パウロの言うように肉を食べるか食べないかは本質ではなく、信仰を持ってやっていることを批判すべきではないと思っている。今は被り物がなかったらそのまま祈りに合わせればいいし、姉妹が祈ったら同じように姉妹の祈りに合わせればいいと思っている。しかしそのようなことはあれから遭遇していないので現実に起きたらどきまぎするかもしれない。

何かを守るというときそれは形の上での出来事がほとんどのような気がする。そしてそれは楽なことである。イエス様はその逆の行き方をした。形はどうであっても本質を大切にした。盲人にとって目が見えるということは何物にも代え難いものである。それはただ見えるというだけではない。彼は罪びととして群れに参加できなかった。これは村八分のようなも耐え難いものであろう。イエス様はこの二つの問題を解決してくださった。宗教指導ががたがた言うのを承知で、そして彼らが彼らの伝統を守るということで盲人の幸を何一つ考えていないことが暴露された。それは彼らの真実の姿が「罪が残る」ということばに表されている。それは、
john 3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ここにあるとどまるということと同じなのである。まぁ言うなればヒルのように罪が食いついて離れていないということだ。たかがヒル、しかしこれが命取りになる。恐ろしいことである。

形にとらわれていると本質が見えないことがある。「見える。わかっている」というときにその先はない。日々、謙遜と感謝をもって歩めるようにと願い祈っている。

聖句はhttp://www.tuins.ac.jp/~takao/biblesearch_s.htmlから引用





2014年6月25日水曜日

聖書を読みながら

聖書通読にチャレンジして今ロマ書を読み始めた。この調子だと7月くらいには読み終えるのかなとそうしたらもう一度新約をと思っている。時には字面を追うような日も無きにしも非ずでひたすら前へ前へのみである。だからと言って多くの時間を使っているわけではない。読むのに努力する個所もあり、滅多にないが思わず読み進み時間を忘れることもある。

パウロ書簡を読み始めて素朴な疑問がわいてきた。パウロは何でイエス様のことをあぁも細かく書き表すことができたのだろうかと思ったりいている。弟子たちが書くのならまだわかるがパウロは復活したイエス様にしか会っていない。ピリピ書2章などはその最たるものである。聖霊と言われると次の言葉が出てこないがそれだけではないような気がしている。

もうひとつ私たちには主権がないがすべてのものを選ぶという意味では主権を持っている。大きな意味でイエス様の救いを受けるか受けないかは人の側に選択権がある。神の側にはない。この選びで救いを取ったとすると特権にならないだろうかと思う。「受ける」とならば問題はないが「取る」ということは自分の主権を行使したようなものそこにおごりが生じるような気がする。その典型が福音書に出てくる律法学者やパリサイ人である。そして現代の律法学者パリサイ人に最も近い人たちはと言えば…である。「知識はを高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」のことばが響く、

micah: 6: 8
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。
matt:10:42
わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら

小さい者を探すのは難しいが探して水一杯をやれるように努力したい。頑張ってできるものではないが。

2014年6月23日月曜日

流石が100円ショップ品

近くの100円ショップにファイルを立てるケースを買いに行った時に他の物を見ていたら剪定鋏が100円で売っていた。ロックもついていて如何にも切れそうな感じがしたので思わす買ってしまった。試しに新しく出てきた枝を切ったら実によく切れる。もうけものをしたと喜んでいた。しかし、義姉の家の剪定に行った時にもみじを切っていた。太いのをのこぎりで切り、小指位の枝は剪定鋏で切っていた。太いと少し力を入れないと切れないがそれでも何とか切れている。段々切れなくなったなぁと思いながら昼になり昼食をとる。休憩していざ仕事にかかろうとしてふと鋏を見たら片側の歯がめくれている。切れにくくなったのはめくれて歯と歯の間に隙間ができた所為であることがわかった。めくれたのを直し切ってみるとまたよく切れる。しかし太いのはダメで鉛筆くらいまでである。多分片側の歯は焼きが入れてもう片一方は焼きを入れてないみたいだ。剪定鋏の歯に焼きを入れないなんてと思った。紙を切るのじゃないのだから生焼きでもいいから焼きくらい入れておけよと思った。まぁ見かけは良かったし細い枝はよく切れたし文句を言ったら・・・。めくれた歯を見て苦笑いしながら「流石100円ショップだ」と思った。しかし使い方さえ限定すれば結構使えるものである。なんか自分の信仰を見るようでもある。使うのは主だが鈍の歯では使ってもらいないかもしれない。歯を研いでもダメ焼きを入れなければ、焼きが…焼きか難しいなぁ。

2014年6月18日水曜日

ノア 約束の舟

ネットで映画「ノア」の広告を目にして、調べたら最近公開される映画であることがわかった。地元の映画館もシネコンになっている所為か他のところと同じように同時公開される。公開日が「13日の金曜日」思わず苦笑いしてしまった。聖書を読んでいる者としてあそこをどういう風に表現するのか勿論聖書を忠実になんては思ってはいない。どれだけ人間のわざがどのように入るのだろうかくらいかな、そんな思いで家内と観てきた。161人が入るところにたったの10何人、大体こんなものなのだろう。フイルムだと大変だろうがデジタルだから何とかなるのだろう。

観終えて何と表現していいかわからなかった。製作者の意図が読めない。親聖書的なのか反聖書的なのか?服装は現代風であるがそれは良しとして、聖書に登場する人物もノアをはじめ息子たちもわかる。トバル・カインも、しかし何故彼がノアの箱舟の中におり、最後までいるのかカインの末裔だから?あるいはノアと対極にいるグループだから?わからん。

ノアを祝福するために箱舟を造ったのにあそこでは神の呪いになっている。そして家族の葛藤もフイクション?とはいえ中途半端な感じがした。箱舟を造る時の岩のような人形のようなものは何だろう。天使?まさか神?もしそうならオチョクッタものだ。映像も音響も迫力があったが内容が何となくお粗末というほかない。キリスト者と自称している人でも奇蹟は信じていないからノアの箱舟伝説といってもおかしくないかもしれないが伝説かぁと思ってしまった。聖書をあまりよく知られていない日本で聖書をどう理解するだろうかと思うと疑問である。藤村操ではないが「聖書は不可解である」で終わりそう。箱舟を造り始める前に眠くなって寝てしまった。それだけ緊張してみるようなものではなかったのかもしれない。まぁいいとも悪いとも言えようのない不思議な映画であった。

自生のフキを

夕食にフキの煮物とフキの葉の佃煮が出され、家内が「どう」と味を聞かれたので「少し苦みがあるね」と言ったら、これは裏でとれたものだと言われ、そういえば小さなフキが生えていた。小さいときは庭の端っこにフキと茗荷が群生していて季節になると母がそれを取ってきて料理をしてくれたことを思い出しなんとなく懐かしさを覚えた。フキも茗荷も特別おいしいというわけではないがなんとなく懐かしく思えるからか好きな食べ物でもある。それとお隣さんの茗荷が岩の間から何本か生えてきていて今年はダメだろうが来年はと期待している。茗荷は移動するように繁殖していくからどうなることかわからないが狭い裏に何個でもいいから茗荷ができるとうれしい。それと春一番に咲くふきのとうとフキは同じであることを家内から教えられ初めて知った。今まで別なものと思っていた。自生のふきのお蔭て一つ利口になった。

2014年6月17日火曜日

二羽の雀

前にも書いたのだが「聖書教理がわかる94章」なるものをパソコンに入れている。ブラインドタッチの練習も兼ねているので、こちらは気持ちなしか進歩しているかなと思っている。しかし、これはやらないとすぐ戻ってしまうので安心はできない。引用されている聖句を聖書を開いて読んでいるから遅々たるものでまだ24章、ちょうど四分の一くらいかな急いでいるわけではないのであまり気にしていない。軒下に雀の巣があることは前に書いた。気が付いたら鳴き声が聞こえなくなったからもう巣立ったのかなと思っていたら最近また声が聞こえるようになった。巣を中心に声と姿を見かける。それも二羽である。今朝もパソコンを打っていると割と大きい声で鳴いている。そうっと窓越しに見ると二羽が巣の近くと窓の庇に止まって鳴いている。たえずキョロキョロしながらちょこちょこと動いている。落ち着きがない。直線距離で2m位かな表情がよくわかる。動くと逃げると思い、そうっと体をずらして二羽を見ている。まだ気が付かないと見えて飛び立つ様子はない。アッシジのフランチェスコは小鳥と話せたとか何かで読んだことがあるが話せなくともすぐ近くに小鳥がいる風景は気持ちいい。フランチェスコのフラくらいの気持ちになる。イザヤ書65章の世界をふっと思い出した。そんな時代になったらどんなに人生?は楽しいだろうなと思っている。キリスト者でありながら否定的発想が根底にあるから何かあるとすぐここに戻ってしまう。それで苦労し、中身のないのとでダブル苦労している。それゆえ「主よ来てください」とそんな時を期待している。

2014年6月12日木曜日

バラ祭りへ

雑用が多くてあまり出かけることも少ないので家内サービスもあってサクラで有名な高遠城址公園の近くにある「しんわの丘ローズガーデン」なるところにバラ見物に行ってきた。歴史に疎いサルはサクラ見物に来て初めて知ったのであるが高遠城は絵島幽閉の地であることの方が有名かもしれない。久しぶりの高遠町、途中迷いそうになりながら何とかたどり着く、ループ状の道路を上がりきった手前を左折してさらに上がったところにあった。

信州ではよく見かけるがここも祭りの期間中は地元かボランティアかはたまた保存会の面々か案内したり、売店をやっていたりしている。入園料ではなく、協力金という名目で200円払う。ウィークデイの所為か年配の夫婦やグループがほとんどでかなりの人が来ていた。土日は相当込みそうな感じである。そういえば下の方に臨時駐車場がありそこからシャトルバスが走っている。観光バス用の駐車場もあるから結構人気があるのだなぁと思った。山の中腹にあるからかなり下まで下りる。下まで下りたら上がること考えたら一瞬どうしようかと思ってしまった。そんな年になったのである。

バラの種類の多さに驚くとともにバラはどことなく華やかである。大小色々、まさに色も色々、よく見るとこう配したりして新しいものも作られているようだ。手入れしているようだが枯れかけた花はきれいではない。これが気になる。サクラだと木全体に咲き、散れば下は白一色なる。だからサクラは好きだが他の花は枯れかけた花の姿をあまり見たくないのでそんなことを考えてしまった。元々愛でる心は少ないから花より団子の口である。ゆっくり見物してそんなに時間はかからなかったから特製アイスを食べながら休憩して下におりる。案内の係りの方にどこの蕎麦屋さんがおいしか聞いて高遠の町へ、紹介された蔵を改造したそば屋さんに入りそこで食べる。細麺を注文したがまぁまぁ、タレが二つあって従来のと大根のおろしつゆに特製味噌を入れて食べるようになっている。味噌を溶かしているうちにおそばが来て早速食べるがこれが中々グーである。でも先日食べたそばの方がおいしい感じがした。麺が細すぎた所為かなぁ。

帰りは茅野に行く道を選んだ。そういえば昔のお客さんがお父さんの実家が伊那で茅野から杖突峠を通って行くようなことを言われたことを思い出した。もう一つそういえばこの道は杖突街道と言って浜松の方へとつながっている。そして途中途切れているのである。そのまた途中は車が一台がやっとという狭いところがあり、向こうから車が来たらどうするかという道なのである。これが国道であることに驚く、新潟は田中角栄のお蔭か道だけは立派である。高遠から茅野まではそれなりの道である。山の中を走るような道であるが途切れ途切れに集落が茅野市の境の峠近くまで続く、信州は山々だらけ昔の人はどうやって生活していたのだろうかと思わせるところが少なくない。少しおりかけたところに茶屋があって無料の展望台になっている。左側に諏訪湖そしてその先に岡谷市街と塩嶺峠方面が見える。その手前に上諏訪の温泉街、眼下にインター、その先に茅野市街、右手は茅野と原村の畑が区切られたように整然と見える。残念ながら富士見は木の陰で見えなかった。ここが見えると原村、富士見町が八ヶ岳の裾野のように広がって湖周と違った風情を醸し出している。特急かおもちゃの電車のように走っているのが見える。バラ祭りに行ったのにそのことは少々で他のことが多くなってしまった。

2014年6月11日水曜日

「放蕩」する神

軽井沢でのシニア・キャンプに参加して、その売店にあった一冊の本が上記の題の題名である。へそ曲がりだから変わった題名だとすぐ飛びついてしまう。それに薄くて読みやすそうだった所為もある。内容はルカの福音書15章の「放蕩息子のたとえ」を題材にして書かれていた。

この箇所は放蕩する弟息子を中心に語られているように見えるから「放蕩息子のたとえ」と呼ばれるところである。言葉としてもよく使われて、以前に二人の息子も「俺は放蕩息子だ」と言ってはばからなかった。言われて「放蕩息子は必ず帰って来るんだぜ」と言うと沈黙する。どうも神から離れていることを知っていても帰るつもりはないらしい。こういう使い方もある。メッセ―ジなどでもどちらかというと弟の方にピントを合わせがちで、ともするとパターン化してしまう。わかりやすいが時として本質を見間違うことがある。福音も然りである。

著者はここを「失われた二人の息子」と呼ぶほうが妥当だと書いている。兄は弟と対極にあるように見えるが父の思いを理解できないという点では同じである。

今年の初めにある信者の方に「クリスチャンは上から目線で物を見ている」と言われてハッとしたことがあった。イエス様のことを語りながら兄目線で語られることがある。どこか自分の中に形が整えれば良しをするところがあり、兄の内面を問わずに外見を見て良しとする。弟のような場合も内面を問わず外見を見て裁くきらいがある。そこに自らを義とするパリサイ的発想があることを思う。神の義を求めても神の愛が欠落しているのを見る。信じながらもこのような体たらくである。このような者に主はいのちを注いでくださった。以前息子に「人は、この人はダメですと簡単に切り捨てることができても親は切り捨てることができない。」と、そんなことを言ったことがあった。神がそうだから親もそうなのである。私たちを切り捨てられない神、イエス様のわざを思うと払った犠牲の大きさとそれにも答えない人々の反応、著者が放蕩(浪費)する神と言われたことがよくわかる。だからこそ兄も弟も我が姿であるを知り、見習うべきは父の姿であることを知る。パターン化した福音ではなく、複眼的な福音に生きるべきである。

2014年6月8日日曜日

実に便利

パソコンを新しくしてタッチパッドを使っていた。以前のものと違い平面の上に押す場所によって機能が違い、すっきりして見てくれもいい。しかし、タッチパッドに手が触ると文章などを打っていると変なところに飛んでいく、それに手が触ると画面が大きくなったり小さくなったりする。それを防ぐために文章を打つときはタッチパッドのところに厚紙を載せてやっていた。他の時は外して、乗せたり外したりと面倒この上もない。使えきれれば便利なのだろうが使いきれないから逆に不便である。ちょっと大袈裟であるがスーバーカブで十分なのにハーレーダビットソンをあてがわれたような感じである(オートバイに未練があって拘るが)。他の用で近くのエデオンに寄ったときに特価コーナーにワイヤレスのマウスがいくつか置いてあった。買ってきて早速使ってみたが実に便利である。線がないから机上はすっきりしている。それと画面を上下するのにマウスのリング?を回すだけで簡単にできる。それと脇のボタンを押すと画面の前後を出すことができる。これはあまり使わないが画面が簡単に上下できるのでこれがいい。こんなに便利ならもっと早く使えばよかったと思っている。