2015年4月25日土曜日

久しぶりに速歩、そして

お天気が悪かったり出かけていたりですっかりご無沙汰していた速歩を夕方久しぶりにやる。ウオーキングではなくランニングシューズにしてから軽くて、それにアスファルトでもクッションが効いて膝に負担がかからない。それと久しぶりなので疲れるかなと思ったらそうでもなくリターンするところまで休まず歩けた。開墾をやって体力がついたのだろうか?どちらにしろラッキーである。少しづつ持久力がついてくるといいのだが…。日曜日に話すというのにこんなことを書いたり、畑に行ったりと肝心のことは後になっている。こういうものは最後に一気にと思っているが既に炬燵に横になってしまって時計は日付が変わって寝る時間になったがもう少し頑張れるかな?

最近思うことは聖書の基本的なことは分かっていても日常生活あるいは集会生活の適応を思うと果たしてこれでいいのかなと思わされることがある。その発想の中にギリシャの二元論とは言わないけれど二元論的発想や罪の性質からくる発想の視点で聖書を理解をしていないだろうかと思うことがある。後藤敏夫氏は終末を生きる神の民( p25)の中で神はイスラエルの民に政治的、社会的、経済的、宗教的からの解放という四重の自由を与えられたと書いている。今までそのことよりもむしろ荒野の旅での民たちの姿に視点があったのではないだろうかと思わされている。これは立派なクリスチャン生活をするか堕落したクリスチャン生活をするかのような視点ではないだろうかと、民はすでに解放され自由になっているのである。大きな救いの中にありながら不平タラタラの民は私とダブる。まさに一万タラント赦されているのに百デナリに拘る自分を見る。愚かなことである。救いを強調するあまり神の大いなる恵みが隠される場合があるのではないだろうか、神のためにとイエス様を十字架にかけた律法学者やパリサイ人は特別なものではない。いつの世にも存在するものである。罪は的を外すといわれる。的を外させる大きな力を見る。低くならなければ見えない真実がある。なれるかな?

2015年4月23日木曜日

町議会議員選挙

隣の市は市議会議員選挙、こちらは町議会議員選挙である。隣の市の選挙ポスターの看板に候補者のポスターが貼ってあったので役場に選挙広報をとりに行ったが総合受付で聞いてもわからず別棟の選管に行きその旨を伝えたら公示は二日後とのこと市議会議員選挙と町会議員選挙の投票日は同じでも公示日は二日違う。市議会議員は19日公示で26日選挙、町議会議員は21日公示で26日選挙、規模が違うからかな?

この間県議会選挙をやったばかりなのでこんなの一緒にと思うができないのかな?
それと県議会選挙も広報を見てもよくわからなかった。ある意味で抽象的なことばの羅列で具体的なことはあまり書いていない。広報を読んで選ぶなんてことは無理である。町議会議員選挙は更にである。よく見ると出身区域別のような感じを受ける。たまたまそうなったのか慣例なのか田舎の村の時の選挙を思い出した。それと候補者の年代である。40代2名、50代1名、60代8名、70代は3名もいる。若い人の立候補者が少ないのは諏訪地区では高齢化率トップのなさるわざか?チョットショックだったが高齢化率に貢献している夫婦であるからいささか複雑な思いもある。それでも若い息吹が必要だ。30・40・50代の立候補者よ出でよ。

原点

去年の九月だったかテレビ東京の「カンブリヤ宮殿」に熱烈中華食堂日高屋の会長神田正さんが出演していた。カンブリヤ宮殿は録画して印象に残ったものは消さないで残してあるがこれもその一つである。ちょっと気になってまた観てみた。元々は大宮にたった五坪のラーメン店から始まめて深夜までやっていたのが当たって店を次々と展開していったようだ。本人は勤め人はダメで何度も転職してラーメン屋のアルバイトの時に出前で現金がもらえたことがこの道に入るきっかけになったらしい。その根底には村一番の貧乏であったと告白していたがそれも機縁しているようでもある。

一部上場のチェーン店を展開している会社の会長の人となりが感動を与える。上場した時、証券取引所にすごい車が並んでいた。「どれで来たの」と聞かれ「地下鉄で来た」と言ったらびっくりされたというより唖然としたのではないだろうか車の「後ろに座っているのは性に合わない」と社用車を持っていない。その分社員の給料に回せばいいと言われていた。収録の時も天王洲に電車に来たと言われて村上龍氏は驚いていた。電車の方が早いですよと何事も無いように話し、そして「電車に乗っていると学生が結構ラーメンの話をしている。それを聞くのが好きで「日高屋らーめんはまずい」とかと笑いながら話されていた。経営理念は昔の駅前の屋台感覚で安くて気軽の寄れる店、そして何回も来ていただくためにさっぱり味にしている。だから駅前の一階に店を展開している。そして吉野家とマックの間にあると良いと言われていた。日替わりでお客さんが来てくれからとのことここにも人間性が見える。一店舗で四千万円を投資する。失敗するとパーになる。失敗した人がかわいそうだからと自分で歩いて決めているようでもある。

それよりも何よりも従業員を大切にすることだ。店を回っていて店長を呼び出し売り上げはどうかと聞くのかと思ったら「ちゃんと休日は取れているか体調はどうか家族は」と従業員の心配りだけ、そして「パートさんの場合で20年努めていて、『ありがとう』も言えずにいなくなる。あれを見て人間として耐えられなくなった。慰労会をやると話ができるし、感謝を表したい」とも言われていた。その慰労会を取材していてパートの方が幾つかのところで働いたがここはパートの人でも大切にしてくれるそのようなことを言われていた。だからこの業界では離職率は30%なのに11%と低い。中華料理は60歳を過ぎると体力的に大変、福利厚生の一環で60-70歳でも働ける職場を作りたいと思っていた。ほとんどの人が60歳を過ぎてやめていく。その時、やりたい人は焼き鳥屋をやれば70歳まで働ける。そういうものを残してあげたい」と焼き鳥屋を始める。それと出店して近所の人に喜ばれるこれも大事な出店の条件のようだ。

「貧乏な家に育った精神のままで一生を終わりたい。ほしいものはない。使い方がわからな。そんなお金があったら従業員に分けた方がいい」とも言われたら村上龍氏は驚いた顔をしていたが貧乏で働くこと一筋で遊ぶ余裕もなかったのだろうなと思った。それと従業員に「この人たちにどんなに感謝したってしきれない」と言われたことに自分ではなく他者が第一の姿を見る。
東京に行った時にお店の看板を見かけたが既に食事をした後だったので今度行ったら是非寄ってみたいなと思った。人は過去がどうあれ功なり名を遂げればそれなりの生活をするものである。そして勝者のような思いがどこかにあるだろうにそれがない。会長の中には村一番の貧乏であったことが原点にあるようだ。そして人から受けた恩を忘れることがないのであろう。このようなものを見ると会長が元気でそしてこのイズムが生きていればこの会社は安泰であろうなと思った。

しかし、つねに原点に立つことは難しいものである。人を踏み台にしても勝者になれば我が功のような成りをする。落ちぶれれば過去の栄光から離れられない。人はそのようなものであることを聖書は教えている。
あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。
エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。
私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。
そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、
この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。
今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。
                                              申命記26:5-9 
彼らの原点はここにある。このように語るということは彼らがエジプトでの生活、出エジプトでの出来事を忘れることを暗示している。どのように栄華を極めたとしても彼らの原点はここにある。それができないからダビデのうちに既に現れ、ソロンモンで決定的になった。後は崖を下り落ちるだけであった。彼らはこのことをたえず思い起こしていればまさに歴史は変わっていただろうにと思う。キリスト者として救いを受け、恵みを頂いているのに
蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ」と言わない。 
よみと、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ」と言わない火。
                                                箴言30:15-16
それに加えて私もである。原点に立つ、あるいは戻るということは至難の業だ。正に主の働きが無ければできないことである。

開墾?

義兄が野菜を作らなくなって久しい畑があって、その畑を義姉夫婦と義妹と我が夫婦五人でその一部分で野菜作りを始めた。三年前に市がやっている農園の講習を受けたがほとんど忘れてしまった。義姉夫婦は継続してやっていたので彼らの指導の下で始めている。

畑と言っても十数年から作っていなかったから畑一面スギナと部分的ではあるが笹の根っこが生えているので鍬では歯が立たない。その鍬もホームセンターで一番大きいのは重いのでその下のステンレス製のを買ってきた。ところがステンレスはいいかなと思ったのに鍬を打ち下ろしたら曲がってしまった。これではとスコップを買ってきて根っこを切る作戦に出る。スコップに体重を乗っければスッと下りる。スコップを斜めにすれば浮き上がりそれを手で持ち上げてふるうと土が落ちて根っこだけになる。バラバラにすると結構かさばる。実はスギナの根っこは茎らしい。その所為か茎同士が絡まるようになっている。それと春を告げる蕗の薹と土筆、このスギナから土筆が出てくるのである。これを知ったら春を告げる貴重な存在だったから親愛の情を持っていた思いはきれいに消えてもう敵に近い存在になった。少なくともこの畑では…。

これをやるのは私だけだが少しづつやってきてあともう少しというところまできた。勿論全部ではない。最初一区画二畦だったがジャガイモに一畦使ったらもう一畦ではたいしてできないのでその隣にもう一区画作ることにしたのである。勿論独断で始めたが最初のところは葉物で今やっているところをキュウリやトマトなどにと思っている。そしてその隣には雑草と共存でかぼちゃなるものをやる。今のところ畑つくりが精一杯なので野菜つくりまでは興味が湧かないから家内に任せている。と言っても最初の区画は皆同じものを作っているらしい。今のところ土だけだがそのうち雑草が生えてこれとの戦いになりそう。それと水を一々持って行かなければならないのでどうするか。当番制に?これからどうなるか面倒くさいと投げ出すか興味が湧くか…。

2015年4月22日水曜日

無料の日帰りバスツアー

家内がサンロードの無料の日帰りバスツアーなるものに申し込んだら当選し、同伴者は7,450円負担とある。河口湖にあるアンブローズ珠屋なる宝石の工場見学とショッピング(これが曲者)、沼津のグルメ街道にあるジャンボ干物センターで買い物、伊豆フルーツパークで昼食、三嶋神社参拝、沼津の御用邸の見学、そして朝霧高原の道の駅で休憩と買い物をして帰って来るコースである。

伊豆へは何度も行っているが西海岸には行ったことがないのと以前から中央道から伊豆、静岡方面に行って見たいと思っていた。それと昼食付きで一万円でおつりがくるなら安いと思って参加した。今回は一宮御坂ICから河口湖、山中湖そして御殿場から東名で沼津へ、帰り道は沼津から富士宮、精進湖から甲府南ICのコースだった。中央道からの縦断は先月は清水から身延山、増穂、双葉JCTと通ったので念願がかなった。

最初、サンロードの協賛かなと思っていたがどうもそうではないらしい。最初に行ったアンブローズ珠屋なるところに行って少しわかった。一応お店はここと銀座と甲府と岡山にもあるようだ。河口湖店では最初会社の説明を聞かなくてはいけない。それから隣の工房へと言ってもこれは明らかにデモ用のものである。二人が加工作業をやっていてその隣には見学者(一人だけであるが自分がやった)がドリルで真珠に穴をあける。そして二階にドアの入り口に10:50までとあり一時間以上である。入ったらドアは閉められ戻れないようになっている。まさに缶詰、見たら安くて数万円、高いのは何十万もする。店員?がたくさんいたが無料のバスツアーで来ている人が買うような値段ではない。それでもそれを目的に来ている人もいるかもしれない。コーナーに展示してあった真珠のネックレスが300万チョットのを見て、高級車が買えるではないかと思いながら見ていた。身に着けても栄えるようには見えなかったが?大分飽きた人が増えたら次の部屋に行けて、そこは千円前後から四五千円くらいのが普通のアクセサリーなどを売っている店のような感じで売っていた。店員も二三人で服装も違う。そこで買っている人もいたがそこから下に降りて休憩所になっている。そこでも飲物と簡単な食べ物を売っていた。こういうのに慣れているのか本を持参して読んでいる人がいたのには感心した。少し経って外に出るとすぐバスに乗れるようになっている。ちょうどバス一台分のお客さんを対象にしている。何?商法というのだろうか。こちらが旅行会社とタイアップしてやっているのかなと思った。強引に売りつけないが長時間締め切ってやる商法は問題だ。

昼食をとった伊豆フルーツパークは二階が広い食堂になっていてセット物がこれからの物と食べ終わった物がびっしり置いていありまさに圧巻である。片付けのおばちゃんに聞いたら今日は少ない方で480くらいかなと言われた。ここから三嶋神社、御用邸と近い。三嶋神社は本殿というか拝殿は立派なもので重文になっている。それに境内も広く、諏訪大社は上社も下社も境内が狭くゆったりしていない。内村鑑三は神社の前を通ると自然と頭が下がるようなことを何かで読んだことがある。明治神宮は鬱蒼とした木々に囲まれ、都会の喧騒を忘れさせる。そして玉砂利を踏むとどこか厳かな気分になる。諏訪大社にはそれがない。このことがこの地域の特徴なのかなと思わされる。

沼津の御用邸は天皇家の別荘としては質素なものである。それでも当時の庶民の生活から見れば雲泥の差であろう。それと何となく今は都の庭園になっている上野にある岩崎邸庭園を思わされた。それでも天皇の寝室には専用の畳の廊下があり、その外側に普通の廊下がある。それと畳の淵は絵柄がピッタリ合うようになっているのには驚いた。

三嶋神社や沼津の御用邸を餌に客をつり、真珠や干物を買わせようとする魂胆だったのかそれともそれを知っていて無料であることに徹して缶詰め状態でもしっかり少ない椅子に早々に座って次に移るのを忍耐して待っていたのかわからないが誰が得をして誰が損をしたのだろうか。少し内情を知ると無料でももう行く気にはなれない。いい勉強になった。

2015年4月16日木曜日

旗幟鮮明

この間県議会の選挙があった。自民党も民主党も議席を減らし共産党が議席を増やした。またこの26日に町議会議員選挙があるみたいだ。国政ぐらいだと関心があるが地方となると候補者を知らないのと選挙広報を見ても簡単に書きすぎでよくわからない。これではなぁと思ってしまった。その点共産党は出来る出来ないは別にしても明確に色々書いている。ある意味でハッキリしているのである。公明党は変わらなかったがまぁそんなものだろうと思った。維新が新たに一人当選した新しい息吹を求めているのだろう。無所属が一番多いがこれは保守と革新がいるからどうなるか。だらしがないのは民主党である。いるのかいないのかやる気があるのかないのかと言っては失礼だが顔が見えない。寄り合い所帯はこれだからダメなんだろうな。旗幟鮮明という言葉がある。これが鮮明でないのである。いい悪いは別にしてこれをはっきりしない限り民主党は社会党の二の舞を踏むかもしれない。という自分もキリスト者として鮮明にしないと民主党云々なんて言えないかもしれない。キリスト者として旗幟鮮明に…。

マタイ20:26-27

matt 20:26-27
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
「この日を主とともに」の4月14日に上記のみことばが引用されていた。初めてこの箇所を読んだときに自分は偉くも人の上に立ちたいとは思わないから(そんな器ではない)「仕える者にもしもべにもならん」と思ったときがあったことを思い出す。そしていつだったか「偉くなることも人の上に立つことも望まなくとも仕える者であり、しもべとなるべきだ」と思うようになった。そう思ってから久しいがまだまだ自分がしっかり生きている。

しかし、70代も半ばに差し掛かり、40代の厄年のように体に変化が起きている。あらゆる面で「老い」を感じるようになった。自分ができることは更に限定されるが「生きている機能」を少しでも用いて他者のために使えるならと思っている。「これしかできない」ではなく「これができる」という考えで行けたらなぁと願っている。実際的には少ないだろうが何もないということはないであろう。「生かされて生きる」ところに何かがあるだろう。老害という言葉もある。ある著名なお医者さんをこのように言われていることを聞いて世間では尊敬されていても自分が自分がという思いがあるようで身近に接する人たちにそう思う人もいるようだが割と当たっているのかもしれない。年寄りはこれに気をつけないと…。野球で言ったらセフティバントは自分も生きようとするからこれはいけない。確実に塁を進めなくてはいけない。確実に自分はアウトにならなければならない。

2015年4月15日水曜日

新約聖書を終えて

新約聖書を昨年の7月末から一日一章で読み始めて昨日読み終えた。老眼が進んでいるのに聖書通読に字の小さい注解付きの聖書で読んでいた。最初は何とか読めたが目を怪我してからか家内が言うようにパソコンのやりすぎかで字がぼけて読めなくなり、昨年か一昨年かで少し度の強い眼鏡を作っていたのでこれで見るとハッキリと字を読むことができる。それ故途中からこれを使っている。パソコンは従来の眼鏡を使っているが普通の聖書でも新しい眼鏡でないと駄目なことがある。ピンボケのような字がはっきり見えるとドラえもんではないが何でも見える眼鏡でなくとも聖書の意味がはっきりわかる眼鏡があったらなぁと思ったりしている。

以前いた集会では若者たちだろうが一日十章とか二十章を読むグループがいるようである。彼らに伍してなんてサラサラ思わないがのんびりゆっくりと一日一善ではなく一章を読んでいる。ホントのこというとこの年では数節が一番いい、そのうち一日一節にしようかなと思ったりしている。味読という言葉がある。聖書を読むにはこれでないといけないが多々ノルマのようにして読んでしまうことがある。最後の黙示録を読みながらこれからのことであるから4章以降はよくわからない。今読んでいる本を読み終えたら伝道出版社からでている黙示録と今秋長野集会に来られる岡山英雄牧師の黙示録を比較しながら読んでみようかなと思っている。

いつものことながら同じ聖書のことばであるが目につく箇所はいつも違う。それと一章だけを読んでいるとよく言われる「木を見て森を見ない(見えない)。森を見て木を見ない(見えない)。」傾向ってあるなぁと思わされる。今日から旧約を読み始めたが旧約は少しまとめて読むようにしている。それでないといつ読み終えるかわからない。記憶装置が壊れているので幾ら入力してもオフにしたらすべてが消えていくぱソコンのようではあるが読めるうちは読んでいこうと思っている。

続々 トンイ

半分くらい観てから一日に一つか二つを観ればと思っていた。それが二三日前の夜に少し時間が有ったのでチラッと観るつもりが観始めたら次々と観たくなり気がついたらカーテンから光が漏れていた。連続7時間、それでも7本分だけである。昨日も午後から観始めたらこれもやめられなくなり最終回まで観てしまった。観終わったのは日が変わって午前2時過ぎ家内はあきれすぎて何も言わない。一話60分X60回=3600分/60=60時間、2回観たから120時間/24=5日を丸々使ったことになる。確かに異常だ。この長さだからもう観たいとは思わない。

細かいことはパスして、トンイが困っている人たちを助けるために王室を去って行くときに「もう一度生きる為に」というセリフがある。キリスト者も信仰を持って、あるいは新しい歩みをする時に思う言葉ではないかなと思った。若い時に病院伝道をしている時に一人の年配の婦人が「日々新たなり」という言葉をよく使っていた。過去があって、現在がある。そしてその流れの上に未来がある。しかし一日一日を新たな思いで歩むことは大切なことではないだろうか。また大罪を犯して処刑されていく人たちの呪いの言葉もある意味で人間の真実な叫びのような気がする。また賤民と言われる子が王となることを恐れて殺そうとする。王宮での利害得失の争いの中にただそれだけではなく、旧来の慣習を守るか新しいものを受け入れるかとの軋轢を見る。これは現代でも生きているのかなと思った。うがった見方だか監督なり、脚本家はキリスト者では?あるいはキリスト教に影響を受けた人が制作しているのかなと思わされたが実際はどうだろう。

長いドラマを二回も観てうしろめたさを感じたのか東京に居るときにオアシスでビデオを特価で売っていたので何かに使えるかなと「十戒」(2巻・183分)と「ナザレのイエス」(3巻・371分)を買った。時間が長いので信州に来ても本棚に鎮座していたがそのうちに観ようかなと思っている。

2015年4月11日土曜日

真の解放とは?

後藤敏夫氏の「週末に生きる神の民」の中に、出エジプトのイスラエルの民に四つの解放を与えられたと書いている。

1. 政治的解放
   外国の独裁的権力者による抑圧からの自由
2. 社会的解放
   社会生活における抑圧と干渉からの自由
3. 経済的解放
   奴隷としての強制労働からの自由
4. 宗教的解放
   異教の神々の領域から、誰にも妨げられないヤハウェ礼拝の自由へ。
   ヤハウェとの新しい契約関係へ。

と書いているが悲惨な奴隷の姿を思い浮かべるが華やかにスマートな現代人からは想像もつかない。しかし、中も外も好対照な奴隷の姿に今日の我々と違うのは外面だけであって後は皆同じような気がする。
一見民主的な政治形態の中にあるように見えるが、しかし、国民はスポイルされているような気がする。
社会的弱者は?
奴隷と今日のサラリーマンはどこが違うのだろうか。
日本においては異教の神々の中にいると云ってもいい。

今日の日本をそして世界を見ると一見このことは何ひとつ解放されていないように見える。
ヨハネ伝に、
john:16:33
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
しかし、敗北者のような経験をさせられている者にイエス様は、勝利宣言を過去形で語っている。どう理解すればいいのだろう。
フッと思った。家の骨格の出来上がった家のようなものではないだろうか。この骨格は主がなされたワタシがドウコウで崩れることはない。その上で完成を目指しているそんな姿を思い浮かべる。
既に出エジプトは成された。荒野の旅はイスラエルの民と何一つ変わらない。しかし、違いがある我らは天のカナンを目指している。


続、トンイ

録画できなかったのでネットで見れないかなとユーチューブで検索したら観れることを知り、録画できないのだけでなく最初から最後まで断片的だか観てしまった。幾つかかあったが皆右と左が逆になっている。だから映像が逆なのだが観るにはさほど不便ではない。しかし、まともに観えるものを見つけそれを最初からしっかりと観ている。どこがそんなにと問われると返事のしようがない。最後の場面で次回の興味をそそられるからだろうか、幼い少女からの生涯を描いている所為だろうか、小説石狩平野の鶴代を思い出す。2,3か所に王の刻印のようなものが出てくる。王の代行のような権威がある。これを見ると水戸黄門の印籠を思い出す。ハッキリした意識もなく、しかし、何かひきつけられるように最初から断片的でなく一時間たっぷりのドラマを観ている。一日一善ではないが精々二本位と思っていたがその何倍も…。今半分観終えた。これからはスローペースで行くつもりである。

最初から見ているとドラマの流れがわかる。60話だから「朝7時に起きて、顔を洗って、食事をして学校に行きました。午後友達と遊び、夕食を7時に食べて、風呂に入って10時に寝ました」的な小学生の日記風なら10話も必要ないだろうがこれだけの回数だと本筋を中心に右に左と伏線が多い。最初から見ているとこの流れが少しわかる。それに邂逅?シーンが多くそれでストーリーがわかるようになっているところも多い。まぁ縦糸に色々な色が横糸に織り込まれて一つの絵になるようにドラマも然りである。

これを観ていて、考えてみれば聖書も然りだなぁと思った。創世記から始まり、黙示録で終わっている。どこかバラバラなようでありながらしっかり神の経綸が織り込まれている。そして創世記の天地創造と黙示録の新天新地は結びつく、出エジプトのイスラエルの民と新約の民の集まりである教会の姿が重なる。宮廷の争いは本質的ではない欲とプライドの争い、その中にトンイは真実と誠実を求めていく、それは人に受け入れられるものではなかった。それはエレミヤが民が安穏に過ごすためにバビロンの捕囚になることを勧めて迫害を受けたこととダブる。それにイエス様の時代のサドカイ人とパリサイ人の姿もダブる。彼らにとって神がとか民がとかのことばはあっても神も民も念頭にはない。自分たちの利益しか求めていないのである。サドカイ人パリサイ人はこれが神のためにと確信を持って言い、行動したことが神に敵対している姿は彼らだけの姿ではない。己の中にもしっかり生きている。主のためにと思ったら人のために生きることが先決かもしれない。

2015年4月7日火曜日

秋の朝ドラ「あさが来た」

何時だったかネットで検索していたら「波瑠さん、秋のNHK朝ドラのヒロインに、2015年秋の「あさが来た」」のタイトルとヒロイン白岡あさのモデル広岡浅子が目についた。波瑠さんなる女優?は知らないけれどヒロインのモデルとなった広岡浅子なる人物は少し知っている。もう半世紀も前に読んだ「捨身で生きる」(田崎健作著)の中に登場する。この方は牧師を引退されてその証しを本にされた。ーYMCA出版だから貰ったのかもしれないが定かではないー
教会建設のために募金をやっている頃のエピソードにこのようなことが書かれている。


 たまたま霊南坂教会で旧組合の総会があり、僕もこれに参加した。このときも、三日間の断食を続けていた。このときも、神学部長(同志社大学)の日野先生が同情し、広岡浅子姉に紹介してくださった。
 姉は三井家の長女として生まれ、やがて広岡家に嫁がれたが夫君はいわば富豪の道楽息子で、家運は斜陽の状態にあった。姉は妾をよんで、主人はあなたにあげる、私はこれから広岡家の挽回にかかると宣言し、みずから労働服に身をつつみ、炭鉱夫の間にまじって奮闘、その結果、ついに巳到の家運を復興し、隆々たる広岡家の前途を開かれたが、同時に精神的な寂寥と人生問題に悩み、大阪教会の宮川経輝牧師の門をたたき、先生より受洗されたとのことである。直接聞いたのでないから誤りがあるかもしれないが、しかし一世の女傑であったことは確かだ。僕はソンナことは知らない。会うと、「アー、また寄付ですか、私の顔を見ると寄付で…」と。
 僕は憤然として、「嫌な金なら大金でもご免こうむる。しかし喜んで捧げてくださるなら一銭だってもったいない」と言い放ったら、あなたはおもしろい青年だな、明朝、三井の本邸に九時ごろにおいでなさいという。
 三井とはドコですかというと、日野先生が、財閥の三井の本邸だ、広岡さんは当主のお姉さんだと説明された。これは言いすぎたと思ったが、取りかえしはつかぬ、明朝、約束の時間に出かけることにした。断食をつづけながら…」

 翌朝は大風雨で洋傘は風で折れ、高下駄の緒は切れ、ヨーカン色の木綿の紋付は雨にぬれ、あわれな姿で小石川にあった三井の本邸を訪れた。
 あまりに大きな玄関にヘキヘキして第二の玄関に来たが、これも大したものだ。トウトウ第三の女中さんたちの出入りする玄関に立って来意を告げた。
 モーニングの執事が、折れた傘と緒の切れた高下駄をぶら下げた貧弱な青年を見下して、すこぶるおおへいな態度である。実は僕も背中に冷汗をかいているのだ。やがて広岡浅子姉が現われて、その執事に、「先生のおさしものとおはき物をお受け取り、大玄関におすすぎを」と、鶴の一声、大玄関には黒塗りのタライだ。恐縮しながら足を洗って、応接間に通された。黒塗りのタライで足を洗ったことはまったくアルファなりオメガなりである。
 やがて広岡姉は「あなた牧師になるつもりか」と質問された。むろん、しかりである。姉は「なぜ大玄関から入らなかったか」―「あまり大きいので、というと「第二の玄関も同様でしたか、三井の玄関が恐ろしいのなら牧師は断念なさい。上っ方であろうと、貴族であろうと金持であろうと、そういう社会であればあるほど心の悩みは深刻なものです。私がなぜ基督教の信仰にはいったか考えてみてください。名誉や地位や財産では解決しきれぬ心の悩みに対してこそ、あなたがた牧者、伝道者の使命があるのではないのですか。心を強くして立ち上がりなさい」と眼に涙すらたたえて激励してくださった。
 そして、寄付金の半額を引き受け、さらに「全部さしあげてよいのだが、それはあなたのためにならん、苦労して募金なさい。そのうえなお不足があったらおいでください。だが決してオズオズしないように。大胆に確信をもって募金なさい」。
 僕は涙があふれてとめどなかった。感激の礼とともに辞去し、爾来親交を深くした。

それからもう一つのエピソードが書かれてある。

 当時は、大挙伝道時代であって、信徒も植村、海老名、宮川、山室など、そうそうたる牧師の間に伍して伝道戦線の第一線に立ったものである。広岡浅子女史もなかなか活躍されたが、女が洋服を着ているという話から、地方の劇場での伝道講演会で、聴衆が牧野虎次先生(同志社大学学長を務めた)を広岡浅子女史とまちがったという笑い話があった。牧野先生は容貌、一見女のようで、その声も一オクターブ高く、感きわまると説教中よく涙を流して泣かれる。
 「ソコデソノ」という接続詞を涙ととも連発する癖がある。僕らはこれを、「ソコデソノ涙にくれて虎の巻」と野次ったものだ。顔はまったっく女形だし、声は一オクターブ高いソプラノだし、しきりと泣く。洋服は着ているし、これはテッキリ広岡浅子という婦人だろうと決定版になってしまった。ところが、そのあとに広岡女史が堂々たる身体で演壇に現われた。英語も使うし、ゼスチァーもやるし、音量もある。これが牧野虎次先生だろう。しかし、この牧野虎次先生は髪を結っている。先の断髪だ、あとのは結髪だ、会衆は判断に迷ったというのだ、これは半分、嘘としてもありそうな話である。


なぜこんなことを書いたかというとモデルは広岡浅子、彼女はキリスト者だからである。不思議とNHKのドラマにキリスト者がよく出場する。どういうことなのだろうかと思ってしまう。アベシンパの現会長が知ったらハラワタが煮えくり返らないだろうかと心配している。それとワタシのようなノンポリクリスチャンが多いからノンクリスチャンが頑張っているのかなと思ったりもしている。こんな調子じゃ天国に宝なんて夢のまた夢だなぁ。それと八重もそうだが役者が美人すぎる。モデルにぴったりでないと、そうすれば多くの若き女性は自信を持つだろになぁ。

2015年4月6日月曜日

トンイ

TBS系列のSBCで昼の2時前に韓国ドラマをやっている。
今までは韓国ドラマは興味がなかった。理由は何となくフィリングが合わないそんな感じで反韓ではない。

このテレビドラマ「トンイ」を見始めたのは半分くらいからでこのドラマは60話もある。何時だったか何でだったか忘れたがそのドラマを見たらはまってしまったのである。最初そのまま見ていたが4時から水戸黄門をやっているのとコマ-シャルが長いのでこれをビデオにとって、見終わったら水戸黄門を見るように時間を合わせて見ていた。上京したときもしっかり録画して見たのであるが先週出かけていて元の電源を入れるのを忘れて録画できなかった。それでネットで「トンイ」と打ったらユーチューブで幾つかやっている。その中には「米倉涼子」なるものがあり、写真も本人のようではあるが本人ではないであろう。著作権の問題は?と思いながらも気にもせずしっかり見る。その辺の所為かどれも画面が逆、字が裏返しに出ている。それと襟が逆になるくらいで他は気にならないのでそれを見ていた(見終わってからチャンと見えるものを見つけたが)。録画し忘れたのだけを見るつもりだったが見れるのでつい最初からも見てしまった。その日は夜中の3時頃まで、翌日は家内がいないので朝から晩まで昼飯もそこそこにしてあきもせず見ていた。家内がこの様子を見て、いつも言われている「そんな番組を」の言葉をしっかり返されてしまった。

あらすじは「トンイ(同伊)あらすじと感想、動画情報等」より、今ならこのブログで
「http://blog.goo.ne.jp/uedasikaburaya/e/4a024614cba90d65af01af0f9d4dd4ea」全部見られる。

「貧しいながらも幸福な生活を送っていた少女トンイは、ある日、父と兄が陰謀に巻き込まれて突然家族を失ってしまいます。罪人の子として追われる身となったトンイは、父と兄の無念を晴らそうと陰謀の真相を探るため下働きとして宮廷に潜入、その明るい人柄と頭の良さ、真っ直ぐな性格から周囲の人々に愛されます。
宮廷では運命の女性でライバル、チャン・オクチョン(後のチャン・ヒビン)と再会…その後は激しい女の戦いを演じる事に。
美しい娘に成長したトンイは、監察府(カムチャルブ、宮廷の女性達を取り締まる機関)の女官に抜擢され活躍するなか、父を冤罪におとしいれた一派の陰謀を暴いていきます。
時の王、粛宗(スクチョン)は街で出会ったトンイを愛するようになり、のちに側室として迎え入れ王子クムをもうけます。
その後も、数々の苦難がトンイを襲いますが、多くの人々に支えられ危機を乗り越えて行くのでした。
王子クムことヨニングンは賢い王子に成長しトンイの死後、名君として知られる英祖(ヨンジョ)となっていきます。
トンイも、卑しい身分の出でしたが、王の生母として側室では最高位の淑嬪(スクピン)に叙せられる事になるのです。
晩年、トンイは宮廷を出て弱者である貧しく卑しい人々を慈(いつく)しみ、彼らの味方として暮らしていきます。」

あらすじはこのようなものであり、朝鮮の歴史は分からないしそれほど興味もない。それに権力や政冶に女の争いもある。なんではまったのだろうと考えてもよくわからない。でも魅かれるものがあった。若い時は西部劇、今は水戸黄門を見ているから善悪がはっきりして分かりやすいのが好みなのかもしれない。宮廷の構図は善人と悪人がはっきりしている。悪は悪の論理がよくわかるし善意はホントに信じられないくらい善なのである。そして善が悪に勝利するみたいなところがあるのかな?色々深く考えないで見ている所為もあるのかもしれない。一番は主人公が自分の利のためではなく他者のために善意をもって誠実に対処しているのが余韻として残るのだろう。ドラマであるがキリスト者として悪意をもって成されても善意で答える姿は学ぶに値すると思った。これでおしまいと思ったがちゃんと見えるのがあるのを知り、途中を飛ばして見ていたからまた少しづつ見ようかなと思ったりしている。