2015年6月30日火曜日

罪について

後期高齢者になろうとしている今、性格は別にしても中性脂肪が多いのと血圧が高いくらいは病気のうちに入らないだろう。身近に三叉神経の痛みや膝の痛みで苦労しているのを見るとナイナイづくしの人生であるが健康であることに感謝している。

人は色々な差別を受けて生きている。富み、健康、能力、性格とない物ねだりをするつもりはないが生きるということで弱さを持っている人はつらいだろうなと思うことがある。ちょっとのプレッシャーでつぶれる人がいれば少々のものでも屁とも思わない人もいる。こんな人を見ると羨ましい。こんな人はお金がなくとも能力がなくとも健康でなくともたくましく生きていけるのだろうなと思う。

先週メリカの連邦最高裁所がすべての週で同性婚を認めた。これから日本を含め加速していくだろう。正直、女性同士ならまだしもむくつけの男同士が手をつないだり抱き合っている写真を見ると気持ち悪くなる。現実を目の前にしたら猶のことと思う。

同性は愛せるが異性を愛せない。あるいは身体的性別の違和感を持つ性同一障害の人を見ると自分が好んで選んだわけではないような気がする。単に女っぽい男性、男っぽい女性とは違うだろうなと思う。

聖書をロクに学んでいないものがいうことではあるがこれは罪からくるものではないかと思っている。本人がどうすることもできない問題ではと思っている。ただこれから多くなっていくだろうこれらの人をキリスト教界はどのように対処してくのだろうとそのほうが興味がある。多分、律法学者やパリサイ人と同じ結論を出すだろうなとは思っている。ごく少数彼らを受け入れる教会はあるだろう。しかし異端に近い形で片付けられるかもしれない。

同じことしか書けないがヨハネの福音書五章にベデスダの池での出来事が載っている。いるのは病人だけ、だれも見向きもしない。人々に忘れ去られた存在、否、人々にとっては失くしたい忌まわしいところであろう。しかし、そこにイエス様は下りていった。そして、人生に絶望するに十分な38年間もの間病で苦しんでいる人に「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と言われた。それは新しい人生の一歩を踏み出せということだろう。人は裁くことはできるがイエス様は赦しとどのような人でも活かす力を持っておられる。

実際に直面したら戸惑うかもしれないがこのような人たちにどのように対処するかで信仰の有様が決まるのだろうなと思っている。見える現象ではなくその人の痛みを知り、担うことができたらと思うが我が心には爪の垢ほどのあわれみはないだろうな。

雀の巣

この季節になると軒下が騒がしい。雀?の巣があって雛が四六時中鳴いている。今は鳴かなくなったので巣立ちしたのだろう。少し前に鳴き声が大きくなったのようなので間もなく巣立ちするのかなと思っていた。湖畔を散歩していると羽をばたつかせ頼りなさそうな飛び方をしている鳥を見ていると巣立った雛だなぁと思うと一茶の「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」の句を思い出し思わず苦笑いしながら頑張れ―と心の中で応援した。鳥たちはどこをねぐらにしているのかこの季節だけ卵を産んで雛を育てて、そして雛が育つとどこへともなく去ってい行く、燕と違い近くに住んでいるのだろうにと思うがそれに同じ鳥が毎年来るのかもわからない。

巣を見ていて、まず烏や鷹に襲われないように軒や屋根の下につくる。そして下から蛇などが昇って来れないようなところにもつくる。燕などの巣を見ていてもうまいところにつくっているなと思う。そして非常に用心深くて、親鳥は近くの電線に来て、様子を見ながらさらに近ずき、そして軒下の屋根に来てようやく巣に入っていくのである。

犬や猫もそうだが親特に母親は子を守る本能はすごい。しかし、子が育っていくと他人のようになっていくからこれも不思議だ。かつてはそんな姿を見ていてただそれだけだったがキリスト者となってからはその不思議さを改めて考えさせられる。神が創られ、堕罪しなければ動物たちもいつも子を育てる母親のようにいれたであろうに罪がそれを成さしめなくなった。母親が子を育ている時だけ創造時の片鱗を見せるのだろうか。ロマ8:21-23を思い出す。

2015年6月26日金曜日

ある努力

どういう訳か四十代前半から中性脂肪の数値が高くなった。お酒は飲めないが焼き鳥は勿論のこと酒のおつまみのようなものが好きでよく焼き鳥を食べていたことがあった。特にエボエボの革は大好きだったがお医者さんに辞めるように言われてやめたら数値が正常に戻り喜んだのも束の間?次々回の検査で引っかかってしまった。それから数値は上がるばかりでついに六十代半ばでお医者さんに薬を飲んだらと高血圧の薬と併用するようになった。そして今に至っている。

血圧は一時ほどではないが140-150を前後している。130なんて夢のまた夢である。お医者さんもこれくらいならと意に介さない。しゃがんでいてサッと立つと立ち眩みを起こして下手をすると気持ち悪くなって倒れてしまう。若い時にはロクなものを食ってなかったから電車で本を読んだりすると気持ち悪くなって貧血を起こしたりすることがあった。気持ち悪くなりかけたら座るかすればいいのだがある時そうなって電車を降りてベンチに座ろうとしたが間に合わなく倒れて救急車で運ばれたことがあった。そういう延長なのかごく偶に120台の時もある。

高血圧と中性脂肪の薬を3ケ月ごとに貰っている。その時に血液検査もするが幾つかの項目がある中で総コレステロールと中性脂肪が高く、他は数値の範囲の中に納まっている。血圧はある程度諦めているが中性脂肪は運動不足からくると言われているので速歩を始めたりしたのだが30分/日、3,4日/週では減にはならなかった。畑を始めて耕すというより雑草の根っこ堀をしていた時には少し体重が減った。体重減らすには食ではなく汗をかくことと知り、今回薬を貰いに行くまでにと数値を下げたい一心でまだ手付かずのところの中の4-5畳分くらいかな二日がりで汗をかく、他の日は速歩とサボっていたのを真面目に歩きだした。始めるのが一週間もなかったからどうかなと思っていたがそれでも数値の高い部分に近い数値が出たので少しホッとした。付け焼刃的発想であり行動であったがこれが我が姿であり現実である。真面目に減に努めて次回は9月になるのでその間は夏の暑い日であるから十分汗はかける。

2015年6月22日月曜日

私的カイン考

gen 4: 7
「あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

一つの疑問がある。なぜアベルは殺されなければならなかったのか。ささげ物が神によって拒まれたのなら神とカインの問題でアベルは関係ないではないかと単純に思う。

それと正しく行っていれば何でもないが行っていないと罪は我々を恋い慕っているという。過去、現在、未来と「恋」なんて縁のない者には「恋い慕う」なんて聞いただけでうっとりとしてしまう。しかし、前後が・・・。
「正しく行っていないなら」、「それを治めるべき」だと、正しく行っていないとすれば治めなければならない。カインはできなかった。即ち私もできないということだ。しかし、全くないわけではない我が道を行くことだ。半分我が道を行っているがこれは単なるへそ曲がりの結果であって正しくはない。しかし、人は人、我は我として歩むことであろう。ペテロだって「あの人は・・・」と言っているから難しいなぁ。カインは罪についてのヒントを教えてくれている。

交流会

土曜日に義姉が入居しているケアハウスに入居者と家族の交流会があって行って来た。交流会といっても施設長のあいさつで始まり簡単なアトラクションがあって昼食となりその後に職員の紹介やケアハウスの現状の説明、それに入居者が三人ばかりカラオケを歌って、その後イントロクイズなるものがあってしっかり答えていたがカラオケをやっているとわかるようだ。私はどこかで聞いたようなメロディだなくらいしかわからなかった。色々行事を組んでいるようだがそれでも娯楽や外との交流も少ないし、よく来られる家族ばかりではないだろうからケアハウスと入居者、そして家族との交流は必要だろうなと思った。同じテーブルに座っていたおばあさんは以前話をしたことがあって近くに住んでいたとのことだった。身寄りがないと言われていたが甥っ子という人が来ていて、おばあさんの実家でケアハウスから更に近いところだった。家内の母がいるときに「熊井(クマノイ)のおばあちゃん」という人が年に一二回来ていた。来るのが楽しみのようであったがその熊井はすぐ近くで甥っ子さんと同じ集落であることがわかり「世間て狭いですね」とただ単にそれだけなのことなのにこんな言葉を発してしまった。ただそれはご主人は勿論子供さんもいなくて、それに積極的に誰かに声をかけるという人でもなさそうだし、以前ベンチで話をした時は話をするのがうれしいそんな感じで話をしていたのを思い浮かべてまた機会があったら声をかけようと思ったからである。これも何かの縁かなと・・・。

簡単なアトラクションと書いたがプログラムのタイトルは「歌と体操で楽しみましょう『脳と体の活性化』」最初にカラオケで2-3曲歌ってくれたが半世紀前に流行った歌ばかりなのであらためて年寄りの集まりであることを確認する。カラオケのセットで?簡単な映像からのクイズや座ってできる体操、腕や手の運動の映像を流して一緒にしたが結構な運動になる。運動不足の入居者にはとてもいいなぁと思うと同時にこのような人たちのための色々なソフトがるのに感心した。こんなソフトなら月一位でやれがいいのにと思った。それと更に驚いたのは最初に歌った「いつでも夢を」は橋幸夫と吉永小百合のデュエットで画面も映画のワンシーンを写していた。二人とも超若い、思わず画面に見入ってしまって、歌なんかうわの空で、映画は同じような世代、同じような環境、半世紀前にタイムスリップして余韻にしたる。その当時、吉永小百合の映画は観てはいなかったが…。少し入居者を含めケアハウスの様子を伺いてよかった。

2015年6月19日金曜日

神は愛なり

以前にも書いたが若い頃に流行っていたコマーシャルにクレージーキャッツの植木等さんが「何であるアイデアル」という折りたたみ傘の会社アイデアルのTVコマーシャルをTVで流していた。「愛」という言葉が茶化されるようで「神は愛である」という言葉が出し難かったことを記憶している。

しかし、最初に聖書のことばを印象深く覚えたのはカトリックのラジオ放送で冒頭に女優の河内桃子さんが「どんなに美しい言葉ももし愛がなければ相手の心に響かない。コリントびとへの手紙より」多分こんな言葉だった。何となく納得させる言葉だったのでよく覚えている。それにベートベンの第5かな「田園」がバックに流れていたのもよかったのかもしれない。

当時は愛といえば若者の恋愛くらいしか意識がなかった。同僚の恋愛を見て最初は「アバタモエクボ」の如しだが別れるときは憎しみをもってジエンドを見ていると愛については冷めていた。しかし、「野菊の如き君なりき」の映画にはジーンとくるものはあったが。この世代は親の愛情を言葉にしろ行動にしろ経験することは少ない。自分にもその記憶がない。それは涙もろい母が私が上京してから毎日のように泣いていたということを聞いてもどこか冷めていたから問題は我にありかな?

「愛」という認識がこれくらいだから河内桃子さんの声は強く印象に残った。当時オートバイに乗っていて事故を起こしても単車は壊れても本人が無傷ということもあって「どうもオートバイでは死ねないな生きる算段をしないと」と思っていた時でもあった。紆余曲折ほどではないが今集っている諸集会に導かれて今日に至っている。教会と違い信者同士は老いも若きも社会的地位に関係なく「兄弟姉妹」と言えるこの集まりには半端な人間にとって感謝なことである。

当時は神の愛をいっぱい知ったと思っていたが今思えばイエス様の衣にさえ触れていないのではないかと思っている。自分の罪赦されているということは大きいことだけど「神の国の完成」の中では小さいことだろうなと思う。大小・軽重の比較はご法度か。しかし、
rom 8:19-23
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

このパウロのことばを見ると自分の救いは壮大な救いのご計画のごく一部にすぎないように思えてならない。自分が救われていることは感謝だけれど自分だけが救われる人間だけが救われるというのは神の壮大な救いのご計画を矮小化しているようでしょうがない。

愛も然りである。救いを神の側から見ると壮大さを感じるが自分の側から見ると矮小化して見える。一万タラント赦されていても百デナリを赦すことができないのである。ある意味で赦された一万タラントが見えていないことになる。あるいはわかっていないということだ。愛は全人格的なものであると思っている。十数年前になるが息子に「あなたはいらないと人は言い、そして捨てるが親は捨てることができない」そのようなことを言ったことがある。神とて同じこと自分に従順だから愛し不従順だから愛さないなんて器用なことはできないお方なのである。

創造のわざを見てももし愛がなかったらなんと無機質なものになっていただろう。動くものが存在してもろポットのようなものでしかないのではないかと思ったりしている。命は愛が無ければできない。応答することもできない。「血はいのちである」ことは血が通っているということだ。いのちあるものが生きることはそう楽なことではない。しかし、色々見ていると神の創造のわざが愛に満ちていること教えられる。罪はこのいのちある創造のわざを大きく歪めてしまった。知識のない者であるがキリスト教会は聖書の理解を矮小化していないだろうか?不遜ながら…。

そんなことより、「遠くにいる人は愛せるけど近にいる人は愛せない」ということを聞くことがある。
時折口論して顔もと思ったりする家内をいつもにこやかに接っすることができるようになった方が「神の愛」がわかるのかもしれない。努力することなくにこやかに接するように私はなりたい。

雨に映える花

梅雨になると咲く花紫陽花は雨に濡れていると実に美しい。晴れた日に咲いていてもどことなく映えない不思議な花である。斜め対岸に以前NHKの大河ドラマにもなった由布姫(湖衣姫)のお墓がある小坂公園がある。小さな公園であるが紫陽花が有名で斜面一面に紫陽花が咲く、雨上がり時の紫陽花は実にいい、うっとりしてしまう(少しオーバーかな)。強い日差しに映える花よりもどこかひっそりと咲いている花の方が何となく奥ゆかしさがあって好きで紫陽花にはそんな感じを受ける。愛でる心のない者が感動する数少ない花の一つである。

2015年6月18日木曜日

後遺症?

ホジュンなるものを何話か入れているのでそれを所々ピックアップして観ている。連続何時間とはならないがそれでも今日も朝から今に至るまでいくつか観た。連続ドラマの所為か終わったところが次の興味へとつながるからついという風になる。良い点数をとった答案用紙のように何回観ても飽きない感じだから少し病的?であろう。でももうという感じもしないでもない。20-30年前に喫茶店にいんベータ―ゲームなるものを置いていて昼休みなどの休憩時間によくやっていた。その頃に何のゲームか忘れてしまったが会社の売り場か個人かも忘れてしまったゲームソフトを借りて来た。単純なので何回も繰り返してやっていたら朝になってしまった経験がある。今でも息子は覚えていて自分のゲーム好きをオヤジの所為にしている。それと同じようなものかなと思っている。線路じゃないがいつまで続くこの現象もう今日でジ・エンドご苦労様でした。

2015年6月13日土曜日

異常?

トンイに始まって、馬医、イサン、ホジュンとネットで韓国ドラマを観てしまった。これで終わるつもりだがトンイで懲りてそう思ってこのありさまである。どこがと問われると答えようがない。馬医は4回も観てしまった。あらためて考えてみると身分制度のはっきりしている時代にその身分を超えて一途な想いが共感を呼ぶのだろうか。それは計算できない愛だからだろうか?

それと観ていて思ったことは正義とは赦しとはということも考えさせられた。福音書に律法学者が律法を盾にイエス様を糾弾していることがいくつか登場する。それ自体は正しかったがただそれだけである。癒された者がどうなるかは彼らにとってどうでもいいことである。これが律法の義であり、人はここにまでしか踏み込めない。しかし、イエス様はその先の「この人が生きる道」を提示した。そして生かされて生きるのである。正義があれば裁ける。しかし真の正義はその人を生かすのである。赦しも同じでこれは許すがこれはダメではなく、その人の全人格を赦し受け入れるのである。イエス様にしかできない。そして多くの人が生かされた。これからも続く。

全部かどうかは分からないが実在の人物だそうだ。映画だからそれなりのフィクションもあるだろうが主人公を想う一途さだけでなく、人を赦し、生かす道にヒントを与えてくれたようにも思う。それと我が現実とかけ離れているからかもしれない。暗い映画館で映画を観ながら自分をその中置いて観ていた若い日の出来事を思い出した。これでジ・エンドにしたい。でも娯楽のブックマークに登録しているから印象に残ったところは暇なときに観るかもしれない。それと読解力がなくなってきたのでつい安易な方向に流されてしまう。さぁ老いて新たな戦いが始まる。その前に意志薄弱だからギブアップしそう~。

福音理解

幾つかのブログをお気に入りに入れて読んでいる。その中で毎日更新しているのは一つか二つでほとんどが月に何回もない。そんな中で最近お気に入りにいれている「鏡を通して」に『「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その2)』の中にどこか共観するものがあった。諸集会に生まれてどこかアウトサイダー的に育った者だけが持つ疑問かと思っていたら戦後キリスト者として生まれ育った人たちの持っていた信仰そのものにあるようでホッとする。これは欧米の宣教師の福音の捉え方の問題かと思わされた。救いだけを強調するならこうなるのかもしれない。これから艱難時代にその前に携挙等がと重視されるが最終的な新天新地のことはあまり触れられない。こちらの方がより大切ではと思うのだがどうなのだろう。今も漠としたものだが福音理解は今のようではなくもっと広いものではないだろうかと思っている。神の国の完成に向かって歩む神の民の生き方はとそんなことを考えている。

赦し

うろ覚えであるが以前に高橋三郎先生が何かで書いておられた「救いが先か悔い改めが先か?」だったと思う。そして「神の圧倒的な赦しがあって救われ、悔い改められる」そのようなことを書かれていたと思う。最初に出会い、そして今も続いている集会は「救われるためには罪を告白し、悔い改めるなら救われます」と言われ、そのことを告白して救われたと思っていた。今もそのように信じているがその時は悔い改めが先になるのは当然ではとあまり意にも介していなかった。それでも頭の片隅にいつものこのことがあった。今、通読で創世記から読み出し申命記に入っている。前にも書いたが聖書は読むたびに立ち止って考える聖書の箇所が違っていて面白い。今回も然りである。


deut: 9: 5
あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである

とある。このことばに立ち止まって考えさせられた。イスラエルの民は荒野で神の大いなるワザを経験しても彼らは神に対する姿勢は何ひとつ変わることはなかった。荒野の旅をみれがよくわかるしカナンの地に入れば入ったで形は違っても同じことの繰り返している。そしてエルサレム陥落という大きな節目を経験した。かつては神に従うことは祝福を得、従わない時には災いがとイスラエルの民の姿を見てそう思い、集会の学びもそのようなことを言われたことは多々あったように思う。

今は、このような捉え方は因果応報的ではないだろうかと思うようになった。だから自分の好き勝手にとは思わない。私が従順、不従順で変わる神ではない。何一つ変わることのない神である。申命記の言葉を適用すれば、私が従順だからでもなく、忠実だからでもない。イエス様がこの地に人として来られ、十字架に架られて三日目によみがえられたという事実の上に立っている。私はこの事実に応答しただけで後はない。神の大きな赦しの中に私たちは生き動き存在しているのではないだろうか、そして何をするかではなくどのように応答するかが大切ではと思うようになった。そうでないと人を裁くようでしょうがない。また、


2pet: 1:20
それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。

このことも無知なるが故に行っている。ただ大上段に構えて論ずるつもりはない。それは自分のところで治めているだけである。時にはこのことを通して福音主義に?を呈することもあるかもしれない。それは素朴な疑問としてである。

2015年6月9日火曜日

雨が一番

このところ雨が降ってくれるので一日置きに水をやりに行っていたのがパスできて助かっている。昨日時間が有ったので午後に行ったら案の定、キュウリは地を這うように伸びて、モロッコインゲンはエボ棒にしっかりと絡みついて5-60センチも伸びていた。ナスも然りで一本は親指くらいの実をつけている。何とか唐辛子も一個実が大きくなっているので収穫、前に見たときは実は見つかっていなかったのに雨様様である。ジャガイモも花を咲かせている。ブロッコリーは葉がネットに当たりお辞儀をするほど勢い良く育っている。実をいくつか収穫、ミニトマトも実をつけ出した。小松菜も間引きをして残り少ない。お蔭で我が家の食卓は青物でいっぱい(他のものがないこともあって)。

カラカラ天気で水をやらないとダメになるが(ジャガイモとねぎは別)手でやる水撒きはまさに焼け石に水であるが。植物を成長させてくれるのは雨であることを実感させてくれた。我がうちにも聖霊のシャワーは降り注がないかなぁ。

2015年6月4日木曜日

霊的認知症

元々物覚えが悪いのにその上歳を重ねて老人となった今、その度合は増し続けている。それだから暗証聖句なるものは若い時から我がうちにはない。若い時、P宣教師に暗証聖句を度々勧められたがあの忍耐深い宣教師があきらめたほどのツワモノである。こんなことを自慢してもしょうがないが自慢といえばこんなことしかない。

この日曜日にM兄が学んでくれて、その時はとても恵まれて、集会にとってもよかったなぁと主に感謝した。ところがどのくらい経ってからだろうか殆ど思い出せない。これは昔からのことでそれが早くなったに過ぎない。それでもメモを手掛かりにそのメモの部分は思いだすことができる。前にも書いたが記憶装置のないあるいは記憶の容量が少ないパソコンのようなものでその時はいくらでも打ち込めるがスイッチをオフにするとすべてが消えるような、あるいは少ししか残らないようなものである。食事の時に美味しいか不味いかの判断はするが素材は何で中に含まれている栄養素は何かなんてあまり問わない。信仰の世界はその辺まで問う、でも美味しいか不味いか正しいか否かでいい、そのくらいの判断はつくような気がする。

メッセージを聞いてその時恵まれればいい。一時恵まれればいい。その時その時でいい。積み重ねがなくてもいい。一日の始まりに主に祈り、執り成し、一日の終わりに感謝して寝床につけばいい。主はすべてのものを持っておられたがすべてのものを捨てられた方だ。私は一つ一つ捨てていく、否取られていく、それが無くなった時は地上の歩みが終わった時だろう。何時だろうか何時でもいい。早くとも遅くともどちらでもいい。どちらにしろ日々悔い改めて感謝ができるような信仰のありようでいたい。

待望の雨が

春先だったか長雨が続いて野菜が高騰した。今は逆で雨が降らないからこれまた野菜が高い。春夏秋冬、適度な気温とお天気と雨が必要であることを実感する。昔は農業が主体であったから雨乞いを含めて「おテントウさま」という言葉がよくわかる。食はまだまだお天気任せ、今でも飢えで苦しんでいる人がいるのに干ばつや長雨が世界的規模で起きたらと思うとぞっとする。世界といわず日本でも起きたら然りだが。

今、畑に水をを一日置きにやっている。これが結構面倒くさい。水は朝か夕方にやればよいのだが時間がとれないので10時過ぎとか午後の2-3時の頃になる。しっとり感のない土だから水をやっても帰る頃はなんとなく乾燥してしいる。そしてこのカラカラ天気である。花の時もそうだったがカラカラ天気でもどんどん育つのと芽が出ても一向に成長しないものとがある。まさに放任していても育つものと過保護に育てないと育たなくて下手をすると枯れてしまうものとがある。見ていて温度と水が野菜の成長に大きな影響を与えているのを実感する。だから一雨降ると野菜が生き生きとするのがよくわかる。

この日曜日に6週間ぶり?にMファミリーともう三回も来てくれたK姉妹が来てくれた。姉妹は小柄でどちらかというと華奢な体なのに「なでしこ」の澤選手とサッカーをやっていたと聞いて驚く、一緒に来てくれる若い兄姉には色々と驚かされ、感心させられる。今回は信者だけだったので学びをしていただき励まされ、まさに干天の慈雨であった。いつか学びをと思っていたがノンクリスチャンがいると福音が優先するのでパスパスで今回に至り、すべてに時があることを実感する。