2015年10月26日月曜日

ブラインドタッチの練習 長野集会の「今月」のみことばより

7月号

「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」                              (ローマ人への手紙3章15~17節)

◆昭和20年…。3月10日に日付が変わって間もなく、真夜中の東京の上空は焼夷弾30万発を満載する300機以上のB29の大編隊に埋め尽くされた。周到に狙いを定めて落下された焼夷弾により火のの壁に挟まれた住民が逃げ場を失って密集したところにさらに焼夷弾が落とされ、死者は10万人を超えた。5ヶ月後の広島、長崎原爆投下に次ぐ大きな犠牲である。◆しかし驚かされるのは、この作戦の指揮をとったカーティス・ルメイ少将が、戦後、日本政府から勲一等旭日章を授与されていることだ。航空自衛隊の育成に功績があったことがその理由とされているが、不可解極まりない。昨日まで《鬼畜米英」と教えていた政府が、今度はアメリカを師と仰ぐようなこの変わり身の速さはどういうことが。◆そして今では、ー内閣が閣議で憲法解釈を変え、同盟国アメリカが敵国と戦う際には「後方支援」に回るということは合憲であるとされ、近隣諸国との武力衝突も辞さない構えだ。◆名機零戦を作り戦艦大和を建造する優秀な技術力があっても、日本は自ら始めた戦争を終結するすべを知らず、いたずらに戦争を長引かせ犠牲者を増やすばかりであった。310万人という尊い人命を失い、その傷は今も深く残ったままであるのに、また同じ様な過ちが繰り返されようとしている。◆神に立ち返って、聖書のみことばに立ち、「あなたの敵を愛せよ」という主イエスの御命令に従うのでない限り、真の平和への道は遠い。

遡って写すのはこれで最後にします。指先は毎回違って、順調なときと千鳥指とその時によって色々であることを経験する。

2015年10月17日土曜日

ブラインドタッチの練習 長野集会の「今月」のみことばより

8月号
今月のみことば


だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 (コリント人への手紙第二 5章17節)

 
1998年の長野オリンピックで来日し、聖火ランナーとして走ったアメリカ人がいた。ルイス・ザンペリー氏(81)である。◆その後、太平洋戦争勃発に伴い、アメリカ陸軍に入隊した。ところが、彼の乗った飛行機が故障のため太平洋上に不時着、47間漂流した末、日本海軍の捕虜となり、直江津の収容所に入れられた。そこで待っていたのは「バード」と呼ばれて捕虜から恐れられていた日本人軍曹からの執拗な虐待であった。◆長い戦争が終わり、収容所生活が終わっても、日本兵、特に「バード」への憎しみは消えることはなかった。悪夢にうなされ、酒浸りの日々が続き、結婚生活も崩壊寸前だった。そんな時、妻からの願いでビリー・グラハムの野外伝道集会に参加する。グラハムが語る聖書のことばはまさに自分に語りかける神のことはであった。「あなたの敵を愛せよ」…。◆トラウマを乗り越えるためにはもう一度日本に行かなければらない…。1950年、巣鴨プリズンを尋ねる。しかしA級戦犯として全国に指名手配された「バード」は訴追を逃れるため逃亡していた。ルイスは、拍子抜けするものの、気がついてみるとあれほどの憎しみが消えていた。ルイスにとっての長い戦争がやっと終わったのである。◆占領統治が終わり、「バード」は再び姿を表した。長野五輪の前年、米CBSのインタビューに応じたものの、ルイスとの面会は拒み続け、死ぬまで自らの非を認めることはなかった。一方、ルイスは、かつての捕虜収容所のあった直江津を走り、沿道から盛んな声援を受け、日米友好の架け橋となった。◆どちらが人生の勝利者となったかは言うまでもないだろう。

ブラインドタッチの練習 長野集会の「今月」のみことばより

10月号
今月のみことば

「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」 (ヨハネの黙示録13章1節)

 長野集会主催のセミナーにおいて、岡山英雄先生から、難解と言われる黙示録を分かりやすく教えしていただいた。その中で、どの時代においても、「獣の国」と「小羊の王国」という二つの国がしのぎを削っている、という見方は新鮮であった。そして、キリストを認めない国家は、必然的に《獣》としての本性をあらわしていく、と。◆日本でも無意味な特攻や【玉砕】によって国民のいのちが当たり前のごとく犠牲にされ、思想の自由を奪られた悲惨な歴史を思い出さないわけにはいかない。
◆現在はどうか。国会議事堂の周辺で何万という人々が「安保法制」に異議あり、と声を上げていても、政府は全く耳を傾けることなく数の力に任せて可決させていく。◆この先に何が待っているのか。それは国民の不安を無知によるとものと決めつけ、政府の言うことに従ってさいいればいい、という専横がまかり通ることでなくて何であろう。◆しかし、「獣の国」にやがて取って代わる「小羊の王国」がある。それはイエス・キリストを王の王、主の主とする王国であり、キリストによって罪赦され、神の子とされた人々から成り立つ国である。あの強大なローマ帝国をくつがえし、戦後の日本を導いたのはこの王国の民であった、と言っても過言ではない。◆やがて世界が週末に至るとき、王も奴隷も神の前に出るときが来る。その時、すでに「獣の国」は滅びている。そして一人ひとりが神の前に申し開きをしなければならない。◆私たちはどちらの王国に属するものであるだろう。
(長野集会月報10月号より)

2015年10月11日日曜日

ブラインドタッチの練習に

ブラインドタッチもO,Pどまりで数字は勿論のことマイナスや鍵括弧は見ないと打てない。原稿を見て打つとなると更に駄目である。そんなんで素敵な原稿があるのでそれを打たせてもらって練習とする。それは長野キリスト集会が月報を多分長野県にある諸集会宛てに送ってくださっているのだと思うがその月報の「今月のみことば」がとても示唆に富んだものであるので楽しみにしている。それを紹介を兼ねて打つ、前後しますが最初に9月号を、そして8月、10月と打って行きたい。

9月号
今月のみことば

イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネの福音書2章23~25節)


第二次世界対戦でイギリスを勝利に導いたウインストン・チャーチルに人々は称賛を惜しまない。戦後はノーベル文学賞まで授与され、名誉のうちにこの世を去った。◆それに対して、アドルフ・ヒットラーと言えば、ユダヤ人六百万人を殺戮した悪の権化と見なされている。最後は悲惨な自殺を遂げ、その死を悼む者はないに等しい。どちらが善人か、悪人か、という判段で迷う人はいないと言っていいのではないだろうか。ところらが、近年出版された「チャーチルの秘密の戦争」によると、第二次世界大戦中、インドのベンガルで三百万人もの人々が餓死したのは、チャーチルが意図的に飢餓を起こしたためという。米国からの食糧支援の申し出も断り、オーストラリアからの豊富な穀物もインドに向かわせず、すでに食糧が充足している地中海地域に運ばれた根本には、チャーチルがインド人を嫌っていたこと、特にガンジーを嫌悪していることが本人のことばからわかっており、抜きがたい人種偏見があった、とベンガル人の著者は指摘する。そしてこの大飢饉でこれほど多くの餓死者が出たことに対してチャーチルが責任を問われることはついになかった。神の目から見たとき、人類史における英雄チャーチルも、史上最悪の人間の一人と見なされるヒトラーも、実は大きな違いはないかもしれない。そして実は私たちも…。キリストの贖いがなければだれもが似た過ちを犯す危うさと隣り合わせなのである。

2015年10月9日金曜日

ホセア書に思う

聖書は字のごとく聖を求めている。しかし、ホセア書はそれに逆行しているように思える。神はホセアに淫行の妻とそれによって生まれた子らを受け入れよといわれる。石打にするのが本来の姿なのにそれそ受け入れなければならないここにホセアの苦悩がある。ホセアの苦悩こそ神の苦悩なのである。聖さを求めるのは正しいがホセアの苦悩を知り、ゴメルやその子らの姿が自分とダブらないと神のみこころを知っても神の苦悩を知ることはできないであろう。神の約束は、
hos 2:14
それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。
hos 2:15
わたしはその所を彼女のためにぶどう畑にし、アコルの谷を望みの門としよう。彼女が若かった日のように、彼女がエジプトの国から上って来たときのように、彼女はその所で答えよう。

hos 2:23
わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。」

ヨブ記を読み始めて

通読でエステル記を終え、今ヨブ記を読み始めている。良きにつけ悪しきにつけヨブの言葉は真実であろう。しかし、三人の友の言葉はヨブにとっては益とはならない。それはヨブの立場に立って語っているのではなく、自分の立場からしか語っていないからである。知識や経験は大切であるしそれがその人を形造っていることにもなる。だからその人なりの姿が映し出される。
john: 9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたにはなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたのは残るのです。」
前にも書いたが「知る=見える」となるとその結論は推して知るべしであろう。
注解書つき聖書の注解欄に、エリファズは教条主義者、ビルダテが建前主義者、ツォファルは感情露出型であると書いている。うまく言い当てている。これはキリスト者の姿でもあるかもしれない。彼らはある面で正しいがヨブを生かすことも慰めることもできない。なぜならヨブの真実を知らないで外面だけを見て判断しているからである。私たちは見える所でしか判断することができない。これが人間の限界なのであろう。
1sam:16: 7
しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」


最近のこと

八ヶ岳の上の方は茶色くなっているが近くの山々はまだ濃い緑で覆われている。これが紅葉となるとだいぶ寒くなっているということだろう。あの暑かった夏はどこへ行ったのかと思うほど日が差してもそれほどでもなく布団を干すのに遅くそして早く取り込まないと冷たくなってしまう。最低外気温は予報で10℃を切っているが朝晩は12,3℃かそれに近い、今朝は上に羽織っても寒かった。部屋の温度も15℃を切りつつありシャツの上に何かを羽織らないと寒くなってきた。

昨日、先月末からパスしていた速歩を今朝のゴミ出しのついでにそのまま歩いたが手が冷たくなって手をこすりこすり歩きながらいつも備えなしでその場に行って気がつくという性格が出てしまった。成り行き任せの人生は備えをするとか考えるということが苦手である。死後の備えは完璧だからこれだけしっかりやっていればいいかと考えている(私ではなく主がなさっているのだが)。信仰云々と問われれば低い山から高い山を眺めれば仰ぎ見るしかできないが八ヶ岳連峰を遠くから見ればどの山も似たようなものである。主のわざに参画できることは感謝こそすれ誇るものではない。出来ないからといって卑下したり、蔑むものでもない。自虐的に自分を慰める。

久しぶりの速歩なのでふくらはぎがすぐ痛くなったがそのまま歩いたら痛みも消えていった。これがはじめての速歩だと痛みは増すばかりだったかもしれない。いつもの器具でストレッチをやって屈伸をしたら手を握りこぶしにしても簡単に地面についた。普段はやっと手の先がつくという状態である。筋肉は鍛えないとどんどん衰える。信仰もそうかもしれない。苦手なものは避けやすいから集会などで奉仕をしている人は幸いだ。信仰のストレッチをやっているようなもの、性格上引く方だから今の小さな集会にいるということは苦手なメッセもしないといけないので感謝すべきことかもしれないがいつでもどこでも楽な方を選択しま~す。しかし、主がそうさせてくれないその時は感謝します。

先月の中頃からか甥っ子が茅野にある義姉の家の庭の切る木を選定してくれたのでそれを切るために通っていた。太いのだと直径20センチはあるから結構しんどい。それをまた7、80センチ位に切っている。選定は彼らに任せてもっぱら太い木を切るのに専念している。それと石垣の隙間に生えている雑草を取るのに一苦労した。裏の方も草も木も伸び放題でばっさばっさと切ってさっぱりする。ここでも良貨は悪貨を駆逐するではないが雑木なる木はどんどん繁殖して育ってほしいのが日陰になって育たないから切ってみると歴然としている。裏は裏の畑の持ち主か大きくはみ出していた木を切ってそのままになっていたのを同じように短く切って裏の方もすっきりした。まだまだ通わないといけないが何とか一段落した感がある。そんなこんなでブログも休んでいた。

義姉はケアハウスに入居してここには戻らない。売るにしても誰かが住むにしても別に本人がいないのだからやる必要がないかなと思うがやれるところはということでやり始めた。大きい石を積み上げた石垣、広い庭と築山、家は広く、部屋数は少ないが個々の部屋が広い。色々凝っているがどこか中途半端、ダニエルが見たl幻の像を思い出した。感嘆するところもあればえーというところもある。家内のすぐ上の姉はくれれば貰うと言っていたが貧乏人がこんなの貰っても維持費を思うと二の足を踏んでしまう。売るにしても査定はお金をかけた五分の一にもならない。だから本人は売る気はないようだ。姉の家を見て、家とはそこに住む人の生き様を現しているなぁとつくづく思う。
色々とまでは行かないが考えさせられ、体を動かす機会にもなっている。

2015年10月5日月曜日

エステル記を読んで

エズラ・ネヘミヤ・エステル記と短いので読みやすい。
ここを読んでいると韓流宮廷ドラマを思い出して文言はあっさり書かれているが結構ドロドロしたものが流れているのだろうなと思う。
キリスト者にとって過ぎ越し・七週・仮庵の祭りは興味はあるがプリムの祭りはそれほどでもあるいはほとんど関心がないのではないだろうか。しかし、ユダヤ人にとってはこの祭りも欠かせない大切な祭りなのであろう。1948年にイスラエルという国ができたときの彼らの歓喜はどれほどのものだっただろうか。ユダヤ人にとって三大祭に負けず劣らず大切な祭りだったのであろう。

2015年10月1日木曜日

エズラ・ネヘミヤ記を読み終えて

旧約聖書の最後はマラキ書であるが旧約の最後にあたるのがエズラ・ネヘミヤ記である。旧約聖書の真ん中辺にあから錯覚しやすい。
旧約聖書はダビデそしてソロモンの初期が最盛期で後は坂を転げ落ちるように神から離れて周辺国と変わらない体たらくを呈している。神に選ばれた民とは思えない。あるとすれば選民意識だけであろう。しかし、わたしに帰れと預言者を通して語る神の姿は我に語る姿でもあることを実感して民の姿と我の姿がダブる。そういう意味では親近感を抱くことでもある。

どちらかと言うと下降気味の彼らの姿を見せられて少し悲しくなるがこの箇所は国を再建するという前向きの姿勢が見出されてとても読みやすいし彼らの生き生きとしたさまが文言を通して伝わってくる。いつも読んで思うことがある。エズラだけあるいはネヘミヤだけでは完成できなかったであろう。エズラは祭司として律法をよく知っていたであろう。しかし、行政能力はあまりなかったようである。それを可能にしてくれたのがネヘミヤである。この組み合わせが大切である。集会も一人のリーダーシップで大きくなることもあるがあとで問題が起きやすい。責任者も異なった賜物、能力を持ち寄って整えられた集会が出来上がる。そして祝福された集会となる。

エズラ・ネヘミヤのことでもう一つのことを思い出す。ふたつかな?戦後生まれで世界の企業となったホンダとソニーの創業者たちのことである。本田宗一郎は優れた技術者であったがお金に関してはあまり得意ではなかったようである。そこをフォローしたのが藤沢武雄であった。藤沢武雄は勿論のこと本田宗一郎一人では今日のホンダは築けなかった。二人の名コンビが今日のホンダを創り上げたのであるといっても過言ではあるまい。ソニーの井深大も然りで金銭に関してはあまり頓着しなかったようである。これと思ったら行動を起こしてしまう正確な数字は忘れたが資本金の何倍か何十倍かの金額の半導体製造装置を購入したのも一般から見たら無茶なことに映ったであろうことをやってしまう。それをフォローしたのが盛田昭夫である。そしてこのことが今日か少し前かのソニーがあったのである。藤沢武雄と盛田昭夫の働きかわからないがどこか商売上手なところも似ている。今日のソニーはどうなっているかわからないがまだ井深・森田イズムは生きているであろうと信じたい。

就職で東京の大崎駅の近くに住むようになって。少し高台に会社も寮もあった。そのがけ下に明電舎の工場があり、駅前の明電舎はソニーにそして今は高層マンション?が建っているようである。山手線の五反田と品川の中間位に小高い丘のようなところがあって八山と言われていた。その中腹?に東京通信工業の工場の看板が寮の前方に見えた。その看板も間もなく消えてソニーになったような気がする。そんな思い出があり、ホンダは二十歳前後のころスーパーカブができて仕事で乗り回していた。最初のスピード違反はこれで80キロ出して(それでも少し落とした)50キロオーバーで初犯とは言え、当時二万弱だった給料が飛んでしまった記憶がある。当時はブルーバードなどの乗用車よりスピードが出た今はそんなに出ないようになっているようであるがそれとモデルチェンジしても最初の頃とあまり変わらないそれだけ完成されたデザインであるということが言える。エズラ・ネヘミヤをはじめこの二つのコンビを観て素晴しいなぁと思いながら集会の兄姉の賜物が上手に用いられたら素晴しい主の働きが出来るだろうなと思ったりしている。互いにフォローし合える兄姉がうまく組み合わされるといいのだが組み合わせはが難しいかな…。