2015年1月30日金曜日

ショコラ

我が家はお昼の食事時に朝ドラを観る。その後時間があるときはNHKのBSで映画を観ることがある。最近ではオードリー・ヘップバーンが唯一西部劇に出演したという「許されざる者」を観た。バート・ランカスターに西部劇ではおなじみのオーディ・マーフィーとチャールズ・ビックフォードも出演している。この二人は他にも出演しているようだが若い頃は洋画はほとんど西部劇だったからその印象しかない。ヘップバーンといえばヘボン式ローマ字を作ったヘボンさんは正式名がジェームス・カーティス・ヘップバーンでオードリーと同姓である。だから何?と言われても…。

ヘップバーンがインデアンの子どもでありながらランカスターやマーフィーの妹として育つ、そこから物事が発展するが今はあり得ないインデアンが悪役で登場する。仲間である牧場主チャールズ・ビックフォードは息子を彼らに殺されてヘップバーンを彼らに渡すか絶縁するかを責められてヘップバーンをとる。血の繫がらない母親と兄弟が命がけで彼らからヘップバーンを守る。兄であろうインデアンをヘップバーンが殺し、ランカスターと結婚を予表させるシーンもあり、家族愛の絆の強さは分かったが全体にどこか中途半端な感じを受けた。ヘップバーンの唯一の西部劇として観たのに価値があったかな…。

今日観たのは「ショコラ」、どんな映画かなと一応観ていたがつまらなそうなので消そうかなと思いながら他のチャンネルを回しながらそれでも観ていたが途中から興味がわいてきて最後まで観てしまった。内容は面倒なのでウィキペディアから丸写しで失礼・・・。
ある日、フランスのある村に一組の親子(母と娘)が北風とともにやってきた。その親子ヴィアンヌとアヌークは、そのルーツである南米から受け継がれるチョコレートの効能を広めるため世界中を旅していて、この村でも老女アルマンド(糖尿病でそれも病状がだいぶ進んでいる。)から借りた物件でチョコレート店の開店する。
周囲の好奇の目が向けられる中店を開いたヴィアンヌは、一人一人の希望にぴったりと合うチョコレートを差し出し、その不思議なチョコレートの作用から村人達を惹きつけていく。とりわけ、夫の暴力に悩むジョセフィーヌ(後に店を手伝う)や、その奔放な性格のせいで厳格な娘(カロリーヌ、彼女の息子はリュック)から絶縁されているアルマンドにとっては、ヴィアンヌの明るく朗らかな人柄やチョコレートの美味しさと不思議な効果は、ひとときの安らぎとなるのであった。
しかし今は断食の期間。ミサにも参加しようとせず、私生児であるアヌークを連れたヴィアンヌの存在は、敬虔な信仰の体現者で村人にもそれを望む村長のレノ伯爵の反感を買ってしまう。この村は伝統と規律を守る厳格な村なのだ。レノは(若い神父アンリを通して)村人たちに、ヴィアンヌのチョコレート店を悪魔的で堕落したものだと説いて出入りを禁じ、またジョセフィーヌの夫のセルジュを信仰の力で更生させようと躍起になる(しかし成功せず)。
そんなある日、村にジプシーの一団が流れ着く。レノによって村人たちから「流れ者」としてボイコットされる彼らと境遇を同じくするヴィアンヌは、そのリーダーである青年ルーと思いを交わす。そんな様子を知ったレノは、ますますヴィアンヌに対する風当たりを強めていく。
追い込まれたヴィアンヌはアルマンドに悩みを告白。自分の誕生パーティーを一緒に開こうというアルマンドの提案を受け、ヴィアンヌは多くの村人やジプシー達に声をかける(そこでリュックはおばぁちゃんの顔を描いた絵をプレゼントする。少年だが良き理解者)。パーティーの席上でチョコレート料理を振る舞い、さらにはジプシーたちの船上で続きを行うことで村人たちとジプシーたちをある程度繋げさせることに成功し、明るさを取り戻すヴィアンヌであったが、その様子を見ていた村長とセルジュは彼女達に対する反感をより一層募らせていく。以上はウィキペデアより()はサル
この後でジョセフィーヌの夫によって船に火をつけられてジョセフィーヌとアヌークは危うく命を失いそうになり、その夜アルマンドはソファに眠るように静かに息を引き取る。これらのことからヴィアンヌは村を出ようとするがジョセフィーヌに反対され、アヌークにも引き止められる。それでも出かけようとして争っているうちに鞄が開いて衣類とともに中にあった壺が割れて灰(誰かの遺灰か)がこぼれる。アヌークは謝りながらその灰を手ですくう。その様子を見てヴィアンヌは少し諦めかけて下の台所に下りていくとカロリーヌは親しい人たちがジョセフィーヌの指導のもとに復活祭のために嬉々としてチョコレートを作っている。彼女たちを見てヴィアンヌは残ることに。

レノ伯爵はカロリーヌがヴィアンヌの店に出入りしているのを見てショックを受け、夜中に店に侵入して飾り付けられたチョコレートを壊すがそのカケラが口に入り、その美味しさに思わず夢中になってチョコレートを頬張りそこでそのまま寝込んでしまう。朝その様子を見たアンリ神父は驚きながら店に入るとヴィアンヌがレノ伯爵に飲み物を差し出しながらこのことは村の人たちには内緒にしておくことを告げ、伯爵は美味しそうに飲みながらもバツが悪そうに頷き、神父に原稿をまだ書いていないことを告げると神父はにこやかに自分が考えていることを話しますと伝える。今までレノ伯爵チェックされての原稿だったから不本意なところもあったのだろうと思う。翌日、神父は微笑みながら「神の神秘性は奇跡についてではなく人間性について語り、人間の価値は何を受け入れられるかによって決まる」と語った。この言葉は村人に受け入れられ、村が変わる予表を見る。そして村の広場で賑やかに復活祭を祝う。ジョセフィーヌはいなくなった夫セルジュの店を継いで「カフェ・アルマンド」の名前で開く、そしてダーク調の映像がカラフルな映像へと変わっていくのが印象的であった。

この村は、伝統と規律を守る厳格な村で、敬虔な信仰者である村長のレノ伯爵はその体現者であった。そしてそれを村人にも求め、若い神父の原稿とチェックし自分の意向に書き換えさせていた。
映画を観ているうちにホーソンの「緋文字」とダブるようでつい引き込まれるように観てしまった。アメリカ映画だから?ジプシーのリーダーであるルー(ジョニー・ディップ)も帰って来てどこかハッピーエンドだが・・・。

「緋文字」では最後のところは不倫によって生まれたであろう子が母親に抱かれて母親の胸に縫い付けられた紅い「A」(adultry、姦通)の文字をいじる仕草が印象に残る。母親はそれを縫い付けられた服を一生着て生きていかなければならない。その娘が大きくなった時どう思うか。愛のない夫、真実の愛のためにか「A」を縫い付けても生きる強さ、それをしっかり娘にも伝えられるようなそんな感じを与える。真実を告白しなさいと迫りながら自分から告白できない弱さを持った若き牧師、そしてその弱さの故か耐えかねて自ら命を絶つ。「罪」は正義を纏っているようで命が無い。人を生かす力はなく殺す力を諸々のところで発揮する。

人間性をむき出しにしていいのかそれとも抑えるべきか?二面性があるから簡単にjは言えない。
聖書でイエス様もパウロも律法主義者を強く糾弾している。人は律法的になりやすく、それが人をがんじがらめにする。そして守れる人は自己満足するが守れない人を疎外する。これが「罪」のひとつの姿であり、アンリ神父が言うように「何を受け入れられるか」の問いかけにどう答えるかでひとつの結果がわかるのかもしれない。

2015年1月27日火曜日

速歩

インターバル速歩を初めて4月近くなる。湖畔端を1.5キロを往復し、初めの頃は3分速歩、ゆっくり時に3分、6分、10分と歩いていたが今は行きはほとんど速歩で帰りは三分の二程速歩になっている。最初は折り返し地点近くなるとふくらはぎが痛くなり、帰りはゆっくり歩いて帰ることが多かった。そのうちふくらはぎは痛くならなくなったがふくらはぎの前の部分が痛くなるようになった。今も長く速歩をやると痛くなる。月一回の講習で講師がストレッチをさせるのだが体の硬さがてき面にわかる。体を動かしている時に使う筋肉とストレッチの時に使う筋肉は違うそうだ。この使わない筋肉をほぐして腰痛や筋肉痛を防ぐ、諸々の効果に効きそう。確かにストレッチはゆっくり歩く分にはいいのかもしれないが速歩をやると必要性を感じる。運動しないと段々体が硬くなっていくからストレッチは出来たらやった方がいいのだろう。普段はほとんどだが体を柔らかくしておくに越したことはない。それに寒い日には体が暖かくなる。暖かくなるといえば半分くらい歩くと体が温まってくるのがわかる。冷たい風を受けながらも体がほてるのは気持ちがいい。一週間に60分歩けは結果は出るとのことだが3月の結果が楽しみである。しかし、お腹のまわりはあまり変化がないし30分くらい歩いても200カロリーに満たない消費である。それにつまみ食いもするしこの辺は少しセーブしないと思っている。今日からコーヒーはそのままでおやつは控え目にしたが今日だけで終わるかはたまた…。後二ヶ月、最低のノルマをこなして、結果を見たい。良ければその後も頑張るが変わらなかったらどうしよう?それでもがんばります。

2015年1月26日月曜日

捏造された聖書 続き

この本に興味があるわけではないが考えさせられることもある。今手にいしている聖書は完成されたものとして読んでいる。その成立もそれまでの経緯も知らないし知ろうともしなかった。なぜなら完成されているからと。今の聖書が確立したのは四世紀末といわれる。それだけ時間がかかったということだ。新約聖書の書かれた年代を見ると一世紀半ばから二世紀初頭である。それなのに新約聖書27巻となるのに三世紀前後かかったことになる。勿論、その間クリスチャンは内には異端、外には迫害に会い、書簡を維持することは大変なことであっただろう。

使徒の働きを見ると福音が燎原の火のごとく伝わっているのがよくわかる。しかし、パウロ書簡を見ると一変しては大袈裟かな?しかし、律法回帰や異端が既に始まっている。今日のキリスト教会の姿を丸写しのように見える。パウロをはじめ指導者たちの苦労は大変なことであっただろうと想像できる。教会が順調に推移して行ったわけではない。そのようなことを考えるときちんと聖書が整っていたわけではなく、パウロの手紙が回覧されたりしたことであろう。グーテンベルクが印刷機を発明するまでは膨大な写本がなされていたことは自明の理である。そこに一字一句も間違わずということはあり得ない。それにオリジナルが不明なのであれがなおさらであろう。著者も書いているが間違っていてもそれは善意から出ていると確か護教的にあるいは読者にこの方がわかりやすいだろうと書き換えたかもしれない。

イザヤ書は第一(1-39章)、第二(40-55章)、第三(56-66章)に分かれていて、年代も著者も違うと主張している人たちがいる。イザヤを一書と捉えているのは福音的な教会だけかもしれない。著者はいくつかの具体的な個所を示して書かれていたが学者にとって大切なことでも信仰者にとっては些細なことかなと思ったが結論が短絡過ぎるか。今、整えられた書としての聖書を手にしているがそれをどのように理解するかでも個人的な改竄や捏造はあり得る。著者もそのことに触れている。先人たちが命を懸けて守り、そして日本語に翻訳されて無学なサルでも読める。二千年をタイムスリップしてイエス様の言動、パウロの喜びと苦悩を身近に覚えられることは感謝なことであり、今手にしている聖書を「誤りなき神のみことば」として受け取れることこれで充分である。

2015年1月25日日曜日

素人発想

むのたけじ氏が安倍首相に対して「美辞麗句を並べるが肝心なことを言っていない」このようなことを何かで書いていた。まさにそうだなと思う。この国を変えようとしている意気込みはよくわかるがその結果がどうなるかがわかって言っているのかわかっていないのかがわからない。しかし、懸念している方向に行こうとしているのはよくわかる。アベノミックスも表面的には順調のようだがポロリポロリとほころびが出始めているようだ。人道支援に2億ドルの拠出を決めたが人道支援なら中東の地では広い視野で総合的になされるべきであろう。武力ではなく人道的は結構なことだがやることがあからさまである。しっぺ返しのようにイスラム国から人質と交換に2億ドルを要求されている。そしてヨルダンで対策本部を置いたお蔭かヨルダンに捕らえられている囚人との交換を持ちかけられている。無定見と言っては失礼だがそれに近いのではと思ってしまう。だからこのようなことが・・・。ある意味で思慮というか深い洞察力に欠け、表面的に物事をとらえているようで仕方がない。善し悪しは別にしても何故そうなったかを問うような姿勢も見えないし、聞いていると言葉の遊びをやっているようで言葉が軽い。安倍さんが長期政権を続けるなら日本は滅びに向かっていくことだろう。日本の良心はどこに・・・。

召天式に

先日A姉妹の召天式が以前いた集会で行われるので家内と列席する。
家を9時前に出て、諏訪インターから高速に入り、談合坂で少し休憩し、石川パーキングエリアで軽く昼食をとる。以前寄った時は改装中でコンビニしか開いてなかったが今は広くはないが3軒の店が並んでいた。そこに吉野家があったので家内は気が進まなそうだったが不味い美味しいは別にして懐かしくて並み丼を注文する。そのあとコンビニで今流行りのコーヒーを飲みながらワッフルをかじる。少しくつろいでから世田谷へと向かう。駐車が心配だったが近くのコインパーキングが空いていたのでそこに止めることができた。

少し早かったが何人かの兄姉と挨拶を交わして二階に親族がいるというので伺い短く言葉を交わす。長い闘病と看病で大変だったろうなと思っていたがむしろからっとしていてご主人のH兄もそれほどでもなく安心した。クリスチャンの葬儀は一般の葬儀に比べて湿っぽくないので何となく心休まる。一般の葬儀では死はすべての終りだから悲しみ一杯だがクリスチャンの場合は新たなスタートであり、また会えるという気安さかどこかカラッとしているのだろう。しかし、連れ合いを失くされた寂しさを感じていくのだろうと思うと心が少し重くなった。主が慰めてくださることを心に祈り願いながら式場の三階へと向かう。

先週の土曜日は若い兄姉に会えたが今回は年配の姉妹たちに会うことができてうれしかった。このようなことがない限り会う機会がないのでA姉と主に感謝する。M兄のメッセージも何時も聞くのと違ってまたよかった。ノンクリちゃんの方にはどのように聞こえたか「死は終わりではなく新しいスタート」であることは大きい。型通りの式が終えて飾花になっていくつかの花を頂いて棺に入れたが痩せてふっくらした姉妹の面影はないのが残念だった。私もそんな遠くない日に会えると思うとふっくらした姉妹をそして心置きなく語り合おうと心の中でつぶやく、これで帰ろうかなと思ったが人も少なく誘われたので一緒に火葬場まで行くことにした。主だった兄弟たちがノンクリスチャンと話をしているのを見てさすがだなぁと思った。自分には出来にくいことだが励みになりました。

集会場に戻り、帰る段になってT姉が電車で帰るという。歩くのも覚束ないのに歩行器を持ってきたから大丈夫と言う。事実普段もあの体で出かけているらしい。あのバイタリティには驚き、そしてその行動にあきれてしまったが元気づけられるというより弱音を吐けなくなったのが残念である。東京に居たときはよくY姉と二人を一緒に送ったので昔取った杵柄ではないがじゃぁ帰りがけに送ろうと、そんなことを話をしていたら喪主のM姉が叔母を近くの駅まで送ってと言われ、連れの方と送ることにする。経堂駅も豪徳寺も夕方で通行止めで仕方なく梅ヶ丘に向かうが曲がるところをまっすぐに行って少し回り道をしてしまった。国士舘の脇に出て、以前は狭い道だったが今は梅ヶ丘の方まで広くまっすぐな道になっていた。暗くなっていたからよくわからなかったが大学も大きな建物になって様変わりしている様子、怪我の功名ではないが回り道してよかった。叔母と言われたI姉は召された妹さんでそれほど会っていないのに気さくな方で昔から色々親しく話しかけてくださる。この二人の肉親であり霊的な姉妹たちとはどこか気が合う。否、合わせてもらっている。この方たちは、飾らず本音をポンポン言うから楽しく尚且つうれしい。彼女もだいぶ足腰が弱っているようでお大事にと声をかけてお二人を梅ヶ丘の駅に下して、浜田山にと向かう。狭くて暗いので適当に走ったら世田谷線の松原駅に出た。そのまま線を横切るように走り、桜上水駅近くの水道道路に出て駅へ、甲州街道へ、その先をUターンしてやっと送り届けることができた。引っ越してもう送ることもできなくなったかと思っていたがどっこい送ることができ、I姉共々車中交わりができて感謝であった。こういう恵みもある。

そこから高井戸の環八に出る予定だったが狭い道でごちゃごちゃ走ったら高速下に出て、Uターンしながら高速の下を走り、久我山の駅の近くを通り東八道路に出る。勿論、適当に走っての話。東八のどこから曲がろうかと思案しながら走り、調布の先から甲州街道に出て、セルフのスタンドでガソリンを入れ、府中、国立と走り、立川、日野、そして豊田を過ぎて、バイバスのところで食事をし八王子から高速に入り、双葉で休憩し帰ってきた。以前だったら12時過ぎると半額になるのでそこまで粘ったが今3割なので12時近かったが我が家へ。明るかったら道に迷うこともなく、新しくできた道を通って色々脇道をしながら帰れたのに暗くて何となく通ってしまったのが残念であった。でももうこの道も通ることはないかと思っていた道々を通れたので気分はよかった。それに兄姉に会えてこれも大きな感謝、それに、あまり疲れもぜずに無事帰ることができて主に感謝する。残されたご家族の平安と主のお守りを祈りながら床に就く。

2015年1月24日土曜日

捏造された聖書

正月に息子が置いていった本の題名である。読んでみればタイトルほどのものではない。まず第一に一般の出版社でキリスト教関係の本を出すとなったらタイトルは大袈裟でなければ読者は興味を示さない。キリスト者が興味を示しても数はたかが知れている。それと翻訳者がキリスト者でも聖書に詳しい人でもなさそうで普通の本訳者のようである。だからか預言という言葉ではなく予言という言葉を使っている。訳者が引用した共同訳聖書のことばは現在の新共同訳聖書ではなく以前のものを用いている。訳者が聖書にどの程度関心を持っているかがこの辺で何となくわかる。

訳者あとがきに「ややスキャンダラスで陰謀論的な香りのするものになりましたが、一読された方にはお判りの通り、内容は実に健全かつ学術的で、スタンダードな現代聖書学の成果を解りやすく伝えるものになっています。昨今話題の『ダ・ヴィンチ・コード』などとは一線を画する正統派の著作…」と書いている。著者はバート・D・アーマンという新約聖書の本文批評を専門とする大学の先生である。直訳した題名は「イエスの誤引用―聖書を改変した人々とその理由の背後にある物語」だそうだ。本の中にも出てくるが「改竄された聖書」それも一部ではあるがこの方が適切かも?

著者の生い立ちが書かれていて、南部の保守的な地に育ち、勿論信仰も保守的である。我が信仰の背景と似ているかなぁと思う。高校生になって日本でいうKGKのようなグループに入り活動し、そこで本では「再生」という言葉を使っているが新生を経験する。そして「キリスト教の信仰に身を捧げることを当然と思うようになった。つまり、ムーディ聖書研究所に入って、フルタイムで聖書の研究に励む…。」 ここは禁・酒、タバコ、ダンス、トランプ、映画で暇があれば聖書。生まれ育った諸集会とそう変わらない。入学して誓約されたのが「聖書は無謬なる神のみことばである」。そして「聖書には唯のひとつも誤りはない。一字一句に至るまで完璧に神の霊感によって書かれたものなのである―まさに『言葉による絶対霊感』だ。・・・この観点を前提として教えていた。それ以外の観点は誤りかもしくは『異端』とされた。・・・

「聖書が― 一字一句に至るまで―霊感によって書かれた言葉であるという主張には明らかな問題があった。ムーディのカリキュラムの最初のコースで習うのだが、新約のオリジナルなんてものは、世界のどこにも存在しないのだ。あるのはただこれらの文書の複製だけであって、それも何年も後に―というか、ほとんどの場合、何百年も後に―作られた代物なのである。しかもその上、その複製なるものも完璧に精確であるというわけではない。というのも、それを写した初期たちは時には不注意いよってそして時には意図的に、元のテキストをあちこち改竄しているからだ。ありとあらゆる書記がこれをやっている。つまり、今日の私たちが手にしているのは霊感を受けた言葉の書かれた聖書の原文(すなわちオリジナル)なのではなく、その原文の複製、しかも間違いだらけのやつ、というわけだ。そんなわけで、聖書のオリジナルには何が書いてあったかを査定することこそが死活の急務となる。何といっても、(1)それは霊感によって書かれた素晴しいものであり、しかも(2)その現物は存在しなんだから。」 ここで「本文批評」(原文に改竄を加えた写本を分析し「オリジナル」なことばを再現する学問)を志すようになった。「」は本文引用

確かにヨハネの福音書3節後半から4節は括弧付きではあるが口語訳聖書には書かれているが新改訳聖書と新共同訳聖書には書かれていない。しかし、新改訳では欄外に、新共同訳では各書の最後に異本文が書かれている。それとマルコの福音書の最後も然りである。

2015年1月23日金曜日

最近、イスラム過激派の行動を見て罪ということを考えている。
彼らの行動は多くの人たちの非難の的である。非難する基準は何だろうかと考えるとそれはヒューマニズムではないだろうかと思う。ヒューマニズムは日本語に訳すれば人道主義、あるいは人文主義と言われ、人間中心主義と見ることもできるだろう。そこには神は存在しない。

ハーベストタイムの中川牧師がイタリアの訪問記を書いていたが寺院を見学してそこにユダヤの息吹が何もないことを書いていた。考えてみればキリスト教はユダヤ教から旧約聖書を受け継いでいる。物事は単独では存在しない。あるいは今あるもの前の何かから受け継いできたものがほとんどである。突然変異で生まれたものはない。あるいはそのような主張する者はそれはまがいものであることは間違いない。カトリックのひとつの過ちはユダヤ教、ユダヤ人から大いなる遺産を受け継いだのにそれを断ち切ったことだ。あるいはプロテスタントも然りかもしれない。なぜならもし彼らがそれを理解していたらユダヤ人迫害なんか起こるはずがない。間違った捉え方をしたからその結果がアウシュビッツにつながったと思っている。神に創造されながら神との縁を切った人間の姿をここでも見ることができる。

イエス様は、
matt: 5:27
『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
matt: 5:28
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
と言われました。このことばをを通して、私は姦淫していないという男性は誰もいないだろう。もしいるとしたらその人は正常な男性ではないと言っていいかもしれない。この聖書のことばは人の目には見えない心の状態を問いかけている。この論法で行けば人は殺人を含めありとあらゆる悪を行っていると言ってもいい。人には表に出たものだけが問題になるが神は人の思う思いを問われる。ある意味でヒューマニズムは表面的なものを問いそして判断する。ある意味で根本的な解決はできない。表面的なものを繕いばいいからである。そしてこの地上の営みはこの不完全なヒューマニズムでしか解決することができない。何故不完全かといえば、
gen: 8:21
人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。
と聖書は言っている。根本がこれであれば結果は明らかである。糖衣錠の薬のようなもので表面は甘くても中は苦い。

rom: 6:23
罪から来る報酬は死です。
地上の諸々の営みの最後は死で終わる。死は罪の結果の姿であると聖書は教える。罪はエセ解決を与えても真の解決は与えてくれない。中東の地も貧困が解決すればイスラム過激派もいつかは収まるだろう。彼ら自身を問う前にこれらの発端は欧米諸国がつくった彼らの搾取が今このような形に現れたと思っている。それらが明らかになる時がいつか来るだろう。その時は罪も解決するときでもある。地上に平和が訪れるために地上に神の主権を確立してほしい。

どこか冷めた目で、いつものパターンで「風が吹けば桶屋が儲かる」式の三段論法になってしまった。

2015年1月20日火曜日

訃報

以前から療養していたA姉が召されたことをK兄がメールで知らせてくれた。こちらに引っ越してからも一度訪ねたことがあった。その時は胃瘻を施していて聞くことができたが言葉を発せなかった。
どこから出るのだろうと思うほど強い力で私の手を取り手のひらに指で文字を書くがわからず目は必死に何かを伝えようとしていたのに全然わからなくてあの時ほどつらいことはなかった。姉妹は誰とでも気さくに話されて普通は遠慮するようなことでも平気で質問されたりしてそんな姉妹が好きだった。骨折などで聖マリアンナに何度か入院されたりして、退院されたら年配の姉妹たちの勉強会「ちいろば」に参加するのを楽しみにしていたのに退院してはまた入院そんなことを繰り返してついぞ参加することができなかった。年配の姉妹たちの中では一番聖書に興味を持っておられてその探求心は尋常ではなかったのに病や骨折で叶わなかった。地上で願いは叶わなかったが今は主の御許に居られるのかと思うと慰められる。

身近に面倒を見ていたご主人のH兄、娘さんであるM姉、彼女は小さな子供さんを育てながら仕事をし、そして家族を見てきた。細腕で大黒柱となって働かれたその苦労は並大抵のものではなかったろうにと思うと頭が下がる。わたしには到底できないことである。残された家族に平安と慰めがあるようにと祈る。

2015年1月16日金曜日

冷めた目で

イスラム過激派の行動が世界のヒンシュクを買っている。
少女をテロに使うなんてどういう料簡を持って行動しているのだろうかと思う。
イスラムの教えとはどういうものなのだろうと思うが多分その教えからも離れているのだろう。

先進国と言われる国々はそれなりの歴史を踏まえて今日がある。その歴史を振り返れば目を覆うようなことをしてきたのではないだろうか。70年前に原爆を投下したアメリカは日本人を黄色人種としてある種の蔑視があってのこともあったと思っている。僕ら子供の頃の西部劇はインデアンは悪役だった。今そんな映画は作れない。それだけ社会が成熟しているのだろうと思う。それでも白人以外の人たちに対する蔑視の感情は消えていないのことは色々な事件を通して教えている。振り返って単一民族と言われる日本でアイヌに対する差別は厳然と生きている。そこにあるのは貧困と絡んでいるからなお現実が見えないように思う。沖縄然りである。単一なんてどこを見て言っているのか疑問であり、例え単一でもそこにも差別はある。それは一つの結果だから。

カトリック国であるスペインはユダヤ教から改宗してキリスト者となったユダヤ人を残忍な方法でそれも当然のように殺したりしていた。小岸昭氏が「マノーラの系譜」で書いている。イスラム過激派の行動は欧米と時間差の問題で同じことを行っていると思っている。だからゆるされるということではない。そこにあるのは神から離れた人間の罪の問題が深くかかわっているのではないだろうか。

罪は永遠の世界から限りある世界となってしまった。いのちから死がはいってきてしまった。穏やかに死んでも殺されても死は死である。すべての終わり(現実にはそうではないが)でその先はない。生きていても目を覆う悲惨さがある。過激派の行動の非難することはできてもそれをやめる力はない。彼ら自身にもない。それが罪の結果のひとつの姿ではないだろうかと思っている。

神は生の悲惨な現実を解決するために、人々が求めるような形ではなく、神が人となり、イザヤ書53章の姿をとって来られた。キリスト者が救いを語っても歩むことのできない道である。どのような方法でも解決できない死の解決を成してくださった。死が解決するということは神との関係が健全なものになったということでもある。いつか主が来られたら死も悲惨もあらゆる悪は消えていく、この世は時間とか死はなくなる。
job 38: 2
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
私です。

2015年1月15日木曜日

正月もあけて、もう


流れに身を任せるような三が日も過ぎ,そして一週間も過ぎ、もう月の半ばに差し掛かっている。光陰矢の如しというと大袈裟だが正にその通りである。しかし物事を効率よくやることも大切かもしれないがこんな時があってもいいような気がする。野球では三割バッターなら優秀な選手である。でも十本のうち七本はダメだということでもある。人生三割で十分と自己弁護的になるが実は「一割にも満たないよ」と主に言われそうな雰囲気も無きにしも非ずでもある。「一割?そんなに・・・」と、もう一声かかりそうだがより現実に近いかなと気持ちは控えめに、しかし効率一辺倒は罪からくるものではないかなと思っている。なぜなら神は役にたたない者を選び、価値を見出してくださった。実際にキリスト者の中ではこのようなことが通用しているかといえば疑問であり、罪赦されているとはいっても罪の価値観の中にあるような気がしないでもない。
1cor: 1:28
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
rom: 3:24
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

人生に於いても一年という月日に於いてもこんなことがあるから次のステップを考えることができるのではないかなぁと思っている。正直もういいかと思うところと、もう一頑張りという思いが交錯している。勿論頑張ったってたかが知れているが自分の中での話である。まだ正月ボケが抜けていないなぁが実感。


2015年1月8日木曜日

年なのか

暮れに右目の上の部分に何となく違和感があったのが年が明けた途端に朝起きると右目を開けようとすると眩しくてよく目が開けられなかった。それにゴロゴロ感があり、休日の緊急医に眼科はなし、午前中はこんな感じだが午後、そして夜になるとゴロゴロ感はあっても眩しさがなくなる。そんな日が四日も続いて五日目にようやく医院が開いたので行ったら角膜が傷ついているとのことだった。目を開けてと言われてもまぶしいので開けられず先生が瞼を開けて強い光と何やら機械でジージーといじられて一時はどうなるかと心配したがとりあえず痛みが治ったのでホッとする。薬を一時間ごとにと寝る前に軟膏をと、そして麻酔で治療したから切れたら痛み止めを飲むようにと言われて、あれだけやって麻酔が切れたらと思うと不安になった。もらった薬が服用後再度飲むときjは6時間後と但し書きがある。いたって臆病だから6時間経たないうちに痛くなったらどうしょうと余計な心配をしたが薬飲むほどの痛みがなくてホッとする。もしかして我慢強いのではとついいい気になってしまった。人間って現金なものである。俺だけかな?

これから同じようなことが起きるよと言われエッと思ったが先生も細かい説明をしないし、混んでいるので詳しく聞くのも聞いてわかるかどうかも疑問だったので二・三日したらまた来てとのことで薬の処方箋をもらって薬局で薬をもらい点眼している。昨日行ってきたが経過はいいみたいだ。強い光でも眩しさはそれほどでもなく苦痛もなかった。最後にコンタクトを看護士さんが入れてくれるのだが最初のときは目が開けられなくて苦労していたが二回目は簡単にいれられた。気が付かなかったが治療する前からそうだったのか治療した目が片眼で見ると曇りガラスを通して見ているようで少しぼんやりする。気持ちなしか少しづつよくなっているような気がするが完治するのか先生に聞いてみよう。

ひどかった朝に医院に出かけたときは眩しくて左目までも開けておられず事故を起こしそうになった。右手で目を覆い左手でハンドルを握ってようやく医院にたどり着くことができた。あの時のことを思えば少し霞むくらいはどうってことない。若いときから耳鳴りをして難聴気味、年開けてから家内の問いかけに何度も聞き返している。暮れにはに詰めたのがとれ歯医者にも行かないといけない。この歯がどうゆうわけか強く噛めないのである。目、耳、歯と大事なものがおかしくなってきている。丈夫そのものを望むわけではないが目が見え、耳が聞こえ、歯でなんでも噛めるのは当たり前だったが今は恵みだと思わされている。自分が欲することなんかはどうでもいいことなのだなぁと思わされるがそれでもあれがないこれがないとと不平を言っている。駄々っ子みたいである。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。


確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

年を取ってくると色々と失うことが多くなってくる。生活に不便を感じるがヘレンケラーではないが「不便であるが不幸ではない」の言葉を思い出す。本当に大切なものって失ってはじめて知ることができるのかもしれない。自分に力があれば神を必要としない。自分の力できるから感謝してもそれほどのものではないであろう。神を必要とし、神のわざは弱さを通してしか働かないことをパウロは告白している。そのことを喜んでか感謝してか経験できたらと思う。

2015年1月7日水曜日

三が日余話

二日に帰った息子が弁当箱より小さいインテルNUCなるパソコンを持ってきたがうまく動作せず持ち帰った。出来上がってもどうこなせるか解らないが楽しみでもある。それと「捏造された聖書」なる物騒なタイトルの本を置いていった。これは読み終えたらコメントを書こう。

三日の午後に郵便局に行ったついでに足を延ばして諏訪大社下社秋宮に寄ってみた。人はそれほどでもなく、店も少なく、大勢来てほしいというのではないが少しがっかりした。若いときの明治神宮の人だかりを知っているし務めていた近くの神田明神の人出も知っているから比較するとその比ではない。それでも元日は大勢来ていたらしい。

秋宮に上る坂の手前の交差点にキリスト教の幟を立てているのを見かけて、暮れに秋葉原や新宿などの繁華街に出て幟を立てているのを思い出して思わずどちらか来られたのですかと尋ねたたら下諏訪の教会の方だった。反対側に牧師といっても若い方で子供さんもまだ小さかった。昨年の秋に以前いた集会のH兄姉ファミリーがその教会にお世話になり、お互いに名前だけは知っていたので少し話をする。T兄姉ファミリーの姉妹はその牧師の妹さんと学生時代からの親友とかで何度か尋ねて我が家にも泊まっている。その妹さんも今年出産するとのことで12月末に難産で出産したのにその時は尋ねたいとのことでその元気の良さに驚いている。H兄が名刺をもらってきて会いたいとの伝言を受けていたがこんな形で会うとは、いつかは会わねばと思っていたがこんなに早くこんな形で会うとは不思議なものである。いつかゆっくりと交わりたいものであると思うがその前にどこかノンポリ的な信仰をシャッキとしないと交われないなぁと思った。後期高齢者になろうとするのに新たなチャレンジを受けるようなどこか外堀を埋められるようなそんな複雑な心境にさせられた。

ブローマン式の伝道には多少の違和感があったが田舎にもパンフレットを配ったりしているのを見るにつけ、それに知っている人がやっているのを見ると考え方を少し修正しないといけないかなと思っている。僕らはこのようなことはできませんと言ったら教会によって色々伝道方法がありますからと言われた。まさにそうだなと思う。カトリックの人に言われたことがある。「プロテスタントはなぜたくさんの宗派があるの」と、その時は答えられなかった。しかし、今は「クリスチャンが喜んで集いる場所を提供するために」と言える。正しいかどうかわからないが今集っている教会に集うことが難しい信者が他のところで喜んで集っている姿を見れば正解かなと思っている。そう単純ではないが。

2015年1月6日火曜日

箱根駅伝に思う

もう二日も過ぎてしまったが感じたことを書いてみたい。始まる前はドラマを期待するようなことを書いたし事実それを期待していた。しかし、終わってみればドラマなんかではなくすべてが感動である。青山学院の優勝も素晴らしいがどれだけ優秀な選手を集めたのかわからないが優勝へ導いた監督も偉いなと思った。早大の監督のようにスポットライトを浴び続けた人もいるがこういう人がスポットライトを浴びることはうれしいことである。アクシデントに見舞われた選手もいた。ちょっとしたことでアクシデントに見舞われる。責めることのできない物事である。

関東地区?に多くの大学があり、その中から選ばれた20校、そして、その大学には部員は何十人といる中から選ばれた選手である。しかし、一人一人の実力は違う、リードしていても抜かれ、デットヒートしても抜かれる選手は抜かれる。実力の厳然たる世界である。走ることは名誉であろうが必ずしも栄光を受けるわけではない。個人ではなく学校の栄誉を担っているが故に時には挫折を感じる選手もいるだろう。しかし、挫折も栄光もこれからという若い彼らにとっては人生の大きな糧となるのだろうと最後の選手のゴールを見ながらそんなことを思った。

三が日

三が日はアッという間に終わって今日はもう六日である。一日一日をのんびり過ごすとこうなるという見本のような三が日であった。信州に来てから朝に前日のことを書いていた日記も年開けてからは少し書いてやめることにした。思い出して書くのも億劫になった所為もあって一つの区切りとする。もう頑張ることはやめるようにしようと思っている。といっても前にいた集会で学び会があるのでそれに参加しようと安いバスで日帰り往復を考えている。昨年の群馬ではないが行けば親しい人に会えるかなとそちらがメーンのような参加なのである。しかし、一昨年に上尾市にある聖学院大学での講演会に参加しようとしたが大雪で高速が通行止めで行けなかった。行けるかは雪次第、でも今年はチョクチョク上京したいなと思っている。今日、文明の利器が発達して色々の方法があるが直接顔を見たいのはアナログ人間の習性である。ちなみにその一週間後に同じメッセンジャー、同じ場所で集会の責任者の学び会があるがこれには若いO兄が参加する。学び会などはほとんど参加していないと思うが大いに刺激を受けてくることを期待している。老兵は消え去るのみそして我が道を行けるようにと願う。既に行っているかな。

2015年1月2日金曜日

新しい年を迎えて

タイトルは格好いいが現実はいたってものぐさである。
大晦日に寝たのがもう日もそして年も変わったのが2時頃だったので必然的に朝は遅い。起きたのが9時半過ぎかな家内はTV を観ながら朝食のお雑煮を用意している。実は我が家は元日が高崎の社会人の駅伝、2日3日は箱根駅伝で新年が始まる。私は社会人はそれほどでもないが箱根はつい観てしまうといっても淡々と走っている中盤はついうとうとしてこたつで寝てしまうことが多い。往路の今日も然りで4区は寝てしまった。走者は真剣であり、苦しいであろうことを思いながらドラマを期待する。今日も山登りで青山学院がトップになり区間新を駒大はアクシデントを起こしてしまった。参加している大学を見ていると移り変わりを見る思いがする。箱根駅伝の純粋なファンではなくまことに不謹慎なファンなのである。一年の計は元旦にありと言われるがもうすでに1年の結果が出てしまった。だからといってメゲテイナイところがいい加減なところである。

年越しの前後を思うときにいつも思い出すのは軽井沢の白糸の滝に行く途中を右折して山道をしばらく行くと峠のようなところがある。その脇に駐車場があってそこから7,8分階段を上がると高台が公園のようになっている。その真ん中辺に長野県と群馬県の境になっている。一歩踏み込めば群馬県、バックすれば長野県、たった一歩で両県を往復することができるしまたいで立つこともできる。鉄人28号(古いがこれしか知らないので)でもできないようなことができる。お前馬鹿かと言われそうだが、言われて否定できないところがつらいところでもある。

12月31日から1月1日と年が変わるのもおんなじだなぁと、段々年末とか年始の行事を行わなくなってしまったから昨日と今日があって明日があるみたいな感じで区切りは普段の一日の区切りにしかすぎなくなった。それがいいのか悪いのかわからないがこれで行くしかない。前にも書いたが仏壇屋の広告塔に「心は形を求め、形は心を求める」というのがあった。人は形ある物や何か記念になるようなものを求める。そういう意味では新しい年を迎えて新しい思いになって何かをしようとするには格好のものであるかもしれない。それはそれで悪くはないがそれほど変化のある生活をしているわけではないのでそこで新しいことをという思いは少ない。あるいはできない。

信仰とは人間の側からの応答であると思っている。それは常に人間の側のアクションが伴ってくる。結果的にそれによって私を測り他人を測る。善意であってもどこか非信仰的になってくるように思う。このところお天気が良いので日が差し、寒いが布団も干したりしている。寒い信州では太陽の恵みを実感できる。だからといって拝まないし、太陽に感謝しないからお天気が悪いと思ったこともない。わたしは不変ではないから絶えず変わっている。それに伴ってお天気も変わるということはない。これと同じように神も然りである。この方は不変な方であるから私がドウコウで変わる方ではない。雲があり、雨が降っていてもその先に太陽があることは誰も疑わないし自分の言動によってこれらが左右されるとも思はない。寒い信州で太陽を渇望するように主を渇望する者でありたい。サタンは罪(諸々の)によって神との断絶を囁くが神は「あなたは、どこにいるのか」と身近におられて尋ねる方である。そしてサタンは罪の故に人が神を恐れて避けるようにと誘導する。そのように思うがこの辺を極めたい。そして、「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」とある。単純に明快にこのような方をこのように告白したいものである。