2015年2月28日土曜日

一つの死

昨日、二歳と四歳の子供が焼死したニュースが流れていた。幼い子供を残して出掛けるなんて何でと思ってしまった。今、一人の少年の死が話題になっている。それと知らなかったがある大学病院で子どもには行わない強い薬の投与で13名の幼い命が亡くなっていたことを知った。

大人ならいいというわけではないが少年や幼い命がと思うと心が痛む、それは難しいことではあろうが誰かがちょっと気を利かせていれば防げた命であったかもしれないからである。そして命の価値は誰一人として変わるものではないが死を通して違うことを教えられる。ある人は惜しまれ、ある人は当然のように、そこには真の命の尊さなんてないだろうなと思う。生が厳粛なものであれば死も厳粛なものであろう。騒げば騒ぐほどどこか命に対する軽さを感じる。「人の命は地球より重い」と言われたことは逆説的に言えば「羽毛より軽い」ということかと思ってしまう。人には軽重云々言うことはできない。命は神が与えたもで人が測ることのできないものである。人の命の尊さはイエス・キリストの受肉、十字架、復活を通して教えているような気がする。一人一人イエス様は価値を見え出しているがヤコブは人はこんなものだよと語っているようでもある。こんな箇所を引用するとは私も視点が貧しい。


あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、jas 2: 3

          最上のわざ

この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになう--。
若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、
弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること--。

老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために--。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事--。

こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ--。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために--。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と--。


Hermann Heuvers

2015年2月25日水曜日

          シメオンの祈り

来てください、真の光。
来てください、永遠の命。
来てください、隠されている神秘。
来てください、名づけられない宝。
来てください、言い表せない実在。
来てください、想像もつかない御方。
来てください、終りのない幸せ。
来てください、沈むことのない光。(…)

来てください、
いつも不動でありながら、
絶えずそのすべてを私たちへと動かし、
近づいてくださる御方。(…)
来てください、
わたしの無力な魂が昔も今もあこがれ続けている御方。(…)
来てください、
わたしの中のあなたへのあこがれも、
実はあなた自身。

あなたによって、わたしはあなたにあこがれる者となったのです。
あなたは完全に近づくことのできない御方。
来てください、
わたしの息吹、わたしの命。
来てください、
貧しい私の魂の慰め主。
来てください、
わたしの喜び、わたしの栄光、わたしの限りない幸せ。(…)

わたしにとって、
かげることのない光、沈むことのない太陽になってくださったことを感謝します。
あなたは隠れる所をもたず、宇宙はあなたの栄光で満ちています。
あなたはどんな人にもけっして身を隠すことがありません。
むしろ、わたしたちの方が、
あなたに向かうのを拒むたびに、あなたは身を隠しているのです。
しかし、あなたがその身を隠すところなどありましょうか。(…)
誰一人として、あなたが顔をそむけたり、拒絶したりする人はいません。
そのようなあたが、なぜ身を隠されることがありましょうか。

主よ、どうか来てください。
今日、わたしのうちにあなたの天幕を張り、そこをあなたの住まいとされ、
いつまでもけっして離れることなくお留まりください。

あなたのしもべであるこの私のうちに、いつくしみ深い御方よ。
わたしもまた、この世を去るとき(…)あなたのもとに帰り、
すべてにまさる神であるあなたと共に生きながらえることができますように。

主よ、お留まりください。
わたしをひとり置きざりになさらないでください。
わたしの敵たちが(…)この哀れなわたしの魂の内に、
いとも力あるあなたが座しておられることを知って、
とてもかなわないと思って、戸惑い、わたしから逃げ出しますように。(…)

今、あなたがわたしのうちにとどまり、わたしを内なる深みにつなぎとめ、
わたしがいつもゆるぎなく立ち続けることができるようにしてください。

あなたをいつも見続けるなら、わたしは死をも生きるのです。

あなたをしっかりとにぎっているなら、わたしは貧しくとも常に豊かです。
いかなる王にまさって豊かです。
あなたを食し、あなたを飲み、つねにあなたを着ているなら、
わたしはえもいわれぬ幸せの中で、至上の喜びを生きるのです。(…)

栄光jは、聖にして不可分の、命を与える三位一体であるあなたに。
すべてを信じる人々は、父と子と聖霊であるあなたを、
今もいつも、あがめ、告白し、たたえます。

テゼ共同体編 「初期キリスト者たちのことば」より

     ナレクのグレゴリオスの言葉

わたしが心魅かれるのは、
何かを期待しているからではなく、
むしろ愛の絆によるのです。

わたしがいつも郷愁を抱くのは、
「贈り物」にではなく、
それを「贈られた御方」にです。

わたしが接吻したいのは、
自分が手に入れようとする栄光ではなく、
栄光を受けておられる御方です。

わたしは、
この世での生命への願望によって身をすり減らすのではありません。
心の最も深い部分ですすり泣くのは、
快楽を激しく求めるからではなく、
魂の喜びをそなえる御方を慕い求めるからです。

わたしが追い求めるのは休息ではなく、
真の安らぎを与えてくださる御方の御顔です。

わたしが待ち焦がれるのは、
婚礼の宴ではなく、
花婿(キリスト)です。

自分の過ちという重荷を負うにもかかわらず、
わたしたその御方の力によりすがり、
全能者の御手に身を委ね、
ゆるぎない希望をもって信じます。
その御方からの赦しを頂けるだけではなく、
わたしがその御方ご自身を見るであろうことを。

テゼ共同体編 「初期キリスト者たちのことば」より


2015年2月23日月曜日

三寒四温

まだまだ寒い信州ではあるが一時に比べて大分暖かくなってきた。
今日は12℃-5℃の予報であったが実際はどうだったのだろう。それでもつい最近まで最高気温がこのくらいであったことを思えば格段である。しかし今週末はまた寒くなるようだ。最近は湖畔端を速歩で歩いていると汗のかき方が違ってきている。寒いときでも折り返し点あたりまで来ると汗ばみそうになるので夕方歩いていたが今は完全に汗ばむ、二三日前に歩いた時は下着が濡れるほど汗をかいてしまった。湖畔端を歩くので風がと思っていたがそれほどでもなく、そして寒いとどうなるかなと思っていたが思ったより寒さを感じなくてすんだ。しかし、暖かくなってきてからの寒さは堪えるがこれからどうなるか…。

炬燵

寒いところでは欠かせないのが炬燵である。
最近の新しい家では冷暖房設備を施しているから炬燵はあっても補助的、我が家は外気温に比例して部屋の温度が左右するから寒い時は部屋はすぐは暖まらない、そんなときには炬燵は重宝である。不思議なものでたとえ寒くても足元が暖かいとそれほど苦にならない。そういう面では炬燵は実に重宝でありエコでもある。年が明けてから息子が正月に置いていた無線LANのルーター使えるようにして、今まで炬燵でもケーブルの関係で窓際に座っていたが寒くて無線にしてから反対側に座ってやっている。ファンヒーターも近くにおいてあるのでダブルで助かっている。TVは家内が食事の支度をしながら天気予報を観たりするので台所に置いてある。だから小さい炬燵を買ってきて観ている。炬燵は重宝なのであるが一旦座ってしまうと立つのが面倒で下手するのと炬燵に潜って寝ることも少なくない。必然的にモノグサになる。今日もその典型で午後TVドラマの再放送を何となく観てしまいそのままいつも見ている笑点を観、その後はメールなどをチェックしていたら夕食になり、片づけをしてから一服のつもりが11時過ぎまで観てしまった。サル?でもできる反省をしている。もう少し暖かくなると炬燵から解放されるから今少しの忍耐?

2015年2月12日木曜日

規格外品

よく行くスーパーに千葉産の細いサツマイモが何本か袋に入れて売っている。あるときそれを買ってきて蒸かして食べたら割と甘くておいしかったのでそれ以来切れ目なく買っている。小さく切っているので小腹がすくとちょっとつまんで食べたりしている。便秘で苦労いしていたが芋を食べるようになったら快便そのものである。半端物?だから値段は安いし、4時のコーヒータイムのお菓子もちょっと節約できる。それに便秘にもよくてサツマイモ様様である。ただ時々オナラが…しかしこれは腸に良いとか聞くので外では気を使うが家の中では遠慮なく出している。

今道の駅などに行くとリンゴが一般には売れない傷がついたり、形が悪いものが安く売っている。暮れに松本市にある今井恵みの里にはそんなリンゴを何人かの農家の方がたくさん出していた。これも味が変わらないので中にはむしろおいしいようなものもある。そんなものを幾袋か買ってきて食べたりしていた。スーパーで箱単位で売っている安いのよりははるかに美味しい。農作物は味は別にしても形や色も問われるからこういうところでたくさん売っているのを見てると売りづらい物も結構あるのだなぁと思わされる。味が変わらなければ形や色はどうでもよいので買っているが日本人は外見に拘りすぎるのではと思ってしまう。果物は味で勝負である。本来的なもので勝負してほしいものである。外見で判断するのは日本人の悪い癖?

最近物が高くなったのかあるいは勿体ない精神が強くなったのかこういう規格外品をよく見かける。いいことだと思っている。イエス様の選びも然りである。
1cor: 1:27
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
私もキリストにあるホンマモンの規格外品である。そして生かしていただいている。感謝。

2015年2月11日水曜日

人とは

ホーソンの「緋文字」に少し触れたがキリスト者としては色々と考えさせられる小説だった。子供が生まれたということで姦通が明らかになったが子供が生まれなかったらどうなるのか、姦通はいけないけれど妻を顧みない夫はどうなのか、そのような婦人に寄り添うようにしていた若い牧師はどうなのか、あるいは人は神の代理者のようになって裁くことは許されるのか、これは人が神の側に立って神のようになることではないのか、あるいはこのことは咽喉につっかえた小骨のように気になってそれを払拭したいためにしている自己満足的なものか、男女の関係は夫婦以外の肉体関係は勿論いけないけれどプラトニックなものでもいけないのか、もしプラトニックな愛が赦されるとしたらなぜかとか…。

一番考えさせられるのは姦淫をした婦人をさらし者にして彼女の側に立つ者がいないということである。ある意味で日本の村八分のようなもので相手に対する配慮がない(二分あるか)。イエス様はそんなことをするだろうかと思う。それとかつてスペインがユダヤ人追放をしたときにユダヤ教からキリスト教に改宗したユダヤ人たちを異端訊問や迫害したことである。それは熾烈を極めたもののようである。日本のキリシタン迫害の逆を行っているように見える。人はなぜそこまでするのだろうと思うがある意味でイスラム国の残虐さを非難するが地上の目を覆うような出来事は自分の心の中にしっかり生きているのかなと思ったりもしている。だからと言って彼らの行動を肯定するつもりは全然ありません。

1tim 2: 1-2
そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。

と聖書にある。イエス様が来られない限り、地上に真の平和は訪れないであろうが形だけでも殺戮は終えてほしいものである。争いから成熟した社会へと願い、そして祈る。

2015年2月5日木曜日

シクラメン再び

シクラメンと言えば「作詞・ 作曲小椋佳、唄布施明」を思い出すが我が家のシクラメンは歌ほどではない。しかしとてもデリケートな花であることは確かだ。
暮れに出窓に出しっぱなしておいたら朝にはしなびた状態で全部しおれてしまった。もうだめかなと思っていたら少しづつ元気になり、今はたくさんの花がシャッキとしている。家内がひもで結んだり、わたしが厚紙でリングを作り、お辞儀をしている茎を少し立てたりしていた。それに家内が休むときに新聞紙で覆っていた。そんなことをしてもと思ったがそれでもしなびることなく少しづつ元気になり自力で立てるようになってきた。今は寒さ厳しい時なのにどんどん元気になってくる。葉も何となくシャッキとして逞しくなってきている。このシクラメンの鉢の底の部分が水受けになっていてそこに水を補充するようになっている。何時だったか水が無くなっているのを知らないでそのままにしておいたら茎がお辞儀をしてしまい「ついにダメになったか」と思ったら家内が水が無くなっていると言って水を補充したらまた元気になった。それから水に注意するようになり、見ていると花の元気と水の減りが比例しているように最近減り方が激しくなったような気がする。大したものではないが他に五つばかりの鉢植えを置いている。枯れてもうだめかなと思っていたのが今小さな葉を出し始めた。そんなのを見ていると愛着が湧く、それらを見ながらシクラメンは元気で花もたくさん咲いて他と比べたらやはり一番かと思う。いつまで元気でいてくれるかと水の減り具合を気にしながらどのように変わっていくのか楽しみでもある。

オリヅルランの鉢を外に置いたときにコスモスの種が落ちたのかその鉢からコスモスの葉が二つばかり出てきた。コスモスは繁殖力が強くて、以前いた家の裏手に、狭いところに一面コスモスが生えて壮観だった。ただコスモスは茎が固くて処理に困った。そこにはかぼちゃの種を捨てたらこれも生えて来て横にいくらでも伸びるのは驚いた。そして小さかったがかぼちゃがいくつか取れて食べたがもう味の記憶はない。多分美味しくはなかったのだろう。まぁ植物を育てるには根気がいる。今年は畑をと言われているので少し心しなければと思うがどうなるか?そんなこと考えていると「花よりもお前の方が忍耐いるわぁ」と主に言われなと思ってしまいました。

2015年2月2日月曜日

冷めた目で再び

後藤さんがついに殺されたようだ。淡い期待は泡と消えてしまった。
考えてみればテロ集団が生きて人質を返すなんてことは余程の条件の良さがなければあり得ないだろうなと思う。ニュースを観ながら色々な思いが錯綜する。マスコミは切り貼りのように事件の模様を取り上げている。もっと淡々とできないものかなと思うと同時にセンセーショナルに取り上げることはなんとなく底の浅さを感じてしまう。そして少し経てばそんなことがあったのか思わせるような事件の取り扱いである。

彼らが残虐な行為を見せて自分たちを誇示しようとするのならその残虐さの度合いが強ければ強いほど自らの首を絞めるようで短命になるだろうなと素人考えをしている。それと非日常時と日常時ではことの出来事は単純に推し量れない。ただ非日常時に置かれている一般の人、特に女性や子供たちはかわいそうだ。日本が戦後から平和ボケしているといわれるようなっても東南アジアでは戦争中だった。その東南アジアではポルポトの残虐さはこれらの比ではないのではないだろうか。遡って中国、旧ソ連も然りである。さらに遡ればナチス、そして日本が隣国になした残虐な行為は小さいとは言えない。歴史は常に殺戮の繰り返しであるような気がする。今、平和であってもかつてはというところがほとんどだろう。

平和は簡単に実現するものではない。平和を得るために多くの血が流されなければならない。人間の持つ罪がそれを求めるからである。後藤さんの死を多くの国で悲しみを共有してくださった。嬉しことであり、このうねりは大きい。彼らにとって大きなプレッシャーであろう。もし彼らがこのことを軽く捉えるなら彼らの誤算が始まったと言っていいかもしれない。「あなたがたが力の誇示を残虐さで示すなら、それはあなたがたの終わりの始まりであることを宣告しているようなものです」と言いたい。しかし、利権に群がる死の商人がいるならことは簡単ではないが後藤さんの死を無駄にすることなく、日本は世界のあるいは地域の平和に貢献してほしい。それができるのは唯一の国であるかもしれない。それも脅かされそうだが日本人であることを誇れる日本であってほしい。祈るぞう。
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そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。