2015年7月28日火曜日

聖書雑感

創世記から読み始めて今サムエル記Ⅰを読み終えた。以前は素直にというか変に納得して読んでいたが今は時折?をつけたり、だからこうなのかなと思ったりして読んでいる。例えば「聖絶」ということばがある。言わんとすることは分かっているがかつてか今もか非キリスト者に対する残虐な行為はこの辺から来ているのではないだろうかと思ったりする。往々にして「神のことば」を自分の手のに引き込んで自らを神の代理者として立ちやすい性質を罪は持っている。パリサイ人がいい例である。本当の意味での聖書の理解はできるのだろうかと思ったりもする。学的理解が深まってもそれが神のみこころかどうかはイコールではないように思う。聖書を読むだけの者だが神が本来伝えようとしていることが本当に理解されているかと思うと疑問に思うことがある。サングラスをかけて物を見れば形は変わらないけど色はサングラスの色によって変色して見える。アダムのように罪のない世界も罪ある世界も知っているならまだしも我々は罪というサングラスをかけて見ている。形は正確に把握することができても色は正確に把握することはできない。また「群盲象をなでる」ではないが一面は正しくともそれがすべてではない。

2015年7月25日土曜日

ついつい

韓国ドラマにはまって四つばかり連続で観て、あるときは夜中から窓が明るくなるまで観てしまったことも2.3ありだった。これでおしまいと思いながらついパソコンをいじっているとまた検索して二つばかりいや三つばかり観てしまった。面白かった。前にも書いたが登場人物が利に走る人そしてそのためにはどんなことでもする人と他者の利を優先する人とが登場する。そして色々手が込んでドラマは展開するが後者が勝利するという展開である。昔の映画を思い出すようでつい観てしまう。というより息抜きにと検索して前には気にもしなかったのに観始めると最初はそれほどでもないのに終りの展開が次に期待するようにできているからついつい観てしまう。ついついなのか意志薄弱なのかどうも後者らしい。もうこれでと思うが簡単に検索できるからついまたどこかを観そうで心配だ。これは誘惑である。勝てない否妥協してしまう。こんな聖句がある。反省しつつ…。
isa:51:20
あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている。

インターバル速歩

お天気や他の諸々のことで湖畔端を速歩するのをパスしていたが少し前からまた速歩するようになった。最初は少し歩くとふらついていたが今は行きの1.5キロと途中のストレッチの器具のあるところまでは休みなく続けられるようになった。ストレッチをすると帰りの歩きが軽くなる。それでもそれほど汗をかくわけでないからお腹周りは変化なし、今日は義姉の家の枝を切ったりしていたら汗がぽたぽたと流れてきたがこれくらい汗をかかないとダメだろうな。一週間にトータル一時間やればいいといっているが少なくとも3キロ、4-50分を週に四回はやらないとと思っている。この間、町の健康診断を受けてきたが血圧は高いし血がどれだけ改善されているかどちらにしてお腹まわりの脂身を何とかしなくてはと思っている。すぐ結果は無理だが継続は力なり、継続できるようにコツコツと頑張りましょう。続けることによって結果がと期待して…。

収穫

以前は畑だったとはいえ何年もほっといて網の目のように根が張りその雑草を掘り起こして作った畑。どんなふうに実がつくかなと思ったが思ったより結果はよかった。二日とか三日おきに収穫している。二十日大根とか小松菜は早々に収穫し二回目を植えたがこれはあまりよくない。今はインゲンとキュウリがよく採れている。しかし、ナスはあまりよくないが他でもそうらしいからその年の気候によってだいぶ違うみたいだ。それとキュウリの変形には驚く、自分のところで食べるか知り合いにあげるからいいが野菜を売っている農家の方は形も価値のうちだから大変だなぁと思う。少し農家の苦労がわかり、根気のいる作業はダメだからあらためて農家はやれないなぁと思った。まさにお百姓さんアリガトウである。

インゲンはまだ勢いがあるがキュウリは花を咲かして小さな実もついているがもう終わりかなと思う。それとミニトマトが勢いよく枝を張って実をつけている。庭といえない猫の額ほどもない土のある部分にミニトマトを植えたときは腰辺りまででそれもそれほど横にも伸びなかったのでそのイメージをしていたらとんでもなく枝が延びてエボ棒を4本ばかり支えに使っている。これからキュウリもそうだが枝を選定しないといけない。ジャガイモも葉が枯れて実もついているので収穫しなければならないが一二本取ったら大小さまざまで5-6個実がついていた。来週あたり収穫しようかなと思っている。

ブロッコリーも勢い良く伸びたが実はそれほどでもない。ズッキーニは3-4本採れておしまい。葉が広がるのでナスとともに新たに根を起こして畑にして苗を植えたがどう育つか不安。カボチャも勢いよくのびいくつが大きな実をつけている。初年度としてはまぁ上々かそれとピーマンもよく実をつけている。たくさんあるので血圧と中性脂肪にいいかなと軽く洗って生噛りをしている。

2015年7月14日火曜日

ミニ同窓会

小学校の同窓生のKチャンが浦和の埼玉会館でグループの写真展を開催しているのでついでにミニ同窓会をとの誘いの電話を頂いた。そういえば同じ同窓生のHさんが2月に銀座でグループの絵画展をやった時にそんなことを言っていたことを思いだし出かけることにした。本籍をこちらに移そうと思っていたので区役所にもと金曜日の朝一のバスで東京に向かう4時20分のバスに乗るので3時半に起きまだ暗い道をバス停に向かうこと25分、時間が来てもバスが来ないなぁと思って反対側を見たらそれらしきバスが止まっている。慌てて道を渡り乗り込むがこれと昼頃のが上諏訪、下諏訪、岡谷、岡谷インターの道順になるものだった。他は岡谷始発で市役所、長地、下諏訪、上諏訪駅前、赤羽根、諏訪インター入口となる。自分で運転するときは防音壁で外が見えないがバスは座席が高いので外がよく見えてうれしい。前から買っていた「クリスチャンであること」をこの際と読み始める。それほど難しくないように見えたが読み進まず一部を読み終えただけになってしまった。

新宿が終点、西口から小田急で下北沢へ迷いながら区の支庁舎へ、下北沢は殆ど降りたことがないので降り口によっては迷子になりそうなところだ。本多劇場なるものは名前は知っていたが行く途中にあり、来ることもないがそれでもいつか来てみたいものだなぁと思いながらその前を通って駅へ、新宿から湘南ライナーで池袋、赤羽、浦和とアッという間に着いてしまった。駅を降りて駅員、広場の交番と場所を確認して行く、受付で彼の名前を言ったら案内してくれ本人がいるのかなと思ったら彼が賞をもらった写真の場所を教えてくれたのだった。馬の鼻に自分の鼻を押し付けているおじさん何とも微笑ましい。草競馬?と獅子舞いと他に二点ばかり出展していて彼の人となりを知ることができてうれしかった。写真は30年来とのこと、プリントも自分でやるとのことでA3よりも大きいのもやるそうだから大変だ。大分前に電話した時、彼がいなくて奥さんが出て彼女も中学の時の同窓生でクラスは違っていたがお互いに知っていたから色々と話が弾んでご主人のことを好きなことやっていて部屋は足の踏み場もない。どこにでもある夫の道楽をチョッと突き放した言い方をしたのを思い出した。まぁ男の道楽は子供みたいなところがあるからなぁ-。

出展の数が多いので彼のと賞の札がついているのを観終わってもまだ来ない。日にち間違ったのかなぁと思っていたら携帯が鳴る。今浦和駅とのこと彼らは駅で待ち合わせしていたらしい。少し待っていたら来るが向こうが手を振っても私は老眼が進んでいるので顔の認識はできない。近づいて握手して挨拶をする。いつものメンバーに筑西市からT君が来られ、いつも来る二人は用があってダメとのことで男3人、女3人の集まりになった。私は言葉をはさむくらいで聞き役、それに彼らは途切れなく繫がっているが私は50代から途切れたところは修復できない。話についていけないこともあり必然的に聞き役、声がかかった時には仕事や集会があって断っていたがリタイヤしてから時間がとれるようになって参加するようになった。断っても諦めずに声をかけてくれたことを今感謝している。父や田舎を嫌って上京しているからそのわだかまりが彼らとの交流を通して氷解していくのが最近よくわかるようになった。田舎に帰ったら兄たちや同じ集落に同窓生に感謝の言葉を今まで言ってなかったので言いたいと思っている。別に仲たがいをしているわけではないが自分の中こだわりが消えつつあるのだろう。そんなことを思うにつけ彼らに感謝せざるを得ない。

2015年7月9日木曜日

水に流せる民

千メートルの峠を超えなければ他の土地に行けない所に住んでいるが電波やネットで世界の動きや世の中の動きが伝わってくる。昔だったら隔絶された地である(チョット大袈裟かな、でも南信の遠山郷なんかは正に冬は?と思わせるほどの地である。でもキリスト者としての外との交わりは皆無に近いので当たらずとも遠からずである)。

最近、中学生が自ら命を絶ったニュースは胸が痛む、先生を責めるつもりはないが交換日記のなんてむなしいことか言葉や活字が飛び交っているだけでハートに届かないのが現実では?先生は翌日から体調不良で休んでいるとか先生もつらいだろう。もう先生としてやっていけないのではと心配する。また始めたら複雑だなぁ…。半世紀も前で時代が違うといえばそうなのだが当時もいじめはあったがそれに耐える力もあった。強いわけではないが生きなければならないという思いが強いからそのことを考えて、耐え、そして生きる道を模索した。あの当時、先生に思いっきり殴られたこともあるし柔道での体育の時間にふざけているということで寝技で生きもできないほど首を絞められたこともあった。嫌いな先生と仲がよかったということもあるのかと思ったりもしているがお互い嫌いだったのだろう。そのことでいつか殺してやろうと思っていた。今でも赦していないし水に流すつもりもない。

原発もまた再稼働が始まりそうだ。やめれば設備や投資したものがパァになるから経済的損失を考えると心痛むがそれ以上に子々孫々に残しておくべきものではない。福島が警告の結果なのにと思うと残念でならない。人間の選択はこんなものなのだろう。経済界に媚を売る政治家なんて最低だなぁ。

集団的自衛権なるものも賑やかである。内容をよく知らないのに申し訳ないが議論を聞く気にもならない。議論も鉄砲の打ち合いで相手に向かって打っているのではなく、当たらないように空中に向かって弾を撃ちあっているようなそんな感じを受ける。羽毛のような言葉の軽さよ政治家なら相手の心に響く言葉を発せよと言いたくなる。むなしくてその言葉も出ない。子供や孫に何を残していけばいいのか残ししていけるものを持っているのかそれは「神のことば」だ。よきおとずれを

2015年7月8日水曜日

あるブログを

お気に入りに入れているあるブログが「失って気づく」のタイトルを最後に休業中というか廃業?している。「失って気づく」ことって誰もが経験していることである。鈍感な人は失っても気がつかないなんてこともあるだろう。また、失わなければ気がつかないことはたくさんある。気づくってことは当人にとってはあまりうれしいことではないことの方が多いと思う。でも大切なことだ。たくさん失って、たくさん嫌な感じを経験してシンドイなぁと思うときに主の祝福があるだろう。当人しか経験できない大切なものだ。それは、大っぴらできないへそくりのようなもの金額は少ないがそうっと出して中身を見てひとりにやりと笑うようなものである。再開を期待しつつ。

2015年7月3日金曜日

不真面目

二階家に引っ越してきて一階と二階の温度差が極端に違うのと明るさが全然違うのに気づかされた。二階はお天気がいいと日中はむっとするほど暑い。それに比べて一階はヒーターは入れてないが炬燵が欠かせない。それに間取りの所為か台所は昼食時には明かりをつけていることが多い。冬は寒い代わりに夏は扇風機も必要ない。夏の暑さを冬にと思うがそう虫のいいことはあり得ない。どこかで我慢しなければと思っているが冬の寒さの余韻は今も残っている。大袈裟だけどトラウマになっている。さらに寒いのが一階の店の方である。前は飲食物関係の店をやっていたようだから厨房が広いからつもりはないがラーメン屋を開ける。

店の方は月一でMファミリーが来るので各月ごとに我が家で夕食をとるその時に使っている。畳があるので小さい子供さんがいるからちょうどいい。厨房はガス釜と洗いにシンクを使うだけ、食器をも少し置いていっているのでそれも使っているか。そして暖かくなってから息子が正月に来た時ワイヤレスのを置いていったのでそれを使ってパソコンを移動した。ついでにプリンターに少々本を置いて普段はこちらで過ごしている。静かでいい、集中できる。こちらはコンクリートにビニタイルを張ってあるだけだから床が冷たい。今もサンダルではなく靴で今日などは寒いのでトレーナーに長靴という出で立ちである。これでちょうどいい。ここまではいいのだが…。

以前韓国のドラマにはまってもうやめようと思って最後?のホジュンをいくつかピックアップしたのを観ていた。それがまた最初から見始めてこの間やっと観終わった。食傷気味になっているからもう観ないと思う・・・。店の方は家内が用事があって来ない限り誰も来ない。だから静かに聖書の勉強ができるはずだった。それは少しやっているがそれよりも一人静かにパソコンとにらめっこをしている。勿論聖書関係のことを調べたり、クリスチャンのブログを見たりはしているが時間的には少々、本来ならば数冊の本を読破しているはずなのに数冊あちらをかじりこちらをかじりで終わっている。それと韓国ドラマを卒業?したらユウチュープやデイリーラインで日本の映画を観始めている。それもそろそろ卒業かなと思っている。最近観ていたのは若いカップルがどちらかが難病を患い最後には死ぬというドラマと事故や難手術で記憶を失ってしまったカップルとかが多いと言って4-5本、それとほとんどが実話に基づいた話らしい。たまたまチョイスしたのがそれであったということだ。今度話をするのだがちょっと準備して一時間ドラマをしっかり見るパターンになっている。「お前なめてんのか」と自ら己に問いかけながら「なめてます」と答えざるを得ない現状である。それに今度の日曜日は兄弟三人いるのうち二人は用があって出られない。イエス様は「あぁエルサレム、エルサレム」と嘆いたが嘆きもしない。まぁ終わった時に嘆くだろう。しかし、「だからしっかりやっておけばよかったのに」と思うかもしれないが開き直って反省もないだろう。霊が渇いているのに渇きを覚えないことほど恐ろしいものはない。あぁ不真面目と書いたが本当は不信仰だよなぁ~。ま、人間こういうことがないと次のステップに行けない。これからが問題、このことが無駄にならないように祈る。