2015年11月30日月曜日

今日で

今日で11月も終わりあと一ヶ月を残すのみとなった。聖書通読も四月から創世記を読み始めてまだ詩篇の第五巻に入ったばかりで聖書の真ん中で黙示録に着くまではまだ先の先である。しかしデボーションに使っている「この日を主とともに」はもう31ページを残すのみとなってもう最後の最後という感じである。

今日は茅野の義姉の家の落ち葉収集、この間残ってしまった水路に行く階段の落ち葉を収集した。45Lのごみ袋で4つくらいになるかなと思ったら7つにもなった。ほとんど手付かず下はたい肥のようになっていた土の部分を流し完ぺきではないが一応OK、それに木を切ってあったのを裏の入口に交互に積んで結構キチンとなった。このままだと腐ってしまうがいつまでもつか或いはほしい人が出るか薪ストーブを持っている人がいればお互い助かるがどうなることか最後は清掃工場か私の仕事はこれで終わりホッとした感じである。

その帰りはガラスの里の近くのガソリンスタンドでガソリンを入れる。あそこは諏訪地区で一番安いところである。普通のところより10円安いが20L入れても200円の違いであるから通り道に入れるという感じである。そこから畑の方に行くには近いこともあって畑に行くときはいつもこの道を通る。畑に行ったら残っていたミニトマト、ピーマンの葉しおれていた。ダイコン、野沢菜はむしろ生き生きとしているような感じを受ける。ダイコンと白菜を一つづつ収穫する。それとアスパラを入り口に移し替える。アスパラは根が張っているが今やってどうかわからないが畑の真ん中に植えてあるので何となく邪魔な感じだったがこれでOK、他の人たちはどう思うかどうも自分と他の人たちの感覚が少しずれているから何か言われるかもしれない。今年は畑は植えるより畑づくりに専念したので来年は好きなものをと思っている。しかし、自分に合わせてくれるのならいいのだが野菜に合わせるなんてことは苦手中の苦手、来年の話は鬼に笑われないようにその時に…。
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2015年11月29日日曜日

昨日、今日

今朝起きて部屋の温度を見たら10℃を割って樋のチェンが光るのでよく見たら滴になっていた水が凍ってツララのようになっている。釧路はどか雪で一面銀世界のようである。北海道に比べたら寒さは比較にならないが来るべきものが来たかの思いである。昨年は気温や日の出日の入りを調べたりして春を待ちわびていたが今年は少し暖かかった所為もあってかその思いは今のところない。これから寒くなったらどうなるかわからないが…。今まで店の方にPCや本を置いていたが寒くなったので居間の方に移動を始めている。これで一人遅くまでPCを見ているというのもなくなりそうだ。家内はホッとしている。

3時過ぎに久しぶりに自転車で釜口水門近くまで行き、そこから戻るようにブックオフ、そしてプラスワン、カーマと寄ってその後ぶらりと岡谷、下諏訪の町を回って帰ってきた7‐8キロくらいかな向かいかせと坂道は少しきつかった。段々膝が衰えてくるのがわかる。それでも自転車をこげるのは健康な証拠、そのうちダメになるだろう。歩くのも段々億劫になってくるが体動かさないとダメになるという思いに駆られて体を動かしている。

前々日かな免許の更新なので後期高齢者の講習を自動車学校で受けてきた。認知症の検査を兼ねている。最初は何か馬鹿にされているようであまり気分はよくなかったが講習が終わる頃は記憶する力と判断力、動作が衰えていることを知って講習を受けて己を知ることができよかったと思った。そして手続きをするために警察に行ったら視力ではねられてしまった。いつも眼鏡を持っているのでもダメで眼科医と相談してくださいと言われて帰ってきたが細かい字を読むためにどの強いメガネがあったので家を往復してその眼鏡でみたらなお見えない。係りの方も困った顔をして、同省と思ったがその時車にいつも置いている最初の頃に作った遠近の度の弱い方がもしかしたいいのではとそれをかけてみたら一発でOKお互いにホッとする。一時は老眼の眼鏡でダメならどうするのと途方に一瞬なったがそれも解決して思わず顔がほころんだ。あらためて年を取るとはこういうことかと思った。眼はよかったのにこうなってしまった。免許証には眼鏡仕様となるが眼鏡かけないと罰金を頂戴する。この間のように他県に行って歩道と車道を間違いてそれも人をはねて殺してとそれも自動車止めのポールのようなものをすり抜けて行ったニュースを思い出して「私も彼とそれほど違わいところにいるな」と思ってしまった。こんな自分を受け入れていくことは簡単ではないが受け入れていかないと真の喜びも平安もないだろうと思う。色々信仰の有様を問われる。

2015年11月25日水曜日

みんなちがって、みんないい

   私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは知れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
        
        金子みすゞ

野菜作りも最後になってニンニクとたまねぎを植えて玉ねぎは苗からニンニクは実からと植えたのだが昨日行ったら玉ねぎの苗も少し伸びニンニクも芽を出していた。収穫は来年の4-5月であるから冬は大丈夫かなと思うがそのような作物だから大丈夫だろう。ニンニクに化成肥料を入れてこれで一安心となるか一年目はダメもとでやっているからこれからの参考になる。以前に植えた大根も大きくなってきて一本二本と抜いて食卓に、この間は白菜取ってきたがまだあるようだ。それにキャベツは段々玉になってきている。キャベツも白菜も最初から玉になっているのではなく最初は葉が広がっていて段々葉が内側に巻き込むようになっていく見てて面白い。それと大根も下に根を張るのかなと思ったらどんどん上に行く今は1/3位が土から出ている。農家に生まれ育ったけれど作ったことはないので初めての経験で「エッ、エッ」の連続である。野沢菜も店頭では7-80センチくらいのを売っているがまだまだ4-50センチである。共同で植えたネギも太くなってこの間内緒で抜いてきたが美味しかった。畑の半分もやればと思っていたが3/5位はやっただろうか連作の問題もあるので残りもなんだかんだで使うようになるかもしれない。だれもやらなかったら落花生でもと思ったりしている。来年何をやるかは彼らに任せて畑の下こしらえに来年も専念するつもりだ。

「犬も歩けば棒に当たる」ではないがやればやったで新しい発見があり、教えられることも少なくない。野菜も生き物、不揃いが当たり前なのに店頭ではみんな同じような形をしている。それでないと売れないのだろうが味が同じならと思う。都会人のニーズは形からかと思ってしまう。逆に形が整っているのばかりだと何か細工したのではと疑ってしまう。それと同じように植えても多きなるものとそうでないものがあるので育つ育てることの難しさや人の手には負えないものもあることを実感する。土や自然を相手にすると人間の無力さを実感させられる。お金でことを済ませることは人間を奢らせてしまうような気がする。人間のおごりの集団地球号は何処へ行くのだろう。チョット飛躍したが…。

2015年11月24日火曜日

久しぶりの速歩

今日はと思いながらお天気が悪かったり、歩くときになったら用ができてしまったりで歩くのをパスしていたが今日半月ぶりで歩くことができた。もう霧ヶ峰方面の山の上に満月に近い月見える。湖岸ぞえに明かりが見え、対岸の上の方には高速のサービスエリアの明かりも見える。ちょうどいい風情の時でもある。歩くのは夕方にしているが今は五時だと暗くなってしまうからなんかやっていると暗くなってしまう、歩けないことはないが暗いと暑い時はいいがこの季節だとその気にならない。これから気をつけてあるいは朝にと思っている。しかし歩いている時に強い風が吹いていたので明日あたりから寒くなりそうなので続けられるかなぁと思っている。

2015年11月18日水曜日

文明の衝突

少し静かになったなぁと思ったら痛ましいテロ事件が起きてしまった。紛争地域ではなくフランスのパリでの話、衝撃は大きい。フランスは自由に物が言い、そして書くことも自由らしい。たとえそれがある人たちから反感を買うようなことであってもである。ある種の許容さがあるのだろう。ここに至るまでには色々な出来事がありその経験から生み出されて今日があるように思う。それは血で血を争うようなことも少なくなかっただろうと思う。詳しく歴史を知らないしそれほど興味もないが。長い歴史の中に培われたものであってもそれはフランスで通用するもの外国では通用するとは限らない。独自の文化、歴史はその国を創り上げていくかもしれないがそれはその国だけのものである。グローバル化した世界に置いて他国との関係の中により密接にかかわって生きていかなければならない。そうなると他国の文化や宗教に関して無関心ではいられない。そこに配慮が必要であろう。アメリカは黒人を奴隷として扱っていた時代には黒人を奴隷として扱って誰にも文句は言われなかったと思う。しかし、今はそのようなことをすれば非難の的となる。たとえ貧しい黒人であってもである。

私たちが学ぶことは個人であれ国であれ失敗から学んでいることの方がはるかに多いと思う。それが先進国と言われている国がそれを先に学んでいたからに過ぎない。テロを赦すつもりはないが人が国が学ぶには多くの血が流されなければならないという現実がある。欧米は過去形でも中東、アフリカは現在進行形に過ぎないだけである。中東での争いはある意味で欧米の横暴があったから今日があると思っている。人、人格を大切にする欧米人であれば中東、アフリカ、アジアの人たちに接する時は自ずからどうすればよいかわかっているはずである。強欲がそれを妨げていた。むさぼってはならないと言われながらむさぼり富を収奪してその結果がこれであろうと思っている。少し前はポルポトが多くの国民を殺した。そして今は中東でアフリカで行われている。罪は「お話しください。しもべは聞いております」とは言えない。多くの理由をつけてあらゆるものを正当化する。

もう20年近く前に出版されたサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」を思い出した。本の帯には「西欧VSイスラム」とある。今この現実を目の前にしている。避けて通れない現実である。富の収奪の前に人はスポイルされる。イエス様は富よりも人を大切にした。この姿勢がない限りこの世の中は血で血で争うことが続くであろう。解決は主よ来てくださいと祈るしかないのかもしれない。

ふたつの応答


gen 3: 9-10
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
アダムは神の呼びかけに対してこのように応えている。単にどこにいるかを言えばいいのにおかしいといえばおかしい。自分もそうだが人は言わなくてもいい言い訳をよく言う。これはアダムからしっかり受け継いだ資質かもしれない。典型的な罪の一つの姿を見る。

1sam 3:10
そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。
アダムと好対照なのが幼児サムエルである。私より他の人より自分のことを一番よく知っている主にアーだコーだと言い訳しないで「お話しください。しもべは聞いております」と言いたいものである。

2015年11月16日月曜日

この頃Ⅱ

大分前に卒業した筈なのに韓流ドラマから卒業できていない。「雪の女王」などはDVDまで借りてきて見てしまった。また借りようかなぁと思っている。それは別にしても今4っつのドラマを見ている。勿論毎日ではなくて日に二本位の割で観ている感じである。それほど面白いという訳ではないが何故か観てしまう。一つに本を読むのに目の疲れと集中力が段々弱くなっているのでついネットで無料のドラマを観てしまうという結果になる。TV同様何も考えなくて画面を目で追っていればいいので楽な所為もある。以前は気晴らしにとネットで観ていたがあるときは気晴らしでなくて主に観ているという時もあった。まさに本末転倒、流れに身をかませる様である。反省して今はセーブしているが卒業はしていない。この間M兄が来て、信者だけだったので学んでもらったがタイトルが「弟子をつくる弟子となる祝福」という題でルカ福音書9章23節から話してくださった。弟子となるなんて先の先のことなのに「弟子をつくる弟子」なんてさらにその先である。雲の上の話のようなものである。しかし「自分捨て」、「自分の十字架を負い」、「自分のいのちを捨てる」と話されたが出来る出来ないという問題ではなく、キリスト者として生きるにはこの道しかないことも事実である。信じて天国に行くだけならこんな必要はない。しかし神が求めておられるのは神が語りかけているのに応答することである。救いを強調する弊害は救いを利と捉えてしまいがちになることである。救いは神との応答から生まれる。主を救いの手段と捉えてほしくない。それはご利益宗教に堕してしまうからである。人間成功から学ぶのではなく失敗から学ぶのである。こんなことをして半歩なり一歩なりを歩めれば感謝である。

2015年11月15日日曜日

この頃

ブログも10日あまり留守にしてしまっている。書くことがないわけではないが何かと雑用に追われていてそれに文章を書くのが元々苦手なのでちょうど便箋を広げてペンを持ってイザ書こうとするが文が浮かんでこないそんなのと同じようなのかもしれない。しかし幾つかのブログをお気に入りに入れているがそれもパスしているからそれだけではなさそうだ。

先週は義姉の家の庭の木を切って枝はそのままだったのを5-60センチの長さに切って一抱え位の束にした。20前後くらいだろうかそれを清掃工場に持って行ったが軽トラだったら2-3回で終わるであろうに小さい車なので往復14キロの道のりを10往復してしまった。140キロ八王子まで走ったことになる。翌日、残りの枯葉を熊手でかき集めたら45ℓのごみ袋に22袋これは2往復、枝は500キロ、枯葉は150キロもあった。清掃工場に持って行った枯葉は枯れ枝が混ざっているので腐葉土に出来ないが残っているモミジの枯葉は腐葉土にできそうなので思案中である。最後のごみを清掃工場に持って行って、その帰り茅野市でやっている温泉が近くにあるのでそこに入って白樺湖、車山、霧ヶ峰を通り、上諏訪に出ないで狭い山道を下社秋宮に出る道を通って帰ってきた。白樺湖は橋を通っただけだが廃業しているホテルもありどこか寂れた感じがしていた。今はシーズンではないのかな?

畑も義姉の庭の手入れも私が始めたわけではないのだが行きがかり上始めて結局力仕事は私だけしかできないので最後は自分が後片付けをやることになってしまった。こういうことは嫌いじゃないし運動不足というか体を使っていないので体のためにはよかった。バンドの目が二つばかり詰めるようになったから体調はすこぶるいい。こんなことはする機会もないだろうと思っていたのでいい経験をさせてもらった。来年春になればまた草刈機を使うようになるだろう。体を動かす場があるということは感謝なことである。でも聖書の勉強がおろそかになっているので目と頭の回転が悪くなって勉強するのはしんどくなっているから逃げているのかなとどこか後ろめたい感じもしないでもない。こんな思いがあればまた聖書の勉強にと気が向くようになるだろうなと思っている。事実少しづつではあるがはじめているものもある。勉強と言っても本を読むくらいではあるが。畑も大根や白菜が大きくなってきたのでその収穫と整理をして来年に向けての畑つくりもしなくてはいけない。まだまだ畑の方は力仕事が必要であるから楽しい。何を作るかは今のところ興味なし、落ち着いたら考えるが作るのは家内や他の人たちに任せて自分は他のことやるかもと思ったりもしている。相変わらず「我が道」を行くのである。あと半月余りで後期高齢者になる。昔の還暦みたいなもので完全に年寄りである。そしたらさらに我が道を行くようになりそうで不安でもある。何せ協調性はすこぶる良くない。

2015年11月4日水曜日

「今月のみことば」より

11月号
「だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえい』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。」(マタイの福音書5章37節)

 ドイツきっての優良企業と言われたフォルクスワーゲン車が、アメリカの厳し環境基準をクリアするために、不正なソフトウェアを搭載して検査をすりぬけていた、というニュースが一瞬のうちに世界を駆け巡った。該当車両は1100万台に達する、という。◆「ばれなければいい」という利己主義は国境を超えているようである。ヨーロッパ経済を支える「優等生」と言われてきたドイツで起きた事件だけに衝撃はひときわ大きい。◆しかし、実はすべて神には丸見えなのである。「「神の目には、すべて裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブル人への手紙4:13)と書かれてある通りである。◆それにしても、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえい』と言うことの何と難しいことか。『はい』を『いいえ』、そして『いいえ』を『はい』と言うところにに私たちの罪の弱さが凝縮されている。◆戦後の貧困にあえぐ日本は、、朝鮮戦争によって特需景気に沸いた。表示を偽って粗悪品を売る多くの業者の中で、表示通りの聖j品を納め続けた業者があった。クリスチャンの波多野鶴吉が起こした繊維メーカー「グンゼ」である。後に破格の信用を得て、会社は大きく発展することになった。◆『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえい』と言いうるために必要なのは学歴でも教養でもなく、私たちの勇気ですらない。私たちをやがて正しく裁かれる神の前に立ち返ること…これこそがその答えではないだろうか。(長野集会月報より)

今回は大分千鳥指になってしまった。少し指を動かしてないとすぐ元に戻ってしまう。

 ちなみに
「フォルクスワーゲンは1937年設立となっているが、旧フォルクスワーゲン製造会社は第二次世界大戦前にナチス政権の国策企業として設立され、会社としては第二次世界大戦終戦後のイギリス軍管理下で改組されたもので、工場と製品設計のみを継承したかたちとなっている。現在では世界119ヶ所に工場を持つ。社名はドイツ語で「国民車」を意味する。(ウィキペディアより)」

2015年11月2日月曜日

最近のこと

先週は大半は茅野にある義姉の家の庭の片付けをしていた。前に木を切っていたのを6~70センチの長さに切り、枝の部分もそれなりに切っていったが一抱えの束にして20前後にもなった。さすがに体の節々が痛くなってしまった。このような作業はやっているときりがない。まさに適当に切り上げる必要がある。と思いながらそれができない。あれもこれもと眼についてしまう。まだ丸太になった木や枝をどうするか清掃工場に持って行くには軽トラでも2~3回で済むかわからない量である。車を借りるには6~7千円かかるからそれまでかけてと思うし自分の車では小さいからその何倍も往復しなければならないしと今思案中である。

こちらに来て、鍬やスコップで畑を耕し、木を伐り枝を払って東京は勿論のこと田舎でも経験しなかったことをしている。しんどいなぁと思う半面いい経験をさせてもらっているなと感謝している。100坪前後あるのだろうかその三分の二あまりをやることができた。新しいところにニンニクとたまねぎを植える。これは家内の要望で他の人たちもそれを先週やった。何を植えるかは彼らに任せて私は下ごしらえである。庭の片付けも選定は彼らに任せ木を切り片付けるのは私の役目、こちらに来て自分の役目がよくわかる。大きな集会だとそれぞれ賜物を必要とされているが小さいところだとそれ以上に欠けたところを補う役目が必要であることを痛感する。だから欠点大いに結構、凸凹で完成するのである。聖書は本来このようなことを語っているのではないかなと思ったりもしている。現実には通用しないことはよくわかっているが。

姜尚中さんの「悪の力」という本を読んで面白く読み、こういう視点もいいなぁと思わされ、こういう見方っていいと思った。薄い本だが私には引用されているものがわからないので少し難しかった。姜尚中さんは詳しく知らないけれど好きな方である。あるブログにはいらくぼろくそに書いていたが人それぞれの見方があるからそう見える人もいるのかなと思ったくらいだが。聖学院大学の学長をやっていると知って期待したがもうやめられたようである。諸般の事情と書いていたが教育や宗教の体質の硬さを見る思いがした。本来中心は学生であるのであろうがそのために学校の体質まで変える勇気と力はないのが教育界や宗教界の姿なのであろう。残念でならない。あの大学はよく知らないがいい大学ではと思っていたがこれでこの先はないなぁと思わされた。残念。

ニュースで「20年前、大阪市で住宅が全焼し、小学6年生だった女の子が死亡した火事で、大阪高等裁判所は、放火や保険金目的の殺人の罪で無期懲役が確定したあと、再審=裁判のやり直しが認められた母親ら2人の刑の執行停止を改めて認める決定をしました。これにより、2人が26日の午後以降、服役中の刑務所から釈放される見通しになりました。」このようなことを聞き、唖然としてしまった。この婦人には男の子供さんがいる兄弟が焼死し母親と20年も別れており、それも犯罪人として、この子の人生はと思うと胸が張り裂けるような思いになる。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は「人のいのちは地球より重い」と同じようなものでしかないのか。今日の新聞には東経大の大出教授が名張事件について書いていた。自分たちの格式で一人の人間を物のくずのように扱っていいのかとそこにも人がもののように扱われているようで仕方がなかった。昨日はネットで「声をかくす人」という映画を観た。リンカーン大統領を暗殺した一人として一人の夫人が絞首刑になった。これも無罪であるはずなのにである。リンカーン大統領が暗殺されたというあまりにも大きい出来事故にである。

「悪の力」の帯に『「こんなワルは許せない!」この怒りを半分だけ肯定してみよう。』とある。自分は悪のどこまで許せてどこから許せないのかと思う半面、そういう判断は正しいのだろうか悪は悪でしかない。まさに軽重の差はないはずだがどこか許すものと許さないものがある。

2015年11月1日日曜日

委ねる


gal 2:11-12
ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。

パウロという人となりは使徒の働きやパウロの書簡を通して少しく知ることができる。風貌はあまりよくないようであり、激しい人のようにも見える。だからペテロに対しても間違っているものは間違っているとハッキリ言えたのだと思う。彼は晩年になって宣教の働きを若いテモテやテトスに委ねるようになった。しかし、

2tim: 1: 7
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

テモテはパウロと色々な点で好対照である。パウロは純粋なユダヤ人であり、ある種の強さを持った人である。テモテはギリシャ人の父を持つ故混血である。パウロは強さを持っていたがテモテは、どうもおくびょうであったようである。こんなテモテに宣教のわざを委ねるパウロの心境はどうだったのであろうか。

イエス様も同様に頼りない弟子たちに宣教のわざを委ねている。普通委ねるということはそれに足るが故に委ねる。しかし、イエス様にしろパウロにしろ委ねるに足りない者に委ねている。そのように思える。本来委ねるとはこのようなものではないだろうか。委ねるに足ると思う人に委ねるのは委ねると言えないような気がする。そこに信仰が必要であろう。現実に集会では不可であるがどこか能力で必要必要でないを判断されているようで仕方がない。