2015年12月29日火曜日

冷蔵庫モードに

今朝起きたら居間は4℃、台所が6℃だった。居間と台所は2℃の差はあるがお天気の良いと居間は南に窓があるから直接日が当たるのであっさり逆転してしまう。今冬一番の冷え込みである。これから次々と記録は更新されていくことだろう。それでも慣れた所為かそれほど寒くは感じなかった。それに昨日は暖かかったからか風邪気味が治り、寒くてもぞくぞくした寒さ感はなくて医者にと思っていたが行かずにすんでホッとしている。TVのニュースでTVに出るのか御嶽海が長野駅の改札出て歩きながらインタビューを受けていた。木曽の諏訪より寒いところに生まれ育ったのに「寒いのは嫌いだ」とそのようなことを言っていたので誰も思うことは一緒かと思わされた。

午前中、畑に行き残っている白菜とキャベツ(一個づつ)を取り、ネットを取って、湖で軽く洗ってフエンスに干して畳んで今年の畑の作業は終わりである。残っている野沢菜は凍っていてみずみずしい青さはなくなりくすんだ緑色になっていた。何度かしみたりするとおいしくなるそうだ。そうなった野沢菜が楽しみである。それとニンニクとたまねぎは冬眠?青さは生き生きとしている。芽もかすかに出たりしているのもあるがどんなのになるかとこれも楽しみである。

台所に置いてある取ってきたキャベツに触ったら凍っているので冷たく、色もくすんだ緑色になっていて白菜とキャベツのオブジェのような感じを受けた。

車に黄砂が降ったような細かい砂が付着していた。拭いても簡単に取れないので今年の黄砂はいつもと違うと思っていた。それは2-3日前に朝早く音がすると思っていたらリンゴ園で薬を散布していたらしくその所為だった。お天気が良いので洗って何とか取れて、これで新年は綺麗な車で迎えられる。

2015年12月26日土曜日

貧しさということ

2cor: 8: 9
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


もう戦後ではなくなった所為か「昔は貧しかった」という言葉を聞かなくなった。私は、あの当時は勿論のこと今も「貧しさ」は過去形でなく現在進行形である。若いころに文兄が韓国の兄弟を連れて何度か訪問されたことがあった。失礼な言い方かもしれないがその時はみなさんは「豊」とは言えないような感じを受けた。勿論、貧しいということではない。何年か10がつくか忘れたがあるときからソウルから韓国の兄弟たちが来るようになった。転勤であるいは交わりでと彼らは世界的な企業に努めて、企業人としても信仰者としても優れた人たちだった。そして宣教の働きに置いても然りである。都会と地方?のギャップを感じるようだった。文兄が連れてきた兄弟たちはそれほど目立つわけでもなく、みことばの証しもそれほど深いものではなかった。信仰の質に於いて違うのかといったら違っていなかったと思う。しかし、受ける印象は大分違うのを感じた。

ある意味で能力を持った信者がそれを宣教に転化した時にそれなりの働きを目にすることができるのではないかなと思った。ある意味で効率の良い宣教をしているといったらいいだろうか。一見信仰的に見えるけれど実はこの世のセオリーを用いているのに過ぎないような気がする。そこにはキリストの貧しさというものは見えない。だからといって批判しているわけではない。ただキリストの貧しさを体験するということはそう簡単なことではないということである。というより難しいことであると言える。ある意味で主が貧しくなられたということは主だからできたことで我々には不可能に近いことなのかもしれない。


2015年12月25日金曜日

この日を主とともに


今日はクリスマス、デボーションに使っている「この日を主とともに」の内容がよかったのでブラインドタッチの練習を兼ねてここに転載いたします。

1tim 3:16
確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
 奥義(ミステリー)とは偉大なものです。それは、不可解(ミステリアス)だからではなく、驚くべきものだからです。ここでいう奥義とは、神が肉体をとって現れてくださった、という驚嘆すべき真理のことを言っています。
 それは、永遠に存在する方が、時間に制約される世界に生まれたことを意味します。時間を超越した方が、暦と時計を用いなければならない領域に来て、住んでくださったのです。
 偏在し、同時にすべての場所に存在される方が、ベツレヘム、ナザレ、カペナウム、そして、エルサレムという、単一の場所にしか居ることのできない制約を受けられたのです。
 天と地に満ちる偉大な神が、人体の中にご自身を押し込めてくださった・・・考えるだに、素晴らしいことです。人々は、イエスを見て、まさしくこう言うことができました。「この方のうちにこそ、神の満ち満ちた神の徳が、形をとって宿っており…」(コロサイ2:9参照)。
 この奥義は、創造主が地球というこの取るに足りない惑星を訪れてくださったことを教えています。地球を除いた宇宙と比べるなら、地球は宇宙の埃のようなものに過ぎません。ところが、他のすべての天体を見向きもせず、創造主は、ここに来てくださったのです。天の宮殿から家畜小屋、そして、飼い葉桶へと。
 全能なる御方が、無力な赤ん坊になってくださいました。マリヤが両腕に抱くとその御方こそが、マリヤを支えている御方であったといっても、まったく誇張にはなりません。神は、世界を造られただけではなく、世界を支えている御方でもあるからです。
 全能なる御方は、すべての知恵と知識の源泉です。ところが聖書を見ると、〈子ども〉となられた主が、知恵と知識において成長していった、と書かれています。所有権のある方が、ご自分の国に来られたのに歓迎されなかった、というのは信じがたい事実です。宿屋には、主をお迎えする余地がありませんでした。世は、この方を知りませんでした。ご自分のところに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかったのです。
 主人である方が、しもべとして世に来てくださいました。栄光に主が、その栄光を肉体というヴェールに隠されました。〈いのち〉の主である方が、〈死ぬ〉ためにこの世にやって来られました。聖なる御方が、罪の「密林」にやって来られました。無限の高みにおられた方が、親密な近さにまで来てくださいました。御父の喜びの対象であり、御使いの礼拝の対象である方が空腹になり、喉の渇きと疲れを覚えて、ヤコブの井戸にたたずみ、ガリラヤ湖に浮かぶ舟で眠り、ご自分の手で造った世を、家なきよそ者としてさ迷ったのです。キリストは、栄華を離れて枕するところもない窮乏の中へ来てくださいました。大工として、働きました。布団の上に寝たことは一度としてなく、栓をひねるだけでお湯、または、冷水が出てくるというような、現代人が当然と思う便利さとは無縁でした。

  このすべてはあなたのため、そして、私のためだった
  さあ、来れ、この方を讃えようではないか。
  

2015年12月22日火曜日

クリスマス会余話

クリスマス会が終わり閉館までの短い時間に絵画を鑑賞させてもらった。というものの芸術とは対極にあるような者である。絵画も音楽も嫌いではないが観て、聴いて心和むならいいなぁと思うくらいでしかない。田舎に帰るとよく兄が通う曲を歌っていた。歌謡曲も嫌いではないが歌えない。あの節回しができないのである。20年前から田舎の同窓会にでるようになって、みんなカラオケ歌っているのを見てうまいなぁと感心させられた。特に女性陣が積極的に歌っていたのに驚いた。キリスト者になってよく賛美歌が難しいという言葉をよく聞くことがあったが私はむしろ歌謡曲より歌いやすいと思った。と言いながらも自己流の編曲付きで歌っている。キリスト者であるから面と向かって何も言わないが音楽を少しかじっている人で、一般の人だったら顔をしかめるだろうにと思っている。

絵画も上野の奥の方に位置する桜木町というところに部屋を借りて住んでいたことがあった。お金がないので上野公園の野球場?で草野球を見たり、美術館や博物館で時間を過ごすことがよくあった。昔は絵画展などがあってもそれほど混むようなことはなかったように記憶している。それに映画を観るより安いから暇つぶしに観ていた記憶がある。

そんな中で、たまたま入った絵画展がルオー?だったがルオーだけだったか記憶は定かではない。驚いたのは人物の顔をひと筆で書いているのである。これが絵かと思ってしまった。絵画に対する認識は今も変わっていない。その当時はキリスト者ではなかったがイエス様や弟子たちを題材にした絵が何点もあったことを記憶している。後で知ったのだが彼は道化師とか娼婦をモデルにして描いている。どちらかというと社会の底辺、人々に顧みられない人たちに視点を当てて書いている人だった。そのようなことを知って絵ではなく、そのような彼が好きになった。自分も同じようなものだから共感を得たのかもしれない。私の芸術理解?な本質的なものではない。

ルソーをはじめ素朴派の絵画を多いように思えた。お借りしたホールにも何点も展示してあったがダリとピカソの版画?でも抽象的なものはよくわからない。閉館まで30分位しかなかったがそう広くない館内を二回から見ていこうと階段を登ろうとしたら大鷲グルの写真が何点か展示している。諏訪では有名だが美術館では場違いではと思った。サーと観てホールの二階の展示を観てないので一旦外に出てホールに入り階段を上がって上がりきったところに小さな絵だが太線で丸みのある線の絵があった。もしかしてとその隣を見るとルオー独特の絵が並んでいる。数点並んでいるのを見て何か懐かしさを感じた。観るのは東京で二回、これで三回目である。ポスターを作るので美術館の案内を貰って来たのだがサーと見ただけだったので気が付かなかったが表紙の恥にルオーの絵が載っていた。それにここではルオーも目玉の一つみたい。後はサーと観て、階段を下りた踊り場のところにルオーの大きなキリストの十字架の絵が飾ってあってびっくり、さらに感激して帰って来た。他にもあるそうだから展示替えの時いつなのか聞いてまたいつか行きたい。車で数分、歩いても15分もかからない。クリスマス会もよかったが感激したのはこちらの方が大きかった。芸術がわかるわけないのだが意外性故ではあるが。




http://suwatakken.naganoblog.jp/c56738.htmlの写真が展示してある。去年か

2015年12月16日水曜日

祝福に満ちたクリスマス会

13日に岡谷集会唯一のイベントであるクリスマス会をハーモ美術館のティーセントホールを借りて行われた。子どもを含めて総勢40名あまりの集まりになっていつもは両手に一つか二つ欠けるくらいの集まりがである。今西由紀・真理子さん母娘の連弾、実に力強い。それもそのはずピアノはスタインウェイにまさるとも劣らないベーゼンドルファー225である。と書いたがピアノの知識はないが館長の関さんがどちらかというと上のようなことを話されていたそうだ。今までマリオのチャペルを借りてアップライトのピアノだったから心苦しかったが今回は心置きなく演奏ができたのではとホッとしている。間に女性たちのコーラスと三綿さんのメッセーッジが入り、メッセージはプロジェクターを使って分かりやすかった所為もあってか皆さん真剣に聞いてくださった。内容に共感された方、話し方が参考になった方、そういうものかと真剣であっても距離を置かれた方と色々であったようだが押しなべて好意的であったことは感謝である。集会に結びつくのは至難の業だが祈りながら私たち自身も整えられていく必要があることを痛感する。松鶴家千とせの「わるかな、わかねェだろうな」をもじって、「できるかな、できねェだろうな」とならないようにとここまでは思うのだがその先が足踏みをしてしまう。

このクリスマス会も今回で5回目になる。少しづつ整えられて今回は集大成のような感じを受けた。
午前中に話をしてくれた今西ご夫妻の息子さんの勇太さん、インドネシアに奥さん茉莉さんと海外宣教に行かれる。そのためにオーストラリアで訓練を受けてこられたからかプロジェクターを使っての分かりやすい福音のメッセージは非の打ち所がない。真理子さんも演奏のみならず曲の解説もしてくださり、エスプリの聞いた解説は中々である。来年は軽井沢で英語での聖書の勉強をなさるそうだ。もう一家総出で奉仕してくださるのは今回が最初にして最後となる。千葉県の市原か5年間来てくださった。遠くて、寒くて、もてなしも不十分での三拍子そろってのことでまことに心苦しい限りであるが彼らのご厚意に甘え、そしてキリストにある者の幸いを覚えさせてもらっている。世の中ではこんなことはあり得ない。

個人的には由紀さんのご両親である桝谷ご夫妻からのつながりがあるのだが切れたと思っていた糸がこのように繋がり、今回のような幸いな働きをしてくださった。そしてそのきっかけを作ってくださった三綿さん、この小さい集会に毎月(1月、8月はパス)ご家族で時には経堂集会の兄弟姉妹を連れての奉仕、伝道者として、集会の責任者として、忙しい中での奉仕にどれだけ助けられているかわからない。ここにも主にある者の幸を味合わせてもらっている。「受けるよりも与えるほうが幸いである」とイエス様の言葉として伝えられているが私たちは受けるだけなのである。どこかで返すことができたらと思うがこれは夢のまた夢の話、年の〆のようなクリスマス会、今回ほど感謝と喜びに満ちた集会はなかった。みんなが心ひとつにして祈ってきたことがよかった。一つ気になることはあったがこれは来年の祈りの課題として…。小さき群れのために労してくださった三綿ファミリー、今西ファミリーありがとうございました。

2015年12月11日金曜日

絶歌 余禄

…たおやかに照りつける半透明の春陽が僕を静かに炙る。罪人にとって明るい太陽の光は地獄の業火だ。
 自分は今どこに立っているのだろう。
 「ひとりで生きて行く」。そう決意し安全な籠を飛び出して十年。僕は本当に、ただ逃げたかっただけなのかもしれない。
 自分の過去から。
 自分自身から。
 でも結局どこへ行っても、僕は、僕から逃げれなかった。
 もう、逃げるのはやめよう。自分の立つ場所がどこであろうと、背に負った十字架の、その重さの分だけ、深く強くめり込んだ足跡を遺そう。二度と戻らないこの一瞬一瞬に、一歩一歩くっきりと、自分の足跡を刻み込み歩こう。
 …
 僕は足に力を込め、地面を踏みしめて歩き出した。
 どんなに遠回りしても、どんなに歪で曲がりくねっても、いつかこの生命の涯に後ろを振り向いた時、自分の残した足跡が、一本の道になるように。


で終わっている。偽名であり、本籍は変えていないだろうかある意味で「偽って生きる人生」であろう。生きることは生易しくない。毎年あの日が近づくと二遺族に手紙を書いているそうだ。遺族にとってどれだけ慰めになるだろうかむしろフラッシュバックのように思い出されないだろうか等々…。

2015年12月9日水曜日

絶歌

この本が出版されるにあたって色々論議されていたから図書館では扱わないかなと思って検索したら二つの図書館で扱っていることを知り予約してこの間ようやく手にすることができた。予約待ち17で半年かかった。話題の新刊本はこんなものであろう。

読み始めて早々に違和感を覚える。30歳そこそこの若者がこれだけのものが書けるのか?もしかしてゴーストライターが?と思ってしまった。それは文章が若者らしくなく、たとえを用いての形容の言葉が熟年か編集者がいて書いているかのように思わされた。そしてあれだけのおぞましい事件を起こしていながら何か小説を読むように書かれているようで気になった。当事者ではなく第三者のようにそこに鎮魂の思いは皆無であるように思いた。

時折フラッシュバックのように昔の失敗したことや傷になっていることが思い出さされてて嫌な思いをすることがある。人から見れば些細なことであろうが本人は思い出したくもないことである。それがあのようなおぞましいことをして生きるということはある面でつらいだろうなと思う。最初の方に「僕にとっての救いは『死刑』だけだった。」と書いている。何となくわかる。

一部と二部に分かれていて一部は逮捕前後と生い立ちから少年院に送られるまで、二部は2004年3月から社会復帰のための仮退院から2015年の春まで書かれている。そして最後に「被害者のご家族の皆様へ」とある。

祖母の死から変わっていったようでそして祖母の愛犬サスケが死んだこともそれに輪をかけたようである。その愛犬の餌を食べにくる野良猫に怒りを発してむごい殺し方をするようになり、ナメク解剖するようになってそれが人にと移っていって二人を殺してしまった。それと前後して性的なものへと目覚めていったようである。でもそんなことで変わっていくものだろうか何か病的なものが死をきっかけにして表に出たのであろうか。

二部は11年間の社会復帰の軌跡である。「書く」ということに目覚めて?書き出したのがこの本のようである。院時代から本をよく読んでいたようであり「書く」ことがその帰結かもしれない。その所為かうがった見方かもしれないが自分の文章に酔っているところもあるかなと…。小心者のサルは生きるのがつらくなるときがある。彼にとって「生きる」とはとてもつらいものではないだろうか何か理由を見出して生きなければならない。そして生き続けなければならない。重いテーマだが文章から言葉として描かれていても文面からそれを見出すのは難しい気がする。本にするということは彼にとっては自分というものを整理することができるかもしれないが五木寛之ではないが遺族にとってはおぞましいことをまた思い出させる結果になったのではと思うと何とも言えない気持ちにさせられる一冊であった。

ヨハネ伝9章に思う



john 9: 1-2
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

珍しくヨハネ伝9章全体が一人の盲人を中心にして書かれている。色々な立場の人の論評が面白い。まず弟子たち、彼らにとって盲人であることがどれだけ大変かという視点はなくて誰が神の前に罪を犯したのかとの結果を知りたかった。知って知識として蓄えるためであろうか。盲人がどうなるかとの視点が欠落している。私たちもことの善悪を求めてもその人を生かす道を求めないきらいがある。

john 9: 3
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
イエス様はご自分の栄光を現そうとされたのではなく父の栄光を現そうとされた。そして盲人を生かすことを罪は「私」が中心であるがイエス様は罪のない故それをする必要がなかったとも言える。

john 9: 7
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
単純な信仰である。幼児サムエルが「主よ、お話しください。しもべは聞いております」に通じる思いがする。疑い深い私にはできない言葉である。

john 9:14
ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。
イエス様は問題提起をするように物議を醸しだすようなことをやる。罪は弟子たちと同じで本質でないことで右往左往する。私たちは何が本質か本質でないかを時々取り違えていることがあるような気がする。イエス様は「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」と言われた。罪は裁きが先に来て救いは後に来る。

john 9:34
彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外に追い出した。
イエス様が「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」の言葉を思い出す。どのような人からでも聴くという謙虚さは必要であろう。

john 9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」
「見える」、「知っている」というところに罪が残る。神に最も近い者であると自負する彼らではあったがしかし神から最も遠い存在であった。皮肉なものである。現代のパリサイ人、律法学者は誰か…。









2015年12月6日日曜日

「今月のみことば」より

12月号

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。(ガラテヤ1:4)

 パリでの同時多発テロは世界を震撼させ、世界のどこにも本当に安全な場所はないことを改めて思い知らされた。たった一夜の出来事で、治安は一挙に不安定になり、経済が冷え込み、人々が互いに疑心暗鬼になったことで、イスラム系テロ組織ISは快哉を叫んでいることであろう。彼らの悪魔的目論見は大成功を収めたのである。◆私たちにとってこのような現実を見つめることはつらいことでもある。だれもが人間の善性を信じたい、とどこかで願っているのではないだろうか。アンネ・フランクも「いまでも信じています。たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを」と述べ、世界に感動を与えた。◆しかし、問題が深刻なのは、「善人」と思われた人が、何かのきっかけでおぞましい犯罪に手を染める人になる、という事実もまたあまりに多い、ということである。◆ユダヤ人大量虐殺の推進者であったアイヒマンも、実はどこにでもいそうな「平凡な官僚」にすぎなかったというハンナ・アーレントの報告は物議をかもした。テロやホロコーストに関わる人間は、特別な悪人であり、自分とは違う、と誰もが思いたいのである。◆しかし、神の恵みがなければ、どのような悪をも犯しかねない危うい存在であることを聖書は語っている。キリストはこのような私たちの現実の罪の世に来てくださった。それこそは私たちが真に喜べることではないだろうか。
                                                長野集会月報より

今回は指が少し良く動いてくれた。所々つっかえたりしたことは勿論である。
かつてキリスト教界で成長した教会ともてはやされた大きな教会の牧師が信者の婦人におぞましいことをいとも平気で成していたことがニュースになっていたことがあった。
prov:14:12
人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
のみことばを思い出す。まっすぐを賞賛と変えればぴったりである。自戒を込めて。

運命の足音

役場に用があって出かけたついでに予約していた本が入ったので図書館に寄り、受け取って行こうとしたら係りの方がPCの画面を尚も見ていて、おもむろにたって貸しコーナーから一冊の本を取り出して渡してくれた。何かなと思ったらひと月位前に予約した本を忙しくて取りに行けなくて一週間以内に取りに来なかったら返却するとの規定があったのでとっくに返却されたと思っていた本がそのまま残っていた。付箋の返却日の日付は既に半月程過ぎている。係りの方は「いつまでに返却を」と言うのだが言いようがないのか黙って渡してくれた。折角と思い急いで読んで返したがこの本の題名が上記なのである。

これは五木寛之(敬称略)の自伝的なエッセーとでも言えるものだろうか。五木寛之の本は読んだことがなく知っているといえば写真などで長髪の横顔、このくらいの知識しかない。12歳の時に終戦になり、その時は北朝鮮のピョンヤンだった。そこで病気のお母さんを亡くしている。ソ連兵の暴虐ぶりはよく聞くし実際体験した方のお話しを聞いたことがあった。具体的には書いてないがお母さんもその被害にあったみたいだ。12歳の少年が受けた衝撃は計り知れない。どこか暗い印象を受けるのはこのような実体験があったからかなと思ってしまった。私も5歳時に戦争は終わったが片田舎で育った者としてもその経験は今も引きずっていることを思うと彼の衝撃はいかばかりかと思う。何カ所かにお母さんのことばとして「いいのよ」と言っていることが書かれている。読んでいると素敵なお母さんのようである。本の冒頭に「先日、私の郷里の福岡から一枚の写真が送られてきた。差出人は私の知らない御婦人だった。その写真には、白い帽子をかぶった若い女性の姿が映っていた」。母親の小学校の教え子の一人のようで母親の人柄が書かれてあったそうだが「私は半世紀以上かかって、ようやく母親のことを思い出さずにすむようになってきていたのだ」。…「私の57年の心の中の努力は一瞬にして崩れ去ってしまったのだ。『いまごろこんなものを送りつけてくるなんて!』と私の裸の心は叫んでいた。未知のご婦人の善意からの贈りものとわかっていていても、私は相手がうらめしかった。」とその衝撃が伝わってくる。善人の善意の恐ろしさを殺人者より怖いとあらためて思わされる。

読み進むうちの彼の宗教観人生観が仏教に根ざしているのではないだろうかこれは日本人そのものであるような気がする。キリスト教とは相いれないものでありながら日本人として共観するものもある。そして日本人の思想は一軒の家に神棚と仏壇があるように思想的にも矛盾したものがあるような気がする。それが私の信仰のあいまいさと生み出しているのかもしれない。それは聖書が語っていることを伝えるなかでこの日本人を支えている思想を理解したうえで福音を伝えることが大切であることを教えられる。