2016年12月31日土曜日

孫の面倒を


息子から電話があり「年末で保育室がお休みなので子供を」と言われ、今遠い信州から東京に来ている。寒い信州から暖かい東京へと喜び勇んで来て見たが寒い、信州とあまり変わらない感じである。多摩の下の息子を宿に世田谷の息子の孫の面倒を見るために朝まだ暗い6時半ごろ家を出る。昔設備の仕事をしている時を思い出した。あの時も暗いうちに家を出て駅に着くころ白々と明けてきた。タイムスリップしてこんな経験をするとはと思ってしまう。

子どもたちが小さい時の経験は殆んどナシであるからこちらはタイムスリップなしである。家内と一緒だから細かいことは家内に任せとと臨んだがこんなに手がかかるとは思わなかった。いかに父親として手抜きをしていたかが如実に分かった。なんせ二人の息子のオムツを変えた記憶は数回もない。仕事が集会の奉仕が優先する時代だった。それでもちゃんとやっていたご夫婦は多かったが私にはそんなゆとりはなかった。主が第一は集会第一みたいな雰囲気があり、本当はそうではないのに信仰に忠実みたいな錯覚を起こしていたようだ。お蔭で息子たちは…とワンパターンのように書いてしまう。

お母さんが出かける時あらん限りの鳴き声を上げていたからどうなることかと思っていたら少し経つとケロッとして遊びだし、人見知りもせずに相手にしてくれる。保育室に通っているから親以外の人と接するからその所為かなとホッとする。それと食べるときの勢いの良いこと限りなしである。ニコニコしながら大きな口を開ける。しかし、少し手間取ると体をそっくり返って泣きわめく、あげる順序が自分の思いと違う時は同じようにやるから中々手こずる。オムツも昔と違ってよくなっているから楽である。オムツ替えもこの三日間で二人の息子たちの一生分をやってしまった。誠に息子たちには申し訳なく思ってしまった。暗くなりかける頃から少しおとなしくなるのでお母さんが迎えに来る頃を知ってその時間を感じるのか少しおとなしくなる。しかし、お母さんもお父さんも帰って来ても飛び上がるほど喜ばない。面白いことをやると一緒に喜びながら遊ぶ、それでも親がそばにいる安心感みたいなのが何となく感じる。本をと思って持ってきたが何も読めなくて楽しいようなしんどいような三日間であった。明日は以前いた集会の礼拝に8年ぶりかで出席できるのが楽しみである。そしてその後、嫁さんと孫を乗せ、孫の面倒見で疲れてしまった家内を多摩で拾って信州諏訪へ、嫁の実家に二人を下ろしていつもの生活に戻る。貴重な年末になり、来る年もいつもと違った年始にそして一年になってくれることを望みながら…。

2016年12月27日火曜日

イザヤ9:6 思考



イエス様が誕生する700年前にイザヤが預言した言葉。

isa 9: 6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

「緑児」(ミドリゴ)
新芽のような子という意味で、生まれて間もない子、赤ん坊(Weblio辞典より)。今は嬰児(ミドリゴ、エイジ)か?。


isa 7:14
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。


「不思議な助言者」 
並はずれた、驚くべき、人間の考えをはるかに越えたみわざをなす助言者(あるいは指導者)を意味します。(牧師の書斎より)

john 21: 3-6に漁師のプロが徹夜しても何も取れなかったのに「右舷に網を下ろしてみなさい」という言葉に従ったらおびただしい魚が獲れたことが記されている。英語では「Wonderful -Counselor」というそうだ。john 4: 3-29にサマリヤのスカルで井戸の傍らで訳アリの女性との会話が記されている。短い会話の中で彼女を変えてしまった。人生を斜(ハス)目で見ていた彼女が前向きで生きて行こうとしている姿が垣間見れる。
たった一言のことばが大きなわざをなし、たった一言のことばが人生に失望している人を立ち上がらせてくれる。福音書の中だけではなく今日も然りなのである。


「力ある神」
日本の神々は何かをしてくれる神である。商売繁盛、家内安全、そして学問の神様と色々な神々が存在している。聖書は「神は唯一」と言っている。そしてすべてのものを創られた。製造会社が自社製品に対してメンテをしてくれるように神も同じようにメンテをしてくれる。「はなはだよかったもの」から「はなはだ悪しきもの」、すなわち罪へ、そして罪人から義人へと人間改造である。変えることが不可能なこのことをいとも簡単にできるようにしてくださった。「信じる」ということを通してである。これには膨大なエネルギーが費やされている。「受肉」という推し量ることの出来ないエネルギーである。

「永遠の父」
永遠に御父を啓示される方、証言される方という意味で「永遠の父」と呼ばれます。(牧師の書斎より)

eccles: 3:11 
  神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
  神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人
  は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりま
  で見きわめることができない。
口語訳聖書
eccles: 3:11
 神のなされることは皆その時にかなって美しい。
 神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
 それでもなお、人は神のなされるわざを初めから
 終りまで見きわめることはできない。
共同訳聖書
コヘレトの言葉3章11節
 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、
 永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、
 神のなさる業を始めから終わりまで見極めること
 は許されていない。

誰にでも「永遠」を想う思えはあるであろう。人の営みが地上のみであるなら人生はなんと空しいものであろうか。

「平和の君」
7節に「その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える」とあるように、これは地上におけるメシア王国(千年王国)において実現する平和(「シャーローム」שָׁלוֹם)を意味しています。(牧師の書斎より)

キング牧師
I Have a Dream(私には夢がある)」
非暴力でアメリカを変えました。
暴力主義?のマルコムXともに暗殺されました。
彼は多くの人に影響を与えたようです。その中にモハメド・アリもいました。
しかし、その働きは消えていきました。

マンデラ大統領
 彼も非暴力で南アフリカを変えました。経済政策はうまくいかなかったようですが。

蒋介石
「以徳報怨(イン)」(徳を以って恨みを報いず)と言って日本人を解放してくれた。

毛沢東
数千万人殺したと言われている。暴力で国は成り立つのだろうか。否であろう。かつてある国も「皇国史観」に立って暴力を振るってきた。その結果は…。

神は「平和の神」である。

先々週の日曜日にクリスマス会でピアノの演奏を聞き、その土曜日には教会のクリスマスコンサートで合唱団の合唱を聞いた。ハーモニーが美しく感動する。
私もピアノの前に座って鍵盤をたたいて音を出すことが出来る。私も声を出して歌うことも出来る。
しかし、そこには美しさも調和もない。罪からくるものに美しさも調和もない。美しさや調和は神からくるものである。罪によって損なわれたが創造されたものを見るときにそれを見い出すことが出来る。

立ち泳ぎは顔は平気そうに見えても、手足をばたつかせないといけない。人も顔は平安そうに見えても心は悲しみや苦しみ、葛藤が絶えずある。心に真の平安はない。罪の世界はこういうものなのである。真の平安は神から来るのである。

イエス・キリスト
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

いのちを得るとは
神様と人との関係が修復されることなのである。

私たちにいのちを与える為に、イエス様は人として、この地上に来られた。このことをイザヤは700年前に既に告白されている。そして、さらに二千年経って、地の果てにまでこのニュースは届けられ、多くの人たちがいのちを得ている。

2016年12月21日水曜日

クリスマスチャペルコンサート

義姉の幼友達が岡谷合唱団に参加している。どこでもそうだが合唱団も高齢化と発表する場がなくて苦労しているらしい。それでか教会とコラボ?して「クリスマスチャペルコンサート」なるものを催している。今年で三回目とか教会では恒例になっているようだ。彼は叔母の法事とかで参加できないので聴きに行ってほしいと言われて案内を貰ってきた。折角案内を頂いたので聞きに行って来た。プログラムは一部と二部があって、一部は「日本のうた」二部は「クリスマスのうた」その間に牧師のお話があった。

牧師の話はマタイによる福音書2章10-11節より東方の博士の訪問から話されたがクリスチャン向けに語られたり、ノンクリスチャン向けに語られたのかと思うようなどこか中途半端な感じを受けた。もしかしたら聞かれる人の聖書をどれだけ知っているかが掴み兼ねたのかもしれないなと思ったがどうだろう。聞く者のサイドで話すか聖書をストレートに聞く側の聖書知識の云々を無視して話すかで大分違うなぁと思った。後者は福音を語っているようで自己満足的になりやすい。それと福音的な教会なのに今も口語訳聖書を使っているのには驚いた。聖書協会だと共同訳があるのにと思ったが事情があるのだろう。

一部日本のうたで最初とアンコールで歌ってくださった「ほらね」は初めて聞くが東北震災の歌だそうだ。そして「里の秋」、「小さい秋みつけた」、『重なりある手と手」、「花は咲く」、「この道」、「麦の唄」と歌ってくださった。ハーモニィがとても良かった。最後の曲はどこかで聞いたようなメロディだなぁと思ったら朝ドラの「マッサン」の主題歌だった。懐かしい歌、初めての歌、色々でよかった。

二部クリスマスの歌は「きよしこの夜」、「子らよほめまつれ」、「荒野のはてに」(讃美歌78)、「さかえあれ まことの おんからだ」、「すばらしい恩寵」(アメイジンググレイス)、「さやかに星はきらめく」、「ハレルヤ・コーラス」そして賛美歌86「み使いのたたえ歌う」、112「諸人こぞりて」、103「牧人ひつじを」、109「きよしこの夜」と最後は全員で合唱、そしてアンコールを歌って終り。

ピアノの演奏も合唱もハーモニィが大切、ハーモニィは神からのものであることを実感する。クリスチャンでない人が賛美歌をと?を呈する人がいるがそれも一理あるが美しいものは美しいではないだろうかと思う。それを醸し出すのは神なのである。知らないで神を賛美している人もいるだろうし明らかにノンと思って歌っている人もいるだろう。「青銅の基督」にあるように想いこみはよくない。いいものはいい、悪いものは悪いでいいと思うが…。わがクリスマスと比較するつもりはないがピアノ演奏と合唱の違いはあるが場所もメッセも私たちの方がよかったなぁと内心思った。勿論誇るつもりはないし余韻は両方とも良かった。

余禄として、帰り自転車で帰る若い男性がいたのでよく見たら下諏訪教会の牧師だった。駐車場まで少し話すことが出来たいつか交わりたい。24日夜クリスマス礼拝と案内をいただくが翌日に話の順番になっているので無理かなと…。

2016年12月17日土曜日

イザヤを読み終えて

ようやくイザヤ書を読み終えて、今エレミヤ書を読み始めている。今までは前半はそれほど好きではなかったが今回はそのような感じも受けずに後半と同じように読むことが出来た。格調の高さはイザヤの育ちの良さの所以だろうか。エレミヤ書を読み始めるとその差が歴然としている。エレミヤ書は戦後間もない日本が現実に生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされて、生きることの厳しさを目の前にして右往左往している姿とダブる。イザヤ書は立ち返れと叫ぶイザヤに民は安逸をむさぼっている。いつか滅びるであろう民を目の前にしてイザヤの苦悶もうかがえ知れる。今の日本ともダブる思えがする。

主の僕としてイエス様を共同訳では「42:1-17に主の僕の召命、49:1-9に主の僕の使命、50:4-11に主の僕の忍耐、52:13-53:12に主の僕の苦難と死」と題がついている。最後が最も好きで、聖書の箇所をどんどん忘れるていくのにここだけは覚えられる。聖書はこれだけあればと思うこともある。しかし、エレミヤ書を読み始めるとエレミヤの苦悩が伺い知れてどこか共観するものがある。

今日のパン、明日の糧

平和の国   12/10

 造られたものすべてが共に、造られた方のみ腕にあります。すべての男女が、自分たちはお互いに兄弟姉妹として、一つとなって生きるように召されているというばかりではなく、神によって造られたものすべてが、完全な調和の中で一つに集められということを悟る、それが最終的なヴィジョンです。キリスト・イエスは、そのヴィジョンを実現するために来られました。イエスが生まれるはるか前に、預言者イザヤはそのヴィジョンを見たのでした。

 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち 
  小さい子供がそれらを導く。
 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏す
  獅子も牛も等しく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 
  幼児は蝮の巣に手を入れる。
 わたしの聖なる山においては 
  何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
 水が海を覆っているように 
  大地は主を知る知識で満たされる。
                 (イザヤ11・6-9)

私たちはこのヴィジョンを生かしつづけなければなりません。


新しい天と新しい地   12/11

 イエスがお生まれるになるはるか前に、預言者イザヤは、キリストによってなされる、すべてのものを一つにする救いの業のヴィジョンを受けていました。イエスが亡くなられた後何年も経って、愛された弟子ヨハネにも、別の、しかしよく似たヴィジョンが与えられました。ヨハネは新しい天と新しい地とを見ました。すべての被造物がキリストの完全な花嫁となるために、不死の衣をまとって新しい姿に変貌していました。ヨハネ幻の中で、復活されたキリストは玉座から語りかけられます。「見よ、私は万物を新しくする。…見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(黙示録21・5、21・3-4)
 イザヤもヨハネも、キリストの救いのみ業はすべてのもを包み込む性質のものであることを、私たちの目を開き、教えてくれます。


付記
久しぶりの活字を見ながらのブラインドタッチはスムースに動く指とブレる指があって少し戸惑う感もありで、少しづつでもやっていることの大切さを教えられる。頭も同様である。しかし、ここはぁ~。ここがよりどころなのである。
isa:49:16
見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ

2016年12月16日金曜日

二つの異変

前にも書いたがブログをやっているのは何かを発信するためではなく、文章を打つことによって文を纏められるようにとの訓練とボケ防止、それにブラインドタッチの練習なのである。

いつもはアクセスは日本がほとんどでヨーロッパのあちこちで合わせて数件のアクセスがあるくらいなのに14日から急にアクセスが増えてきた。よく見たらロシアで日本の数倍にもなっている。ある兄弟のブログは一日数百件とか私の一ヶ月のアクセス数より多い。それに比べたら一桁違うのだがそれでも異常である。日本以外は読むためのアクセスではなく、なんかの間違いだろうくらいに思っている。今もそうだ。

何故と思ったら今プーチン大統領が来日している。その所為かなとロシアに帰ればまた元に戻るだろうと思っている。

それともう一つ。この間のクリスマス会の後の夕食を我が家でやった。みんな帰って片付けしていて最後に電気釜が残り、それを持ってくるように言われ「承知した」と言ったのに戻ったら「電気釜は?」と言われきれいに忘れていたことを思い出した。最近スーパーで買い物をして帰って来て家に入ると家内に「買い物袋は?」と聞かれ、車から持って来るのを綺麗に忘れている事に気づかされる。自分に直接関係ないと綺麗に記憶から消えている。買物でも大福を買ったりとか自分の好きなものを買うと忘れないのだが…。この年になると覚える必要がないのは覚えなくてもよいということだと見栄を張っているがどうも認知に一方踏み入れたようである。ここからなだらかなカーブを描くか急カーブになるかの瀬戸際である。

細胞は新しくともDNAはしっかり「老い」を刷り込んでくる。気力、体力、記憶力が衰えて嫌だという人は多い。しかし「主は必要でないものをお与えにならない」とよく言われる。ということは気力も体力もそして記憶力ももう必要がないということだ。楽でいいではないか嘆くことなんか論外、感謝すべきではないかと思っている。正直まだ元気でいるからこんなことが書けるがいざとなったらどうなるだろう…。

一足早いクリスマス


ネットで観ていると教会のクリスマスが12月早々に始めているのを散見する。子どものクリスマスは以前からよく見かけたが大人向けでは今年は多いような気がしている。実は私たちのクリスマスもこの11日に諏訪湖畔端のハーモ美術館のホールを借りて行われた。今年で二回目である。ここではよくコンサートを行われるようで、それはピアノがあまり聞き慣れないオーストラリア製のベーゼンドルファー225と言われるものでどうも小さな家が一軒建つほどのものらしい。メッセンジャーも演奏される方ももう6回目になる。そして母娘連弾は三回目に、素人目にも息があってきたような気がする。

メッセージの前後に演奏してくださり、幾つかの曲名は分からず音楽には疎いものだが生で聞く演奏は素人でも感動する。私は鍵盤をたたくことは出来るが音楽にはならない。演奏者の20本の指が巧みに動いて、そして力ずよく響いて来る。演奏を聴きながらハーモニーの美しさを実感した。神が創られたものには調和があり、美しい。罪の世界はそれを壊しているように見受けられる。怒り、憤り、殺戮、平和であるように見えるが心にそれがない世界である。演奏を聴きながら神が創られたものがいかに美しく調和を持っているものであるかを思い浮かべ、罪はそれを破壊するものであることを実感させられた。

メッセージも韓国から帰って来たばかりなのでお疲れかなと心配したがそんな様子は微塵も見られず力強く語ってくださった。諸集会は「罪だ滅びだ救いだ」とストレートに語られることが多かったように思うが彼は神がおられること神の本質は何であるかを語ってくださって初めて聖書の話を聞かれた方もそれ程抵抗感なく聞かれるような話をされる。

続けてきて下さった方や新しい方と色々だったが好意的に聞いてくださった方も信仰、集会にと結びつくには至難かなと思わされた。でもこれがなければ先に実を結ぶことは出来ない。誰かが種を蒔き、誰かが実を刈り取る。私たちはその過程の中のどこかに参与しているのである。そのことが感謝なことでもある。

M姉妹は英語が好きで今軽井沢で英語と聖書が勉強できるSYME JAPANというところで勉強している。来年1月にはアメリカでの一ヶ月間の研修旅行があるらしい。英語と音楽が苦手な私には驚きというより唖然とするばかりである。そこのスタッフの方々14名が来てくださった。日本語のよくわからない方もおり、音楽は別としてもメッセージは?と思ったがケーキとコーヒーが用意されてい寛ぐ時間もあったからそれはそれで良かったのかなと、お陰で用意した椅子のほとんどが埋まりホッとしている。M姉ありがとうございました。

Y姉、M姉の母娘のハーモニーの美しさにいかに多くの練習を重ねられたが伺い知ることが出来脱帽。遠い千葉から運転してくださり、マネージャー的働きをされたI兄ありがとうございました。また、この小さき群れにいつも奉仕してくださるM兄そしてファミリーこの一年ありがとうございました。私たちは何もできなかった分主からの慰めと祝福があることを確信している。私たちもこのことを通して少しでも成長できたらと願っている。クリスマスおめでとう。

2016年12月14日水曜日

友、遠方より来る

長く療養されていたK姉妹が召されて召天式に列席した大阪のN兄が岡谷インターから大阪に帰ると前橋から我が家に電話をくれた。しかし、義姉を眼科に連れて行く日で夕方6時までに帰るからゆっくり来てとお願いして出かける。電話を貰ったのは10時頃だから昼飯をそしてゆっくり?交わるつもりだったのだろうが残念ながら予定が狂ってしまった。定期検診のようなものだから特別異常はなく、彼女にとってその後にどこかで食べるのが楽しみであるのだが今回は事情を話して近くのラーメン屋で、持ち帰りを作って貰って急いで帰ってきたが6時を10分ほど過ぎてしまった。もう5時頃ついていたらしい。パソコンで仕事をしていたから平気だよと言われたが申し訳ない。それから近くのファミレスへ、帰って我が家でコーヒーを久しぶりなのでつい私の方が話し込んで8時半を回ってしまった。

10年以上会ってなかったと思う。彼が東京に居た時は私たちの近くに住んでいてよくスクーターで来ては何か食べる物ないなどと冷蔵庫を開けて家内に何か作らせていたこともあった。私が家内に何も買ってあげないので「金の指輪」を作ってくれたりして気兼ねのない兄弟である。お互い好き勝手なことを言い合う仲だった。今回も然りである。私はぼけ、彼は白髪が増え、私はリタイア、彼は大阪の会社ではトップのようだ。一番いらくなっているというのにお互いに成長していない証拠なり…。親子ほど違うから彼が私に合わせてくれたのかな、成長していないのは私の方のようだ。それでもうれしかった。今度会う時は天国だと分かれたが一路大阪へ早くても4時間はかかる。ご苦労さんでした。いつかご夫妻で蒸し暑い大阪から自然いっぱいの信州へと願うが…。

それから間もなく、珍しく電話が鳴る。取ると「○○さん」とどこかで聞いたことのある声である。3-4か月前かお母さんが亡くなられたことを知って手紙を書いた。雑文で汚い字だったから気分を害されたかなと思っていたがそうでもなかったようだ。その時はそれだけだったがご両親に色々お世話になっていたので秋になったらリンゴをと思って送った。何もなかったのでたくさん色々と頂き物があるので一々何もしないのだろうなと思っていた矢先だった。電話をとり多分そのことだろうとそしてタイムスリップして話し出す。私よりもと家内に変わって、また長々の話をする。女同士、母親同士の分かり合えるものがあるようだ。彼女も色々苦労しているらしい。でもどこか逞しい。

それとご主人は私と一緒にバプテスマを受けた。彼は中学生だった。10歳違うが今は病院建築設計の第一人者のようだ。アメリカで仕事をしていた関係で病院建築で英語が出来る人は珍しくひっぱりだこだことのこと、私は相変わらずだが周りはみんな雲の上の人になっていく、もうすぐ天国と言っても少々寂しい。丁度果物だけのダイエットのようなことをやっているので大きくておいしいと喜んでくれたがお役に立てて私たちも嬉しい。たまにはこんなダブルでグーの時もある。珍しく心浮き浮きした一日の終わりだった。

2016年12月8日木曜日

久しぶりのうなぎ

朝早くケアハウスから電話があり、義姉に何かあったのかなと少し身構えて応答するとデイサービスに行っているところでリハビリ的なことをやっている。そこで次の動作をしようとして体を横に動かした時に肋骨の下の脇あたりを痛めたらしい。そして医者へとのことだった。ここはかかりつけの病院はあるが彼女はそこを嫌って国立の松本病院へ定期的に通っている。といっても二月間隔だが私は町の眼科へ一ヶ月半間隔で連れてって、義妹が松本病院へと分担している。緊急なので私たちが行くことに、いつも行く松本病院は車で20分位、しかし、整形外科は同じ系列で中信松本病院というところに行く、ここはケアハウスから7、8分くらいのところにある。ここは来年完成予定で松本病院に統合する。既に工事は始まっているようである。

早速といっても10時頃になったのだが病院に連れて行ったら初診者の受付は休みで予約のみ、それほど痛いわけでもないので翌日に行くことにした。早々に帰って来る。といっても帰ってきたのは2時過ぎになった。混むから7:30から予約受付をしていますとのことで、翌日は家内をケアハウスに降ろして病院に、受付に行ったらすでに8:30になっていて受付が始まっていた。もう予約受付は関係ない問診書を出され、書こうと思ったら本人でないと書けない。それに保険証などの入っているバックを預かってきたのだが肝心の保険証がない。後期高齢者のグリーンの証書があり市役所に確認してくださりOKがとれた。問診書を外来受付に渡して迎いに行く、連れて来て問診書に書き込んでもらって診察を待つ、レントゲンを撮りどの位か待っただろうかそのうち呼ばれて、骨に異常はなく、湿布薬を貰って様子見ということになった。大したこともなくホッとする。年をとるとチョットした動作で倒れそうになっでどこかにぶっつけると骨折にということが割と多い。知り合いの方も転びそうになって椅子にぶっつけて肋骨を折ったとか私も仲間の部類に入るから気をつけないとと思わされている。送迎の運転手に徹して受け付けは家内に任せていたが一連のことを通して何をどう確認すればいいのかを教えられた。人は何事もスムーズに出来れば当たり前、アクシデントがあってそこで学習する。失敗を通して人は教えられることが多い。私はその連続で召されるまで続くだろう。どうであれ教えられることは感謝なことである。と表向きは書くのだが実際凹む。

ケアハウスはお年寄りでも身の回りは自分で出来る人たちばかりだから結構なことであるがこれがマイナスとなることも少なくない。我が出るのである。車いすとかベットで寝たっきりであればお世話になるだけだが自分で出来るとなると言葉にしろ行動にしろ自我にしろ広がる。義姉は体も大きく、どちらかといいうと服装は目立つ方でもある。それが人によって色々言われる所以でもあるらしい。人は老いて美しくなるということより老醜という言葉があるようにどちらかというとこちらの方が多いのではないだろうか。それが集団生活の中に生活していれば結果は明らかである。そのようなことがあった直後らしく家内にこぼしていたらしい。食にこだわる人だから寿司だうなぎだと出かけるときは必ず食べる。うなぎは高いので滅多に食べないが今回は余程頭に来たのかうなぎを食べたいと言う。それも「観光荘」と岡谷?と言ったら松本にあるらしい。いつもは遠いところは悪いからと塩尻近辺に落ち着いているのにその思いもないということはいかにかがわかる。頼りない記憶を頼りに出発する。町名を覚えているのでそれを頼りにそしてガソリンスタンドで聞き、近いことを知りそこを目指す。最初分からず行き過ぎで戻りかけると看板が見える間違っていない。狭い道を案内板に沿って走り到着するが今日はお休みで彼女がっくり。岡谷に本店がある水門が松本インター近くにあることを知っていたのでナビで検索するがわからず。本店を検索し、そこへ電話する。住所と電話番号を聞き、検索して出発するが近いのになぜかぐるぐる回るように走る。そんな大きな店ではなかった。義姉はうな重、私たちはうな丼、小ぶりで固くておいしかったがご飯が固めで汁がシジミで肝吸いでないのが残念だった。本店に何時かはと思っていたがこれでパス、義姉も疲れたようだったが帰りの道沿えにJAがあって立ち寄り、長芋とリンゴを買って満足したようだ。帰ったらヘルパーさんがいて「食べ物は腐らすから買わないようにと言っているのに」と言われ、「実際やらないでしょうが買う時はこうして食べたいと思うのでしょう。ストレス解消のために腐らして捨てるのは勿体ないが金額的には」と話したら苦笑いしていた。クリスマスの準備でチョンボをしたり、頭が思い巡らさずパスしたりで、少し疲れたがいい勉強になった。

2016年12月4日日曜日

今月のみことばより


「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」
(イザヤ書53章1節~3節)

 彼は、田舎の女を母として、辺鄙(へんぴ)な村に生まれた。◆育ったのは別の村だったが、そこで三十になるまでずっと大工として働いた。◆それから、巡回の説教者として三年を過ごした。◆一冊の本を書くこともなく、事務所も持ったこともなく、家族も家も持たなかった。◆大学へ行ったこともなく、大都会に足を踏み入れたこともなかった。◆生まれたところから300キロ以上遠くへ行ったこともなかった。◆普通、偉大だとしてほめそやされるようなことは何一つしたこともなかった。◆彼には、自分を見てもらう以外に、人に信用してもらうための資格は何もなかった。◆まだ三十三歳のときだった。世間は急に彼を敵視し始めた。友人たちは、みな逃げ去った。友の一人が裏切ったのである。◆彼は敵の手に渡され、茶番としかいいようのない裁判にかけられた。そして、二人の強盗にはさまれるようにして、十字架に釘づけられた。彼が間もなく死のうとしているというのに、処刑者たちは彼が地上で持っていた唯一の財産、すなわちその上着が誰のものになるか、くじを引ていた。◆彼が死ぬと、その遺体は、彼を憐れに思った友人の配慮で、その人の墓に横たえられた。
◆それから1900年の時が過ぎていった。◆ところがどうだろう。今日、彼は、人類の中心を占める人物となっている。◆かつて進軍したすべての軍隊と、海を渡ったすべての海軍、開かれたすべての議会と、統治したすべての王たちを合わせても、この地上を歩む人類に、あの、ひとりの孤独な生涯ほど影響を与えた者はいまだにない。
            (ジェイムズ・A・フランシス)
        長野キリスト集会 12月号月報より

別訳(参考まで)

ひとりの孤独な生涯

彼は、世に知られぬ小さな村のユダヤの人の家に生まれた。
母親は、貧しい田舎の人であった。
彼が育ったところも、世に知られぬ別の小さな村であった。
彼は30才になるまで大工として働いた。
それから、旅から旅の説教者として3年を過ごした。
一冊の本も書かず、自分の事務所も持たず、自分の家も持っていなかった。
彼は、自分の生まれた村から200マイル以上出たことはなく、
偉人と言われる有名人にはつきものの「業績」を残したこともなかった。
彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことがただひとつの頼りであった。
彼は、旅をしてまわり、病人をいやし、足なえを歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。
ほどなく、この世の権力者たちは彼に敵対しはじめ、世間もそれに同調した。
彼の友人たちは、みな逃げ去った。
彼は裏切られ、敵の手に渡され、裁判にかけられ、ののしられ、唾をかけられ、殴られ、引きずり回された。
彼は十字架に釘づけにされ、二人の犯罪人の間に、その十字架は立てられた。
彼がまさに死につつある時、処刑者たちは彼の地上における唯一の財産、すなわち彼の上着をくじで引いていた。
彼が死ぬと、その死体は十字架から下ろされ、借り物の墓に横たえられた。
ある友人からの、せめてものはなむけであった。

長い19の世紀が過ぎていった。
今日、彼は、人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。
「かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王様たちの影響力のすべてを合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響、人々のいのちに与えた影響の偉大さにおいて、あの『ひとりの孤独な生涯』には到底及びもつかなかった。」と言っても決して誤りではないだろう。


作者不明(関根一夫 訳)


2016年12月2日金曜日

神学とは

煮ても焼いても食いないもの、かじるものである。かじって固ければやめればいい。固くなければもっとかじればいい。魚と一緒で身(みことば)が主体、なまじかじって骨が棘となって喉に痞えて命取りになることもあるので注意が必要。

2016年12月1日木曜日

雅歌からイザヤへ

雅歌からイザヤに読み始めたがまさに一転しての感がある。イスラエルの民に語りかける神のことばは厳しい。しかし、

s_of_s 5:16

そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。


「あの方のすべてがいとしい」、恋は盲目と言われれば乙女は表面的なものだけを見て言ったのだろう。と見ることも出来るイザヤは言う。

isa 53: 2
彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
isa 53: 3
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。



「私たちが慕うような見ばえもない。」、「人が顔をそむけるほどさげすまれ、」た方である。このような方に「あの方のすべてがいとしい」と告白することと捉えたらなんと素晴らしことだろうか。この方の本質を知っているということだ。福音書に登場するイエス様に声をかけられた一人一人は、この告白をうちに持っていたのであろうことを想像する。主を知る知識はこんなところからと・・・。

2016年11月29日火曜日

銀杏拾い

すぐ近くに小さな公園があってそこにイチョウの木が数本ある。その中の二本が実をつけている。最盛期?も過ぎ、葉も落ち、実もそれほど残っていないがここ何回かちょこっと行って銀杏を拾っている。十数個から精々二三十個位だが数回やっているとちりも積もれば山ではないが結構な量になっている。今は周りが腐って来るのを待っているから実にしたらどれだけになるかわからない。

銀杏は茶碗蒸しに入っているのを食べるくらいでそれほど好きではなかったがストーブの上で焼きながら食べるとそれなりに美味しい。木の実であるから栄養もあるようだ。去年は拾わなかったが一昨年は食べるときりがないので一日数個と決めて食べていた。冬の楽しみでもある。

ゴミ拾いはそれほど好きではないがこのような木の実を拾うのは好きである。皮が臭うのを見て「種の保存」の所為なのかなと思いながら拾っている。落ちているのは少ないから拾いに来る人もいないわけでもないようだがそんなにという感じである。ゴミ拾いも銀杏拾いも格好いいものではない。一歩踏み出すには勇気がいる。福音を伝えるのも同じく勇気がいる。どちらにしろ一歩踏み出さないとと思いながら…。

おのぼりさんが行く

26日に東京近辺に住んでいる中学のミニ同窓会があって声をかけてくれたので、孫が喘息で入院している見舞いがてら東京に行って来た。移動手段は一番安い地元の高速バスを利用、土曜日ということもあって臨時便も出ていた。以前乗った時はウイークデーの所為か空いていてふたつの座席を使える程だった。小型で少し窮屈だったからそれ以来アルピコや京王を使うようにしている。といっても2-3回しか利用していないが…。今回は大型であったがアルピコや京王に比べると狭い感じ、それにこの会社は普通の観光バスだからトイレがついていないので行きも帰りも談合坂でトイレ休憩をする。

新宿発着は新宿バスタから2階で降りて4階から乗る。駅と違って乗るバスも時間も決まっている人が来るからか人が行き来するところは何となく狭い感じがする。

好きな時間の予約が取れなくて朝一番の6:30のに乗るが安曇野や伊那方面から拾って来るから予定よりも15分も遅れてきた。でもこの会社は茅野、原村、富士見のバス停に停まるだけで新宿バスタまでノンストップ、他のは東京に入ると乗り降りする人がいなくとも各バス停に停まったように記憶している。

6時前はまだ暗い、前は勿論行き交う車もない。少しづつ明るくなって来ると同時に行き交う車も増えてくる。少し早めに着いたがバスは無し、数人がバス待ちをしている。定刻にバスが来たので乗ろうとしたらあなたは次のバスですと言われる。その次が中々来なくて15分待たされた。茅野、原村、富士見と数人くらいづつ乗ってくる。電車やバスのいいところは本が読めることである。この時にと買っておいた本を早速読み始める。そのうち眠くなり、本を閉じて眠る。そんなことを何回か繰り返すうちに新宿に着く、といってもいつものことながら三鷹あたりからノロノロと走る。外の風景を見て、ここはあそこはどこだろうと思い巡らしながら何故か懐かしさを感じた。かつてはよく車で通った地である。

少し早く着いたので中央線ではなく、山手線を半周することにした。電車はガラガラで座れる。老いも若きも外国人もいれば旅行者もいて色々である。人の乗り降りや周りの様子を見る。皆スマホやタブレットでシニア向け携帯なんて恥ずかしくて出せない。ガラケーを持ち、物珍しそうに目が動いているのは完全におのぼりさん。目黒、五反田、大崎は懐かしい。様変わりした大崎を見ているとまさに隔世の感がある。私が就職した会社はこの駅からだった。その当時は何もなく、明電舎の工場があり、それがソニーに変わり今は高層のオフイスビルになっているようである。

神田の駅も懐かしいので降りて歩こうかなと思った
がやめて秋葉原から歩くことにした。駅の下は完全に様変わりしており、かつての面影はない。それでもガード下の小さい店は相変わらずであるが地方の駅前商店街のような感がする。そこだけが今も変わらずであるが扱っているのは昔と違っているようだ。もう抵抗とかコンデンサーを売っている店はない。本屋のおばさんは変わらずただ年取ったなぁと…。二十数年前の話だがあの時はまだ若かった。

道路を渡って、以前勤めていたビルがある。店は閉めたが○○無線と屋上の看板にあるから会社はやっているようだ。免税店になっていて店は貸しているのだろう。交差点の角に愛三電機と坂口電熱と店はそのままである。建物が変わらずとも扱っているものが変わっているのにここだけは相変わらずである。まだ昔のままの姿と扱っている製品を見て懐かしさを覚えた。

ゆっくりと周りを見ながら御徒町へと向かう。電気街の面影は薄くなり、AKB48の影響かフィギャというのだろうか人形のようなものを扱っている店が多い。上野の近くまで来て、道路の反対側にいた所為か目で鈴本演芸場を追ったが目にすることは出来なかった。寄って聞く時間も今の落語家の話を聞く興味もそれほどないが若い時ここで旬ごとに落語を聞いていたので懐かしさがある。戻るようにしてアメ横を通るが食べ物屋さんが増えたような気がするがどうだろう。ここもそれほど安くはない。安い物はそれなりのものかなと…。

駅前の吉池がわからなくなり、目の前のお茶屋さんの店員に聞く、訳を話した苦笑いをしながら教えてくれた。どうも行き過ぎたようだ。ここも新しいビルになっていて、1階はユニクロ、店内をウロウロしながらエレベーターホールへそして9階へ、昔のデパートの大食堂みたいに広くて賑わっている。早かった所為か誰も来ておらず一人静かに待ちながらお客さんの様子を見ている。そのうち一人二人と来て一人欠席で13名の同窓会となる。お酒はダメなので食い方にと、男性1名と6人いる女性の半分は分からず。テーブルを横にしているので目の前と脇の人と話すしかない。ここは聴き方に回って、刺身もそれほど…、口も動かさずにひたすら聞く、こういうところは人の話を聞きたいと思う人より自分の話をしたい人が多い。親しく話しかけてくるが間が抜けているので(このような集まりは50代になってから)その間の話はスポイル。協調性のない我に声をかけてくれることは有り難いこと感謝する。カラオケに行くが苦手でもあり、孫の見舞いにとここで失礼する。

3人がパス、赤羽の人と駅で別れ、幕張からの人と秋葉原で別れて新宿へ、小田急で千円チャージしてホームへ、すぐ出る急行に乗ったら快速とかで経堂は勿論成城学園にも止まらず、下北で次を待つ、急行だったので経堂で乗り換え各停に、祖師ヶ谷大蔵で降りて早足で歩き12分で着く、大きな部屋に4人ばかり、9月に会っているから外見はほとんど変わらず病人なのにすこぶる元気、翌日退院とのこと納得する。当初は吸入器やなんかで大変だったみたい。体重は変わらないと言っていたが力がついたのか重く感じた。前に来た時よりかしこくなっているみたいだなぁと、孫馬鹿かと内心苦笑いする。窓からは目の前に東名が見える。カーブして上り坂になってと懐かしい。

抱くのも疲れて話も尽きたので帰ることに。出口を迷いながら外に、そして通りに出て歩くつもりだったがバスが来たので乗ることして成城学園へ、新しくなってから初めてである。迷いながらホームへ、柏行きの急行だったので代々木上原で乗り換えて新宿へ、ゆっくりする時間もないので西口の地下のCCでカレーを食べてバスタへ、すぐバスが来たので乗って一路諏訪へと、しかし一般道路も高速も混んでノロノロ、本を読んでいたので気がついたらスムースに流れていた。いつもながらのとんぼ返りだが東京は行くだけでグーなのである。そして行く度におのぼりさんを自覚させてくれる。

熟し柿

田舎は寒いから渋柿しかなかったように記憶している。そして固いうちに取るのは干し柿でそのまま食べたいときは熟してから取る。田舎にいるときは柿といえば柔らかい熟し柿のイメージがあって東京に来て固い甘柿を食べた時はこんな柿もあることを知った。まずいという印象があってあまり好きではなかった。今は開けたが家よりド田舎という感じの横浜のおばさんのところの畑に大きな柿の木があって、隔年だがびっしり柿が実っていてだれもとらないでほっているのをみてもったいないなぁという思いはあったが固いので取って食べたいとは思わなかった。後に甘柿も好きになり少し柔らかくして食べる甘柿は絶品である。

こちらに来て昔農家だったのかなと思われる家の庭には大体柿の木が植えてある。考えてみれば食べ物が豊富でない時代にはこのような実のなる木を植えて食物とするのは昔の人の知恵だったのだろう。干し柿とすれば保存もきくし食べ物の少ない冬には大切な食物というより今でいう茶菓子のようなものだったのだろう。そういえばあられやせんべいも然りかな?餅は大好きだから餅に関すると生唾が出てくる。どちらも日本人の生活の知恵を思う。

家内の実家の隠居屋に柿の木があって毎年実をつける。去年は粒が小さかったが今年は大きい。気になりながらも時間がなくて取れなかった。この間畑の帰りに少し取って来て、早速家内は柿の皮を剝いて干し柿にしていた。取るのが遅かったから柔らかくなってきたのが結構あって、今は塾柿として食べている。かじりながら汁がこぼれないようにシンクや外で食べていると田舎で熟柿をかじっていたころを思い出しす。

吊るすスペースはそれ程ないので柿の木にはまだ半分以上残っているが冬場の鳥の餌になればグーである。中には手つかずの柿の木やきれいに取った柿の木と様々だが聖書的に言えば残すのがいい。天からの賜物は共に分け合うためにあるもの、独り占めしてはいけない。色々な意味で富んでいるキリスト者は貧しいキリスト者に分け合う義務がある。でないと「富んでいる農夫」(ルカ12:16-21)のようになります。富んでいるキリスト者の皆さ~ん気をつけましょう。貧しいキリスト者より。

2016年11月24日木曜日

雅歌を読み終えて

箴言、伝道者の書、雅歌と読み終える。ここを読むと頭をよぎるのは、上沼先生が誰であったか忘れたが「箴言は若者、伝道者の書は中年(正確ではない)に、そして雅歌は老人に」という言葉を思い出す。そして読みながら納得している。

s_of_s: 5:16
そのことばは甘いぶどう酒。あの方すべてがいとしい。エルサレムの娘たち。こが私の愛する方、これが私の連れ合いです。

リタイアして久しく、働いて糧を得るということから解放されて、貧しいながらも生を存えている。誰かにこんなことを言ったら気が触れたかと言われそうだがイエス様にならなんのテライもなく言える。それだけ年をとったということであろう。肉は相変わらずだが望みは天にある。そこから地上の営みを見るときに元気が湧いてくる。雅歌は乙女の恋の歌ではなくまさにお年寄りのイエス様に対する恋歌であることを実感する。




初雪



朝起きたら外が静かなので窓を開けてみたら白一色、天気予報通りである。10㎝からあるかな初雪でこんなに積もったのはこちらに来て初めて、それに11月に降るのは珍しいのではないだろうか。朝食後に駐車場と道路の雪かきをする。湿っているので雪は重い。雪国はこのようなことは日常茶飯事であろうがここは雪が少ないからたまであれば楽しい。

2016年11月21日月曜日

久しぶりのゴミ拾い

午前中に畑に行き、その足で郵便局のポストに封筒を投函し、そしてちょっと先(下諏訪駅の東側)にリサイクルステーションがあると聞いて、ゴミ拾いをした時に拾った缶や瓶を置いてくる。アルミ缶は近くの「第二この街学園」で集めているのでそちらに持って行っている。水曜日が資源ごみの日なのだがいつも忘れて家のものと結構たまったので清掃工場に持って行くほどでのことでもないしと思っていた。お蔭でたまる一方、これですっきりという感じである。


作業着を着ているので着替えないで食事をした後少し休んで湖岸のゴミを拾いに行って来た。久しぶりである。漕艇場のスタート地点前後から始めてハーモ美術館近くまで拾った。漕艇場の脇に使用していないブイ?があったのが撤去されていてあの辺がすっきりしていた。葦や葦?が打ち寄せていたがこれも少なくなっており河口部分も綺麗になっていたから業者が来て撤去したようである。お蔭でごみも少なく、いつもの三倍近く先までやることが出来た。空き缶はほとんどなかったがゴミは大きい袋に1/3くらいになり前に拾ったのを合わせると七八分目位になってしまった。少ないゴミでもタバコのフイルターが相変わらず多い。それでも最初の頃より見れば激減である。

その後すぐ近くの公園にイチョウの木があり、二本
ばかり実を生らせている。もう大分落ちたがまだ実が成っているので行ってみたら少し落ちていたので拾ったらそれなりにあった。以前に拾ったのを合わせると結構になるかな…。皮を腐らせているのでまだまだ先のようでもある。銀杏もストーブの上で焼いて食べるとおいしい。これもお正月の風物詩?である。銀杏と言えば茶碗蒸しを思い出すがあまりおいしいとは思わなかった。しかし自分で取って、暖かい実は美味しい。気分的なものかもしれないが。

畑も

昼前に畑に行き、しし唐やピーマンが小さな実をつけてそのままだったのを引き抜いて処分する。野菜は暑さ寒さに敏感である。この二つも暑い時は順調に実をつけていたが少し寒くなったら成長はストップしてしまった。他のところではとうの昔に引き抜いている野菜である。実がついているとついそれでも霜が降ったのか葉が枯れてきたので処分することにした。さっさと処分出来ない自分たちを見て貧乏性であることを確認させられる。秋野菜としてホウレン草、春菊、野沢菜と種を蒔いたのだが蒔くのが少し遅かったので成長はちびちびである。たった一週間余りの違いでこうも違うものかを確認させられる。我が家の湖畔端と畑では気温差が少しある。それに山陰になるからさらに条件は悪い。

キャベツ、白菜も大きくなったが一部青虫にやられた。苗から買って来たからその時既に卵を植え付けられたのだろう。芯が食われたようになってしまったのがその面影がないほど葉をつけている。別なキャベツと白菜がやられているが青虫を二、三匹とったから大丈夫のようだ。去年はなかったことである。成長も時期が遅れたかまた季節の所為か大根などは去年に比べると成長が遅い。自然を相手にするとはこういうことである。


ネギももう収穫時、抜いて庭先に植えておけばいいかなと思う。ねぎの種類は任せてあったが太いので美味しそうである。寒い冬の鍋やすき焼きにと思うと唾が出てくる。それと苗が折れているようになっていたたまねぎがシャキッとたっており、ニンニクも順調に目を出している。あまり伸びると冬の霜でやられるそうだからあまり伸びないようにと願う。私は畦づくり専門で苗や種を義兄に任せていたが作業をしながら去年はどうだっけの繰り返しをやっているので来年から種まきや様子をノートをとったりしていかないとと思っている。野菜はデリケートであるから天気と水と肥料とバランスよくやらないといけない。大雑把だから苦手であるがこれもどこかで何かに役立つだろう。


帰りに隠居屋の柿を取って来た。一週間前にT姉妹からたくさん渋柿を貰ったが干し柿にする前に柔らかくなり1/3くらいしか干し柿にならなかった。熟して柔らかくなってしまい。柔らかいのはもうお腹の中に入って早いのはカワヤ?に…。小さい頃は柿と言えば干し柿以外は柔らかく熟したものだった。東京に来て硬い甘柿には抵抗があり、あまり好きではなかった。甘柿でも少し柔らかくならないと食べる気はしなかったように記憶している。この間も松本に行った時JAで信州の甘柿を買ってきたが固い時は少し渋があって柔らかくしてから食べるようにしている。家内がコツコツと干し柿にして正月以降お茶にお菓子ではなく干し柿を食べるようにしている。今年はどれくらいできるか暖かいとこれまただめだし楽しみでもある。家内は大変だが…。

2016年11月17日木曜日

箴言を読み終えて

字面を追うように聖書を読んでいる。今箴言を読み終えた。箴言は一日一章読めば一ヶ月で読み終え、ある意味でデボーションに適切な書でもある。共同訳は題がついていて「序」、「知恵の勧め」、「父の諭し」、「格言集」、「賢人の言葉」、そして25章から29章に「ソロモンの箴言」、最後に「アグルの言葉」、「レムエルの言葉」と区切って題が付いているから分かりやすい。

箴言は知恵が賢者のように語りかけてくる。そして1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」の言葉がすべてを語っているように思う。ものの初めがここにあり、ものの終りもここにある。これを抜きにしては何の意味もない。しかし、キリスト者の中にも結構ここが抜けて物事がなされているような気がしないでもない。私なんかはこの言葉に「世」が糖衣錠のように厚く包まっている。

みことばを実践しようと思えば、この言葉が、
「無知な者も黙っていれば知恵ある者と思われ唇を閉じれば聡明だと思われる。」17:28

しかし、なかなか難しい。沈黙は金と言われるそうだがその沈黙が…。

実際に経験させられたことだが、
「どのような時にも、友を愛すれば
苦難の時の兄弟が生まれる。」17:17

新改訳では、
「友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」

口語訳では、
「友はいずれの時にも愛する、
兄弟はなやみの時のために生まれる。」

とある。私は新改訳の言葉がぴったりする。

詩篇は詩篇で美しいが箴言は短い格言の言葉の中に真理が含まれている。通読の中で読んでいるが詩篇、箴言は別個にも読んで益を受けるところでもある。

2016年11月14日月曜日

芸術ディ-

集会のI姉妹のお父さんが亡くなられ、葬儀をJAの「虹のホールたまがわ」で行われた。信州でJAが経営している葬祭場「虹のホール○○」というのが五十ヶ所近くあり、諏訪地区でも三ヶ所もある。 今年、「虹のホール」を利用された遺族の方々を慰めるために「虹の花束コンサート」というのが催されている。今年で六回目だそうで、松本市民劇場で行われた。無料で遺族だけでなく、姻戚、知人でもよいので誘われて行って来た。

毎年ここで行われているのかわからないがスタッフがあちらこちらと大勢いる。亡くなられたということはその連れ合い、家族もそれなりに年をとっておられるからとの配慮かなと思ったが…。ここのメインのホールは素敵だった。伊藤豊雄氏が設計した劇場とのこと、奥行きが少なく横に広がっている。それに舞台が低い、もしかしたら上下するのかな?どこでもそうだが一番前の客席はオーケストラの演奏ボックスを兼ねている。岡谷市にあるカノラホールとは大分趣が違う。

ピアノ、ヴァイオリン、フルート、サクソフォーンで短い曲、12曲のミニコンサートのようだった。演奏の前後に奏者が曲の説明や亡くなられたご家族のことへの配慮の言葉でクラシックの演奏会という趣は薄らいだ感がしないでもない。しかし、クラシックの演奏を聴くのは久し振りであり、諸々の音楽に疎い者であっても聴いていて生はいいなぁと思った。こんなこと言ったら失礼だが確かに年配の人が多かったから(若者はあまり見かけない)聴衆のそれなりを知ってのことかなとも勘ぐった。

午前中は知人の弟ご夫妻が陶芸展を松本の蔵シック館で展示しているのでそれを鑑賞した。器に花やモミジなどを活けて、コラボのようなことをやっていた。これも素養がなく、どちらかというとお花やお茶を活けたり点てたりする人向けかなと思った。素人であるが好みとしては今一だが活けている花や枝が専門家が行けるとこうも魅力的になる者かと感心する。チョットしたことなのだがプロは違うとあらためて認識する。別な方であるが二階には織物をマフラーやショ-ルを展示していた。軽くて、手織りの所為か肌触りもよくて、こんなの首に巻いていたら暖かさよりもおしゃれになるなぁと思ったがこれも縁なし。

この通りは昔の建物とか蔵の多い中町通りと言われるところで色々な商品もそれに見合ったような商店街であるから明らかに観光客と思われる人も多く見かけられた。そういう意味で城下町は風情がる。館のすぐ近くに松本民芸家具の展示場があって誰でも観れるので覗いたらたくさん展示されていて、なかなかいいなぁと思った。特に椅子は種類が多く、座り心地がとてもいい。それに思ったより軽いのには驚いた。お値段も手が届きそうだがそのお金があれば別なものへと行くだろうなと思い、家もそれなりのものでないと映えない。我が家には合わないことで納得する。

そこから数分のところにある松本市美術館に移動する。新しい建物のようだ。ここの前庭に草間彌生の作品が展示されている。彼女は松本市出身らしい。常設の展示場にもなっている。前庭の展示品はチューリップのようだが茎や色がグロテスクである。ピカソ同様にどこが芸術なのかと素人は思うがしかし凡人にはできない業であることは確かである。独特の才能のある方であることは私でもわかった。若い時に精神的な苦しみを経験されたとかそこからこの作風も生まれたのだろうなと思ったがどうなのかな?

芸術とは対極にある者が幾つかに触れ、やはり芸術の対極にいる者であることを確認させられたがでも美しさ綺麗さ感性調和なるものを経験さしてもらった。人が成してもこれだけ美しく調和が保てるのに神が創られたものに多くの人は目を向けようとしない。我も然りである。神の創られたものの素晴らしさを証ししていかなければと確認させられた。朝出かけて夕方近く帰ってきたがいささか疲れました。でも色々普段目にすることも耳にすることもないものに触れたことはとても良かった。

2016年11月12日土曜日

今日のパン、明日の糧より

癒しと和解の働き   11/6

 この世界にあって、教会はどのようにしてキリストを証しするのでしょうか。第一に、そして何よりもまず、貧しい人々と弱い立場の人々に対するイエスの愛を見えるようにすることによってです。
 癒し、許し、和解、そして何よりも無条件の愛に飢えている世界にあって、教会はその働きを通して、こうした飢えを和らげるように呼ばれています。ひもじい思いをしている人に食べ物を差し出し、裸の人に服を提供し、孤独で寂しい人を尋ね、疎外されている人の話に耳を傾け、対立している人々に一致と平和をもたらす時、キリストについて語ろうと語るまいと、私たちは常に生けるキリストを宣べ伝えます。
 私たちはどこへ行き、何をしようとも、私たちを遣わされたイエスのみ名のもとにいることが大切です。イエスのみ名から外れては、私たちは神からの力を失ってしまうでしょう。


イエスの物語を語ろう   11/7

 教会は、イエスの福音をすべての人々、すべての国々に宣べ伝えるように呼びかけられています。教会は、多くの慈しみの業によって、イエスの愛を人々が目にすることが出来るように励む必要があります。そしてさらに、そのような慈しみの働きの他に、イエスの生涯と苦しみ、死と復活を通してなされ神みの救いの大いなる神秘を、喜びをもって告げ知らせるようにも招かれています。イエスの物語は、宣べ伝えられ、祝福の内に記念されるべきものです。ある人々は喜んで耳を傾けるでしょう。また、ある人々は無関心でいるでしょう。そしてある人々は敵意を抱くことでしょう。イエスの物語は、常に人々に受け入れられるわけではありません。けれども、イエスの物語は語らなければなりません。
 イエスの物語を知って、それを生きようとする私たちには、イエスの物語を他の人々にも伝えるという喜ばしい務めがあります。愛と感謝に満ち心から私たちが語る時、その言葉は実を結びます。私たが実際にその結果を見ることが出来ようと出来まいと。

2016年11月11日金曜日

ボランテァゴミ袋

9月の町の広報誌にボランテァ袋なるごみ袋があることが載っていたので貰ってきてウオーキングの時に拾ったゴミは小さい袋に波打ち際で拾ったものは大きい袋に入れていたが小はまだあるけど大は残り一枚になってしまった。これも2-3回やればいっぱいになってしまうだろう。漕艇場から諏訪よりはよく見える所為かゴミは気持ちなしか少ない。しかし田中線と合流するあたりからペットボトルの汚れているのが目につく、ここは元々葦?が茂っている所なので岡谷の境側と同様に人の目にスポイルされている所でもある。

今日、車の半年点検とスノータイヤの交換でディーラーに車を届けた帰り湖畔端に出て歩いてみた。3キロ余りだが湖畔端からごみを拾っていたら道端にペットボトルや空き缶があったりで小さい袋はいっぱいになる。岸辺の方を見ればペットボトルが幾つか見える。

家に戻ったらディーラーから12時には終わっているからとの電話があり、それに合わせて家を出る。点検するとエンジンの調子が良くなっているエンジン音が軽やかで運転していて気持ちがいい。特別何をしたというわけではないそうだ。そこからホームセンターへ、断熱材などを買い、その足で新しくできたショッピングタウンのレイクウオークへそこに入っているエデオンで蛍光管とインクを買う。ついでに銀行でお金を下ろし、水門近くまで来ているので足を延ばしてガラスの里の前のスタンドまで行きガソリンを入れる。諏訪地区では二番目に安いところである。ここまで来たついでに綿半の脇にあるカット屋さんで髪を切る。帰り役場によってボランティア袋を貰って、ほぼ諏訪湖を一周してしまった。

遅い食事をして車で午前中に歩いたところのゴミ拾いに、いつもはスーパーの袋に入れてボラ袋に入れるのだが車なので大きいボラ袋に直接入れる。すぐ大きい袋はいっぱいになる。次の袋も半分くらいに缶や瓶はスーパーの袋二つにもなった。前からのと外の水道のシンクはいっぱいになった。新しい缶はほとんどなく、中にはアルミ缶の底が腐っているのもある。ペットボトルも然りである。よくまぁ捨てたもんだと感心する。後は漕艇場近辺から諏訪市より二と思っているが二三日前にゴミ拾いしたところでももうペットボトルが何個が見かける。それでも前に比べればタバコの吸い殻は少なくなった。週一の感覚でやっていたが今週はもう一回できたらと思っている。正直どうでもいいことに身を入れて肝心なことはスポイルしているみたい。高浜交差点よりのところもペットボトルが目につくしさむくならないうちに一通りのことをできたらと思う。それでもまたゴミは出てくる。まさにいたちごっこである。それでも始めたころに比べればゴミは少なくなったような気がする。パンくずならぬゴミくずを拾ってなんの益を受ける? 




2016年11月10日木曜日

今月のみことば

 誰もが幼児洗礼を受けることが当たり前であったヨーロッパにおいて、再洗礼を受けることが命がけの時代があった。再洗礼主義とは(1)洗礼を受けるのは信者に限る、(2)いかなる政府も宗教的信条を強要してはならない、という、今日で言えば当たり前のことを言ったすぎない。しかし、そのために受けた迫害の厳しさは、ローマ帝国時代の迫害よりも苛烈であった。◆人々は火刑、または斬首にされ、またそのお尋ね者として賞金がかけられた。彼らの匿(かくま)ったり、食物を与えた者も罰せられた。◆この再洗礼派の指導者の一人が、メノー・シモンズ(1496-1561)である。もともとは司祭であったが、あることがきっかけで聖書を真剣に読み始めた。そして上記のような確信に至り、安逸な生活を捨てて、再洗礼派の群れに加わったのである。◆「再洗礼派の牧師給とは、火と剣、そして死である」とシモンズは後に記している。彼の及ぼした感化は深く、メノナイト(メノー派)と呼ばれる教会の源流は実にここにまでさかのぼる。
◆洗礼を受け直す、ということがなぜこれほどの重罪とみなされたのであろうか。信仰に関して国家の統制を受けず、聖書のみに従う、という再洗礼派の人々が為政者の権威を脅かす危険な存在に映ったであろうことは想像にか難くない。◆原語の「バプテゾー」(動詞)には、「浸す」「一体化する」という意味がある。それは染料に布を浸すときにも使われた。布が染料と同じ色に染まるように、罪なき神の御子の義を我が義とし、キリストの死を我が死とし、キリストの復活を我が復活とする、というのはまさに洗礼(バプテスマ)の神髄である。
◆その霊的現実を表す洗礼が現代のように自由にできるようになるまでには、信じられないほどの犠牲があった。「なぜそこまでして洗礼の仕方に固執するのか」と問う声が聞こえてきそうである。しかし、それに対するメノー・シモンズの応答もまた明らかなように思われる。「人に従うより、神に従うべきです」と。

                  長野キリスト集会
11月号 月報より

2016年11月4日金曜日

ある思い

今はどうかわからないが昔はお母さんが繕い物をしている脇で幼い子供が夢中になっておもちゃで遊んでいるという光景をよく見かけた。子供はお母さんが居なくなってもそこにいると思って夢中で遊んでいる。フッと振り返るといなくなっているのに気がついて不安になって泣き出すという光景はTVなどでも見かけたような気がする。そんなことを経験した子供は遊びに夢中になっても時々「お母さん」と顔を向けないで声だけ発する。そしてお母さんの「な~に」の声でいることを確認して安心するという構図もTVで見たことがある。

私は熱心からほど遠い信者であるから聖書に登場するダメ人間にリンクしてしまう。サムソンが自分から力が抜けているのに気がつかないでまたひと働きしようと出かけて捕らえられている姿は自分とダブる。サムソンのような力は元々ないのだが…。初代の王サウルも然りである。霊が消えているのに頑張る姿はまさに悪魔に捕らえられた姿そのものであろう。

聖書を読むと鳥瞰図のようによく見えても自分であることがナタンに指摘されたダビデのように気がつかないのである。義憤は気をつけないと罪を犯してしまう。それを防ぐには神に語りかけるようにして祈らないとと思っている。

2016年11月2日水曜日

座禅

下諏訪にある禅宗のお寺で座禅をやってきた。座禅は富士見町のお寺で三回、ここで二回目、一年に一回くらいだから細かいところは忘れている。それにあまり覚えようとしないことと老いの相乗効果で覚えない。

座禅をやって教えられることは普段がいかに姿勢が悪いかである。最初は半開きの目でシャッキと坐っているがすぐ腰が引いて猫背っぽくなるのである。10数分の間に何度か姿勢を直した。そういう意味で一年に一回くらいやるのも悪くはない。禅をこよなく愛する人にはチョット失礼かもしれないが。ここのお寺は手軽に座禅をと入門的なところなのかもしれない。以前やった富士見町のお寺はもっと本格的で30分近く座っていた。私にとっては苦行である。

禅の始まりはお釈迦様が6年間苦行しても悟りを開けずこれでは駄目だとやめて座禅を組むようになって悟りを開いたらしい。話を聞いていて聖書が語る人間観が違う。お坊さんが言っていたが仏教は哲学であると、よく分からないという意味では然りかなと思った。

聞いていて仏教の「無」と「わたしはある」と言われたイエス様と大きな違いがあるなぁと思った。人にはどうすることも出来ない「生老病死」に代表される四苦八苦、ここからの解決は聞き洩らしたが聖書はそのことよりも存在しているそのことが大切であると語っている。仏教は「四苦八苦」に代表されるように対症療法的なのかもしれない。

2016年11月1日火曜日

貧しい人

50代の前半に田舎で同級会があった。20代前半に出たきりだから女性陣はほとんどわからなく、男性陣もわからない人が多くいた。その時招かれていた先生が(3年生の時の担任でもあって、色々お世話にもなったがその頃はそんな心のゆとりはなかった)挨拶で「昔は貧しかった。云々」言っていたのを聞いて「俺は貧しさは今も現在進行形だぜ」と心の中でつぶやいたことがあった。これも大分前の話だが以前いた集会で交わり会があり、その時にもある兄弟が同じようなことを言われた。私の番になって「貧しさは今も現在進行形であり、それに加えて心も貧しい。しかし、イエス様のどちらも幸いなりと言っているから感謝している」と言ったことがあった。どこか白けた雰囲気が出たことをよく覚えている。正直、幸いなりは現実なのだが強がり的な面もあったことも事実であった。

しかし、最近思うに〇の貧しさは現在進行形ではあるが心の貧しさは違うのではと思うようになった。イザヤ書42章、49章、50章、52章の後半から53章にしもべの姿が語られている。これこそが心の貧しい姿ではないだろうか。特に53章は十字架に向かって行かれたイエス様をそのまま髣髴とされる。あの姿こそが「心の貧しい者」の姿である。私にはない。実は自分で心が貧しいと思っていたし事実であったが糖衣錠のように心の貧しさの上に傲慢と不遜が覆っていたことに気づかされている。これが砕かれなければ真の心の貧しい者とはならないだろう。この殻を破りたい。

今日のパン、明日の糧より

10/30   中心にある最も弱いもの

 体の大事な部分はリードし、制御する頭や手ではありません。最も重要な部分というのは他よりも格好が悪いと思われる部分にあります。それが教会の神秘です。教会の中心を形つくるのは、私たちの内で最も弱い人々―老人、幼子、障がいを持った人、心の病を患う人、飢えている人、病気の人ーです。抑圧から自由へと呼び出された者である私たちはこのことが分かるに違いありません。パウロが言っています。「私たちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」(1コリント12・23)。
 神の民である教会は、貧しい人々が教会の最も大切な部分である時、私たちの間におられる生けるキリストを真に姿、形ある方として示すことが出来ます。貧しい人々を思いやることは、キリスト教的慈善事業をはるかに超えるものです。それは、キリストの体となることの本質です。


10/31   貧しい人々に焦点を合わせる

 この世のあらゆる組織と同様、教会も常に腐敗の危険にさらされています。権力と富が教会に入り込むや否や、ごまかし、影響力の悪用、誰の目にも明らかな腐敗に向かっていると言えましょう。
 どうすれば教会の腐敗を防げるでしょうか。答えは明らかです。貧しい人々に焦点を合わせることです。貧しいにと人々によって、教会はその本来の召命に忠実であるよう仕向けられるからです。教会がもはや貧しい人々の教会でなくなった時、教会はその霊的な本来の姿を失ってしまうでしょう。そうなると、不和や妬み、勢力争い、心の狭さなどに捕らわれてしまいます。パウロが言っています「神は、見劣りのする部分を一層引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」(1コリント12・24-25)と。これが、まことのヴィジョンです。教会に弱い苦しい立場の人々が与えられているのは、キリストの体である教会が、互いへの思いやり、愛と平和の見出せるところとなり、そうあり続けることが出来るためなのです。

諏訪湖一周

このところお天気が今一で朝起きた時には日が差しているので布団を干そうと思っていたらいつの間にか曇りになっているということが多い。今日も然りで
布団を干して間もなく曇ってきた。それでも時々陽が差しているのでそのまま干していたが段々濃い雲が広がってきたのでついに取り込んだ。私のは少し黒っぽいので少し暖かくなっていた。夏でもそうだが白っぽいのと黒っぽいのでは熱の吸収が全然違う。これからは特にそれを感じてくる。暖かい日々よさようなら招かざる寒さよこんにちはである。

昼食後、玉ねぎとニンニクの植え付けのその後を見に行き、剝がれている黒マルチの渕に土を被せたり、少し手直しをしてきた。大体根づいていたが3本ばかり根づきが悪そうなので移し替えて、ニンニクももう芽が出ているのが二三あった。ダイコンはまだだが白菜・キャベツは大きくなって段々玉になりつつある。今回は虫に食われたりしていたがこれはうちだけではないようである。

暖かいというほどでもないが寒くはないので意を決して自転車で諏訪湖一周にチャレンジする。今回は反時計回りで釜口水門、湊と走る。走り出した時は膝が重くこれでは3キロ余りの釜口水門でUターンかなと思いながら走っていた。しかし、釜口水門を渡り湊側に走り始めたら膝も軽くなって負担を感じないまま走り抜けることが出来た。ジョギングコースは路面が柔らかいのでこぐのに力がかかる。本当はそうしたいがちょっときついので歩道をほとんど負担なしで走れた。ただ難は数メートルおきに境のへこみがあるのでゴツンゴツンとお尻に響くからガラスの里まですぐわきの旧道を走る。走る車もまばらだから安心。

ガラスの里から湖畔端を離れ裏の田んぼの農道を走り、汚水処理場の裏を通って一本道ではないがゴチャゴチャと走って高島城に、それから更に路地?を走っていたら上諏訪の温泉街に出た。ここから湖畔端を走り、車道の狭い歩道は少し走って足湯の先から専用歩道がジョギングコースと並行してあるのでそこを走る。下諏訪に入ったらコンビニの袋が捨ててあるのでそれを拾ったり、他にペットボトル、菓子の袋と二三拾って小さい袋にいっぱいになった。
いつも歩いているところの歩道も湊と同じでゴツンゴツンする。これが嫌なのでイオンの裏側にあたる道に入ってきた。ここはちょうど我が家の脇に出る。ただ幾つか一時停止の看板が出ているので一々止まるのが面倒だがそこは適当に安全を確認して走る。
一周16K、しかし回り道もしたから20Kと言いたいがまぁ少なくとも18Kは走ったかな休みなしで1時間半余り、無事帰って来てちょうど水戸黄門が始まっていたのでコーヒーとお菓子でくつろぐ、今回も「ここまで出来た」の確認の走りだった。チョット発想は貧困だがズーと聖書関連はパスしていたのでその端緒につけたかなと思っている。事実、クリスマスのポスターの試作を仕上げた。それと二版の聖書を分冊にして普通のは五書、歴史書、諸書、新約と分けたが(これ割と便利)チェン式は旧約11冊、新約3冊に分冊していたのでこれが薄いため背に聖書名が書けない。なんとかと思いながらそのままになっていたがパソコンで聖書名を打つことに思い付きパソコンで聖書名を打ちプリントする。ここで個々に切ろうと思い始めたが老眼の所為で蛍光灯の灯りではボヤッとする。老いを確認して翌日に持ち越す。聖書の勉強とはいかないが「真面目のま」当たりに来たかなと思いつつもいつも足踏み状態になることが多いから結果が出てから・・。しかし、後ろめたさがあったからこれを機会にと思っている。

祈り

午前中は聖書を読んだり祈ったりすることにしているのだが…、最近それが覚束なくなっている。といっても今に始まったことではないが。このところ寝るときと目が覚めて起きる前に布団の中で祈っている。祈りと言うより主に語りかけるような言葉を発している。寒くなって来ると布団の中が家内より愛おしくなるから(愛おしい?と言われそうではあるが)この度合いは増してきそう。こんな歌がある。

「おかあさん おかあさん 
 おかあさんてば おかあさん
 なんにもご用はないけれど
 なんだか呼びたい おかあさん」 

      作詞:西城八十 作曲:中山晋平

まさにこのような思いで「用」はあるけど主に語りかけて祈りとしている。敬虔なキリスト者から見たら不届き千万であろうが私はいたって不敬虔なキリスト者であるからあまり気にしない。幼児のような祈りをしたいものと願っている。

2016年10月30日日曜日

あるブログより

「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、
 真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、
 私は体験してきた。」

三笠宮のことば?

真実を語ったイエス様もまた罵られた。そして今も…。

今日のパン、明日の糧より

10/26   憐れみ、共に苦しむ権威

 教会は、しばしば私たちを深く傷つけます。宗教的権威をもった人々が、言葉や態度、命令などで、私たちを傷つけることがよくあります。宗教が生と死の問題にかかわるものであるというまさにその理由のために、宗教的に繊細な感受性を持つ私たちはいとも簡単に傷ついてしまうのです。批判的なちょっとした一言や拒絶の仕種、イライラした態度などが、それを受けた人々の記憶に生涯どれほど残ってしまうものであるかを、牧師や神父はほとんど分かっていません。
 生きる意味や、慰めと励まし、許しと和解、回復と癒し、これらのものを探し求める渇きはあまりにも大きいので、いかなる形であれ教会で権威を持っている人は誰でも、次のことを絶えず思い起こす必要があります。すなわち、宗教的権威の性格を表す最もふさわしい言葉はコンパッション(共に苦しむ心)であると、イエスを常に見つめていましょう。イエスの権威は、コンパッションによって示されました。


10/27   教会を許す

 人々が教会に傷つけられた時に起こる誘惑は、教会を拒絶しようとすることです。けれども教会を拒否するなら、生きておられるキリストの身近に生きることは非常に難しくなります。「イエスは好きだけど、教会は嫌い」と言う時、私たちは教会ばかりかイエスをも失うことになります。私たちに問われているのは、教会を許すことです。この課題が容易なものでないのは教会が公式に私たちに許しを求めることはめったにないからです。私たちの間にあって生きておられるキリストである教会が、私たちに許しを与え続ける一方で、過ちを犯しがちな人間の組織である教会は、私たちの赦しを必要としているのです。
 教会は「あそこにある」といったものではなく、喘ぎもがく弱い人々からなるコミュニテイ-です。私たちはその一部であり、その人々の内に主であり救い主である方に出会っています。教会をこのように考えることが大切です。


10/28   霊的指導者

 キリストのからである教会にはいろいろな顔があります。祈り、礼拝をささげる教会。教えと癒しの言葉を語る教会。私たちを罪から清め、主の食卓へ招き、愛の契約によって一つに結び、宣教の働きへ送り出す教会。私たちが病気にかかった時や死に臨む時、油を塗り、支えてくれる教会。生きる意味を探し求め、絶えず支えを必要とする私たちの密ずれとなってくれる教会。このような顔のどれも、私たちが指導者として仰ぐ人々からは見えて来ないかもしれません。けれども、イエスは私たちの教会の中で、教会を通して、私たちのところへ来られると心から信じて生きているなら、思いもかけないところや場面で、教会のいろいろな顔や働きを目の当たりにすることでしょう。
 心からイエスを愛しているなら、イエスは私たちが一番必要としてるものを与えてくれる人々を送ってくださるでしょう。それが、私たちの霊的な指導者にほかなりません。


10/29   多くの部分からなる一つの体

 教会は一つの体です。パウロは言っています。「一つの霊によって、私たちは、…皆一つの体となるために洗礼を受け」(1コリント12・13)たと。しかし、この一つの体には、多くの部分があります。パウロが言うように、「すべてが一つの部分になってしまったらどこに体というものがあるのでしょう。だから、多くの部分があっても一つの体なのです」(1コリント12・19、20)。誰でもすべてのものになることは出来ません。私たちはしばしば体のある部分に、他の部分のものである役割を果たすよう期待します。けれども、手に見ることを求めたり、目に聞くことを求めるのは無理な話です。
 私たちはともにキリストの体であって、一人ひとりに、全体の中で果たす役割があります(1コリント12・27参照)。私たちこの体の部分、すなわち限界がありながらそれぞれに大切な部分であることに感謝の念を持っていたいものです。

2016年10月27日木曜日

信州は

信州は2千m超えても道がる
佐久穂から麦草峠の途中で
麦草峠を下りて 左は茅野市街










25-26日と軽井沢、佐久穂、奥蓼科、原村と200キロの旅をしてきた。実は26日に原村の八ヶ岳自然文化園の芝生に落ちた落ち葉を拾うボランティアが決まっていたのをうっかり忘れて軽井沢のシニアのバイブルキャンプに申し込んでしまった。去年もボランティアがあることを知っていながら当日他のところに行き諏訪のスーパーでたまたま担当の方とばったり会って「みんなでどうしたんだろうねと話をしていたの、どうしたの?」と聞かれ、事情を説明して苦笑いをされた。今回も同じで数日前にその方が下見に行くからとを私を含めて数人で行って確認したのにである。二度も続けて同じヘマも出来ないし、それで25日だけの参加となった。訂正のメールを打った時点で集会が朝からあるつもりでメールをしたら家内に夜からじゃないと言われ、受付は夕方からであることに気が付くありさまである。せっかちで熟慮をしない性格が年と共にひどくなりもろに出てしまった。

追い打ちをかけるように、T姉のおとうさんが見えていたのにT姉の名字が思い出せない、紹介される前に「あのう?姉妹のおとうさん!名前が…」と言ったらk兄が名前を言ったらサッと彼女の名前の漢字が浮かんできた。そんなことが二三あって、今回は老いの確認に行ったようなものである。話をしていて点が線になり、面にまで至らなかったが幾つかつながったのはよかった。手術をしたとか入院しているとかまた亡くなったことを聞くと改めてシニアのキャンプであることを確認させられた。午後からユックリ行けたことと一晩だけの集いだったがそれなりに良かった。メッセンジャーは聞き慣れたN兄、初めての方でも分かるような分かりやすい話をしてくださった。

朝、6時前に起きてそっと部屋を出て自然文化園に向かう。初めて佐久穂を通るのでナビを入れたが5ルートあると出てもそのまま走っていたら違う方向を示す。方向は知っていたのでそのまま進むが軌道修正するみたいで佐久穂までの道は間違いなかった。その先も然りである。茅野の街の近くからかなと思っていたらずっと手前で左折して農道のような道をごちゃごちゃ走ってやっとわかる道に出た。案内は間違いなくやってくれて園の駐車場で案内終りの音声が出て完了。

軽井沢は天気予報で長野県の街では一番気温が低い、そのような印象を持っていた。何回も通った道だが佐久から緩やかな坂になっているのに初めて気づかされた。18号線に入れば大きな坂が二つばかりあり、千何mかの標識もある。今回あらためて標高の高いことに気づかされた。940m位とか諏訪より180m弱高い、寒いわけである。翌朝それを実感させてくれた。晴れて爽やかな気分で朝日を背に走らせる。6時ちょっと過ぎだから車はまばら、バイバスと合流するあたりから下り坂になる。すると下の方に雲海のように霧が立ち込めている。御代田に入ったら霧の中に、濃霧でライトをつけて走る。佐久の街の中に入る手前からキリは消えていった。佐久穂までまっすぐ下るような感じでバイパスもあったが車がすいていたのでそのまま走る。

佐久穂から茅野に至るメルヘン街道、麦草峠、奥蓼科と向かう。麦草峠の手前に白駒の池という有名な池がある。茅野からここまでは割と広い道であるが佐久穂側はカーブが急で道も気持ちなしか狭い。カーブのところに「大型ダンプ通行している」の看板あり、多分ダンプは反対車線を回り込まないと曲がれないような道である。白樺も綺麗だが紅葉にはまだ早い、朝早かったから行き交う車は一二台のみ、昼だったらと思うともうここを通るのはこれでお終いになりそう。麦草峠の看板を過ぎると間もなく下り坂、急カーブもあるが佐久穂側ほどではない。時間があるのでゆっくりと下りて行く、こちらに来ると行き交う車はちらほらと殆ど県外ナンバーである。ナビに従って集合時間8時45分に十分な8時半に着く、既に来ている人たちもあり、館長のあいさつがあり、現場で責任者の説明があって作業開始、職員の方がエンジンの送風機を肩に勝で作業をしたので「借りられる?」と聞いたたらOK、枯葉が散るから中々難しい。丁度終わった頃油切れでジエンド、熊手でやるより楽しかった。終わってミーテング、昼食はバイキング、コーラ、コーヒーが飲めたからまぁまぁ…。

ほとんどのメンバーがサービスでパターゴルフが出来るのでそちらに、私はグレスデンスキーはと聞いたら10%割引のみ、疲れているのでそのまま帰り、ガラスの里の前のGSでガソリンを入れ、その足で畑に行き玉ねぎの苗を手直しをして帰ってきた。疲れていたので風呂が気持ちよかった。それに早々に床に就く、バタンキュウ。この年になるとどこまでできるかのチャレンジもあって今回はまぁまぁ…。

2016年10月25日火曜日

観念的信仰?

月一で東京からMファミリーが来てくださる。先日も前日は山梨の玉穂にある集会で奉仕されて来られたから少しハードかなと思った。「十年一日」という言葉があるが私たちの集会はまさにその通りで人も内容もあまり変化のない小さな集会である(と言っても地方の常で老齢化は確実に進んでいるが)。それでも今回は桐生集会のM姉のおねいさんとお母さんが伊那から来てくださった。M姉の実家が伊那にあり正月には家族で実家に集まり、日曜日があると礼拝のために岡谷まで来て下さっている。その時にお二人は何度か一緒に来られていたがM兄のメッセージを聞くのは初めてである。分かりやすいと言ってくれて感触はよかったからこれからもとの思いは皆同じ。12月早々にクリスマス集会が行われるので会場であるハ-モ美術館には来たことがあるとのことで期待し祈っている。「十年一日」もこういうかたちで変化があるのかなと思った。

「十年一日」と「日々変化」している集会と熱心なM兄、この落差に正直戸惑う思いもある。信仰は頑張れるものではない。その人の有様が信仰の有様に思える。ということは結構お恥ずかしいの一言である。


以前病院伝道をしていた時、そこは先月話題になった横浜の○○病院のようなところで家族もほとんど来なくて偶にでも来ればいい方そんな感じの病院だった。そこに年配の女性が入院していて訪ねていたがその方は以前に教会に集っていたらしく聖書のことは少しわかっている方だった。聞き方の方が多かったがこの方は「日々新たなり」が口癖だった。今思えばあの方の年代になっているのかなぁと思う。老いても「日々新たなり」は大切である。

と思いつつも育った環境がファンタメンタルな世界で生まれ育っているからかどこか固い、あれはダメこれはダメで育った所為かどこか教条的であり観念的である。型にはまった信仰、楽でいいけど柔軟性がなくいのちがない。良きサマリヤ人のたとえ話のごとく、怪我をされた方のいのちの心配より、自分が汚れないようにと避けて通った祭司やレビ人と同じなのである。自分で嫌だなぁと思いながらもその枠から抜けることができない。

そんな我が信仰にM兄のメッセージは風穴を開けてくださる。聞きながら頷き、そして新しい発見でもするかのように教えられる。聞いた言葉はどんどん忘れていくがエキスだけは残っている。いのちを受けて「日々新たなり」と頑固な観念的信仰が少しづつ崩されていくような気がする。

job:38: 2
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか
とヨブに語りかける主はどのように語りかけるのか。
john 5: 6
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
このような語りかけがあったら素直に応答したいものである。






2016年10月18日火曜日

今日のパン、明日の糧より

奴隷状態から呼び出される   10/16

 教会は神の民です。「教会」にあたるラテン語‟ecclesia”は、ギリシャ語の‟ek”(~から、~の)と‟kaleo”(呼ぶ)から来ています。奴隷状態から自由へ、罪から救いへ、失望から希望へ、闇から光へ、死を中心にした存在から生に集中した存在へと呼び出された神の民、それが教会です。
 教会について考える時、私たちは共に旅を続ける人々の集団を考えます。あらゆる年齢、人種、社会からなる女、男、子どもたちを私たちの視座におき、それらの人々が永遠の住処に向かって、長く面倒の多い旅をつづけながら、互いに支え合っているであろうことを思い巡らすことが大切です。


教会、しみなくまた汚れたもの   10/17

 教会は聖であると同時に罪深いもの、しみがないと同時に汚れています。教会はキリストの花嫁です。キリストは教会を清めの水で洗い、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない」(エフェソ5・26-27)ものとしてご自身のもとに迎え入れたのです。しかしまた、教会は罪深く戸惑い、苦しみ悶える人々の集まりです。これらの人々は絶えず肉欲と貪欲の力に誘惑され、常に対立と競争とに巻き込まれています。
 教会が一つの体であるという時、私たちは、洗礼と聖餐を通してキリストの似姿とされた傷のない聖なる体のことだけを話しているのではありません。教会のメンバーである人々の傷ついた体のことも心に留めています。このように二つの考え方、言い方の両方を大切にする時に初めて、私たちはイエスに真に従う者の集まりである教会に生きることが出来るようになるでしょう。

2016年10月15日土曜日

諏訪湖一周

先日、塩尻駅付近を散策して3-4キロ歩いたらなんか自信がついて諏訪湖を一周しようと思い立ってその翌日歩いた。

自転車に乗ると膝に力が入り難くなっているのを感じていた。これでは上諏訪あたりまで行くのも気後れしているので昨年あたりから諏訪湖一周はとうに諦めていた。塩尻で少し自信をつけて歩くならそれに一回くらいはとの思いもあってチャレンジすることに、帰りは家の近くのゆたん歩゜(ぽ)」でと思っていた。家内は以前に諏訪湖一周したいと言っていたが急に言われたら断るだろうなと思い話をしたら行くという。我が思惑は消え、共に歩くことに…。諏訪湖は一周16キロ、4キロごとに看板があって、起点は釜口水門、そこから右周りで行くと次が諏訪市のガラスの里、石彫公園で花火大会はこの前の行われる。そこからさらに4キロは下諏訪に入って一つ浜公園になる。さらに4キロで釜口水門となる。

反時計回りでまず3キロあまりの釜口水門を目指す。釜口水門は6つ水門があり常時一つの水門が開いていて水を流している。雨が降って水量が上がると二つ開くらしい。それと脇に魚が遡上できる水路があり反対側にはパナマ運河のように水門があってそこに水を増やしたり減らしたりして船が川と湖を行き来できるようになっている。それを見ながらその脇の公園に水門建設に使用したおもちゃのような機関車が展示されており、そのすぐそばには「琵琶湖周航の歌」の作詞者、小口太郎の銅像が建っている。ボタンを押すとメロディが聴ける。

それらを眺めながら先に行こうとしたら家内が大福を買いたいと言い出す。水門から200m下ったところに降旗餅店なるお店がある。ここの大福は本物のもち米で作っているからあんこを含めておいしく、人気があるから午前中で売り切れてしまう。本物だから時間が経つと固くなるからそれに合わせているのかもしれない。小さい店だが諏訪地区では名前が知られているようだ。この先長いから食べたいけど余分に歩くのは嫌だと言ったら私が買って来ると言ってさっさと買いに行き、私はラジオ体操をしながら体をほぐす。

また一緒に歩きだすが道路がすぐ脇にあるので車の音がうるさい。ここは我が家の近くの岸辺から目を右に移すと夜には車のライトが流れるように見えるところでもある。逆の方向から対岸を見るとまた違った風情があって面白い。次の目標だったガラスの里に着く、ここは美術館にレストランがあり、ガラスの工芸品やお土産を売っている。工房もあって体験工房もできる。ここはトイレを借りて少し先のしなびた?レストランでランチをコーヒー、アイスクリーム付きでアイスは家内に、コーヒーはもう一杯ほしいほど美味しかった。少しくつろいだ後、また歩き出す。

少し行くと汚水処理センターがあり、引っ越したばかりにk兄にバイトをさせてもらった。その隣が諏訪市の野球場、ここで高校野球の予選大会が行われる。さらにその隣はすわっこランドといって温水プールやスポーツジムがあるようだ。さらに進んでいくと原田泰治の作品が展示してある原田泰司美術館がある。ガラスの里からここまでは殆ど民家がなく一番殺風景なところである。その脇には諏訪湖に流れる川で一番大きい上川があって、そこを渡るとヨットハーバーや日赤があり、マンションや旅館もチラホラと眼にして街に入った感じを受ける。

そして石彫公園に、ここは諏訪湖で唯一の岸辺が広く名前のごとく石の彫刻物が展示している。その前後は上諏訪の温泉街紅屋をはじめ高層の建物が並ぶ、さらに進んで温泉街が切れそうなところに間欠センターがあって、日に何回か温泉が高く噴き上げていて観光の名所にもなっている。その脇に足湯があって私たちが行った時は一人足湯に浸かって本を読んでいたが出る頃は大勢入っていた。この頃にはふくらはぎが少し痛くなってきたので足湯で少しほぐれることができた。

いよいよラストスパート残り4キロを目指して歩く、間もなく下諏訪に入り、山の方に目をやると大きな建物にNICHIAのマークが目に入ってきた。もしやと帰ってからネットで検索したらあの日亜だった。エプソンが高木事業所を閉鎖した建物に諏訪技術センターになるらしい。現在諏訪技術センターは以前住んでいたところから数分のところにある。幾つかの工場があるところである。あそこにかつて同じ集会に集ったことのあるk兄がいる。知財部長まで知っているが取締役になって更にいらくなっているのではないだろうか。徳島と東京、さらに信州と離れ、立場は違って雲の上の人になってしまったがこれで縁も切れたかと思っていたら会うことはないであろうがまた身近に感じる。

後は速歩のコース、無事家に着く、家内はふくらはぎと足が痛いと言っていたが私はどこも痛くなかった。携帯の万歩計を見ると24994歩の18キロとなっていた。時間はちょうど5時間。この後温泉に行きゆっくり休むことができた。家内は反対方向からもう一度行きたいと言っていたが諏訪湖一周はジエンド。家内は誰かとしゃべりながら歩きたいと言うが私は歩くのが目的なら一人でもいいと思っているからここでも夫婦の一致は無し、でも楽しい諏訪湖一周だった。

2016年10月14日金曜日

塩尻駅裏散策

義姉が9月13日に白内障の手術をした。その経過を見る為に翌日、四日後、一週間後、二週間後と経過を見て、経過はいいが結果としてそれほどよく見える訳ではないらしい。次は一ヶ月後にチェックして最終的な結果がわかる。そしてもう片方の目を手術するか否かを決めるそうだ。術後はよく見えるようになったようなことをよく耳にしていたのでちょっと意外。ただ、目の病気を持っている人はそれほど効果はないかもしれないと言われていたからある程度は覚悟していたが本人が少し辛いかなと…。

医院は塩尻駅の前にあり、検査を待つ間時間があったので近くを散策することにした。駅前は勿論市役所や図書館辺りは散策しているので今回は駅裏をx少し歩いてみた。塩尻駅は岡谷、松本、木曽と三方向の分岐点になっている。裏から見るとよくわかった。その線路の脇に昭和電工の大きな看板があり、線路の脇にあるのを見て昔からの工場のようである。少し歩くと民家の間に石碑が立っていて、三浦敏正顕彰碑なるものがあり、この方が昭和電工の粉塵公害と戦った記念碑らしい。昔からそして貨車が出入りする程の大きい工場だから、ここも基幹産業の常で住民の犠牲の上にあったのかとひっそりと建っている石碑を見て思った。

2016年10月12日水曜日

今日のパン、明日の糧より

イエス、私たちの食べ物、飲み物   10/4

 イエスは神のみ言葉です。天から下り、聖霊の力によって処女マリアから生まれ、一人の人間となられました。これは具体的なある場所、ある時に起こったことでした。けれども私たちが聖餐を祝うごとに、イエスは天より下り、パンとぶどう酒をとり、聖霊の力によって、私たちの食べ物、飲み物となってくださいます。実に、聖餐を通して、どのような時でも、神が人となられたという出来事は起こり続けているのです。
 時に私たちは「昔生まれてイエスや弟子たちと一緒だったらよかったのに」と思うかもしれません。けれども実は、イエスはご自分と同じ時期に生きていた友よりも、さらに私たちの近くにいてくださいます。今日イエスは私たちの日ごとのパンになられたのですから。


魂の同伴者   10/5

 エマオの弟子たちの家でパンを割かれたときに、二人の弟子たちはそれがイエスだと分かりました。その時、イエスの「姿は見えなく」(ルカ25・31)なりました。イエスだと分かることと、イエスの姿が見えなくなるというこの二つのことは実は同じ一つの出来事です。なぜでしょうか。それはキリストである彼らの主イエスが、自分たちの中に生きておられること、そしてそれゆえに自分たちがキリストを運ぶ者となったのだということが、弟子たちに分かったからです。つまり、イエスはもはや、彼らが話しかけたり、助言を得たりする見知らぬ人や客や友人として、テーブルの向こうに座っているのではありません。イエスはこの弟子たちと一つになられたのです。
 イエスはご自身の愛の霊を二人に与えられました。彼らの旅の道連れであられたイエスは、今や、彼らの魂の同伴者となられました。二人は生きています。けれども、生きているのは彼らではなく、ふたりのうちにあっていきておられるきりすとなのです(ガラテヤ2・20)。


私たちの内にあって生きておられるイエス   10/6

 聖餐の食卓を囲み、「これはキリストの体、キリストの血」と言って一つのパンから食べ、一つの坂月から飲む時、私たちは今ここにおいて生きているキリストとなります。
 イエスを信じるとは、神のみ子イエスが昔生きておられ、偉大な奇跡を行い、素晴らしい教えを説き、私たちのために十字架の上で死なれ、墓から復活されたということを私たちが信ずべきこととして承諾するということではありません。イエスを信じるとは何よりもまず、イエスが私たちの内に生きておられ、私たちの内にあって、私たちを通して神から受けた使命を成し遂げようとしておられるという真理に、あますところなく自分自身をあけ渡すことです。私たちの内にキリストが生きておられるということを、このように霊の深みにおいて知るならば、イエスの受肉、死、復活という神秘が歴史の中で実際に起こったのだということを心の底から信じ、言葉で言い表すことができるようになるでしょう。歴史を生きられたキリストを私たちに開き示されるのは、実に私たちの内に生きるキリストなのですから。


私たちの間に生きておられるイエス   10/7

 聖餐は、イエスが私たちにとって一番身近な方となって共にいてくださる場です。というのも、イエスが私たちの「内」にキリストとなって生きておられるばかりか、キリストとして私たちの「間にも」生きておられるからです。エマオで、パンを割いた時にイエスであると分かった弟子たちが、互いの間に新しい親しみを見出して、共に友人たちのところへ戻って行く勇気を得たように、イエスのからだと血を頂いた私たちも、お互いの間にあったらしい一致が生まれたことに気づくでしょう。キリストが私たちの内に生きておられることが分かると、キリストは私たちの間にも生きておられることが分かるようになります。そして同じキリストがこの世界に親しく現存しておられることを証しするものとして、私たちを一つの体にしてくださるということも分かるようになるでしょう。

2016年10月11日火曜日

聖書雑感

通読もヨブ記を読み終えた。注解付き新改訳聖書の諸論には「本書は、『正しい人がなぜ苦しまなければならないのか』という命題をテーマにした書物である。」とあった。駆け足気味にモーセ五書、歴史書、そして諸書と読んでいくと、そこに旧約の流れを見る思いがする。そして以前と違った観点に立っていることを感じる。

聖書を読み始めて最近まではバビロン捕囚から帰還した民やエズラ、ネヘミヤの姿に感心したが今は何故、混血の子や異邦人の妻を離縁しなければならなかったのかと疑問に思う。勿論異教の影響を懸念してのことであろうことはよくわかる。モーセ五書、歴史書と見て行くと異邦人による影響が大きくなっているようにも見える。特にソロモンを始めそれ以降のイスラエルの民を見るとそれがよくわかる。異邦人というよりイスラエル民が変化しているのかもしれない。マタイの福音書のイエス様の系図に五人の女性が載っている。最初のタマルはどのような人か分からないが夫エルの母親はカナン人であり、ラハブ、ルツは明らかに異邦人である。律法や血統に拘っている彼らと好対照だ。


イエス様と敵対していた律法学者はこの流れの中にあるようなことを聞いたことがある。文書で残されたものは人を束縛していく様を見るが律法がいい例だ。ユダヤ人のトーラーは煩雑であるようなことを聞いている。これもその延長線上にあるのであろう。イエス様は律法の中で、たいせつな戒めはどれですかとの問いに、

matt 22:37-40

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


と答えている。
律法はこの二つの戒めに集約さていると教えている。文書化されたものは後には人を束縛するものになってしまうことは歴史が教えてくれている。

ヨブ記もまた同じように感じる。ヨブのつぶやきは現代人の多くがつぶやいていることばではないだろうか。三人の友人の言葉も熱心で忠実なキリスト者が叫んでいる言葉ではないだろうか。熱心でない私もよく叫び、自分の叫びに納得している。自分が三人の友人とダブっていることを教えられ、恥いるばかりである。ここでは労りと愛の言葉が必要なのであろう。

rom:12:15
 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣
 きなさい。

とパウロは語っている。