イエス様が誕生する700年前にイザヤが預言した言葉。
isa 9: 6
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、
その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
「緑児」(ミドリゴ)
新芽のような子という意味で、生まれて間もない子、赤ん坊(Weblio辞典より)。今は嬰児(ミドリゴ、エイジ)か?。
isa 7:14
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
「不思議な助言者」
並はずれた、驚くべき、人間の考えをはるかに越えたみわざをなす助言者(あるいは指導者)を意味します。(牧師の書斎より)
john 21: 3-6に漁師のプロが徹夜しても何も取れなかったのに「右舷に網を下ろしてみなさい」という言葉に従ったらおびただしい魚が獲れたことが記されている。英語では「Wonderful -Counselor」というそうだ。john 4: 3-29にサマリヤのスカルで井戸の傍らで訳アリの女性との会話が記されている。短い会話の中で彼女を変えてしまった。人生を斜(ハス)目で見ていた彼女が前向きで生きて行こうとしている姿が垣間見れる。
たった一言のことばが大きなわざをなし、たった一言のことばが人生に失望している人を立ち上がらせてくれる。福音書の中だけではなく今日も然りなのである。
「力ある神」
日本の神々は何かをしてくれる神である。商売繁盛、家内安全、そして学問の神様と色々な神々が存在している。聖書は「神は唯一」と言っている。そしてすべてのものを創られた。製造会社が自社製品に対してメンテをしてくれるように神も同じようにメンテをしてくれる。「はなはだよかったもの」から「はなはだ悪しきもの」、すなわち罪へ、そして罪人から義人へと人間改造である。変えることが不可能なこのことをいとも簡単にできるようにしてくださった。「信じる」ということを通してである。これには膨大なエネルギーが費やされている。「受肉」という推し量ることの出来ないエネルギーである。
「永遠の父」
永遠に御父を啓示される方、証言される方という意味で「永遠の父」と呼ばれます。(牧師の書斎より)
eccles: 3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人
は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりま
で見きわめることができない。
口語訳聖書
eccles: 3:11
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
それでもなお、人は神のなされるわざを初めから
終りまで見きわめることはできない。
共同訳聖書
コヘレトの言葉3章11節
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、
永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、
神のなさる業を始めから終わりまで見極めること
は許されていない。
誰にでも「永遠」を想う思えはあるであろう。人の営みが地上のみであるなら人生はなんと空しいものであろうか。
「平和の君」
7節に「その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える」とあるように、これは地上におけるメシア王国(千年王国)において実現する平和(「シャーローム」שָׁלוֹם)を意味しています。(牧師の書斎より)
キング牧師
「I
Have a Dream(私には夢がある)」
非暴力でアメリカを変えました。
暴力主義?のマルコムXともに暗殺されました。
彼は多くの人に影響を与えたようです。その中にモハメド・アリもいました。
しかし、その働きは消えていきました。
マンデラ大統領
彼も非暴力で南アフリカを変えました。経済政策はうまくいかなかったようですが。
蒋介石
「以徳報怨(イン)」(徳を以って恨みを報いず)と言って日本人を解放してくれた。
毛沢東
数千万人殺したと言われている。暴力で国は成り立つのだろうか。否であろう。かつてある国も「皇国史観」に立って暴力を振るってきた。その結果は…。
神は「平和の神」である。
先々週の日曜日にクリスマス会でピアノの演奏を聞き、その土曜日には教会のクリスマスコンサートで合唱団の合唱を聞いた。ハーモニーが美しく感動する。
私もピアノの前に座って鍵盤をたたいて音を出すことが出来る。私も声を出して歌うことも出来る。
しかし、そこには美しさも調和もない。罪からくるものに美しさも調和もない。美しさや調和は神からくるものである。罪によって損なわれたが創造されたものを見るときにそれを見い出すことが出来る。
立ち泳ぎは顔は平気そうに見えても、手足をばたつかせないといけない。人も顔は平安そうに見えても心は悲しみや苦しみ、葛藤が絶えずある。心に真の平安はない。罪の世界はこういうものなのである。真の平安は神から来るのである。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。
いのちを得るとは
神様と人との関係が修復されることなのである。
私たちにいのちを与える為に、イエス様は人として、この地上に来られた。このことをイザヤは700年前に既に告白されている。そして、さらに二千年経って、地の果てにまでこのニュースは届けられ、多くの人たちがいのちを得ている。