2016年3月31日木曜日

三月も終わりに

光陰矢の如しという言葉があるように過ぎ去っていく月日は早いものである。今年ももう四分の一が過ぎてしまった。来月は新年度新学期である。集会のO兄は息子さんが中学生、娘さんが小学生と保育園児と揃ってピカピカの一年生である。子供さんのいる家庭は大変だけれども変化があっていい。年寄り夫婦の生活はほとんど変化がない。日中それでも会話はあるが夜は、私はパソコン、家内はTVと会話はない。それでも午前中は炬燵に入って向き合いながら聖書を読んだり勉強のまねごとをしている。でも、ほとんど会話は無し、こういう努力はしない夫婦である。互いに我が道を行くといったら大袈裟か?

このところ更に暖かくなり、室内の鉢植えも気持ちなしか元気がいい。昨日、今日と畑に行って畝つくりをしてきたがこの暖かさでニンニクの苗が大分伸びていた。玉ねぎは相変わらずだがそれでもマルチを被せてある土は暖かいからそのうち延びてくるだろう。。去年はスペースがなくて白菜、キャベツ、それとインゲンやキュウリを狭い間隔で植えたので今年は少しスペースを取れるように畝を増やしてきた。もう鍬を入れるのはほんの少しになった。そこはかぼちゃの蔓のために残すようなものにしているから畝つくりは終わったと言ってもいいのかな?自分なりに整地と配分を考え、後は彼らに任せるつもり。こんなことが出来るというのも3月なる所以である。

変化のない日々であるがそれでも年を取っていく中で教えられることも少なくない。庭にも緑の葉をのぞかせ、枯れ木のような紫陽花の先に紫色の目を出し始めた。春は新年度新学期だけでなく、緑の葉をのぞかせて寒さを乗り越えた力強さを感じる。まさに若者の姿であろう。しかし、秋の紅葉を思うと枯れていくものの美しさがある。春にはない色鮮やかさである。変化していく紅葉は死して行こうとする姿でもある。そして枯葉となって地面に落ちていく。これは年寄りの姿でもある。色鮮やかさは年季の入ったものしか出せない色である。若者には出せない色であるがしかし死して行く色である。

2016年3月29日火曜日

上京して

甥の結婚式で東京に行って来た。式が日曜日となるとキリスト者としては少し抵抗がある。しかし、このような発想はパリサイ的かなと反省している。礼拝に出席できるのも恵みであり、できないのも恵みであろう。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」方であれば、そして事実、自分の中にパリサイ的なものがあることを教えてくださった。

結婚式は丸ビルの36階のレストランで行われた。久しぶりの東京、そしてその都心、行き交う人の多いこと、何でこんなに人が大勢いるのだろう。このホンの少しでも地方に来てくれればと思ってしまった。それと完全にオノボリサンである。東京に長く住んでいたことが完全な過去形になっていることを実感した。まぁこれもいいのかなと思わされている。私は東京の雑踏を歩くのが好きである。これだけ大勢の人がいるのに知っている人が誰もいないという安心感である。見られたら恥ずかしいことをしているわけではないがいつも東京の街を歩いていて感じることである。それと地方にいてあまり変化のない生活をしていると非日常は色々と刺激を受ける。

高層のビルは、東京都庁の展望台以来である。速い、東京駅は眼下に、車はおもちゃのようであり、人は小粒にしか見えない、少し向こうにスカイツリーが見える。東京湾も目の前である。残念なのは皇居が反対側になることである。皇居側は皇居が見えるのかな?今ではそれほど高くないパレスホテルができるときに皇居が丸見えになると右翼が騒いだことを思い出して隔世の感を感じた。

結婚式はレストランで互いの親戚関係の人たちだけの30数名の「人前結婚式」なるものであった。最初に写真を撮り、その後受付で名前だけを記入するように言われて記入したらこれが出席者の証人としての証しだった。36階は幾つかのレストランがあって、隣でも結婚式を挙げていたが今の若い人たちは宗教色を嫌ってこんな式をやったりするのかなと思ったりもした。勿論従来の式もできるようでもあるが。形にとらわれない事はいいことだがレセプションのみの結婚式のようで少し物足りない感は否めない。量は多くはなかったがおいしかった。和やかなうちに終えたそんな感じであった。田舎のおじいさんが着慣れないダブルを着て、食べなれない洋食を食べて、美味しかったがいささか疲れた。

2016年3月22日火曜日

今日のパン、明日の糧より

私たちが聖なる存在であること   3/21

 私たちは、自分自身の友達でしょうか。自分自身のありのままの姿を愛していますか。これはとても重要な問いです。というのも、自分自身の友となることなしに、他の人々とよい友情を育てることは出来ないからです。
 それでは、自分自身の真実を認めることから始めねばなりません。素晴らしくもあり限界もある、富んでいると同時に貧しくもある。私たちは魂のある人間であり、聖なる方について語ります。私たちの真実を認めるということは、私たちが聖なる存在であることを、十分に理解することはないとしても、認めることです。私たちの存在の深い部分は、私たちの精神や感情の支配の及ばないところにあります。しかし、私たちの魂を、愛の神が受け入れてくださることを信じる時、私たは自分自身の友となり、愛の交わりのうちに他の人々に手を差し伸べることが出来るでしょう。

今日のパン、明日の糧より

市場の中の静かな場所   3/20

 「静まって私こそ神であることを知れ」(詩46:10)。忙しい生活をするにあたり覚えておくと良い言葉があります。私たちは、静けさを騒がしい世界と対比させて考えるかもしれません。でも、仕事をしていたり、教えていたり、建設作業をしていたり、音楽を演奏していたり、会議中であっても、内なる静けさを保つことはできます。
 「市場」の喧騒の中にあって静かな場所を心の中に保つことが大切です。この静かな場所とは、神が住み、私たちに語りかけられるところです。そこはまた、私たちが忙しい日々の中で出会うすべての人に、癒しとなるような方法で語りかけることの出来るところでもあります。そのような静かな場所がないと、空回りの状態になってしまうでしょう。追い立てられるようにやみくもに、あちらこちら走り回ることになるでしょう。けれども、静けさを心に保っていると、私たちが考え、語り、行うすべてのことにおいて、神が優しい導き手となってくださいます。

今日のパン、明日の糧より

貧しさの内にひとつとなる   3/18

 貧しさにはいろいろなかたちがあります。経済的な貧しさ、物質的な貧しさ、感情的な貧しさ、精神的な貧しさ、霊的な貧しさ。私たちは、他の人の豊かさや健康、確実さ、知性、強さを重要視している限り、本当のコミュニティーを築くことはできません。コミュニティーは、自分の持つ才能で世間の目を眩ませるタレントショーの場ではありません。コミュニティーとは、私たちの貧しさが認められ、受け入れられる場です。それは、私たちが出来るだけうまく貧しさに対処することを学ばねばならない場ではなく、貧しさが新しいいのちの真の源であることを知るようになる場です。
 家族や教会、様々なプログラムのグループ、同じ目的のもとに集まったコミュニティーなど、そのかたちがどうである、コミュニティー生活を送るということは、貧しさを共に分かち合うことです。そうすることで、私たちの豊かさも示されていくに違いないと信じることができるようになるでしょう。

最初は指がもつれた。何事もコンスタントに継続が大切。

2016年3月19日土曜日

萎れた葉が

ステレオの上に板を乗せてその上に七つばかり植木鉢を置いている。このところ暖かいから元気がいい。枯れて芽が出るのかなと思っていたのも緑の葉を土の中から顔を出し始めた。そばで見ていると慰められる。何時だったか家内が銀行でもらって来た鉢植え(移し替えようの容器に入っている)の一つが萎れて枯れそうになっていたので駄目になったのかなと思いながら。鉢植えに移し替えていないので保水力が少ないからかなと思って水をやったらアッという間に元気になって今はぴんとして一輪ある花はシャキッとしてしっかり咲いている。まるで「私は元気だぞう」と叫んでいるみたい。蚤の心臓は相変わらず右往左往している。水をやるだけで元気になる姿を見て羨ましくなった。ただ水をやるだけだが元気の手助けをすることができてうれしい。

2016年3月14日月曜日

本能寺の変再び

私が日本人であることを自覚したのは集会に導かれて外国(主にアメリカ人)の人たちと交わるようになってからである。どこかどうと問われると答えようがないが彼らと接するうちに自分が典型的な日本人であることを自覚させられた。それまではどこを見渡しても日本人ばかりであるから比較するものが無いから知りようがない。そして自分の姿を見てこれは豊臣、徳川の鎖国から来ているのではと思うようになった。これも根拠はあいまいである。鎖国はある意味で共産圏で今も続いているがいいわけがない。北朝鮮は勿論、解放されつつある中国でも内実は恐ろしいものがあるようである。江戸260年の文化は独特のものがあるがそれはあだ花のようなもので本質を歪めたにすぎないのではと思っている。関が原の戦いは天下分け目の戦いであると言われるが歴史を変えたのは信長の死であろうと思う。和辻哲郎も「鎖国」の中でそのように書いている。信長が生きていればどうなったかわからないが少なくとも豊臣、徳川は後ろ向きの生き方をしてしまった。ある意味で日本人を駄目にした張本人かもしれない。だから本能寺の変は変なのである。

信仰の軌跡

一キリさんも紹介されている後藤敏夫さんが牧師時代に「現代における共同体的霊性」という題で講演されているのを5回に分けてご自分のブログに載せられていた。長い文章で5回にもわたっているので思案していたら追記の中にご自分が書かれた「終末に生きる神の民」の改訂新版により詳しく纏めてあると記されていて、この本は手元にあるのでこれを読み始めている。

後藤さんは私より10歳くらい若いが信仰を持たれたのは同じ時期のようである。読みながら信仰の軌跡をみていると自分も同じような軌跡をたどっているのかなと思わされて共感する部分が多々ある。引退されたとはいっても牧師であり、(長野集会で水谷恵信さんとお話をした時にはチャプレンとして迎いたようなことを言われていた。今年から北海道余市の恵泉塾から千葉県四街道の恵泉塾に派遣?されて、そのような働きをされようとしているのではと伺わせる。あくまでも恵泉塾での働きの中でと謙虚である。)そのような方であるのと貧徒である私が・・・重々承知の上で・・・。

ご自身の信仰の歩みを振り返りながら、聖書的霊性という観点から考えてみると、そこでの中心的論点は、私たちの聖書理解に深く浸透している、霊肉二元論と個人主義の克服であると記している。
また、高校生の時にアメリカ人宣教師に導かれ、イエス様を救い主と信じ、若い日に聖書を信じる福音主義の信仰に導かれ、今もその道を歩んでいることを、神様と、信仰に導いてくれた宣教師に心から感謝しているとも記している。
後で気づいたことでと断りながら、その当時のアメリカ人の宣教師たちや、その影響で信仰を育まれた者たちには、福音の理解に置いて避けることの出来ない時代的制約があったように思うと。戦後日本の福音派の礎を据えた宣教師たちは、自由主義キリスト教(リベラリズム)と根本主義キリスト教(ファンダメンタリズム)の対立の中で、根本主義に立つ神学校で教育を受けた世代である。

このような下地の中で福音が宣べ伝えられてきたようである。自分も実際経験した中であたかも本質的なようで実は本質的でなかったり、そして本質的なものがスポイルされるという構図を見てきた。それと私たちの信仰生活の中で霊肉二元論が根強く働いているような気がする。これは正に悪魔の束縛と思っている。イエス様の言動はある意味で反社会的なものである。それと最近思うのだが教会の重きを思うようになった。人数の多寡ではなく、召された者が集う集会である。多分後藤さんも指摘されているのだろうと思うが個人の救いを強調するあまり教会をただ単なる救われている者の集まりのように捉えるきらいがあるのではと思っている。正しいかどうかわからないが教会を真に捉えていないような気がしてならない。霊性とも絡んでくるのだろうか霊性はカジレても消化不良を起こす霊的乳児であるから・・・。牧師でさえ信仰の遍歴?があるとすれば変に育った私などは大いにあって当たり前、主のみ心を求めて右往左往しながら歩もうと思う。バンヤンの天路歴程のように・・・。

2016年3月13日日曜日

3.12

震災は3.11だけではなかった。今日の新聞(日曜日のみ信濃毎日を買う)を見て、その一面に 『県北部地震5年「灯明祭」』と、その下に大きく「栄村復興歩み照らす灯」とあった。東北の大震災を忘れてはいなかったのにその翌日に起きた栄村の地震は綺麗に忘れていた。同じ県内でも北部ということもあって地域的にはあまり関心のない地域である。長野市に行くより甲府市に行った方が近いという感覚だから県庁所在地の長野市より山梨県の県庁所在地の方がより身近に感じている。だからという訳ではないが関心の薄さを改めて教えられて反省している。

被災した人にとっては大も少もない。受けた傷は他者が推し量ることはできないだろう。安易な同情はするつもりはない。皆さんはそこから立ち上がっている姿を見て勇気づけられる。勿論、すべてではないだろう。フォローを必要とされる方々がフォローされることを願う。いつか飯山に行って見たいと思っていたから足を延ばして訪れてみたい。そしてもっと身近にあるいは足元に助けを必要としている人がいるかもしれない。このことを通してではないがそのことを最近教えられている。

2016年3月11日金曜日

3.11に思う

2001年の9.11の映像も衝撃的だったがもう15年も経とうとしている。もう過去のまた過去のような感じを受ける。3.11も然りとなることだろう。しかし、家族や友人知人を亡くされた方にとっては時間は関係ないことであろうと思うと胸が痛む。亡くならられた方は不可抗力でどうしょうもない。このように書くと失礼かな?

信州の遠くにいると津波は不可抗力ではと片付けしまいがちになる。遠くにいると痛みが伝わらない。どこかワンクッションおいた感じになる。勿論、色々と被害にあわれた方のことを忘れてはいけないことではあるが。それと同時に頭をよぎるのは原発の事故である。当時、TVで色々議論されていたことを断片的に思い出す。今思えばあそこで真剣に問題を解決しようとする姿は見えなかったように思う。罹災した人たちと全く違った姿を見る。うろ覚えであるが若い技官?メルトダウンもありうるような発言をされて物議を醸しだした。すぐ左遷かなんかされたようだが彼の言っていることは正しかった。今どのような境遇を受けているのだろうか。日本政府の反対を押し切ってユダヤ人にビザを発行した杉原千畝さんを思い出す。ユダヤ人機関が彼を見つけ出してくれなかったら冷遇されたままだった。彼も正しく取り上げたことをもう一度公にしてほしい。左遷させた人をどうこう言うつもりはないがもし冷遇されていたら戻してほしい。そのくらいの力量を示してほしいものである。「悪い奴ほどよく眠る」時代に・・・。

2016年3月10日木曜日

3.11

震災から5年になろうとしている。昨日ネットで「PRAY FOR JAPAN ~心ひとつに~」という映画を観た。映画の説明にこのようにあった。

Pray for Japanは学校、避難所、家族、ボランティアという4つのグループから、障害や悲しみを乗り越え、戦う犠牲者たちの姿を映し出し、記録した。4つの違う立場の人たちを負うことによりこの自然災害がもたらした悲劇の重みや影響力の強さが浮かび上がってくる。彼らは故郷や愛する人たちのために戦う、名もなきヒーローたちなのだった。

石巻市雄勝の街を主に上記の人たちをレポートしたものだった。震災も東京に居たらもっと身近に感じたであろうが信州に引っ越した後なので新聞やTVからしか伺うことしかできなかった。関わりとしては少し寄付したくらいだからどこか距離を置いてしまう。もう5年かぁ早いなぁと思いながら少しづつ記憶から消えていくのを感じる。そこで生きている人はいつも現実なのであろうが。

観ていて、映し出されるのは一部分であることを承知しながら彼らの生きる逞しさを感じた。すぐ自分はと当てはめて考えるが自分にそんな力がないことを改めて教えられる。弱音を吐いていては生きて行けないことも事実であるが逞しさは東北人の所為か?と思い巡らしながら、悪魔よ「神は人をそんなに弱いものとして創られていないぞ」と心のうちに叫んでしまった。そして悲惨な状況を思い浮かべながら「アダムよお前は何てことをしてしまったのだ」とも・・・。

しかし、」淡々とあるときは笑顔で話される中にその背後にどれだけの悲しみや苦しみがあるのだろうかと思うと胸が痛んだ。在日のパキスタン人のボランティアの人たちは神戸の時も行かれたそうだ。喜んで奉仕している様を見、また和気あいあいと被災者と交流している姿を見ると天にある交流を思い浮かべてしまった。助ける助けられるの関係でなく仲良く交流ができるのになぜ人は国と国が争い殺戮を繰り返すのかと嘆かずにはいられなかった。

彼らは負の遺産を負いながら逞しく生きていく場がある。しかし、ダブるのは原発の福島である。自然豊かに見える地は人の住めない地なのである。こんな悲しいことはない。まさに人災であり、マモンに踊らされた輩のツケを彼らは負わなければならない。住み慣れた故郷を放棄するということで、あらためて生かすのは「人」が中心でなければならない。マモンが中心となれば必ず災いが来ることは確実である。何事も「人」が優先されなければならないと、敢えて言えば神より、なぜなら70年前まで神の名のもとに日本人は虫けらのように扱われ、神の名の下でイエス様は十字架に架けられた。人が造り、人が理解していた神ではあるが・・・。

今日のパン、明日の糧より

裁くことのない人生に向かって   3/8

 偏見のない生き方をするするということは、内的な促しの内で最も難しいものの一つです。私たちの偏見が、いかに深い根を持つものであるかということに、ほとんど気づいていません。肌の色や宗教、異性に対する考え方に差があったとしても、皆同等であると思うことで、私たちは異なる人々と普通につきあっていると考えるかもしれません。けれども、実際の生活の場においては、無意識に考えること、言葉やとっさの反応が、私たちの偏見が厳然とそこにあるのが周囲に見えていることでしょう。
 見知らぬ人々、どこか異なった人々は、私たちの恐れや居心地の悪さ、疑いや冷淡さをかきたてます。ただ「違う」というだけで、私たちは安心感をなくしてしまうのです。神は、私たちを無条件にいとおしんでくださいます。私たちは、このことをしっかりと自分のものとする時にのみ、この世界に実に様々な人々が存在するということが、神のみ心の計り知ることの出来ない豊かさの表れであることに気づき始めるでしょう。こうして、人をよく知らないのに裁こうとする欲求は、次第になくなっていきます。

2016年3月7日月曜日

今月のみことば

 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
  それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。」 (哀歌3章22節、23節)

 5年前の3月11日に発生した東日本大震災は、沿岸部に壊滅的な被害をもたらしただけでなく、原発のメルトダウンも引き起こし、事故終息のめどは今も立っていない。◆人々は問う。「神が愛であるなら、なぜこのような災害が起こるのか」と。◆ところが、被害の甚大だった東北地方に入ったボランティアの人々が驚いたのは、そのような問いをする人にほとんど出会わないことであった。◆聖書翻訳で著名な山浦玄嗣氏は「なして、おらあこんな目に遭わねばなんねんだべ」という恨みごとを聞いたことは一度もない、と断言する。「神様、仏さまはなぜ人々をこんなむごい目に遇わせるのか」と判で押したように同じことを聞くのは「暇だからでねえが?」と仲間と意見がまとまったという。◆聖書を見ると、「神はなぜこのようなことが起きるのを許されたのか」という問いはどこにも書かれてはいない。むしろその逆である。「あの自然災害でなぜこんなにも多くの人が死んだのか」ではなく、「なぜ死ぬ人がこれだけで済んだのか」なのである。◆聖なる神が、本当の意味で私たちにふさわしい対応をなさる、としたら、自然災害がこれだけで済んでいること、死者がこれだけで済んでいいること自体が驚きでなければならない(太平洋戦争という、人為的な原因で310万人の日本人が命を落としたことを思い起こしてほしい)。◆実に、神は私たちが思うよりはるかに恵み深い方であり、わたした人間は自分が思うよりはるかに罪深い存在なのである。
長野集会 3月月報より

久しぶりの速歩

なんだかんだでモノグサしていて歩くのをパスしていたがそれでも週一位で用を見つけては5-6キロ歩いていた。少し早めの歩きであるが心臓に負担がかかるほどではなかった。

笑点を観終えて外を見たらまだ明るさがあり寒くもなかったから意を決して歩くことにした。風はあったが冷たくなく、それに暖かくなった所為か薄暗い中に何人かの人と行き交う。超久しぶりの所為かふくらはぎが痛くなり、それ以上に胸が痛くなってきた。医者には行ってないが労作時狭心症の気があるのかなと思っているのでそれがよぎった。たまに運動するとこうなる。それでも歩いていると少しづつ痛さは和らいでくる。途中で10分位ストレッチをやって、と言っても足を乗せる部分が斜めになって前傾姿勢を取るような形になるのでふくらはぎに刺激を与える。もう一つは片膝を曲げて曲げた足を乗せるだけのものであるが体を反ると腰に刺激を与えるのでとてもいい。しゃがんで足を延ばすストレッチは手をつかないとできないのでパスである。折り返し地点に近づいた頃には少し汗ばむ感じでジャケットを脱いで腰に巻いて歩いたがその頃はもう痛みもなくなってしっかり速歩ができた。これを機会に週三のペースで始められるように頑張りたい。

2016年3月5日土曜日

梅 一輪・・・

長野では日の入りの一番早いのは12月3日から10日まで、日の出の遅いのは1月2日から12日までで、これを前後して4日に1分、3日に1分と変化して日とともに大きくなっていく。これを見てこれから日の入りが遅くなる。日の出が早くなる。そう思うと気持ちが晴れやかになる。実際に感覚で分かるのは1か月以上経たないとわからないことではあるが。

最近の居間の温度は4℃から8℃を行き来している。今朝、温風機のスイッチを入れたら7℃で、昨日は6℃だった。1℃上がってもそれほどでもないがこの数字を見てフッと「梅一輪 一輪ほどの暖かさ」の言葉を思い出した。たった1℃なのになぜか心和む思いがするのである。

葉の植物は枯れてしまうようなマイナスの気温で、表に出れば寒さに振るいる。そんな中で梅の花はしっかりと花を咲かせている。桜は美しくて綺麗だがあっという間に散ってしまう。どこか儚い感じがしてあまり好きではない。有名な梅林と言われるところが幾つかあるが梅の木そのものもは少ないような気がする。その所為かあまり人々に注目されない。あまり眼につくこともない寒さの中でしっかりと花を咲かせている。桜のように暖かくなってから人々の注目される季節になってから咲くのと訳が違う。勿論、桜は桜でその良さはあるがひっそりとそして寒さの中にしっかりと咲く梅にどこか共感するものがある。桜のようにパッと咲いてパッと散る生き方もいいが梅のように寒さの中にひっそりと、しかししっかり咲いている梅のような生き方をしたいものである。生き方と言ってももうカウントダウンの世代だが・・・。

2016年3月4日金曜日

今日のパン、明日の糧より

神の完全な愛を映し出す   3/4

神の私たちに対する愛は永遠です。神の愛は私たちが生まれる前から存在し、私たちが死んだ後も存在し続ける愛です。私たちは永遠の愛のうちに抱きしめられています。霊的な生活は、永遠の愛を私たち自身に対するものとして認め受け入れるようにと呼びかけています。そうすることで、両親、兄弟姉妹、先生、友人、夫婦、そして私たちの生活に関わりのある人々すべてに対する私たちの愛が限界はあっても、神の永遠の愛の反映、反射となるのです。どんな父親もまた母親も、子どもを完全に愛することができません。どんな夫も、妻も、相手を限りない愛をもって愛することができません。どこかに挫折のない人間愛などありません。
挫折のある愛が、私たちの持つことの出来る唯一の愛であるならば、私たちは簡単に絶望してしまうことでしょう。しかし、挫折のある愛を、神の完全で無条件な愛の一部、その反映となるように生き、実践する時、お互いの限界を許し、私たちが与えることの出来る愛を共に享受することが出来るに違いありません。

今日のパン、明日の糧より

神の誠実さ、私たちの誠実さ   3/3

私たちと契約を結ばれる時、神は言われます。「私は永遠の愛を持ってあなたを愛します。あなたが私から逃げ去り、わたしを拒み、わたしを裏切る時でさえ、わたしはあなたに誠実です」と。私たちの社会では、契約(コヴェナント)についてあまり多くを語らず、条約(コントラクト)について語ります。人と条約を結ぶ時、私たちは次のように言います。「あなたがあなたの分を実行してくださるなら、わたしも自分の分を実行します。あなたが約束を守らないなら、わたしも約束を守る必要はありません」と。条約(コントラクト)はしょっちゅう破られます。というのも、両当事者から各々の合意条件に従うことに不本意であったり、また従うことができなかったりするからです。
しかし、神は私立と条約(コントラクト〕を結ばれたのではありません。神は私たちと契約(コヴェナント)を交わされました。そうすることで、神は私たちのお互いの関係が、契約(コヴェナント)を反映するものであることを望んでおられるのです。こうして、結婚や友情、コミュニティーでの生き方は、私たちが共に生きることで何時も神の誠実さを様々な形で目に見えるものとしています。

今日のパン、明日の糧より

神の契約   3/2

神は私たちと契約を結ばれました。契約(コヴェナント)という単語は、「一緒になる」という意味です。神は私たちと一緒になることを望んでおられます。ヘブル語聖書の物語の多くで、神は、私たちを敵から守り、危険を防ぎ、私たちを自由へと導かれる神として現れます。神は、「私たちのための神」なのです。イエスが来られる時、契約の新しい次元が明らかにされます。イエスにおいて神は私たちと同じように生まれ、成熟し、生き、苦しみを受け、そして死にます。神は、「私たちと共にある神」です。去って行かれるとき、イエスは聖霊を約束されました。聖霊に置いて、神は契約の本当の深みを明らかにされます。神は、私たちの息のように私たちの近くにいたいと望まれます。神は、私たちの内で息をしようとしておられます。私たちの言葉、思い、行いのすべてが、神のよって息を吹き込まれたものとなるように。神は「私たちの内にある」神です。このように、神の契約は、神がいかに私たちを愛しておられるかを開き示してくれます。

今日のパン、明日の糧より

慰めを与えること、受けること   2/9

 ”Consolation”(なぐさめ)は美しい言葉です。「一人の人(solus)」と「共にいる(con-)」ことを意味します。 慰めることは、人を心にかける方法のうちで最も大切なことの一つです。私たちは、痛みや悲しみ、孤独など多くの苦しみに満ちた人の人生を目の当たりにする時、どうしたらそれらを和らげることが出来るのか、と考えてしまいます。私たちは、慰めを与えることが出来ます。また、私たちは慰めを与えねばなりません。子供を失った母親、エイズの青年、家が火事で焼け落ちた家族、負傷した兵士、自殺を考える十代、どうして生き長らえねばならないのかと考えている老人、このような人々を私たちは慰めることが出来ます。また、このような人々を慰めることは大切なことです。 
 慰めることは、痛みを取り去ることではなく、むしろ一緒にいて次のように言ってあげることです。「あなたは一人ではない。私はあなたのと一緒にいます。共に重荷を負いましょう。怖れないで。私がここにいます」と。それが慰めです。私たちはみな、慰めを受けるばかりでなく、慰めを与える必要があります。

春が来た

今日は暖かい一日だった。今朝の居間の温度は7℃だったが干した布団もパンパンで温かかくて何となく心浮かれる思いである。二月の聖書と福音をダビングしたのでS姉に自転車で行ったのだが頬に当たる風も冷たくなく少し汗ばむくらいだった。一週間後にまた寒くなりそうだが冬将軍も最後のあがきのようなもの、あがきといえば悪魔も然りか足元がふらついているどこかの政治家がその策略に乗っからされて破滅の道に国民を引き込もうとしている。見えるのは幻想にすぎないのに大国〇〇なのである。ちょっと横道にそれてしまった。それだけ気分がいいということかな…。

「春が来た」と言えば童謡のこの歌がよみがえる。
一、
春が 來た、
春が 來た、
どこに 來た。
山に 來た、
里に 來た、
野にも 來た。
二、
花が 咲く、
花が 咲く、
どこに 咲く。
山に 咲く、
里に 咲く、
野にも 咲く。
三、
鳥が 鳴く、
鳥が 鳴く。
どこで 鳴く。
山で 鳴く、
里で 鳴く、
野でも 鳴く。
             高野辰之作詞、岡野貞一作曲   ウエキペデアより

周りが山に囲まれている。その山を見ていると相変わらずのくすんだ茶色であるがどこか明るい。湖畔端を歩いていると雑草が緑の顔を出し始めている。花は家の中の鉢植えの中でしか見ることができないが小鳥も我が家に訪ねて来て餌をついばんでいる。家の前のリンゴ園では群れになって地面を突っついている虫でもいるのだろうか。湖畔端の鴨は気持ちよさそうに陸に上がって気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。歌の原風景を見る思いがする。
もう一つ付け加えるなら「私のノウにも来た」少し心配・・・。