2016年7月31日日曜日

今日のパン、明日の糧より

7/29   霊的な乾き

 霊的な生活において、時にひどく渇き切った状態を体験します。祈る気がしなくなり、神の臨在の実感がない、礼拝にうんざりし、神やイエス、聖霊について信じていたことがすべて子どものおとぎ話とたいして違わないとさえ思えてきます。
 そんな時、このような気持ちや考えの大部分は、ただの気持ちや考えに過ぎないこと、神の霊は私たちの気持ちや考えを越えたところにおられることを思い出すことが大事です。感情や思いの中で神の臨在を体験できるというのは大きな恵みです。しかしそういう体験が与えられない時、神がおられないのではありません。それはしばしば、さらに忠実であるようにと、神が私たちに呼びかけておられるということのようです。神との新しい親しい関係へと成長していけるように、霊的修練をしっかりと身につけなければならないのは、まさに霊的に乾き切っている時でしょう。


7/30   二つの孤独感

 霊的な生活においては二種類の孤独を区別する必要があります。最初の孤独感では、神に触れることがなく、帰属意識や親しみ、家族の味を与えてくれる人やものを不安げに探し回っている自分を体験します。第二の孤独感は、私たちの感情や思いの及ばない、深く偉大な神との親しい交わりから生まれてきます。
 この二種類の孤独感は、目の見えない二つの状態と見なすことが出来るでしょう。第一の目の見えない状態は光がないため、第二の目の見えない状態はまぶしすぎる光のために起こります。第一の孤独感からは、信仰と希望とをもって抜け出すように努め、第二の孤独感は、愛の内に抱きしめることが大切です。


7/31   イエスの孤独

 死が近づいた時、イエスはもはや神の臨在を実家することが出来ませんでした。イエスは叫ばれました。「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ27・46)。それでも、神の愛の内にご自分と共におられるという真理にすがり続けて言われました。「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」(ルカ23・46)。
 十字架上で味わわれた孤独感を通してイエスは復活へと導かれました。年をとるにつれ私たちはしばしば、このイエスが味わわれたのと同じ孤独感を通して、彼に従うように招かれます。この種類の孤独感においては、神があまりにも近くにおられるため、私たちの限られた心や精神では経験しきれないのだと思います。このような時が来たら私たちもイエスがなさったように、私たちの霊を神にゆだねることが出来る恵みを祈り求めましょう。

2016年7月30日土曜日

速歩

最初は週3回で、出来れば4回と思って始めた速歩も週2となり先週はパスして一昨日(28日)10日ぶりに歩いた。夕方過ぎだったが家につく頃は汗びっしょりになりシャワーを浴びて気分すっきりである。最低1週間に1時間歩けばいいことになっているから何とかクリアーしている。暑いうちは週2ペースでと思っているが…。つい一度にと思うがこまめに歩いた方がいいのだろう。それに最近ラジオ体操を始めている。肩や腰がギコギコしていかに運動不足かを確認させられた。こんな自分を見て子供って特別何をするではないが動き回っているうちにあらゆる筋肉を使っているのだろうなと思わされる。年と共に無意識から意識する物事が増えて来ている。この意識が若さの秘訣かもしれない。

終りのない作業

湖岸のゴミ拾いも12回目になった。そして念願の岡谷の境まで行くことが出来て目標達成である。いつもは所々に鯉か鮒、それにちょっと細めの魚の死骸があったが今回(28日)は10センチ前後のわかさぎが無数に岸辺に打ち寄せられていた。何時もは2-30㎝くらいの魚がほとんどだったが今回はそれより大きく中には50センチはあるだろう鯉も打ち寄せられていた。夕方の信州版のTVニュースの話題になっていたそうだ。翌日の信毎には大きく載っていた。湖底の貧酸素らしい。以前から問題になっていたことが露わになった。これで国か県が本格的に貧酸素、ヒシ対策を行うだろう。ワカサギは全滅かと書かれていたがどうなのだろう。当日夕方速歩で歩いたらどこもかしこも魚の腐った匂いで気持ちが悪かった。当分かと思っていたら今日(30日)歩いたら匂いはしなかった。1トン半近くを回収したみたいだ。

今回を最後の当分やめようかなと思っているが歩いていると所々にゴミが見えるし、今上諏訪温泉のお客様へのサービスで来月一杯15分間花火を上げている。その所為かタバコのフイルター、ペットボトル、缶がいつもより多くなりそうな気がする。既にそのような様子を伺わせるようなゴミがチラホラ見える。一週間もするとどこからともなくゴミが打ち寄せられている。まさに終わりのない作業である。ポイ捨て感覚を一歩でも2歩でも良くなってくれることを願ってもう少し頑張るか…。

2016年7月23日土曜日

畑と野菜

昨年は開墾のような形で畑をはじめて、野菜は割と順調に育った。二年目は更にという風に行かないことを実感する。菜類やネギはそれほど手がかからないからよかったがジャガイモは虫がついて枯葉状態になり、それでも一本に握りこぶし小?位のが二三と親指の先くらいのが数個ついているからまぁまぁかと思っている。三分の一くらいは取ったがそのうち収穫をと思っている。ニンニクはまぁまぁだが玉ねぎは失敗に近い。まぁ冬を越す野菜ができただけでもよしとするかと思っているので今年は念をいれてやるつもりである。問題は植えつけの時の肥料と黒マルチをしっかりやらなかったのが原因のようでその辺を留意しながらと思っている。ルバーブはほっといてもしっかり育ってくれる。ブルーベリーは小さい実だが今年も実をつけてくれた。知人の方が十何本か植えたけど今は三本しかないと他の方は大きくなって折れてしょうがないと言われていた。確かに枝は弱い、ブルーべり園は木はうまく造られている。それとハクビシンやネズミ、鹿に食べられてとこぼしていたがそのような実害がないので助かっている。もしあったらやる気はなくなるだろうなと思うと感謝である。

モロッコインゲンがようやく実をつけ、キュウリもぼつぼつ、実の数が少ないのでたまにしかいかないと特大になっている。ミニトマト赤くなり始めたが美味しさには程遠い。ナスも然り、ピーマン、オクラが初収穫できた。あまり大きくならないがそれほどできなくてもいいかなと思っている。カボチャも勢いよくのびているが根元の葉が枯れてきた。キャベツは一つ収穫し、後植えは順調に育っている。ルバーブは実をつけても枯れてくる。どうも花から雨が入って花を実を腐らせるようだ。一つ勉強になった。

今年は雨が少なかった所為か種をからしたり、苗の伸びが今一だったりして、去年ほどうまくいかない感じがする。それでもこのところ野菜のおひたしに炒め物のオンパレードである。ひょろっとしたブロッコリーはマヨネーズをつけて食べるとコリコリしてそれなりに美味しく売っているのとまた一味違ってグーである。

この間雨が降った後に行ったらモロッコインゲンが大きく枝を伸びていて、野菜にとって雨の効果は絶大である。それとともに雑草も負けず劣らず延びている。そして今年はテントウムシが多くて去年は菜類だけだったように思うが今年はどこでもという感じである。それに数が多くてズッキーニ等は葉にびっしりついて取るというより葉を切って丸めてつぶすということをやっている。今年はちょっとした気候の変化でも野菜や虫に大きく影響することを教えられた。これを商売にしている人は大変だ。それと不思議と虫は野菜について雑草につかない。なんでだろうと思ってしまう。

これから夏から秋にかけての野菜つくりである。何をやるかは義兄夫婦に任せた有るのでその心配はないが根っこをスコップで切って畝つくりをしていた去年の方が楽しかった。根気のいる仕事は苦手である。

2016年7月22日金曜日

人が変わる方法

17日の聖書と福音の中で高原兄がコンサルタントの大前研一の言葉として話されていたことがあった。その部分だけを抜粋して記して見る。

人間が変わる方法は三つしかないそうです。
一つは時間の配分を変えることです。一番大切なことにそれほど時間をかけず、どうでもいいことにだらだら時間を浪費している場合、一日の使い方の見直しをしない限り、人生は変えられない。
二つ目は、住む場所を変えることです。環境から受ける影響は、無視できないからだそうです。
三つめは、付き合う人を変えることです。誰を友にし、誰を相談相手にし、誰を師として仰ぐかで、人生は決まります。
一番無意味なのは、決意を新たにすることだそうです。自分の決意だけで人生が変わるほど人生は甘くないからだそうです。

一つ一つが頷けることばかりである。時間配分も然り、パソコンをやっていると気分転換にとネットサーフインをやるとこちらの方がはるかに長くなってしまう。こういうのはいくらでも観れるが勉強となると集中力が続かなくて、それにネットサーフだと何でもないのに昼前になるとお腹が減ってこれで集中力はゼロになる。以前新約概観を纏めてみたのだが少し不備があったりでもう一度と思って手を付けたが新約時代の時代背景をやっていなかったのでそこからとローマ史をと本をひろげたが日本史は勿論世界史は全くの無知であるからパソコンに二三行打って、本は開いたままで一週間十日かと経って今は本を閉じて一か月近くになる。

場所を変えることも頷ける。東京から引っ越して来て今月末で8年になる。ナイナイづくしの生活、諏訪人独特のというプレッシャーもあって何かと戸惑うことも有り、夏は快適だが冬の寒さはきついし何かと苦労なことも少なくなかった。一番大きいのは以前いた集会を客観的に見ることができ、そしてそこに集っていた自分もそのように見ることが出来た。相変わらずではあるがそこから自分というものを観れるようになった気がする。他の人も然りであるが批判としてではなく肯定的に見れることができるようになったことが大きい。

付き合う人もシニアの人たちとの付き合いの中にそれを見出す。現役時代はそれなりに活躍した人たちであり、趣味としての諸々のものは素人の域を越えている。それを見習おうとは思わないがそれだけのことをやって来、またやっているその姿勢は学びに値する。勿論キリスト者として語るべきもの生き方の姿勢は示していく必要があると思っている。

そして最後の決意を新たにする。ショッチュウやって長続きがしないのを見ていれば然りであることを気づかされる。表を作って計画するが時間とともに空白が目立つようになり、しばらくするとその表もどこかに消えてしまう。事実なので耳は痛くならないがこのことをしっかり参考にして軌道修正をしていきたい。





ブルーベリー狩り

二十日にシニアの集まりで松本の波田にブルーベリー狩りに行って来た。今回で三回目だが今回は運転手を兼ねて行くことになって、山形村まではよく知っているがその先が不案内で今回は運転を兼ねるから道を覚えようと意気込んだが知っているところからそれほどでもなかった。点が線になり、その先に上高地に行く道につながることも分かった。今年は乗鞍へと思っているので助かる。

今年は実も多くそして大きくて動かなくとも結構採れる。今回は義姉にも頼まれているので頑張って二籠も採った。家に帰ってみたら結構赤みがあるのがあって、面倒だから一粒一粒というより手でつかんでごっそり採るというやり方がいけなかったみたいだ。他の人たちは大きく、黒々としていたから丁寧にとっていたのだろう。

スイカも伝手で安く分けて貰いるので何人か注文していた。私もその一人なのだが休憩で立ち寄った「恋人の丘」というしゃれた名前の野菜などを売っている店に寄った時、同じような大きさのスイカが倍以上で売っているので安い、二個も注文した人がいたりでトータルで十八個も注文されていた。スイカは別会計で担当していたら振る舞われたスイカを切ったけど食べそこなってしまったが前々日松本集会でご馳走になったのでそれほど残念には思わなかった。この年になると年に一回食べればいいという感じである。

昼食は「唐松」というお蕎麦屋さんで食べたがここは古民家を改造して老夫婦二人でやっている。いすゞに勤めていてリタイヤしてそば屋をはじめたそうだが建物は古いが設備は新しい床暖も入っているそうだ。流石に夏は扇風機で足りるようである。おそばは勿論、天ぷらも美味しかった。腕は素人だが材料は厳選していると言われて納得する。中皿に3種類の漬物が添えられていたがさっぱりした美味しさと店の風情を醸し出してよかった。

ただ参加とちょこっと関わっただけだが大分違っていい勉強になった。珍しく隣の席に座った方が挨拶くらいで言葉を交わすことがなかったのに色々と質問され、みなさん長野県のシニア大学の卒業生なのでよく知っているみたいだが私は違うので私はどういう人か興味があるみたいだ。車中でも聞かれたがいつも黙っているけど偶にショウキンなことを言うので諏訪人でない異質性にも興味あるのかな?色々と多方面で活躍した人たちばかりで私から見たら付き合うこともない人たちだから色々勉強させてもらっている。

2016年7月21日木曜日

11回目

いつもは人影はまばらなのに既にボートが数隻湖上に浮かんでいて、スタート地点には数人がたむろしていた。終わって戻るように漕艇場の方に来たら高校生が続々自転車で来ていたから早くからいる人たちは社会人のようである。

今回は漕艇場のスタート地点のゴミを拾って岡谷の方に行き、前回既にやっていたところをもう一度やることになったがゴミはそれほどでもなかった。ただ前回花火をやっていたところでまたやっていてゴミはそのまま、岸辺にある魚の死骸は草陰かあまり目立たないところに置くようにしているがそこには魚の死骸を数匹ひろげておいた。ここも魚の死骸が多く、腐臭がする。今は魚の死骸は水辺から岸辺の方に置くようにしている。暑いからすぐ日干しのようになるから匂いはしない。いつものようにスーパーのゴミ袋に二つになったら終わりにしているので前回のちょっと先までしかできなかった。後は砥川と十四瀬川の間だけになった。これで目標達成である。今回も次も河口付近は葦ではないが結構延びる草が生えているのでその辺はパスである。老眼になって物がはっきり見えなくなっているのにタバコのフィルター、キャンデーの包み紙など小さい物でもつい目が行く、習性は恐ろしい。もっといいところに目が行かないものか?
今回は我が家のゴミと合わせて45ℓの袋一杯になった。

2016年7月17日日曜日

今日のパン、明日の糧より

裂かれる   7/15

 イエスは十字架の上で引き裂かれました。何としてでも避けたい悪としてではなく、進んで受け入れるべき使命として、苦しみと死を味わわれたのでした。私たちもまた裂かれています。引き裂かれた体、引き裂かれた心、引き裂かれた精神、引き裂かれた霊を持って私たちは生きています。そして引き裂かれた関係に私たちは苦しみます。
 どうやって引き裂かれたままで人生を生きて行くことが出来るでしょうか。イエスはご自身が十字架を進んで受け入れ、それを使命の一部として生きられたのと同様に、私たちもまた自分が引き裂かれている事実を進ん受け入れ、それを自分の使命の一つとして生きて行くようにと招いたおられます。引き裂かれていることを、私たちが罪深い者であることを思い起こさせる、神の呪いとして拒むのではなく、引き裂かれている事実を受け入れることが必要です。そして、私たちが浄められ聖とされるための祝福を受けることが出来るよう、その事実を神のもとに置くことをイエスは願っておられます。このように、私たちが引き裂かれたものであるということは、新しいいのちに到る道となるでしょう。


与えられる   7/16

 イエスはこの世界に与えられました。イエスが選ばれ、祝福され、裂かれたのは、与えられるためです。イエスの生と死は、人々のための生と死です。永遠から選ばれた神の愛するみ子は十字架の上で引き裂かれました。それはつまり、この一つのいのちが増えていき、あらゆる時と場所を超え、すべての人々の食物となるためでした。
 神によって選ばれ、祝福されている子として生きる時、神の愛する子としての私たちの小さないのちは引き裂かれ、人々に与えられるということを信じることが大切です。私たちもまた、この世のパンとならねばなりません。祝福のもとにありながら引き裂かれたものとして自分たちの人生を生きる時、私たちのいのちは世代から世代へと実を結び続けるでしょう。すなわち聖人たちは死似ましたが、彼らの後に生きている人々の心に生き続けています。それが聖人たちの物語です。これはまた、私たちの物語となることが出来るのです。

2016年7月16日土曜日

758

ナゴヤ(名古屋)と読む、何かというと諏訪湖の海抜の高さである。自治体の公式な数値は759m らしいが756mとも聞くことがあり、実際どうなのかわからない。しかし、758は名古屋に通じるから覚えやすいというのでこう呼んでいる。最初言われたとき何を言っているのか分からなかった。よく考えたものである。

雑感

月に一回、東京からM伝道者が来てくれる。忙しいのに家族で来てくださり、時には兄姉を伴ってきてくださる。今回もN 姉妹が一緒に来てくださった。彼女はもう四回か五回来てくださっている。感謝なことである。前々回だったかMファミリーも上柴集会の集まりの後、丑三つ時ではないが夜中に和田峠を超えて来てくださった。その時鹿との遭遇を経験したそうだ。私はまだその経験はないのだが…。

信州には幾つかの集会があるが「岡谷?」という知られざる集会なのにである。小さな集会に奉仕してくださるM 兄、そして一緒に来てくださる兄姉、またクリスマスには千葉の先から家族で来てくださる。おんぶにだっこの集会なのである。こうなると開き直って「お返しなしで戴くものは戴く、お返しは主から貰ってください」という心境になってくる。まさに無礼である。

訓練され、整えていなければ伝道や奉仕はできない。そして、来られる兄姉を見てよく訓練されているといつも思う。その対極にあるような集会であるがこれはまたこれで存在意義があるのかなとも思わされている。救いをはじめ奉仕もこれは恵みであり、努力して得るものではない。勿論棚ぼたで恵みは来ないが「恵みによって救われている」ということを発信しているのかなと思っている(多少開き直りながら)。生まれた後の育ちがと問われると言葉はないが…。

彼らを見ていると若い兄姉であってもキリスト者として尊敬できる。それと彼らは社会的にも能力があって置かれたところで活躍している姿見ると何か連動しているのかなと思わされることがある。それはそれで素晴らしいことであるがその対極にあるものがあってもいいのかなと思っている。主にある俗に言う不肖の息子、娘があってもいいのではないか…。正直言うと私は前者には入れないからその受け皿をとの思いも無きにしも非ずなのである。

私たちは無意識の中に信仰生活に社会の論理を持ち込もうとしているのではないだろうか。子どもがいつまでも親のすねをかじっていては困る。いつか自立するのが当然である。この論理が信仰生活にも生きているように思える。そして因果応報も生きている。自分もその罠にしっかりハマっていることも自覚している。

2016年7月14日木曜日

10回目に

ゴミ拾いも丁度10回目になった。先週の続きから少し戻るように拾って漕艇場のスタート地点に向かったのだがスタート地点に着かないうちにスーパーの袋がいっぱいになってしまった。それほど多くはなかったが前とダブるように拾ったから結構なゴミになった。スタート周辺には高校生が練習しつつあったのでそこをパスして岡谷方面に向かう。そちらは駐車場やヘリポートがあり、公園になるのか造成中ので民家はない。ジョギングする人も少なく、人の目が気にならない。それ故か花火をやって、しっかりゴミを残してあった。ここだと家から離れているから割と大きいのでもあげられるのだろう。ここは初めてだから粗大ごみに近いものもあったりしたが全体的に少なかった。波の打ち寄せがそうさせてくれていたのかもしれない。しかし、相変わらず魚の死骸が多い。波打ち際から砂利のところに寄せるようにした。骨だけだったがイラク大きな残骸があったなんの魚だろう。外来種かな?砥川の近くまで来て、その先十四瀬川が岡谷の境だからあと一回で終わりそうだ。打ち寄せるゴミはどこから来るのかわからないが最近テニスや軟式の野球のボールが必ずあり、小さな実だが多分リンゴだろうよく見かける。これは拾わず砂利に置いて日干しにして土に返す?

最近一人か二人「ご苦労さんです」と声をかけてくれる人がいる。ジョギングコースをしょっちゅう見ているわけではないが偶に顔を上げるとこちらをジロジロ?見ながら歩いている人も、立ち止まって見ている人もいる。この時はちょっと恥ずかしいので黙々と拾う。今は歌の文句ではないが「線路は続くよどこまでも」ではなくなったのでこれもどこまで続くか楽しみでもある。 

今日のパン、明日の糧より

傷ついた癒し人   7/8

 誰も傷つくことから逃れられません。肉体的にであろうと感情的にであろうと、精神的にであろうと霊的にであろうと、私たちの誰もがみな傷を負っています。大切なことは、恥ずかしい思いをしないですむように「傷をどうやって隠せるか」ではなく、「私たちの傷をどうやって人々のために役立てられるか」という問いかけです。私たちの傷が恥の原因ではなくなり、癒しの源となる時、私たちは傷ついた癒し人となったのです。

 イエスは、神から来た傷ついた癒し人です。イエスの傷によって私たちは癒されます。イエスの苦しみと死によって、喜びと命がもたらされました。イエスの謙遜によって栄光がもたらされ、イエスが人々から拒絶されたことで、愛の交わりであるコミュニティーが生まれました。イエスに従う者として、私たちはまた、自らの傷によって人々に癒しをもたらすことが出来るでしょう。


自分の傷を第一に   7/9

 寂しさや落胆、恐れを伴った自分の経験を、他の人々への送り物とすることが出来ます。心のこもった関わりに恵まれた時に特にそうです。私たちの傷が開いたまま血を流し続けている限り、人々は怖がって遠ざかってしまいます。けれども、誰かが私たちの傷を丁寧に手当てしてくれると、私たちも人々も、もはやその傷を怖がらなくなります。

 ある人が癒しの存在として私たちと共にいてくれるのを経験すると、私たちにも人を癒す賜物があることを発見できます。その結果、自らの傷のゆえに、私たちは傷ついた兄弟姉妹と深く連帯することが出来るようになります。


傷を持って聴く   7/10

 苦しんでいる人と連帯するとは、私たちが自分の苦しみについてその人と語り合うことではありません。自分の傷について話したとしても、苦しんでいる人にはほとんど助けになりません。傷ついた癒し人とは、自らの傷について語らずに、苦しんでいる人に耳を傾けることの出来る人のことです。つらい鬱状態をくぐり抜けてきた時、私たちは自らの経験について触れることなく、深い思いやりと愛をもって、意気消沈している友人に耳を傾けることが出来ます。たいていの場合、苦しんている人の注意を私たちに向けないようにする方がよいでしょう。包帯に隠された私たちの傷が、私たちが全存在を持って人々に耳を傾けるのを可能にしてくれるようになることを信じることが大切です。それが癒しです。

2016年7月7日木曜日

いたちごっこ?

ゴミ拾いも今回で9回目、次に行く予定だっがが速歩コースを見ていると少しゴミが目につくようなところがあるのでそれをサーッと取って次に行こうと思ったら漕艇場のスタート地点の手前でごみが一杯になったのでそこで打ち切り、次回に持ち越しだがそれも一回で終わるか二回で終わるかわからない。そのうちまたゴミが打つ寄せられて眼にするだろう。幸い?に波が寄せる水辺に雑草がはいてゴミが打ち寄せても傍に行かないと見えないのでその辺は適当にできるのでいい。このところ暑くなった所為か魚の腐った匂いがするところがある。雑草もなく砂利だけのところに打ち上げられた魚が腐って臭う。魚は拾うつもりがないので岸辺に移して日干し乾燥させて土に返すつもりでやっている。

ビニール袋をしっかり結んで明らかにゴミであることがわかるようなゴミも二・三あった。それとペットボトルにいっぱい吸い殻を入れているのもどうせ車だろうから車に乗せて家で家庭ごみに入れればそれで済むじゃんと思った。タバコのフィルターも打ち寄せる所によって目につく、それでも全体的にゴミは少なくなったかなぁと思う。今回は自転車で移動したのだが道路にタバコの吸い殻やテッシュのゴミがるとすぐ目についてしまう。完全なゴミ収集人の目である。ゴミを拾うには下を向いて歩かなければならないが信仰者としては上を見て歩きたいものである。

何となく気になりだしたのが魚の死骸である。毎年こんなにあるのだろうか。暑いから酸欠とかの問題か、はたまた違ったものなのか?考えれば考えるほどちょっと不気味。いたちごっこのようであるがそれでも気が向いたことをやっていこうと思っている。それにこれは寒くなったらできない。一年のある期間限定でもある。まぁ今回もできて、それなりのゴミも拾いて感謝である。ゴミと一緒に主の恵みも拾いることを期待しながら次回も続けられることを願っている。

黙示録1章3節




rev: 1: 3
この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。が近づいているからである。


1章3節 預言よげんことばものこれきてうなかしるされたることをまもものどもとは幸福さいはひなり、ときちかければなり。[引照]
口語訳この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。
塚本訳幸福なる哉、この預言の言を朗読する人、及び(それを)聞いて、その中に書かれてある(一切の)ことを守る人々!(この言の成就する)時が(はや既に)近いからである。
前田訳さいわいなのは預言のことばを読み上げる人、またそれを聞いてそこに書かれたことを守る人たち。時は近いから。
新共同この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである。
NIVBlessed is the one who reads the words of this prophecy, and blessed are those who hear it and take to heart what is written in it, because the time is near.
註解: ユダヤ教時代より集会において聖書が会衆の前に読まるる習慣あり、キリスト教はこの習慣を踏襲し(ルカ4:16。使13:15。15:21)旧約聖書の外使徒の書簡等が読まれていた。「読む者」は単数で会衆の前に朗読する人を意味し「聴く者」は複数で会衆を意味す。而して単に聴くだけでは不充分であるがさらにこれを「守り」行う人々は幸福である。その故はこれらの預言が凡て実現する時が近づいているからである。預言は実生活の指導者である。この書は一つの「預言」であることはヨハネのしばしば主張する処であり(10:11。19:10。22:6、7、9、10、18、19)またこれを会衆の前において読むべきものなることを主張していることが判明(わか)る。「幸福なり」は本書に七回用いられている(14:13。16:15。19:9。20:6。22:7、14)。「時近し」は当時の一般的信仰であった(ロマ13:11。Iコリ7:29。ピリ4:5)。
要義1 [黙示録は理解し難き書に非ず]既に緒言の末尾において述べしごとくヨハネは神の経綸すなわち将来の歴史を支配する原理を霊的に啓示せられこれを表徴的に記せしものとすればヨハネはその原理を系統的に排列せるものと解しなければならぬ。而してヨハネは本書の読者が本書の内容を理解するものなることを前提としているのを見るも(1:2)、本書は一般に考えらるるごとく難解なるものにあらず、また意味不確定のものにあらず、極めて明瞭なる真理の記述であることを認めなければならない。
要義2 [何のために啓示を与え給いしや]単に未来に起るべき事実を示してその知識欲を満足せしめんとしたのではなく、神はその愛する者の躓かんことを憂いてその準備として未来のことどもを示し給うたのである。ゆえに未来の事件に心を奪わるることなく、これを示し給える神の愛の労苦を思うべきである。
                                           黒崎幸吉著 註解新約聖書 より引用                                         

今月のみこばより

「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。…死んだ人々は、これらの書物に書きしるしているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」
                             (ヨハネ黙示録 20章12節)

 選挙が近づいてきた。気になるのは、自民とによる「日本国憲法改正草案」である。憲法97条「この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、…侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」がごっそり削除されているのだ!◆ある有力な自民党議員は「主権は国民にはない」と公言してはばからない。◆「個人があって国家がある」のかそれとも「国家があってこそ、個人がある」のかという命題の対立がここにある。日本国憲法の基本精神はもちろん前者であるが、自民党草案は明らかに後者である。◆日本国憲法の成立に影響を与えたと思われるアメリカの「独立宣言」には「我々は、自明の真理として、すべて人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され…これらの権利を確保するために…政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被冶者の同意に由来するものであることを信ずる」と書かれている。つまり、造物主(神)の存在を前提としているのである。◆「お国のために死ぬことは当然」と教えこまれた戦前、「個人」はないも同然だった。また「国家神道は宗教ではない」という詭弁によって、「信教の自由」さえも簡単に奪い去られたのは、「国体護持」という国家至上主義があったからである。◆「個人主義」が行き過ぎると、要求ばかりして国民としての当然の義務さえ果たさなくなる、と草案支持者たちは言う。それも一理あることは否定しない。◆しかし、「天与の人権」とは、最終的に「天」に対する説明責任が問われるものなのだ。「天」とは国家のことでもなければ為政者や元首のことでもない。「大きい者(権力者)も小さい者(庶民)」も公平に裁かれる神ご自身のことである。私たちがこの御方によって命と存在を与えられている、ということをしっかりと認識しなければ、時の権力者の考えに翻弄されることは必至である。
                             長野集会 7月号月報より


2016年7月5日火曜日

雑感

今、グーグルクロームを使ってヤフー、聖書検索、黒崎幸吉注解書、グーグルマップ、グーグル×2が最初から出るようにしている。幾つか検索する時には便利である。他にもっと便利なものがあるのだろうがパソコンにそれほど詳しくないので他を試す余裕はない。Webのメカニズム?はよくわからないが時々個人のパソコンなんて彼らから見たら鍵の掛かっていない家のようなもので簡単に入って来れるのだろうなと思わされることがある。泥棒が入っても持って行くようなものが無い我が家だからパソコンも然りであるが、しかし、簡単に奥の奥まで入って来られると思うと怖い。

Webにすると最初にヤフーが見えるようにしてある。ここは国際、国内、経済、スポーツ、芸能と大体一つづつ載っている。興味があればアクセスすればより詳しく見ることが出来るしその関連も見ることが出来る。新聞では大見出しの部分に当たるのだろうか。新聞のように細かく書かれていないが広く浅くで丁度いい。ブログやネットで検索しているとパソコンと向き合っている時間がつい長くなってしまう。それと新約概観をもう一度と本を広げたが字が細かいのと集中力が求められるので根気が続かない。つい気分転換にと他にアクセスしてこれの方がはるかに長くなってしまう。一週間前に始めたのにまだ数行である。

ダッカの事件で亡くなられた方が遺体で戻ってきたニュースが流れていた。多くの方の悲しみと憤りを誘っている。そして、母が子供を刺すという無理心中のニュースが、また、母親が幼い自分の子供を虐待することも、これらを見ているとつい顔を曇らせてしまう。最近些細なことで人を殺してしまうというような事が多いような気がする。世の中、心にゆとりがなくなって来ているような気がしてしょうがない。個は益々疎外されていく、日の当たらないところは更に当たらなくなる。「赤信号みんなで渡れば怖くない」的発想で滅びに向かおうとしている流れが見える。底辺に生きるキリスト者として何ができるのだろうか。一つに祈ることであろうが祈りは不信仰な者に時には無力極まりないように思わされる時がある。ヤコブのような祈りが求められるのかもしれない。自分の証しが主が無力であるかのようにしている。反省を込めて…。

2016年7月3日日曜日

ダッカ事件に思う

バングラデシュであのような事件がと思う日本人は多いのではないだろうか。バングラデシュはイスラム教国でも割と温和な国民と聞いていたから驚いている。シャプラニールもあそこに事務所を構えて援助とともに自立のサポートやっている。これからが気になる。

非イスラム教徒や外国人を狙った犯行と聞く。自分たちと違った者を排除するというのではなく殺戮するということは許しがたいことである。しかし、実際のところどうなのかかわからないが貧しい国が豊かになっていくその過程において(みんなが貧しければそれほどでもないであろうが)、貧富の差は広がって行くであろうその中で矛盾、不公平さは広がって行く、それは恩恵を受けない人々に決して良い感情を与えないことは容易にわかる。富は人々を豊にするように見えて実は人々の心を貧しくしているように思える。

かつても今も「アベルの血」は流されている。そしてこれからも多くの血が流さて行くであろう。このようなことは、かつてキリスト教国と言われた国々もやっていたことでもある。そのことで悔い改めをしていたであろうか?それがなければそれは実現しないであろう。勿論非キリスト教国も然りである。日本の憲法も個人から国体に変わろうとしている。そうなれば国体の前に個人なんて歯牙にもかからない。国体の護持と言いながら天皇家を利用してその結果は国土は焼け野原となったのにまた同じ過ちを繰り返そうとしている。「同じ過ちを繰り返しません」というのは「原爆記念日のセレモニー」なのだろうか。時には、イデオロギーや国体は人を抹殺する。そして人を大切にしないイデオロギーや国は滅びる。聖書が語っていることであると私は思う。しかし、ある自治体では十分働けるのに生活保護を受けてパチンコ通いしている人たちがいると聞いて考えてしまうが…。

heb:12:24
さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。

アベルの血ではなく、尊い御血が流された。そして「アベルの血」に楔を打ち続けている。真の解決は主の来臨に委ねなければならない。

畑から

二年目になる畑つくりは順調にとはいかない。あらためて自然相手の難しさを教えられる。ちょっと大袈裟か…、しかし、毎年微妙に違う気候なのにそれに合わせてお米や野菜を作る農家の方は大変だなぁと思った。去年は三十年以上?放置していた雑草生い茂る畑を開墾並みにしっかり根の張っているのをスコップで切り起こして耕すというよりもそこを盛り土のようして種をまいただけなのに(苦土石灰と化成肥料は蒔いたが)割にはよくできた所為もあるのかもしれない。

インゲンの種を蒔いたが芽が出ず(どうも水やりが少なく枯れたようである。)二回目は藁を敷いて地面が渇かないように気をつけて二週間くらいでやっと芽が出ていま5-60㎝になっている。キュウリも似たようなもので1.2-30㎝そこそこ、それでも1-2本食べるくらいの大きさになって収穫、後2-3日で食べれるくらいになりそうなのが2-3個ある。さらに小指ほどのものも数本出てきた。崖の下に当たるアパートのおばぁさんのは少し遅く蒔いたのにはるかに勢いよくのびている。狭くて固い土地なのに元気がいい。今年は雨が少なかったのか日陰のようになっているのが結果的に良かったのかなと思ったりもしている。

それとほっといても育つ物とそうでない物もあるのをあらためて教えられる。ルバーブはほっといても同じところから芽を出し葉を広げて元気そのものである。
3個植えてあるがある程度距離を置いたつもりだったが被るのでスペースがあるから秋には真ん中を移し変えようと思っている。ブルーベリーも伸びないが実をたくさんつけている。行く度にブルー色になっているのでつまみ食いしている(4-5個だが)。店で売れ残った?ブルーベリーを買ってきて植えたが小さい所為もあるのか実は小さく少ない。その実も枯れて行く、どうも安物買いの銭失いの感がしないでもない。

根気がないのでコツコツやる農作業は向いていないようである。草刈りをしたり畝つくりをしたりと体動かすのはそれほど苦ではないが細かいのが駄目である。この間もかぼちゃを剪定したつもりが先っちょを切ってしまった。一番伸びていないやつをやってしまった。一事が万事というやつである。菜類はよく採れているので毎回オシタシは…、これからは一夜漬けのようなものも欠かさないで食卓に上るだろう。これも嬉しいような忍耐がいるような微妙な心境である。そんな中、はつか大根は三回目を植えて順調に伸びている。種をまいて芽が出るのも早いしまさに二十日で食べれる。こういう速性的なものは楽でいい。失敗したら来年にとなる物も少なくないからある面で大変である。まぁ「買った方が安いよ」と言われることが実感として湧いてくる。

今日のパン、明日の糧より

下へ向かって   6/28

 私たちの社会は、前進したいなら、上に向かって進まねばならないという示唆に満ちています。頂点を極める、脚光を浴びる、記録を破る。これらは人々の注目を集め、新聞の一面を飾り、金と名声という報酬を私たちに与えてくれます。
 イエスの生き方は根本的に違っていました。それは上に向かって行くのではなく、下へ向かって行くものでした。底辺を目指し、舞台のセットの後ろに隠れ、一番最後の場所を選び続けることでした。イエスの生き方は、なぜ選ぶに値するのでしょうか。イエスがとったのは、み国に到る道であり、永遠のいのちに到る道だからです。


十字架を背負う   6/29

 イエスは言われた。「私について来たい者は……自分の十字架を背負って、私に従いなさい」(マタイ16・24)* イエスは「十字架を作りなさい」とも「十字架を探しなさい」ともおっしゃいませんでした。私たちの誰もが負うべき十字架をもっています。作ったり、探したりする必要はありません。私たちの十字架は十分重たいのです。それでも、それを進んで自分の十字架として認め、背負う意思があるでしょうか。
 勉強が不得意であったり、障害を負っていたり、あるいは鬱状態で苦しんでいたり、家庭でいざこざがあったり、暴力や虐待の犠牲者であったり、これらのうちのどれ一つとして、私たちが選んだものではありません。しかし、これらこそが私たちの十字架です。これらを無視し、拒絶し、退け、憎むことも出来ます。けれども、これらの十字架を背負い、その十字架とともにイエスに従うことも出来るのです。


家に帰る   6/30

 放蕩息子の譬え(ルカ15・11-32)* には、二人の息子が出てきます。弟は家から逃げて遠い外国に行きますが、兄は家にい留まり、するべき自分の仕事を続けます。弟は酒と女で身をもちくずし、兄は、一生懸命働き、仕事をすべて忠実に成し遂げることで、自分を疎外しています。二人とも失われたものでした。父親は、二人のことを惜しみます。二人の内のどちらとも、望むような親しみの温もりを味わうことがないからです。
 欲望に身をもちくずすにしろ、冷たく言われた通りのことをするにしろ、それでは私たちは真の神の子となることはできません。弟のようであれ、兄のようであれ、私たちは神の無条件の愛に包まれて心が安らぐことの出来る家に帰らなければなりません。