2016年1月30日土曜日

チルドの家

いつもよりは暖かい日が続いていた時は気持ちの上で余裕があったから鷹揚に構えていたがいざ寒さが続くと少し滅入る。一時は朝起きると居間は2-3℃チルドの世界であった。このところ1日中暖房をつけているから灯油の減りも早い、それに当然だが寒い。金属や瀬戸物に触ると冷っとするからこれも嫌な感触である。来週も寒そうだが一時ほどではなさそうだ。昨日は1日雨だったったから普段より気温は高く今朝は居間が6℃でプラス2℃が台所。雨、雪の順で寒く、そして星空の出ている朝が一番寒い。少し持ち直したが2月も相変わらずであろうし暖かくなるのは新年度4月になってから…。明日はMファミリーが来るからお天気がと心配していたがどうも張れ模様で気温も少し高いみたいだ。といっても1-2℃しか高くないが、寒いところでは曇りと晴れでは雲泥の差がある。寒いところにいないとこの陽射しの暖かさの恵みは分からない。感謝なことである。


2016年1月17日日曜日

寒くなって

このところようやく冬らしい寒さを実感している。暖かいと色々な面で助かる。まず気分的なものがある。寒さが12月初めだと滅入ってしまうがこれからだと春は近いとの思いがあるからそれほど苦にならない。それと暖房費が助かる。電気代は真冬と夏では3倍前後の違いがあるが今冬は昨年より大分安い。暖かいと水道管の凍結用防止のヒーターがオンになっていないためだと思う。それと灯油が安いのと暖かいから灯油の消費量が少ないのでこれも助かる。それに我が家は寒いのでその寒さもそれほど苦にならなくてすむからオールグーである。それと我が家の隣はエコーホール(葬祭場)の駐車場になっている。普段はあまり車は止まっていないがここ最近よく車が止まってる。ということは誰かがなくなって葬儀場を使っているということである。暖かい時はそれほどでもなかったがこのところ寒くなってきた所為か頻繁に車が停まるようになった。それであぁ寒いのだなということがこういうかたちで実感できる。葬儀と寒さは比例するのである。葬儀で一言、新聞は取っていないがこちらには死亡欄がある。読むときはその人の経歴は見ないで年齢を見る。80代後半から90代が多い、80代前半だと早いなと思われ、70代なんかは論外という感じで、私は70代半ばになったのだが年より扱いはしてもらいない。周りは皆私より若いのだがみんなの思いは一番長生きしそうであると思われて思いやりの中にはおかせてもらいない。感謝しながらも同情心がほしいなぁと思っている。

2016年1月12日火曜日

驚くばかりの(聖歌)

1.
おどろくばかりのめぐみなりき
このーみのけがーれをしれるわれに

2.
めぐみはわがみのおそれを消ゖし
まかーするここーろをおこさせたり

3.
危険をもわなをもさけえたるは
めぐーみのみわーざというほかなし

4.
みくににつくあさいよいよたかく
めぐ―みのみかーみをたたえまつらん

                 聖歌総合版 196

祈りすれど手答えなく(聖歌)

1.
いのりすれどてごたえなく
もとむれどえずしてー
おもきこころいだきつづけ
くるしむはたれぞやー

ながもてるものをしゅのてにことごとくささげしーや
じょうけんつけずこうふくせばかちうーべししょうりをー(繰り返し)

2.
しんこうをもちめぐみにみち
みひかりのなかゆくー
かがやかしきせいかつをば
のぞまずやわがともー

3.
めぐみもたずたまもののみ
しとうォともえきなしー
ながすべてをささげつくし
火をまてやしずかにー

4.
ささげつくしあけわたしし
こころこそたえなれー
きみなるイェスこころにすみ
みこころをなしたもー
                                     聖歌総合版 580

福音とは?

若い時に聞いたメッセージの中に「世の中の人たちが、…の福音とか『福音』という言葉を使っている。」とあたかも「福音」がキリスト教(当時キリスト教という言葉使わなかった)の専売特許のような言い方をされたことを思い出す。諸集会は色々言葉に拘る集まりであるようで、キリスト教というと「私たちはキリスト教を信じているのではない。イエス・キリストを信じている」というような言い方をしていたように記憶している。教会人や一般の人がキリスト教と言えばキリスト信仰を意味すると思うのだが、ある意味で独善的である。福音という言葉もたどれば中国語、ギリシャ語と繫がればこのことばは普段の言葉にしか過ぎない。英語から見ても然りである。

福音は神からの「よき知らせ」であることは分かる。しかし、それがどのようなものであるかは具体的になるとはっきりしない。はっきりしているけれどその範疇が狭かったり、広かったりするのである。ある意味で聖書=福音としてもおかしくない。そこにはイエス様の受肉、十字架、復活を通して我々に罪から、滅びから救われるメッセージが旧・新ともに入っている。被造物を見て、造られた方が偉大な方であることを知ってもそれだけである。聖書こそ創造主なる方がどのような方であり、私たちがどのようなものであるかがわかる。勿論、聖霊の助けを受けてでの話ではあるが、そして神の壮大なな計画を見ることができる。救いはその一環に過ぎないと言ったらチョット言い過ぎかな…、反省。

2016年1月11日月曜日

成人式に思う

今日は成人式の祝日、毎日が日曜日であると休日は分かっていて何の祝祭日がよくわからない時がある。前日まで今日は成人の日であることがわかっていたが当日の朝窓の先にある旅行会社の事務所に車がないので変だなと思っていたら「あぁ、今日は成人の日か」と理解する。祝祭日にそれほど関心はないからこうやって思い出せればいい方である。

午後畑に行って黒マルチがめくれていたりするのでたまねぎとニンニクの様子を見に行った。何とか寒い冬を凌いでくれている。日陰の地は凍土である。岡谷でも高速の下で日陰になるので寒い方である。天竜川添えになるのでその先のクリスマスに来てくださったK姉妹が働いていた彼女のおばさんの美容室を見に行った。ただ前の駐車場から見ただけで川岸小学校の脇にあった。それと戻るように鶴峯公園の近くにある手作りの豆腐屋さんに寄って豆腐と油揚げを買ってきた。前にも行ったのだが分からずまた行って見たが番地はあっても看板がない。表札と豆腐屋さんの名字は同じである。大豆の名前の入った一斗缶の空き缶が幾つか積んであるのでここかなと思って居たら家から女の人が出てきたので家内が聴きに行ったらそうだったらしい。中に入ってすぐ出てこなかったが手に何かをぶら下げてきたのでそうだなとわかった。店を構えているわけではなくて近くに売り歩いているそうだ。ちょうど出かける所だったのでよかった。いつもいるということはなくて車があったらいると思ってくださいとのことどうも電話は鳴るが出ないようである。夕食に油揚げを焼いて食べたらおいしかった。スーパーで売っているのとは全く違うのに驚く、しかし、よくやっているなぁと感心する。またいつか行くことがあったらお邪魔しよう。それから戻るようにセルフのスタンドで灯油を入れる。今年は暖冬と灯油が安いので助かる。スーパーで買い物をして帰ってきた。

「成人の日に思う」と書きながら別なことを書いてしまった。帰って来てコーヒーを飲みながらニュースを観ていたら恒例の成人式のドタバタを流していた。あぁいうセレモニーは好きではないが騒いで自分をアピールするなんて最低だなぁと思う。駄々っ子がほしいものを買ってくれなくて寝っ転がって喚いているのと同じである。まさにガキ以下である。まだ小学生の方がわきまえている。奇抜な格好をしてもいいが人に迷惑をかけてまで騒いでいる姿を見ていると情けなさが先に来てしまう。まさに「甘えの構造」である。役所の面白くもない成人式をするからこういう輩が出てくるのだろう。もっと実のある成人式ができないものだろうか。

2016年1月10日日曜日

今月のみことば

 1pet 1:23
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、
 いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(ペテロの手紙第一 1章23節)

 映画でも有名な戦艦バウンティ号の叛乱は今から200年以上も前の1789年に起きた。バウンティ号は、タヒチのパンの木の採集を終え、カリブ海に向かうところであった。ところが船長の虐待に耐えかね、楽園タヒチを去りたくない船員たちはそれを拒み、船を乗っ取った。◆タヒチでの夢のような生活が始まった。しかし、いつ反乱罪でつかまり処刑されるか分からない。彼らは安全な場所を探して大海原をさまよい、ついに無人のピトケアン島を発見した。食糧も豊かに取れ、木から酒を蒸留できることもわかった。◆しかし、ほどなく「楽園」は「地獄」に変わった。乗組員は酒に酔い、女性を奪い合って殺し合いを続け、後に残ったのは二人の乗組員と女性たち、そして子どもたちだけになってしまった。◆生き残りの一人、アレクサンダー・スミスは途方に暮れ、船から回収した品物の中から聖書を見つけそれを夢中で読んだ。そして罪を悔い改め、聖書の教えに従う生活を始め、日曜礼拝と祈りの時間を制定した。この島に初めて秩序が生まれたのである。◆25年後、偶然近くを通りかかった英国船が島に上陸したとき、そこで見たのは、犯罪と無縁の、互いに愛し合うコミュニティ―であった。スミスも本国に送還されることなく、この島で平安な死を迎えたのである。◆文字通り、人を生まれ変わらせる聖書の力に改めて驚くほかはない。
長野集会1月号月報より
追記
割と間違わなく打つことができた。

2016年1月8日金曜日

信仰によって

「どこかで泉が湧くように」という後藤敏夫さんのブログをお気に入りに入れて読ませてもらっている。12月12日のブログにこのようなことを書かれていた。一部分であるがそのまま引用させてもらう。

 「・・・ひとりの生活者として、妻とともに惠泉塾に根づくことを学びながら、私は、ある種の『他郷感覚』をもってここで生きています。惠泉塾に生きることに親情的な所属意識による安定や安心はありません。ここはただ『信仰によって』という一点において結びつき、また存在しています。私は、『地上では旅人であり寄留者である』ということが、信仰者本来の存在感覚であることを、ここにいてより鮮明に覚えるようになりました。定住しているここは定住の場ではなく、根づくべきここは根づいてはならない地でもあります。活き活きとした不安と明らかな希望をもって前のめりに歩まざるを得ません。」

恵泉熟とは
ここは人生の「港」です
 外洋の荒波に疲れた船が、港に停泊してホッと一息つくように、旅装を解き、安定した大地を踏みしめ、傷ついた船を修理し、燃料を補給し、旅の目的と最終ゴールとを地図を開いてもう一度確かめ、明日の出航に備えるところです。
 たった一度のあなたの人生をどう生きたらよいのか、「聖書」を基にして一緒に考えるところです。
 頭の先で考えるのではなく、異なる個性と共に暮らす「生活訓練」や具体的な生活を支える「労働」を通して、地域社会の実際の諸問題の中に身を置きつつ「体で考え」語り合い、生き方の「改善を図る」ところです。(HPより)
http://www.keisenjyuku.com/

一般の教会人から見たら恵泉熟は信仰と労働が一つになっている独特の集まりである。多分自分を含めて多くのキリスト者はここでは生活できないであろうと思う。毎日5時に起きて聖書を学ぶ、時には農作業で3時に起きてやることもあるそうだ。それに雪と寒さの戦い?がある。そして集団生活のような、個が少ないのではないかと思う。後藤敏夫さんは長く牧師をされていて引退されてここに集っている。帰するところは同じだがその過程が違うようなことを書いている。若い時に今は無教会に属している方が学生の頃「帰するところは同じでも集会は結論を先に出すが無教会は色々論議して結論を出す。」そのようなことを言ったことを思い出した。後藤敏夫さんのブログで恵泉熟を知り、牧会者の水谷恵信を知った。そして、この方は長野集会の尾崎兄と学生時代に下宿だったかアパートだったか忘れたが一緒だったそうで、いつだったか長野集会でご夫婦とケアの方のお話しがあることを知ってわざわざ100キロの道のりを長野集会にまで出かけて聞きに行った。夜の集会一回きりだったから水谷恵信さんの話を聞いただけであったが、集会の兄弟たちが学ぶメッセージとそれほど変わらない感じを受けた。最初は高校の先生をされながら牧会されていたそうで、それは諸集会とあまり変わらない。大きな集団の牧会者でありながら話して見れば失礼だがごく普通のおじさんのように見える。カリスマ性をにじませるような感じはどこにも見受けない。しかし、信徒たちには絶大な信頼を得ておられるのだろうと思う。今は霊的な指導者として立っているようである。ここにもご自分をわきまえておられる姿を見受けられる。

諸集会に限らず教会でも牧会者には信徒は右向け右で信頼を寄せている姿をよく見かける。しかし、それは時として人間的な思いの中にある場合が少なくない。是は是、非は非ということは難しい。もし牧会者に従わなければ出ていくしかない。それを違いがわかっていてもそこに留まり、また受け入れていく懐の深さを思わされた。「チャプレンとして迎えました」と言われたがブログを読む限り一介の駆け出しの百姓人である。今度は千葉の方へ移動してそのような働きをなされるようであるがあくまでも恵泉熟の中での話である。「信仰によって」という言葉は、自分のプライドを捨てなければできない。最初、集会で生まれ育っていながらどこか違和感を常に覚えていたので自分と同じ考えをと思っていると共感したが中身が全く違っていた。私のは肉的であり後藤さんのは霊的なのである。お恥ずかしいが何度か読んで気づかされた。あらためて自分が生まれ育った集会、あるいは教会に留まることの大切さを教えられる。そのためには本人は勿論のこと牧会者も謙虚でなければ成り立たないことである。「信仰によって」、主イエス様によってこれが可能になる。神を知ることと神を愛することが一つになる必要を教えられ、それによって信仰によって立つ難しさと大切さを教えられた。「神を愛すること」、「信仰によって立つ」こと、すなわち「謙遜」、目の前にある絶壁のようにそびえ立っている。眺めて終わらないようにチャレンジのチャぐらいはやらないと…。








初速歩

日の入りは一か月前くらいから少しづつ遅くなって、今では少しのびたかなと感じるくらいになっている。日の出は今日あたりが一番遅くこれからだんだん早くなっていくからなんとなく気分がいい。何時も歩いているのは夕方なのでこの時期はチョットTVを観ていたり、他のことをしていて外を見るともう暗くなっているという塩梅で、秋ではないがつるべ落としの言葉がピッタリである。

暗くなりかけていたがずーと歩いていなかったので歩いてみた。足は大丈夫かなと思ったが問題なく歩けた。しかし、労作時狭心症の気があるようで、久しぶりに歩いたら胸が痛むかなと思ったがこちらもそれほどでもなかったがいつもより胸が苦しかった。途中ストレッチをやるのだが脹脛が少し痛かった。歩いてないとてき面である。脳も体も使っていないと衰えるのみ、脳トレ、筋トレに心がけようと思っている。勿論、簡単なものをであるが。今日、TVを観ていたら眼トレなるものがあることを知り、アマゾンで買おうかなぁと思ったがネットで検索したらその方法が載っていたのでプリントアウトしてとりあえずやってみようと思っている。最近、老眼が進んだのか物がぼやけて見えるような気がする。それ以上に信仰のトレ―ニングを怠りなくと思うがどれもこれも遅々として進まずである。それでも初速歩ができて感謝であった。ボチボチと…。


2016年1月6日水曜日

新しい年を迎えて

もう今日は6日、いつも社会人と箱根駅伝を観て、他は何もしないうちに正月は終わってしまうのだが今年はそれも無しであっというまである。今年ものんびりと寝正月と決め込んでいたのだがのんびりもできず高期高齢者となってスローライフを目指していたのだが年末から崩れそうな塩梅である。

年末30日に甥っ子が帰省していたので義妹と一緒に「貰ったカニがあるから鍋をやろう」と始めたが終わったのは朝も明けようとしている4時半、義妹が一番よくしゃべったが割と無口な甥っ子もよくしゃべり私たちはどちらかというと聞き役、二三回あくびをしたがそれほど眠いとは思わずずれ込んで大晦日を迎える。それほどの準備をするわけではないので割とのんびりと夕方近くに家内と義姉は夕食の準備のためにスーパーへ、昨年から食事は一緒で紅白が始まる前に食べ終わるという設定になっている。今年も然りで家内と義妹はそのままTVを私は紅白には興味がないのでひとりパソコンで韓流ドラマのDVDを観て年越しして2時頃床に就いた。韓流ドラマは卒業したはずなのに卒業できなくて今も続いている。DVDも観終え、残るはGyaOの「天地人」を残すのみ、これで完全に卒業の予定である。予定は未定でもあるのでどうなるか「?」がつくが多分大丈夫であろう。

元日は遅い朝食を用意しているうちに息子たちが来る。二日の午後に家の近くの貸衣装屋?で昨年生まれた孫と両方の親と記念写真を撮る予定に、大晦日遅くに来て、嫁と孫は実家に息子は我が家にとのことだった。ところが夜に「今、有賀、こちらの親が泊まっていけというので泊まる」と電話があり、二日には嫁と孫は会うので来るのは息子だけかなと思っていたらみんなで来て、元旦のお雑煮も作りかけ中で朝食はパス、息子たちは孫を置いて近くのスーパーへ買い物、鍋をつついて昼食をとり雑談していたら義妹が義姉たちを呼んでいるのでみんなでお茶をと誘ってくれて二階で雑談、賑やかな一時を過ごす。息子一人ならほっとけばいいのだが嫁もとなると何も用意していないので義妹の好意に感謝した。寝正月ものんびりしていいけれどこうやって賑やかにやるのもいいし正月らしい。来年はみんなで集まって賑やかに行くことに決めた。

三日は公共施設が休みなので義妹の二階でパン裂きを行い。いつもは12時でハイさようならとなるのだが弁当を買ってきて4時頃まで交わる。公共施設を借りて行うのは楽でいいが時間の制約があり、管理や経費に煩わせられるが狭くても自分たちの集会をと個人的には祈っている。自分のところもと思っているが食事するにはいいが少し狭い。これからの課題でもある。人が先か物が先かと問われそうだがその前に信仰が先であろう。肝心の信仰がと「?」をつけたくなる。

暮れから少し聖書の勉強をと小海キリスト教会に水草牧師のブログから「神を愛するための神学講座」なるものをパソコンに入れているので読みながらメモでまとめている。覚える機能が衰えて(元々かな)覚えられないがまとめるということと書くということは始めると面倒だが使っていない頭を使い、書くことのない字を書いているで字を覚えることも出来る。体と同じで使わないと衰えるのみ、それに少しでも抗う思いもある。

ここで最初に目についたのが「神を知ることと、神を愛すること」は別であることをそして今まで神を知ることを求めていたのではと思い知らされた。何もない者が「何かを知る」、「何かを得る」ということは大きな誘惑である。そしてそれは誇りになることを教えられている。神を愛して初めて神を知ることを求めるべきなのに逆のことをやっていることに気づかされている。大きな祝福である。ただどこまで実行できるか否実行できるか今年の課題かもしれない。遠くの神を愛することは簡単だが身近な人を愛することは難しい。どんな答えを得ることができるか…。今年は色々な形で旅たちの年になりそうだ。天国も近くなったし…。