2016年9月28日水曜日

今日は

予報では今日のお天気は雨だった。ところが降りそうな空模様だったが降っていないので畑に行って、キュウリ、ナス、ミニトマト、インゲンの収穫と大根の不織布の取り外しをしてきた。ダイコンの不織布の取り外しが少し遅くなったので葉はお辞儀をしていて、ようやくシャキトのびるようになった。雨とともに生き生きと伸びて生きそう。ネットを被せているキャベツと白菜も順調である。ただ白菜の二つばかりが虫に食われている。ネットを外して丹念に虫を探して取る。これで落ち着けばいいのだが苗の場合買ってきた苗にすでに卵が植えつけられている場合がある。種の時はいいのだが苗の場合はこのようなアクシデントがある。ミニトマト、ナスはまだ行けそうだがキュウリは一本何とか形を成していたが後は数センチくらいのものしかなくこれが最後のようだ。インゲンも残りは小指暗いのが幾つかあったがこれより大きくなるかどちらにしてもキュウリ、インゲンは次回で撤去する。これで完全に秋野菜に移る。今年は葉類はまぁまぁだが実をつける野菜は押しなべて不良である。それでもインゲン、ミニトマトはダメかなと思っていたが後半実をつけてくれた。昨年駄目だったナスは今も実をつけて元気である。意外だったのズッキーニたくさん花を咲かせて実もつけたが途中腐ってしまった。終わる頃に雨が降ってきたので帰ってきたが一区切りつけることができて感謝。

畑へに行ってチョッと汗をかいたので何となく気持ち悪いので温泉に、休み明けなので混んでいるかなと思って行ったら駐車場はほぼ満杯、狭い浴槽、少ないカラン、露天も小さい。心配しながら入って行ったら入っているのは一人だけ、ほとんど一緒に入って人がいるから浴槽は三人だけ、上がるまでに二人が来ただけである。雨の所為もあるのかもしれないが概して入っていない。女性が多いのかもしれない。マッサージ機でマッサージをして帰る時、休憩室で女性の二つのグループが寛ぎ乍ら持ち寄り?の食事をしていた。女性陣が多いのかな?それとシニアの割引があるからお年寄りが多く、老夫婦で来ている人も二三見かける。

昼食後、店からほとんどの本やらファイルを持ってきて、棚にあるファイル類を整理して引っ越し完了。大分すっきりした。場所を取るのでプリンターと古いPCを店に置いてプリントしたいときは向こうでやるようにした。面倒だがそれ程プリントする機会は多くないのでいいかなと、前はプリントするのにPCを移動していたがUSBメモリーを買ってきてそれで簡単にプリントできるようになったからまぁまぁかと思っている。

片付けも一段落して、ちょうど水戸黄門が始まりお茶とコーヒーでくつろぎ、終わってちょっとニュースを観て、汚れた不織布の洗いと湖岸のゴミ拾いを兼ねて砥川の河口口に行く、それほど眼につかなかったがペットボトルにサンダルとチョット大き目のゴミがあってスーーの買物袋に缶・瓶を含めて三つになった。そしてついでに?不織布を洗うがうまく落ちない。一応洗って、庭?のつつじの上にひろげて雨ざらし。ゴミも45ℓのボランティアの袋に入れて明日ゴミの日なので出して一区切りがつき、汗をかいて、雨に当たって、片付けをしてと珍しく忙しい一日であった。これで聖書の勉強が出来る段取りにはなったが…。本を読むのが遅く、集中力も長続きせず。ついPCで無料の韓流ドラマを観てしまう。家内にどこがと聞かれるが私も適切な言葉を見いだせない。春に卒業が今年いっぱいかかりそう。留年にならないように頑張るつもりだが…のクイッション付きで。


2016年9月27日火曜日

久しぶりの速歩

6時も過ぎて暗くなっていたが意を決してランニングシューズを履いて久しぶりに歩いた。調べたら今月歩いたのは今回で二回目全くのサボりである。汗をかくようなことは諏訪の小さな山に登ったり、草刈りを二回したくらいでメタボに全面貢献である。コーヒータイムでお菓子の量は変わらずむしろついという具合に手が口に行く回数が増えてしまう。目方が減るのは至難だが増えるのはいとも簡単である。信仰生活の有様を如実に示している。ここまでくると反省はパス。落語の小噺ではないが「俺は毎日禁煙している」ようなものでその辺は変な意味で達観している。

超久しぶりなのでふくらはぎが痛むかなと思ったがそれ程でもなくホッとしている。ストレッチは苦手なのでラジオ体操で事足れりとしているがこれも5分位なものだが最後は汗ばむような感じになる。ラジオ体操のお陰で前かがみで手が地面につくようになった。手のひらが地につくようになるようにと前かがみの時は力を入れるがそう簡単には達成できない。ジョギンコースは街灯がついている所為か走る人歩く人が男女を問わず結構いる。

暗い時は湖岸に出ると対岸の明かり見渡せる。正面に諏訪の野球場、やっていれば4つの大きな照明が目に入りその左横には汚水処理場の明かり?が見える。そこを見るとあそこでk兄にたのまれてバイトをやったことを思い出させる。さらに左に目をやれば日赤の病院の明かりがびっしりと見える。さらに左に目をやれば上諏訪の温泉街がその上に目を転じれば民家の明かりが霧ヶ峰に行く道に沿ってみえる。右に目を移せば湖岸端の街灯と民家の街灯が目に入りその上に細長く明かりが見える。高速の諏訪湖サービスで細長いのは上下線がずれているからである。その左右を数が少ないが明かりがゆっくりと動くのは車であることがわかる。暗い時は昼よりつぶやくように或いは断片的に祈ったりすることが比較的出来やすい。

激しい運動や労作をして汗をかかないとお腹の周りは変化はないが久しぶりにやってこんな積み重ねが今の自分があるのかなと思っている。こんなことで満足してはいけないのだが今出来ることに感謝して…。

2016年9月26日月曜日

今日この頃

諏訪地方には一歳の誕生を祝って一升餅を担ぐ風習があるらしい。ネットで検索したら茅野市に一升餅本舗なる会社があってそれ用のお餅を作っている。餅に名前を入れてくれたり、色々な作法?がHPに載っていた。主にはゼリー系のお菓子を作っているようではあるが…。考えてみれば一升=一生に通じるのかなと、日本人はこんな感じで縁起を担いで祝うことが多いようである。

それで孫の一歳の誕生記念にと嫁さんのご両親が呼んでくれて孫と一緒に電車で来られた。キリスト者であるということとそれに輪をかけて何もしない者であるから向こうの親と比べると実に素っ気ない。それに嫁さんにおんぶにだっこのような状態だし、キリスト者としての証しはどこにと思ってしまう。それでも深刻にならないのは何故だろうと…。傍観者のようであるが色々なことが自分たちでできる範囲をはるかに超えているから委ねるしかない。

  できる人が
  できる事を
  できる時に

を考えると車で送るくらいならできる。赤ん坊と一緒だと電車での乗り降りは大変だろうからとその旨伝えたら送ってくれるなら喜んでと言われ車で送ることにした。本音は運転は嫌いじゃないし東京の息吹も嗅ぎたいしとの思いがあってのことでもある。

夜に出て夜中に着き、翌日午後に息子たちのところに行き、夕方帰って来て、下の子と夕食を食べて帰ってきた。今回は急に決まって駆け足の東京だったが考えて見ればいつものパターンである。いつかゆっくりと夜の集会にも出たいし、できたら日曜日にも出て、霊の息吹をと思いながら東京を後にして日付が変わって我が家に着き、その日はボケッと一日を過ごしてしまった。

日曜日の昼に出掛ける前に義妹が台所のシンクを交換したので義姉夫婦とともにそれを拝見するために昼食を共にする。一体となって前より大きいのにすっきりして使い心地もよさそうである。彼女も気にいっているみたいだ。シャワールームを作り、今回はシンクと使い勝手をよくしている。我が家も直したいが先立つものが後からでもついてきてくれればいいのだが孤立無援で改装は遥か彼方にの感は拭いない。

店の一角を書斎?代わりに使っているが寒くなると暖房が大変なので元に戻すつもりでいた。東京に出掛けていてPCを早急に見ないといけないものがあったので家の方に持ってきて見ていたらそのまま冬の体制に戻す準備を始めている。家内は可視化の中にいるようになるので少し安心している。

このところ雨が続いて、速歩も湖岸のゴミ拾いも雨に関係ないトレパスしている。今週あたりからと思っていたが今週も雨模様の様子、晴れ間を見つけてと思っているが…。

2016年9月21日水曜日

敬老の日

19日は敬老の日だった。毎日が日曜日の人生を送っているとカレンダーの数字の赤字も黒字もみんな赤字で祝日も祭日もなく、キリスト者であるから日曜日が特別な日くらいである。巷では何々連休なんて言われるが我が家は無関係な世界に生きている。

そんな中で昨年から町内会の敬老会の案内を頂いている。俗に言う後期高齢者になっているからである。ここはどういう訳かお祝いを19日ではなく18日の日曜日になっている。多分去年も敬老の日ではなく日曜日だったと思う。日曜日は行かれないのでその旨を伝えていたら去年もそうだったが前日お祝いの品を届けてくれた。赤飯にお菓子、それに榮太樓の飴が入っていた。町内会費も払っていないのにわざわざ来てくださり、去年はハガキで断ったので今年はないと思っていたから来年もあるのかなと恐縮といささか?が拮抗している。

当日昼前に二階の義妹から義姉夫婦が昼食を一緒にと来るからとの伝言があり、バタバタしているうちに彼等が来て、角上(新潟直送の魚を売っている。美味しいが少し高い)のお寿司と刺身を持って来てくれた。のり巻、いなり、あなごも美味しく、刺身はトロでホントに舌にのせるとトロット融けていくような感じである。回転寿司よりはるかに美味しかった。その後もお茶とお菓子をつまんでのだんらんの一時を過ごす。敬老という言葉はあまり好きではないがこのような気心の知れた人たちと和気あいあいと過ごすのもいいものである。それに皆キリスト者だからは話題も共有できるからこれも嬉しい。わたしを肴にしたがもう手が届く予備軍たちばかりである。その時は倍返しにしてと思っている。

2016年9月20日火曜日

聖書雑感

自分が信仰を持った頃、「福音」はキリスト教(当時キリスト教という言い方さえも批判されていた。キリスト教を信じるのではなくキリストを信じるとの理由で、言葉に拘るほど誰も-我がグループ以外のキリスト者及びノンキリスト者はその区別の意識はない)の専売特許のような言い方をされていた。たとえば難病に効く薬が開発されて「何々病の患者に福音」とか報じられるとそのような用い方を批判していた。しかし、ギリシャ語のエウアンゲリオン「福音」すなわち「良い知らせ」は一般的な出来事でも使われる言葉のようである。「福音」の内容がどのようなものであるかは色々あって当然といえる。

逆に色々なところで「福音」という言葉を用いられたら聖書が語る福音はいかようなものであるかがわかるのではないだろうかと思うことがある。それとキリスト者が用いる「福音」も幅があるように思える(これは日本語のあいまいさから来るものもあるのかなと思っている)。というよりある意味で「福音」理解の多様性?を感じる。それは真に「福音」を理解していないということにもつながるのかなと思うこともある。

キリスト者が「福音」「良い知らせ」という時は「イエス・キリストがわたし(あなた)の罪の身代わりに十字架に架って死んでくださった。そのことを信じるだけで罪が赦され、永遠のいのちを頂くことが出来る」ということがである。勿論、三日目の復活を含めてのことであるが。

しかし、マルコ伝には「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マル1:15)とある。黒崎幸吉の注解では、

註解: 「時」は神の国の到達に至るまでの時期を指す、この時が満ちて次に来るものは神の国、神の支配である。この神の国に入るには二つの条件を要す。その一はヨハネの教えし悔改め、その二は福音を信ずることである。 とある。

ここでは「良い知らせ」は「神の国の到来」ということになる。自分が救われるのも「福音」ですがこの地上に「神の支配」が訪れるというのも「福音」であることを示唆している。福音に二つあるのかと思われるが福音の両側面を語っていると理解した方がよいように思う。

福音が語られる時、多くの場合「神の国」が欠落しているように思う。これは「福音」を正しく伝えていないことにつながるのではと思っている。個人の救いと神の国の到来、スケールが違う。アブラハムから選ばれた者の歴史がある。神に選ばれた民、イスラエル。民族を超え、救われた群れとしての教会。個々に神の国の予表があるように思う。

2016年9月15日木曜日

ゴミ拾い再び

ゴミ拾いも一段落したので開店休業していたが今月の町の広報にボランティアで公共の場の清掃を行う際に使用するゴミ袋を配布していることが載っていたので早速役場に貰いに行って45ℓとスーパーのレジ袋大と二種類あるので45ℓを5枚、レジ袋大を10枚貰って来た。

今日、畑と隠居屋の草刈りを草刈機でやってきたのでそのまま着替えないで作業着の格好でゴミ拾いに行く、といってもいつもズボンは作業着、上はつどいの会のチョッキと帽子の出で立ちであるからいつもと変わらない。漕艇場の周りからとスタート地点の岡谷寄りから始めたが100mもない距離で袋二つがいっぱいになってしまった。相変わらずペットボトルが多い。汚れ具合で新しいか古いかがわかる。それに久しぶりだった所為かスーパーのレジ袋に入ったぶよぶよの袋が二個もありその所為もあった。久しぶりにやるとこういう不届きなゴミが落ちている。そういえば隠居屋をやっていたら隣の畑に食べたゴミかレジ袋にいっぱい入ったのが捨ててあった。家の裏には逆に庭に捨ててあった。周りは畑なのにそれにブドウの木?が鬱蒼となっているのに誰がと思ってしまう。どこにも不埒な奴がいるものだ。木や植物の残骸?が打ち寄せるのはしょうがないが人為的なゴミは何とかならないものか、個々にちょっとした気遣いで解決できるのにと思ってしまう。公共の場は「ゴミ捨て場」の感覚は早く直してほしいものだ。それでも近辺の駐車場はあまりゴミは見かけないのはうれしい。一々見ているわけではないが…。

ゴミ袋に印刷しているのは「まちをキラキラに!」だがゴミの大半は打ち寄せられている細い枯れ木である。葦の様なものとどうも水草のようだ。それらは残しているのでゴミは拾ったどうかわからない感じである。見た目は綺麗になっていないので町の趣旨には合致しないなぁと思いながらゴミを拾っていた。それでもこれからボチボチやります。金目のものは落ちてはいないがキリストの何かが落ちているようで…。

今日のパン、明日の糧より

魂を守る   9/11

 私たちは今、終わりの時の混乱の中に生きています。この中での大きな危険は、魂を失うことです。魂を失うとは、私たちの中心、人生で見極めてゆく真の召命、使命、霊的な課題などが何であるかわからなくなってしまうことです。魂を失うとは、私たちの周りに起こっているあらゆる出来事に気を取られ、それにのめり込んでしまい、挙句の果てにばらばらになり、混乱し、常軌を逸するようになってしまうことです。イエスはその危険を十分知った上で、こう語っておられます。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢現われ、『わたしがそれだ』とか『時が近づいた』とか言うが、ついていってはならない」(ルカ21・8)と。
 不安な時代に生きていると、あらゆる種類の「救い」を約束するにせの預言者がたくさん現れてきます。本当の霊的な自分との触れ合いを失わないで、イエスの忠実な弟子であることが重要です。


踏み留まる   9/12

 社会的、政治的な不安と計り知れないほどの苦しみがあふれる世界の中で、信仰を生きよとしている人は、いわゆる役立たずとあざけられがちです。多くの人が、「愛の神がいるなら、その神にこの混乱を何とかしてもらったらどうだ」と言うでしょう。単純に宗教は時代遅れだという人もいれば、新しいより良い世界を創っていくうえで宗教は邪魔物だと言う人もいます。
 イエスはご自分に従う人々に、彼らもまた自分と同じように、迫害され、逮捕され、拷問を受け、殺されるだろうとたびたび言われました。けれども、イエスは私たちに「心配せず、いかなる時もわたしを信じるように」とも言っておられます。「前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21・14-15)。渡曾田と前に立ちはだかる疑いや冷笑を恐れないようにしましょう。そして、神が私たちに踏み留まる力を与えてくださるということを信じようではありませんか。


愛に怒りをおろす   9/13

 不安になると、私たちは過剰な準備をしがちです。攻撃されたら何と言おう、尋問されたらどう答えよう、告発されたらどう抗弁しようと頭を悩ませます。まさにこの動揺こそが、自信を失わせ、自分の中に力を弱める自意識を作り出すのです。
 イエスは私たちに全く心配しないように、そして必要な言葉と知恵はイエスが私たちに与えてくださることを信じるようにと言われます。大事なことは、しゃべる準備が多少出来ているということなのではなく、イエスの愛にしっかりと錨を下ろし、この世界にあって、私たちが誰であり、何のためにここにいるのか、ということを知っているという安心感を抱いていることです。私たちの心がイエスのみ心と結ばれていれば、話さねばならない時が来たら、何を言うべきかは必ず分かるに違いありません。

2016年9月10日土曜日

祈り

祈りのスケジュールというと可笑しいが曜日ごとに祈りの課題を変えて祈っている。土日は課題無しのフリーにしている。しかし、きちんと守ってやったことはない。特に後半はおろそかになりがちである。祈りの内容は執り成しが主で個人的なことは少ない。と書くと何か偉いように見えるが内容はお粗末そのものである。

聖書の中には神を揺り動かすような祈りを散見する。しかし、よく見ると神との対話のような気もする。
ある時は神の語りかけに身を震わせ、また神に語りかけている。ロトたちのために執り成すアブラハム、
心を注ぎ出すようにして神に語りかけているハンナ。神の語りかけに恐れおののきつつそれを拒むモーセ、幼児のように罪を告白するダビデ、ソロモンは…。その状況状況によって多種多様である。

以前から祈りは「神への語りかけ、交わり」と捉えている。喜びの中に語りかけ、感謝の中に語りかけ、悩みの中に語りかけ、罪に呻吟するときに語りかけ、どのように成すべきか行くべきかと問う時に語りかけ、聴いてくださる方を知っていることは大きな恵みである。しかし、語りかけは貧相であり、交わりも然りである。幼児サムエルには「主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」とある。たとえまれであっても「主のことば」はあった。私には?…と思ってしまう。時には語りかけても神は沈黙されているかのように思える時が多々ある。老眼の度が進み、若い時からの難聴に老いが加わっている現在、この目がこの耳で際機能が落ちているのをみればそう簡単に神(主)の声は聞こえるわけがない。しかし、今日も語りかける…。しかしサムエルのように「主よ。お話しください。しもべは聞いております」とは語りかけない。それは聞き従うに繫がり聞き従えないから何を語られるか怖いからである。

2016年9月5日月曜日

明治のキリスト者

元に3枚のDVDがある。

「石井のおとうさんありがとう」 岡山孤児院ー石井十次(じゅうじ)の生涯ー

「筆子その愛」―天使のピアノー 滝乃川学園物語

「大地の詩」―留岡幸助物語―である。

現代ぷろだくひょん制作

この三人は似たような年代に生まれている。

石井筆子(1861-1944)、

石井十次(1864-1914)、

留岡幸助(1865-1934)


石井筆子は、

肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父・清は幕末から明治維新にかけての志士で、明治政府では福岡県令元老院議官等の要職を歴任し、男爵に叙せられた。筆子の叔父・渡辺昇も同じく幕末から明治維新の志士で坂本龍馬と親交を持ち、薩長同盟の周旋をした功労者である。渡辺汀は弟(父の養子)で滝乃川学園の3代目学園長である。筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもった。そのときの教え子に貞明皇后がいた。また鹿鳴館の舞踏会にも度々参加し、「鹿鳴館の華」と評判だった。さらに静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は後に津田が主宰していた女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となる。筆子は同郷の高級官吏・小鹿島果と結婚するが、生まれた3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は虚弱で出産後ほどなく死亡した。その上、1892年に夫の果が35歳の若さで死去する。その後、娘を石井亮一が主宰する滝乃川学園に預けていた経緯から学園に経済的・精神的な援助を惜しまないようになる。その過程で園長の亮一の人間性に惹かれ、再婚。知的障害者の保護・教育・自立に献身する。筆子は肥前国大村藩士の渡辺清・ゲンの長女として生まれる。父・清は幕末から明治維新にかけての志士で、明治政府では福岡県令元老院議官等の要職を歴任し、男爵に叙せられた。筆子の叔父・渡辺昇も同じく幕末から明治維新の志士で坂本龍馬と親交を持ち、薩長同盟の周旋をした功労者である。渡辺汀は弟(父の養子)で滝乃川学園の3代目学園長である。筆子は東京女学校を卒業後、皇后の命によりヨーロッパに留学。帰国後、筆子は津田梅子と共に華族女学校の教師となり、筆子はフランス語科目の授業を受けもった。そのときの教え子に貞明皇后がいた。また鹿鳴館の舞踏会にも度々参加し、「鹿鳴館の華」と評判だった。さらに静修女学校の校長に就任し、近代女子教育者としても活躍した。静修女学校は後に津田が主宰していた女子英学塾に引き継がれ、現在の津田塾大学となる。筆子は同郷の高級官吏・小鹿島果と結婚するが、生まれた3人の娘のうち2人は知的障害があり、あとの1人は虚弱で出産後ほどなく死亡した。その上、1892年に夫の果が35歳の若さで死去する。その後、娘を石井亮一が主宰する滝乃川学園に預けていた経緯から学園に経済的・精神的な援助を惜しまないようになる。その過程で園長の亮一の人間性に惹かれ、再婚。知的障害者の保護・教育・自立に献身する。(ウェキペデアより


石井十次は、

岡山医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であったが、ある孤児を引き取ったことを経緯に、信仰的覚醒から孤児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして英国キリスト者ジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して[1][2]、生涯を孤児救済に捧げた。岡山孤児院はすでに存在しないが、その流れをくむ石井記念友愛社宮崎県)と石井記念愛染園大阪府)が、各種の福祉活動をおこなっている。(ウェキペデアより)


留岡幸助は、

岡山県高梁市に生まれる。吉田万吉、トメの子の6人兄妹の次男として生まれ、生後まもなく、留岡家の養子となる。留岡家は、米屋を営んでいた。子供同士の喧嘩で武家の子供を怪我させ、商いに支障が出て、養父から厳しい折檻を受け、家出。高梁にある日本基督組合教会キリスト教会に逃げ込み、その伝で福西志計子の元に匿われ、さらに福西により岡山市にいた金森通倫の元に保護され、のち18歳で上代知新牧師より正式な洗礼を受ける。

徴兵検査は不合格、1885年(明治18年)同志社英学校別科神学科邦語神学課程に入学。新島襄の教えを受ける。京都での学生時代、徳富蘆花と交友を結ぶ。彼の小説『黒い眼と茶色い眼』の中に登場する「邦語神学の富岡君」は留岡がモデルだといわれる。1888年(明治21年)卒業後、福知山で教会牧師となる。1891年(明治24年)北海道市来知(いちきしり)の空知集治監教誨師となる。1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけてアメリカに留学。コンコルド感化監獄で実習、その後、エルマイラ感化監獄ではブロックウェーに直接指導を受ける。帰国後、国内でも感化院(家庭学校)の設立のために奔走する。1899年(明治32年)、ようやく資金の目処もつき、巣鴨に土地を購入し、家庭学校を設立。[2]留岡は、また牧会者として霊南坂教会に所属し、「基督教新聞」の編集を行った。1900年(明治33年)、最初の妻であった夏子と死別。のち高梁時代の伝で順正女学校卒業後、巣鴨家庭学校に就職していた寺尾きく子と結婚。1914年(大正3年)、北海道上湧別村字社名淵(かみゆうべつむらあざしゃなぶち)に国有地の払い下げを受けて、家庭学校の分校と農場を開設。1915年(大正4年)11月9日、藍綬褒章を受章[3]1922年(大正11年)には神奈川の茅ヶ崎にも家庭学校の分校を作るがこちらはまもなく関東大震災で建物が倒壊して、1933年(昭和8年)閉校となる。留岡はこの間、北海道と巣鴨を行き来しながら、二つの学校を指導監督する。

1931年(昭和6年)巣鴨の家庭学校本校で、奉教五十年を祝う感謝の会が開かれ、彼は徳富蘇峰と会談中に脳溢血で倒れる。1933年(昭和8年)にきく子夫人が死去。留岡は家庭学校の名誉校長に就任し、現場から退く。二代目の校長に就任したのは、牧野虎次である。1934年(昭和9年)2月5日、旧友・徳富蘆花の住まいに程近い東京・上祖師谷の自宅で死去。(ウェキペデアより)


当時の状況はほとんど知らないが江戸から明治に変わろうとする時代、混沌とした時代であろうことは想像を難くない。生活も厳しく多くの人にとっては忍従の生活ではなかったではなかろうか。自分が生きるのに精一杯の時代に誰からも顧みられない否疎外され疎まれている子らに目を注ぎ生きる希望を与えてくれていたことは今日では考えられないほどの大きい出来事ではなかったであろうか。同じぷろだくしょんから「地の塩 山室軍平」が間もなく上映されるようである。救世軍の山室軍平たちはいのちをかけて廃娼運動の働きをされた。これもまた社会の恥部であり、必要悪のように求められていたことでもある。しかし、一人の女性の人格を思えば許されることではない。彼らは皆キリスト者である。イエス様がサマリヤの女やベテスダの池のほとりに座っている病人に目を注いだあの視点と同じ視点をもって彼らを見ている。私が見失っていた視点である。

luke:19:10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

今月のみことばより

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイの福音書7章13、14節)

 

 日本の文化を代表する茶道を大成した千利休が、秀吉に切腹を命じられてその生涯を終えたのは天正19年(1591)のことであった。しかし、その理由は今もって謎のままである。◆ただ、利休とカトリックとの関係は以前より注目されていた。例えば、濃茶の回し飲みは教会の聖餐式と酷似している。しかし、最近さらに興味深いことを知った。なぜ本名とは全く違う「千利休」となのったのか。それはSt.Luke、つまり聖ルカをを日本風にしたのではないか、ということである。利休が用いた魚のマークも、ギリシャ語の「魚」ἰχθύςは<イエス><キリスト><神の><御子><救い主>を示し、クリスチャンを表すコードネームであったことと無関係とは思われない。◆もし、利休が事実キリシタンであったとすると、茶道の絶大な支持者であった秀吉は、気がついてみれば、キリシタンの宣伝者として利用されていた、ということになり、これが、激怒した本当の理由ではないか、というのもうなずける。◆実際、茶道と聖書には密接な関係がるとすると、謎が解ける部分も多く、木戸、路地、蹲(つくばい)、躙り口(にぎりくち)を経て茶室に至る、という行程は、狭い門から入れ、というキリストの教えを写し取ったかのような印象さえある。◆秀吉のような最高権力者といえども、余分なものを一切捨てなければ、茶室に入れない、とは何という心にくい仕掛けであろう。作法として受け入れていた秀吉がその背後にキリスト教信仰のメッセージが隠されていたのを知ったとしたら、憤激するほかなかったであろう。◆この二人の対決の真の勝利者は誰であったのか。それは秀吉さえも恐れぬ利休であったのではないか、と思えてならない。◆神を恐れる者は、もはや他の何も恐れる必要がない、というのは、利休が到達した心境であったのかもしれない。


追記
 先代の千宗室(現千玄室)も同じようなことを言っていた。

 打つ時はいいのだが字が小さいから読み難いようなことを言われていたので字が大きすぎるし打ちにくいが少しこれでやってみる。

2016年9月1日木曜日

炊き出しの列に並ぶイエス

関根一夫牧師の礼拝のメッセージをユーチューブで聴いている。賛美をメッセージの前後に半分近くもしている。賛美の集会とでも言ってもいいのかもしれない。自作の詩に岩渕真さん作曲が多いみたいだ。最近後半に聖歌からも賛美している。集会では伝道出版社の礼拝讃美歌からしか賛美しないので聞こえてくると懐かしく感じる。


8/28のメッセージの最後の方にタイトルの版画を紹介していた。これは本田哲郎著〔釜ヶ崎と福音」(岩波現代文庫)の表紙に飾ってあるのを引用されたようである。釜ヶ崎の「いこい食堂」というところに複製されたものが飾られているそうだ。この作者はフリッツ・アイヘンバーグさんといってアメリカの方でもう亡くなられた方である。

イエス像は人によって色々であり、その捉え方でその人の信仰の有様がわかるような気がする。私は底辺で生きてきたし、今もその進行形の中にいるから「サマリヤの女」や「ベテスダで38年間患っている男」を尋ねている「仕えるイエス像」に共感する。

低くなられたイエス様、これが最高だと思っていたがさらに低くなって施す側ではなく施される側に立っている姿は逆に神々しい。罪を犯し易く、弱く、臆病な私であるがそこに同じように立っているイエス様がおられる。私たちが忘れていた否気がつかなかったイエス像である。そして、何も持っていないのになんて高慢な私であるかを思い知らされた。常に低い者の側に立つキリスト者でありたい。