2016年10月30日日曜日

あるブログより

「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、
 真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、
 私は体験してきた。」

三笠宮のことば?

真実を語ったイエス様もまた罵られた。そして今も…。

今日のパン、明日の糧より

10/26   憐れみ、共に苦しむ権威

 教会は、しばしば私たちを深く傷つけます。宗教的権威をもった人々が、言葉や態度、命令などで、私たちを傷つけることがよくあります。宗教が生と死の問題にかかわるものであるというまさにその理由のために、宗教的に繊細な感受性を持つ私たちはいとも簡単に傷ついてしまうのです。批判的なちょっとした一言や拒絶の仕種、イライラした態度などが、それを受けた人々の記憶に生涯どれほど残ってしまうものであるかを、牧師や神父はほとんど分かっていません。
 生きる意味や、慰めと励まし、許しと和解、回復と癒し、これらのものを探し求める渇きはあまりにも大きいので、いかなる形であれ教会で権威を持っている人は誰でも、次のことを絶えず思い起こす必要があります。すなわち、宗教的権威の性格を表す最もふさわしい言葉はコンパッション(共に苦しむ心)であると、イエスを常に見つめていましょう。イエスの権威は、コンパッションによって示されました。


10/27   教会を許す

 人々が教会に傷つけられた時に起こる誘惑は、教会を拒絶しようとすることです。けれども教会を拒否するなら、生きておられるキリストの身近に生きることは非常に難しくなります。「イエスは好きだけど、教会は嫌い」と言う時、私たちは教会ばかりかイエスをも失うことになります。私たちに問われているのは、教会を許すことです。この課題が容易なものでないのは教会が公式に私たちに許しを求めることはめったにないからです。私たちの間にあって生きておられるキリストである教会が、私たちに許しを与え続ける一方で、過ちを犯しがちな人間の組織である教会は、私たちの赦しを必要としているのです。
 教会は「あそこにある」といったものではなく、喘ぎもがく弱い人々からなるコミュニテイ-です。私たちはその一部であり、その人々の内に主であり救い主である方に出会っています。教会をこのように考えることが大切です。


10/28   霊的指導者

 キリストのからである教会にはいろいろな顔があります。祈り、礼拝をささげる教会。教えと癒しの言葉を語る教会。私たちを罪から清め、主の食卓へ招き、愛の契約によって一つに結び、宣教の働きへ送り出す教会。私たちが病気にかかった時や死に臨む時、油を塗り、支えてくれる教会。生きる意味を探し求め、絶えず支えを必要とする私たちの密ずれとなってくれる教会。このような顔のどれも、私たちが指導者として仰ぐ人々からは見えて来ないかもしれません。けれども、イエスは私たちの教会の中で、教会を通して、私たちのところへ来られると心から信じて生きているなら、思いもかけないところや場面で、教会のいろいろな顔や働きを目の当たりにすることでしょう。
 心からイエスを愛しているなら、イエスは私たちが一番必要としてるものを与えてくれる人々を送ってくださるでしょう。それが、私たちの霊的な指導者にほかなりません。


10/29   多くの部分からなる一つの体

 教会は一つの体です。パウロは言っています。「一つの霊によって、私たちは、…皆一つの体となるために洗礼を受け」(1コリント12・13)たと。しかし、この一つの体には、多くの部分があります。パウロが言うように、「すべてが一つの部分になってしまったらどこに体というものがあるのでしょう。だから、多くの部分があっても一つの体なのです」(1コリント12・19、20)。誰でもすべてのものになることは出来ません。私たちはしばしば体のある部分に、他の部分のものである役割を果たすよう期待します。けれども、手に見ることを求めたり、目に聞くことを求めるのは無理な話です。
 私たちはともにキリストの体であって、一人ひとりに、全体の中で果たす役割があります(1コリント12・27参照)。私たちこの体の部分、すなわち限界がありながらそれぞれに大切な部分であることに感謝の念を持っていたいものです。

2016年10月27日木曜日

信州は

信州は2千m超えても道がる
佐久穂から麦草峠の途中で
麦草峠を下りて 左は茅野市街










25-26日と軽井沢、佐久穂、奥蓼科、原村と200キロの旅をしてきた。実は26日に原村の八ヶ岳自然文化園の芝生に落ちた落ち葉を拾うボランティアが決まっていたのをうっかり忘れて軽井沢のシニアのバイブルキャンプに申し込んでしまった。去年もボランティアがあることを知っていながら当日他のところに行き諏訪のスーパーでたまたま担当の方とばったり会って「みんなでどうしたんだろうねと話をしていたの、どうしたの?」と聞かれ、事情を説明して苦笑いをされた。今回も同じで数日前にその方が下見に行くからとを私を含めて数人で行って確認したのにである。二度も続けて同じヘマも出来ないし、それで25日だけの参加となった。訂正のメールを打った時点で集会が朝からあるつもりでメールをしたら家内に夜からじゃないと言われ、受付は夕方からであることに気が付くありさまである。せっかちで熟慮をしない性格が年と共にひどくなりもろに出てしまった。

追い打ちをかけるように、T姉のおとうさんが見えていたのにT姉の名字が思い出せない、紹介される前に「あのう?姉妹のおとうさん!名前が…」と言ったらk兄が名前を言ったらサッと彼女の名前の漢字が浮かんできた。そんなことが二三あって、今回は老いの確認に行ったようなものである。話をしていて点が線になり、面にまで至らなかったが幾つかつながったのはよかった。手術をしたとか入院しているとかまた亡くなったことを聞くと改めてシニアのキャンプであることを確認させられた。午後からユックリ行けたことと一晩だけの集いだったがそれなりに良かった。メッセンジャーは聞き慣れたN兄、初めての方でも分かるような分かりやすい話をしてくださった。

朝、6時前に起きてそっと部屋を出て自然文化園に向かう。初めて佐久穂を通るのでナビを入れたが5ルートあると出てもそのまま走っていたら違う方向を示す。方向は知っていたのでそのまま進むが軌道修正するみたいで佐久穂までの道は間違いなかった。その先も然りである。茅野の街の近くからかなと思っていたらずっと手前で左折して農道のような道をごちゃごちゃ走ってやっとわかる道に出た。案内は間違いなくやってくれて園の駐車場で案内終りの音声が出て完了。

軽井沢は天気予報で長野県の街では一番気温が低い、そのような印象を持っていた。何回も通った道だが佐久から緩やかな坂になっているのに初めて気づかされた。18号線に入れば大きな坂が二つばかりあり、千何mかの標識もある。今回あらためて標高の高いことに気づかされた。940m位とか諏訪より180m弱高い、寒いわけである。翌朝それを実感させてくれた。晴れて爽やかな気分で朝日を背に走らせる。6時ちょっと過ぎだから車はまばら、バイバスと合流するあたりから下り坂になる。すると下の方に雲海のように霧が立ち込めている。御代田に入ったら霧の中に、濃霧でライトをつけて走る。佐久の街の中に入る手前からキリは消えていった。佐久穂までまっすぐ下るような感じでバイパスもあったが車がすいていたのでそのまま走る。

佐久穂から茅野に至るメルヘン街道、麦草峠、奥蓼科と向かう。麦草峠の手前に白駒の池という有名な池がある。茅野からここまでは割と広い道であるが佐久穂側はカーブが急で道も気持ちなしか狭い。カーブのところに「大型ダンプ通行している」の看板あり、多分ダンプは反対車線を回り込まないと曲がれないような道である。白樺も綺麗だが紅葉にはまだ早い、朝早かったから行き交う車は一二台のみ、昼だったらと思うともうここを通るのはこれでお終いになりそう。麦草峠の看板を過ぎると間もなく下り坂、急カーブもあるが佐久穂側ほどではない。時間があるのでゆっくりと下りて行く、こちらに来ると行き交う車はちらほらと殆ど県外ナンバーである。ナビに従って集合時間8時45分に十分な8時半に着く、既に来ている人たちもあり、館長のあいさつがあり、現場で責任者の説明があって作業開始、職員の方がエンジンの送風機を肩に勝で作業をしたので「借りられる?」と聞いたたらOK、枯葉が散るから中々難しい。丁度終わった頃油切れでジエンド、熊手でやるより楽しかった。終わってミーテング、昼食はバイキング、コーラ、コーヒーが飲めたからまぁまぁ…。

ほとんどのメンバーがサービスでパターゴルフが出来るのでそちらに、私はグレスデンスキーはと聞いたら10%割引のみ、疲れているのでそのまま帰り、ガラスの里の前のGSでガソリンを入れ、その足で畑に行き玉ねぎの苗を手直しをして帰ってきた。疲れていたので風呂が気持ちよかった。それに早々に床に就く、バタンキュウ。この年になるとどこまでできるかのチャレンジもあって今回はまぁまぁ…。

2016年10月25日火曜日

観念的信仰?

月一で東京からMファミリーが来てくださる。先日も前日は山梨の玉穂にある集会で奉仕されて来られたから少しハードかなと思った。「十年一日」という言葉があるが私たちの集会はまさにその通りで人も内容もあまり変化のない小さな集会である(と言っても地方の常で老齢化は確実に進んでいるが)。それでも今回は桐生集会のM姉のおねいさんとお母さんが伊那から来てくださった。M姉の実家が伊那にあり正月には家族で実家に集まり、日曜日があると礼拝のために岡谷まで来て下さっている。その時にお二人は何度か一緒に来られていたがM兄のメッセージを聞くのは初めてである。分かりやすいと言ってくれて感触はよかったからこれからもとの思いは皆同じ。12月早々にクリスマス集会が行われるので会場であるハ-モ美術館には来たことがあるとのことで期待し祈っている。「十年一日」もこういうかたちで変化があるのかなと思った。

「十年一日」と「日々変化」している集会と熱心なM兄、この落差に正直戸惑う思いもある。信仰は頑張れるものではない。その人の有様が信仰の有様に思える。ということは結構お恥ずかしいの一言である。


以前病院伝道をしていた時、そこは先月話題になった横浜の○○病院のようなところで家族もほとんど来なくて偶にでも来ればいい方そんな感じの病院だった。そこに年配の女性が入院していて訪ねていたがその方は以前に教会に集っていたらしく聖書のことは少しわかっている方だった。聞き方の方が多かったがこの方は「日々新たなり」が口癖だった。今思えばあの方の年代になっているのかなぁと思う。老いても「日々新たなり」は大切である。

と思いつつも育った環境がファンタメンタルな世界で生まれ育っているからかどこか固い、あれはダメこれはダメで育った所為かどこか教条的であり観念的である。型にはまった信仰、楽でいいけど柔軟性がなくいのちがない。良きサマリヤ人のたとえ話のごとく、怪我をされた方のいのちの心配より、自分が汚れないようにと避けて通った祭司やレビ人と同じなのである。自分で嫌だなぁと思いながらもその枠から抜けることができない。

そんな我が信仰にM兄のメッセージは風穴を開けてくださる。聞きながら頷き、そして新しい発見でもするかのように教えられる。聞いた言葉はどんどん忘れていくがエキスだけは残っている。いのちを受けて「日々新たなり」と頑固な観念的信仰が少しづつ崩されていくような気がする。

job:38: 2
知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか
とヨブに語りかける主はどのように語りかけるのか。
john 5: 6
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
このような語りかけがあったら素直に応答したいものである。






2016年10月18日火曜日

今日のパン、明日の糧より

奴隷状態から呼び出される   10/16

 教会は神の民です。「教会」にあたるラテン語‟ecclesia”は、ギリシャ語の‟ek”(~から、~の)と‟kaleo”(呼ぶ)から来ています。奴隷状態から自由へ、罪から救いへ、失望から希望へ、闇から光へ、死を中心にした存在から生に集中した存在へと呼び出された神の民、それが教会です。
 教会について考える時、私たちは共に旅を続ける人々の集団を考えます。あらゆる年齢、人種、社会からなる女、男、子どもたちを私たちの視座におき、それらの人々が永遠の住処に向かって、長く面倒の多い旅をつづけながら、互いに支え合っているであろうことを思い巡らすことが大切です。


教会、しみなくまた汚れたもの   10/17

 教会は聖であると同時に罪深いもの、しみがないと同時に汚れています。教会はキリストの花嫁です。キリストは教会を清めの水で洗い、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない」(エフェソ5・26-27)ものとしてご自身のもとに迎え入れたのです。しかしまた、教会は罪深く戸惑い、苦しみ悶える人々の集まりです。これらの人々は絶えず肉欲と貪欲の力に誘惑され、常に対立と競争とに巻き込まれています。
 教会が一つの体であるという時、私たちは、洗礼と聖餐を通してキリストの似姿とされた傷のない聖なる体のことだけを話しているのではありません。教会のメンバーである人々の傷ついた体のことも心に留めています。このように二つの考え方、言い方の両方を大切にする時に初めて、私たちはイエスに真に従う者の集まりである教会に生きることが出来るようになるでしょう。

2016年10月15日土曜日

諏訪湖一周

先日、塩尻駅付近を散策して3-4キロ歩いたらなんか自信がついて諏訪湖を一周しようと思い立ってその翌日歩いた。

自転車に乗ると膝に力が入り難くなっているのを感じていた。これでは上諏訪あたりまで行くのも気後れしているので昨年あたりから諏訪湖一周はとうに諦めていた。塩尻で少し自信をつけて歩くならそれに一回くらいはとの思いもあってチャレンジすることに、帰りは家の近くのゆたん歩゜(ぽ)」でと思っていた。家内は以前に諏訪湖一周したいと言っていたが急に言われたら断るだろうなと思い話をしたら行くという。我が思惑は消え、共に歩くことに…。諏訪湖は一周16キロ、4キロごとに看板があって、起点は釜口水門、そこから右周りで行くと次が諏訪市のガラスの里、石彫公園で花火大会はこの前の行われる。そこからさらに4キロは下諏訪に入って一つ浜公園になる。さらに4キロで釜口水門となる。

反時計回りでまず3キロあまりの釜口水門を目指す。釜口水門は6つ水門があり常時一つの水門が開いていて水を流している。雨が降って水量が上がると二つ開くらしい。それと脇に魚が遡上できる水路があり反対側にはパナマ運河のように水門があってそこに水を増やしたり減らしたりして船が川と湖を行き来できるようになっている。それを見ながらその脇の公園に水門建設に使用したおもちゃのような機関車が展示されており、そのすぐそばには「琵琶湖周航の歌」の作詞者、小口太郎の銅像が建っている。ボタンを押すとメロディが聴ける。

それらを眺めながら先に行こうとしたら家内が大福を買いたいと言い出す。水門から200m下ったところに降旗餅店なるお店がある。ここの大福は本物のもち米で作っているからあんこを含めておいしく、人気があるから午前中で売り切れてしまう。本物だから時間が経つと固くなるからそれに合わせているのかもしれない。小さい店だが諏訪地区では名前が知られているようだ。この先長いから食べたいけど余分に歩くのは嫌だと言ったら私が買って来ると言ってさっさと買いに行き、私はラジオ体操をしながら体をほぐす。

また一緒に歩きだすが道路がすぐ脇にあるので車の音がうるさい。ここは我が家の近くの岸辺から目を右に移すと夜には車のライトが流れるように見えるところでもある。逆の方向から対岸を見るとまた違った風情があって面白い。次の目標だったガラスの里に着く、ここは美術館にレストランがあり、ガラスの工芸品やお土産を売っている。工房もあって体験工房もできる。ここはトイレを借りて少し先のしなびた?レストランでランチをコーヒー、アイスクリーム付きでアイスは家内に、コーヒーはもう一杯ほしいほど美味しかった。少しくつろいだ後、また歩き出す。

少し行くと汚水処理センターがあり、引っ越したばかりにk兄にバイトをさせてもらった。その隣が諏訪市の野球場、ここで高校野球の予選大会が行われる。さらにその隣はすわっこランドといって温水プールやスポーツジムがあるようだ。さらに進んでいくと原田泰治の作品が展示してある原田泰司美術館がある。ガラスの里からここまでは殆ど民家がなく一番殺風景なところである。その脇には諏訪湖に流れる川で一番大きい上川があって、そこを渡るとヨットハーバーや日赤があり、マンションや旅館もチラホラと眼にして街に入った感じを受ける。

そして石彫公園に、ここは諏訪湖で唯一の岸辺が広く名前のごとく石の彫刻物が展示している。その前後は上諏訪の温泉街紅屋をはじめ高層の建物が並ぶ、さらに進んで温泉街が切れそうなところに間欠センターがあって、日に何回か温泉が高く噴き上げていて観光の名所にもなっている。その脇に足湯があって私たちが行った時は一人足湯に浸かって本を読んでいたが出る頃は大勢入っていた。この頃にはふくらはぎが少し痛くなってきたので足湯で少しほぐれることができた。

いよいよラストスパート残り4キロを目指して歩く、間もなく下諏訪に入り、山の方に目をやると大きな建物にNICHIAのマークが目に入ってきた。もしやと帰ってからネットで検索したらあの日亜だった。エプソンが高木事業所を閉鎖した建物に諏訪技術センターになるらしい。現在諏訪技術センターは以前住んでいたところから数分のところにある。幾つかの工場があるところである。あそこにかつて同じ集会に集ったことのあるk兄がいる。知財部長まで知っているが取締役になって更にいらくなっているのではないだろうか。徳島と東京、さらに信州と離れ、立場は違って雲の上の人になってしまったがこれで縁も切れたかと思っていたら会うことはないであろうがまた身近に感じる。

後は速歩のコース、無事家に着く、家内はふくらはぎと足が痛いと言っていたが私はどこも痛くなかった。携帯の万歩計を見ると24994歩の18キロとなっていた。時間はちょうど5時間。この後温泉に行きゆっくり休むことができた。家内は反対方向からもう一度行きたいと言っていたが諏訪湖一周はジエンド。家内は誰かとしゃべりながら歩きたいと言うが私は歩くのが目的なら一人でもいいと思っているからここでも夫婦の一致は無し、でも楽しい諏訪湖一周だった。

2016年10月14日金曜日

塩尻駅裏散策

義姉が9月13日に白内障の手術をした。その経過を見る為に翌日、四日後、一週間後、二週間後と経過を見て、経過はいいが結果としてそれほどよく見える訳ではないらしい。次は一ヶ月後にチェックして最終的な結果がわかる。そしてもう片方の目を手術するか否かを決めるそうだ。術後はよく見えるようになったようなことをよく耳にしていたのでちょっと意外。ただ、目の病気を持っている人はそれほど効果はないかもしれないと言われていたからある程度は覚悟していたが本人が少し辛いかなと…。

医院は塩尻駅の前にあり、検査を待つ間時間があったので近くを散策することにした。駅前は勿論市役所や図書館辺りは散策しているので今回は駅裏をx少し歩いてみた。塩尻駅は岡谷、松本、木曽と三方向の分岐点になっている。裏から見るとよくわかった。その線路の脇に昭和電工の大きな看板があり、線路の脇にあるのを見て昔からの工場のようである。少し歩くと民家の間に石碑が立っていて、三浦敏正顕彰碑なるものがあり、この方が昭和電工の粉塵公害と戦った記念碑らしい。昔からそして貨車が出入りする程の大きい工場だから、ここも基幹産業の常で住民の犠牲の上にあったのかとひっそりと建っている石碑を見て思った。

2016年10月12日水曜日

今日のパン、明日の糧より

イエス、私たちの食べ物、飲み物   10/4

 イエスは神のみ言葉です。天から下り、聖霊の力によって処女マリアから生まれ、一人の人間となられました。これは具体的なある場所、ある時に起こったことでした。けれども私たちが聖餐を祝うごとに、イエスは天より下り、パンとぶどう酒をとり、聖霊の力によって、私たちの食べ物、飲み物となってくださいます。実に、聖餐を通して、どのような時でも、神が人となられたという出来事は起こり続けているのです。
 時に私たちは「昔生まれてイエスや弟子たちと一緒だったらよかったのに」と思うかもしれません。けれども実は、イエスはご自分と同じ時期に生きていた友よりも、さらに私たちの近くにいてくださいます。今日イエスは私たちの日ごとのパンになられたのですから。


魂の同伴者   10/5

 エマオの弟子たちの家でパンを割かれたときに、二人の弟子たちはそれがイエスだと分かりました。その時、イエスの「姿は見えなく」(ルカ25・31)なりました。イエスだと分かることと、イエスの姿が見えなくなるというこの二つのことは実は同じ一つの出来事です。なぜでしょうか。それはキリストである彼らの主イエスが、自分たちの中に生きておられること、そしてそれゆえに自分たちがキリストを運ぶ者となったのだということが、弟子たちに分かったからです。つまり、イエスはもはや、彼らが話しかけたり、助言を得たりする見知らぬ人や客や友人として、テーブルの向こうに座っているのではありません。イエスはこの弟子たちと一つになられたのです。
 イエスはご自身の愛の霊を二人に与えられました。彼らの旅の道連れであられたイエスは、今や、彼らの魂の同伴者となられました。二人は生きています。けれども、生きているのは彼らではなく、ふたりのうちにあっていきておられるきりすとなのです(ガラテヤ2・20)。


私たちの内にあって生きておられるイエス   10/6

 聖餐の食卓を囲み、「これはキリストの体、キリストの血」と言って一つのパンから食べ、一つの坂月から飲む時、私たちは今ここにおいて生きているキリストとなります。
 イエスを信じるとは、神のみ子イエスが昔生きておられ、偉大な奇跡を行い、素晴らしい教えを説き、私たちのために十字架の上で死なれ、墓から復活されたということを私たちが信ずべきこととして承諾するということではありません。イエスを信じるとは何よりもまず、イエスが私たちの内に生きておられ、私たちの内にあって、私たちを通して神から受けた使命を成し遂げようとしておられるという真理に、あますところなく自分自身をあけ渡すことです。私たちの内にキリストが生きておられるということを、このように霊の深みにおいて知るならば、イエスの受肉、死、復活という神秘が歴史の中で実際に起こったのだということを心の底から信じ、言葉で言い表すことができるようになるでしょう。歴史を生きられたキリストを私たちに開き示されるのは、実に私たちの内に生きるキリストなのですから。


私たちの間に生きておられるイエス   10/7

 聖餐は、イエスが私たちにとって一番身近な方となって共にいてくださる場です。というのも、イエスが私たちの「内」にキリストとなって生きておられるばかりか、キリストとして私たちの「間にも」生きておられるからです。エマオで、パンを割いた時にイエスであると分かった弟子たちが、互いの間に新しい親しみを見出して、共に友人たちのところへ戻って行く勇気を得たように、イエスのからだと血を頂いた私たちも、お互いの間にあったらしい一致が生まれたことに気づくでしょう。キリストが私たちの内に生きておられることが分かると、キリストは私たちの間にも生きておられることが分かるようになります。そして同じキリストがこの世界に親しく現存しておられることを証しするものとして、私たちを一つの体にしてくださるということも分かるようになるでしょう。

2016年10月11日火曜日

聖書雑感

通読もヨブ記を読み終えた。注解付き新改訳聖書の諸論には「本書は、『正しい人がなぜ苦しまなければならないのか』という命題をテーマにした書物である。」とあった。駆け足気味にモーセ五書、歴史書、そして諸書と読んでいくと、そこに旧約の流れを見る思いがする。そして以前と違った観点に立っていることを感じる。

聖書を読み始めて最近まではバビロン捕囚から帰還した民やエズラ、ネヘミヤの姿に感心したが今は何故、混血の子や異邦人の妻を離縁しなければならなかったのかと疑問に思う。勿論異教の影響を懸念してのことであろうことはよくわかる。モーセ五書、歴史書と見て行くと異邦人による影響が大きくなっているようにも見える。特にソロモンを始めそれ以降のイスラエルの民を見るとそれがよくわかる。異邦人というよりイスラエル民が変化しているのかもしれない。マタイの福音書のイエス様の系図に五人の女性が載っている。最初のタマルはどのような人か分からないが夫エルの母親はカナン人であり、ラハブ、ルツは明らかに異邦人である。律法や血統に拘っている彼らと好対照だ。


イエス様と敵対していた律法学者はこの流れの中にあるようなことを聞いたことがある。文書で残されたものは人を束縛していく様を見るが律法がいい例だ。ユダヤ人のトーラーは煩雑であるようなことを聞いている。これもその延長線上にあるのであろう。イエス様は律法の中で、たいせつな戒めはどれですかとの問いに、

matt 22:37-40

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」


と答えている。
律法はこの二つの戒めに集約さていると教えている。文書化されたものは後には人を束縛するものになってしまうことは歴史が教えてくれている。

ヨブ記もまた同じように感じる。ヨブのつぶやきは現代人の多くがつぶやいていることばではないだろうか。三人の友人の言葉も熱心で忠実なキリスト者が叫んでいる言葉ではないだろうか。熱心でない私もよく叫び、自分の叫びに納得している。自分が三人の友人とダブっていることを教えられ、恥いるばかりである。ここでは労りと愛の言葉が必要なのであろう。

rom:12:15
 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣
 きなさい。

とパウロは語っている。

今日のパン、明日の糧より

ご自身を与えられたイエス   10/1

 友人を食事に招待する時、私たちは体に必要な食べ物を供するだけではありません。友情、交わり、楽しいおしゃべり、和やかで親しい関わりを供します。「ご自由にどうぞ。もっと召し上がれ、遠慮なさらないでもう一杯いかが」と言う時、私たちは客に食べ物と飲物を進めるだけではなく、私たち自身をも差し出しています。霊的な絆は深められ、私たちは互いの食べ物、飲み物となるのです。
 このことが、最も完成した形でなされるのが、聖餐式で、イエスがご自身を私たちの食べ物、飲み物として与えてくださる時です。ご自身の体と血を私たちに与えてくださることで、イエスは、想像を超えるほどの親しみに溢れる交わりを、私たちに提供しておられるのです。それは、神の交わりです。


最も人間的で最も神的な仕種   10/2

 エマオへの途上でイエスが一緒に歩かれた二人の弟子たちは、イエスがパンを割かれた時イエスであることが分かりました。パンを割くということ以上に、一般的で日常的な仕種が何かあるでしょうか。それは、あらゆる人間の仕種の中で、最も人間的なものでしょう。それはもてなしの仕種であり、友情、思いやり、一緒にいたいという願いの仕種です。パンを一つ取って、祝福し、割いて食卓を囲んでいる人々に与えることは、一致、交わり、平和を表します。イエスがそうなさる時、イエスは最も日常的でありながら、最も非日常的なことをなさっておられます。それは最も人間らしい仕種であり、最も神らしいなさり方でもあります。
 私たちの間にキリストがおられるのはどのようにして分かるでしょう。それは、この最も日常的で、最も人間的な仕種によります。それは大いなる神秘です。
 神が一番身近に感じられる時は、私たが最も人間らしい時といえましょう。


無防備と信頼の場所   10/3

 共に食卓を囲み、一つのパンから食べ、一つの杯から飲む時、私たちはお互いに一晩無防備な状態にあるといえるでしょう。背中に猟銃jを背負ったり、あるいは腰に拳銃をぶら下げていては、仲良く一緒に食事をすることはできません。パンを友に割く時、私たちは武器を戸口におき―-物質的な武器であろうと心理的な武器であろうと、傷つくことを恐れずに、互いに信じあう場に入ってゆきます。
 聖餐の美しさとは、まさに無防備のままの神が無防備な人々に、一つ所に集まり心を許してその場で仲良く食事をするように招いてくださる、ということです。パンを割いて互いに与える時、恐れは消え、神は身近な親しいものとなります。

2016年10月6日木曜日

今月のみことばより

「しかし、主は『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(コリント人への手紙第二 12章9節)

 この世に生きる限り、苦難と無縁の人はいない。私たちは何とか苦難から逃れたいがために、宗教に救いを求め、将来の安心を買おうと、健康維持に励み、保険や資産運用に期待する。一方、クリスチャンはどうだろうか。キリストを信じたら、健康と繁栄が保証されるのだろうか。驚いたことにそうした教えを売り物にする教会には人が溢れている。神は、私たちが健康で経済的に豊かな生活を望んておられる、と臆面もなく主張する。
 しかし、もしそうだとすると、キリストご自身が貧しさの極みを経験されたことを何と説明するのだろう。また迫害に遭ってきた何百、何千というクリスチャンの存在をどう説明したらよいのだろう。
 
 ジョニー・エレクソン・タダは、17歳のとき、浅瀬とっしらずに海に飛び込み、首から下の自由を失った。クリスチャンであった彼女は、奇跡を祈ったが、今日まで癒されることはなく、慢性的な痛みと一切の身の回りを人に頼らなければならない不自由の中に今もいる。
 ところが、何もできないように見える彼女を通して、数えきれないほどの人々が神に望みを見いだした。つまり、いつかは衰えてなくなる一時的な健康やいのちを頼りとする生き方ではなく、たとえそれがなくなっても失われない確かな希望がジョニーにあることが人々にわかったからである。
 事故から50年が経ったが、彼女の働きは広がる一方である。著書35冊を世に出し、また世界中の何百万という、障がいをもった人々とその家族に希望の光をともしているばかりか、アメリカでは障がい者のための法律の改正にも多大な貢献をした。
 苦難に遭わないことを誰でも望む、しかし、苦難に遭っても、神に望みをおいて絶望しない、というのは、信仰がなければできることではない。「苦難という牧羊犬に追いかけられて、私は神のもとに連れてこられた」とジョニーは言う。キリストにあって苦難とともに歩む、というのは、神の特別な召しがある証拠なのかもしれない。「苦難の神学」とは今秋から米国ダラス神学校で始まるジョニー担当の口座名である。

            10月長野集会月報より

2016年10月2日日曜日

キリスト者であるということ

「釜ヶ崎と福音」
副題「神は貧しく小さくされた者と共に」
本田哲郎著 岩波現代文庫

この本の表紙に「炊き出しの列に並ぶイエス」の木版画が使用されているというので買って読んでいる。(新版になったので木版画は序文に載っていた)

著者は釜ヶ崎で働いているカトリックの神父である。このような働きはカトリックにはかなわない。釜ヶ崎という特異?な地域で働いていると一般の人とは違う視点があるように思える。釜ヶ崎は東の山谷、西の釜ヶ崎と言われたところであり、付け加えれば横浜の寿町も入るか。昔はドヤ街と言われていたが今は何と言っているのだろう。山谷はもうこの呼び方はしていないようだ。

その山谷の一角に上総屋という飲み屋さんがあって、TVの修理をしたくて転職して初めて修理に出掛けたお店だった。TVのイロハは分かっても修理の実務が皆無だったので恐る恐る伺ったのを昨日のように思い出す。勿論、わからなくて言い訳した言葉は忘れてしまったがどやされるかと覚悟したら店の人もお客さんも労をねぎらってくれてホッとしたことを今も鮮明にお思い出す。翌日には修理は出来たが。

その時、山谷というある種の恐れを持っていたが仕事を終えてさっぱりした格好を見、交わす言葉もやさしく、自分よりもずっとこざっぱりしているじゃんと思ったことが今も印象に残っている。裏通りにまわれば怖さがあるがこのことで山谷の印象は変わった。それからしばしば修理に行くようになったこともあり、お客さんとも修理をしながら言葉を交わすようにもなった。

このすぐ近くに鐘紡が自社の遊休地を自動車学校にして、その一期生として運転の教習を受けた。隅田川を渡ると鐘ヶ淵なる地名があるがカネボウはここの地名に由来しているらしい。路上教習の何回目かの時から若い先生がリクライニングにして寝て「いつものコース走って」と言われ、間違って山谷の道路に出てしまったことがあった。広い道路だが彼が気がついて「早くでろ」顔色を変えて言われて勝手知ったる我が家ではないが事情を説明したら安堵した顔をしたのを思い出す。はるか昔のことだが懐かしい。

今はどうなっているかその後はホームレスなる言葉が生まれ、あの頃でも路上にたむろしていた人はいたが今は山谷と言ってもまだ生活の厳しいテントをネグラとしている人たちもいる。ある意味で施しを受ける立場かもしれない。「炊き出しの列に並ぶイエス」はまさに彼らと同じところに立っている。彼らにとっては共感するものがあるだろう。

細かいことは忘れたが戦前の話である。裕福な家で育った若者(今でいう大学生くらいか)たちが炭鉱夫たちの苦労を知ろうと現場で体験労働をやった。しかし、そこで働いている鉱夫が彼らにこのように言った。「わしらは家に帰っても貧しい生活が待っているだけだがあなたがたは家に帰ればお坊ちゃまとして女中が世話を焼いてくれる。わしらのような生活ができなければわしらの苦労は分からない。だから家に帰りなさい。」と言われて彼らは帰っていった。そんな話だった。善意にあふれている若者でも真にその人たちを理解しようとするなら彼らと同じ状況の中にいなければわからないことである。単なる善意とかボランティアは相手を傷つける。釜ヶ崎とはそういうことが顕著に表れるところなのであろう。著者も最初は戸惑い、そこに身を置けるまでに何年かかかったようである。高尚な世界とは縁遠いけどこのような世界は隣合わせのような感じ受けるからどこか身近に思える。

著者は聖書を旧約は新共同訳、新約は私訳を引用している。引用されている聖書の箇所はそれほど多くはないが新改訳は勿論新共同訳とだいぶ趣が違う。例えば、マタイ福音書5章3節が引用されているので、私訳、塚本虎二訳(岩波文庫)、新共同訳、新改訳(3版)の順に並べてみる。

「心底貧しくされている人たちは、神からの力があ
 る。天の国はその人たちのものである。」

「ああ幸いだ、神に寄りすがる〝貧しい人たち、〟
 天の国はその人たちのものとなるのだから。

「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人
 たちのものである。」

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たち
 のものだから。」

塚本訳とニュアンスが似ているかなと、著者は一般受けさせるために聖書本来の意図を伝えてないと今の聖書の訳を批判していた。何となくわかるような気がする。来年秋に新改訳の新版が出るそうだ。全面改定と謳っているがどこまで期待に応えてくれるのか期待半分、後の半分はがっかりしないようにと…。





2016年10月1日土曜日

今日のパン、明日の糧より

10/1   ご自身を与えられたイエス

 友人を食事に招待する時、私たちは体に必要な食べ物を供するだけではありません。友情、交わり、楽しいおしゃべり、和やかで親しい関わりを供します。「ご自由にどうぞ。もっと召し上がれ、遠慮なさらないでもう一杯いかが」と言う時、私たちは客に食べ物と飲物をすすめるだけではなく、私たち自身をも差し出しています。霊的な絆は深められ、私たちは互いの食べ物、飲み物となるのです。

 このことが、最も完成した形でなされるが、聖餐式で、イエスがご自身を私たちの食べ物、飲み物として与えてくださる時です。ご自身の体と血を私たちに与えてくだ去ることで、イエスは、創造を超えるほどの親しみに溢れる交わりを、私たちに提供しておられるのです。それは、神の交わりです。


追記
9/24-9/30はサクラメントとしての洗礼と聖餐、そして交わりが書かれている。頷けるところもあればそうでもないところもある。そこはカトリックの理解はこうなのかという理解をしている。

今日から10月

台風の影響かこのところ愚図ついた天気が続いている。9月の初めは暑い日が続いて汗ばむくらいだったが今日この頃は長袖のシャツを着ていてもその上にもう一枚着たいくらいの気候になって、9月の初めと終わりではこうも違うものかと驚いている。いつものことなのだろうがそれでも毎年陽気が少しづつ違うのを今年あらためて感じた。多分畑をやって野菜の育ち具合を見ているせいかもしれない。私たちも同じような繰り返しの中で微妙に違う毎日があるのと同じなのかもしれない。

最近、自然の営みは自然ではないことを教えられる。上記のような出来事だけでなく、あらゆる変化の中でそれを受けとめておられる方がおられることを実感するのである。実は自然は自然ではないのである。そこには美しいこときれいなことだけでなく、汚く、醜いことを含めてである。私たちは受け入れるキャパシティが人によって違うが、でも似たり寄ったりであろう。すべてを受け入れるということはない。しかし、神は、創られたすべてを「良し」として受け入れたようにではなく限定的ではあるがある意味で受け入られていると信じている。現首相に申し訳ないが「美しいニッポン」と叫んでも内実は…、そして世界を見渡せば飢饉や殺戮が繰り返されていてもである。

isa:63: 9
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。

とイザヤは神がどのような方かと語っている。これは神がイスラエルの民に対する思いを吐露しているが新約の時代になって、これをすべての民と解釈してもいいのではないだろうか。地上がパラダイスであるなら神はそれほど苦労はされないであろう。ましてやイエス様が来られる必要もない。

弟が結婚する時、嫁さんの実家に挨拶に行った。しかし、私には世間の要領がわからず結局兄が来なければならなくなった。これを思い出して、人では解決できない問題が地上にあるからイエス様が来られた。私では役に立たないように人にでは解決できないのである。

キリスト者でもパリサイ人や律法学者のような視点でしか見ることができず「上から目線」になってしまう。イザヤが語ったようにイエス様はこのような歩み方しかできないのである。罪を犯すことができないように「上から目線」なんてできないのである。だから自分の努力ではできない「悔い改め」ができる。いつも我が傍らにおられるイエス様を…。