2017年2月21日火曜日

ロシアより愛をこめて?


プーチン大統領が訪日された時にどういう訳かロシアよりたくさんのアクセスがあった。16-17日にも前回よりはるかに多いアクセスがあってどういうものかわからない。日本語が分かるわけではないだろうし中に入ってきても大した内容のものはない。閲覧者のところを見ると日本以外にアメリカを筆頭にヨーロッパや東欧のいくつかの国からある。読んでいるのかたまたまアクセスしたのか分からない。アクセスがそんなにないから数が多ければうれしいが、しかし、変なものでもなんだなぁと思っている。

祝福に満ちて


以前にも書いたが東京から定期的にMファミリーが来てくださる。一月と八月は忙しいので来られないが他の月は欠かさず来てくださり、すでに今年一杯の予定も入れて下さった。M兄は一月八月だけでなく他の月も忙しく集会の責任者の一人でありながら日曜日に集会にいない月もあるそうだ。既に召されたO兄も伝道者として忙しく各地で奉仕されて、お蔭でご自分の集会の礼拝に集うのはまれであったと聞いていた。ある時集会の兄弟に「O兄、うちの集会でも招きましょうか」と言われたと笑いながら話してくださったことを思い出す。M兄も集会の週報を見ると最低二回は他の集会の奉仕に出掛けている。その一つは我が小さき群れのために労してくださっているのである。

12日に学生の姉妹二人を伴って来てくださった。スライドを使って世界の動きからある映画から神について私たちについて語ってくださった。そこで感じたのはお話しが難しいとか分かりやすかったという観点で見るべきものでなく御霊が働かれたか否かであることをあらためて教えられた。その判断はどのようにと問われると答えに窮するが、しかし、然りと言うほかない。

来られる前日に今集会を休んでおられる姉妹からメールをいただいた。「M兄はいつ来られるのですか」と他のこともいくつか書かれていたのでそのついでに書かれたのかなと思いながら「明日来られます。お顔を拝見できたらうれしいです」と返事を書いたが当日午前中には来られなかったのでやっぱりかと諦めいた。そうしたら午後の集会にご主人と来られて驚き早計に結論を出した自分を恥じた。しかし、その後いただいたメールに「気後れして行くつもりはなかったが主人がいつ見えるの今日なら行こうよ」と背中を押されて来たことを書いてくださった。ご主人はキリスト者ではないがクリスマスなどに何度か来られている。「牛に引かれて善光寺参り」ではないがこういう形もあるのかと主に感謝する。

午前の集りには二人の姉妹のご主人が来られてメッセージを聞いてくださった。一人のご主人はクリスマスには何度か来られたがこのような集まりには初めてだったと思う。集会に集うつもりはないが話は分かると言っているそうで嬉しい。このままスムーズにつながるとは思わないがこのことを通して励ましとチャレンジを与えられたような気がする。祝福を受けたければ低くならなければならない。高ぶっていたら祝福はすり抜けて行くような気がする。そして信仰とはと問いかけてくる。自分の祈りは祈りと言うより自分の願望を神の前に語っているに過ぎないのではないかと、信じること物事がスムースに行くことは悪いことではないが本質的なものではない。主の栄光をと思いながらももし身に火の粉がと思うと尻込みをしてしまう信仰なのである。

唯一の集会は十時半から始まって十二時に終わるアッという間の集会だがこの時は午後いっぱいの集会でそれだけでもどこか満たされる。マルタのようにじっと傍でお話を聞いていても私を始めすぐ忘れる年寄りの集団であり(O兄ファミリ申し訳ない)、「寒いかな?雪は?」とマルタ的発想の群れでもあるから(他の兄姉は反論しそう)目に見えるもので右往左往している。しかし、彼らが帰った後は形は色々違っていても祝福を受けたことを実感させてくれる。ペテロの告白を思い出す。
luke: 5: 8
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
感謝の前に「主よ不信仰の私をお許しください」と告白せざるを得ない。

こんな集会なのに優先して来てくださり、遠くて小さな群れなので恐縮と感謝が入り交ざった複雑な心境であることも事実である。このような小さな群れであるが彼らを通して主の憐れみと祝福された群れでもあることを教えられる。そして報いは主から直接と…。

2017年2月15日水曜日

韓流歴史ドラマ


まだ韓流ドラマから卒業できていない。韓国のドラマはどこか稚拙な部分がある。万歩計を貰って万歩計がアップになった時の数字とそれからたくさん歩いているはずなのに返す時にアップされた万歩計の数字が同じであるとか画面のバックが前の画面と違っていたり、雪が積もっていたのに次の画面では雪が少ししかなかったり、農民なのにぼろではなくきれいな着物を着ていたりとかである。また話をしていて画面が変わると同じ場所なのに吐く息が白く見えるようなこともある。あの感覚がわからない。それほど気にはならないが…。それに善玉と悪玉がはっきりしていて単純であることも単純で観るのに楽であるということもある。しかし観ているのがそうなのかな?

現代物より歴史物が多い。最近何気なくアクセスした「チョン・ドジュン」というドラマの本人は朝鮮王朝誕生に深くかかわった人物であることを知った。王朝が完成しようとする直前に殺されるという悲運に見舞われ、殺した本人は三代目の王太宗となる。同時期にアップされた「チュモン」は高句麗の初代の王の名前であることも知った。その後にアップされた「大王世宗」、「根の深い木」は四代目の王「世宗」の物語でハングルを作ったその経緯がドラマである。同じ出来事であるが「大王世宗」は全く殺戮はなく、ある意味で神経戦のような様相を呈し、もう一つは殺戮に殺戮を繰り返している。完成する時に多くの血が流された。日本であったら「いろは」と同じように庶民にも分かりやすい言葉なのに多くの反対があったようである。それも命をかけてまでもの戦いが…。

その前に観た「トンイ」は奴婢でありながらその息子は王となり、そのひ孫は名君と言われた「正祖」ドラマでは「イ・サン」、それと王ではないが「ホジュン~伝説の心医~」は朝鮮の医学、医術などをまとめた「東医宝鑑」なるものを編纂された。

「チュモン」を通して「高句麗」はキリスト時代と同じころであり、昔の満州あたりであることを知った。ドラマは朝鮮李王朝時代が多い。ハングルの誕生の経緯を知って、日本のカタカナ平仮名はどういう経緯で誕生したのだろうかはたまたそのために争いがあったのだろうかと思うが調べるほどの時間と能力は無し。「イサン」には宮廷の記録として「絵」を描く部署があり、他のドラマで庶民に無料で診てくれる「平民署」(ヘミンソ)なるものがあることをも知った。それと現代版では聖書のことばなどが出てくる。「カインとアベル」の題名のドラマもあった。聖書のことばは日本では説明しないといけないが韓国ではそのままわかるのだなぁと思わされた。説明苦手の私としては羨ましい。色々知ったが韓国通には程遠いしそれこそそろそろ卒業しないとと思っている。ほんとに!だから書いたのだが…。

狭き門


アンドロ・ジイド「狭き門」という本は知っていたが読んだことはなかった。図書館に行った時にこの本を思い出し光文社古典シリーズの中にあったので借りてきて読んでいる。「狭き門」ジット、中条省平・中条志穂訳となっている。「狭き門」の題名は聖書の「狭い門から入りなさい。…」(マタイ7:13)から取っているようである。

「狭き門」とあるから禁欲的な何か厳しいものがあるのかなと恐る恐る読み始めたら従姉との初恋物語のようなものであった。(これだけでは失礼かな)。解説などを読むと自伝的なもののようであり、書き出しもそのような事が伺える。ジットは同性愛者でもあるが結婚もしており、愛人との間に子供もいる。「緋文字」を読んだ時のある種の怒り、葛藤を覚えたがここにはなく、主人公のジェロームの初恋物語を読んでいくような感じで読み進んでいった。二歳年上の従姉アリサとの恋物語と彼女の死、一歳下のアリサの妹ジュリエットと二歳下の弟ロベール、友人のアベルなどが流れの中に登場する。創作ではなく自伝的だからよくつかみきれなかったが本の題名が「狭き門」、何が狭き門なのだろうかと考えた。

「狭き門」、それはある意味で入り難いものであり、誰ものが入れない。自分が願っているのにそれを得ることの出来ないということもできる。そういう意味ではお互いに好きなのに結婚できなかったアリサとジェローム、アリサの妹ジュリットはジェロームと結婚したかったが出来なかった。ジェロームの友人アベルはジュリエットと結婚したかったが出来なかった。唯一ジュリエットと結婚したかったテシエールが彼女と結婚できたことであろうか。

最後の方はアリサの日記だけが書かれている。アリサの純粋さとその心の叫びが聞こえてくる。そして信仰も…。最後の数ページはジュリットと彼女の家で再開した会話で終わっている。そこにはジェロームはアリサに対して、ジュリエットはジェロームに対して断ち切れない思いが伺え知れるような書き方で終わっている。ある意味で悲恋かもしれない。

頭の体操のつもりでまとめようとしたがうまくできなかった。健忘症から認知症へと踏み込んだ者としてはこれでオンとしなければ…。

2017年2月11日土曜日

聖書雑感



1tim 2: 5
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

よく言われる「人つくった神」、「人つくった神」と、たった「」と「」の違いで全く違ってくる。キリスト者にとって「神は唯一」で、人だけでなく「すべてのものを創られた方」である。しかし、非キリスト者にとって「人つくった神」も「人つくった神」も受け入れがたいかもしれない。何故ならつくったのではなく「神」になったのだと、そのような神はどのような神なのだろうか。

聖書は神と人との間に問題があるから仲介者が必要であることを示している。神々と人との間ではどのようになっているのだろうか。

2017年2月7日火曜日

今月のみことば


「罪からくる報酬は(永遠)死でです。しかし、神の下さる賜物は、私たちのキリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ人への手紙6章23節)

吉田兼好の書いた『徒然草』に「賀茂の競べ馬(くらべうま)」という興味深い文章がある。◆ある日、名物の競べ馬を見に行った兼好法師がふと見ると、(せんだん)の木に登り、つめかけた群衆をよそに、特等席を得たかのように、木のまたに腰を掛けて見物している法師がいた。ところが、木につかまったまま、すっかり眠りこけてしまい、今にも落ちそうになって目を覚ますということを繰り返していた。あぶなっかしくて見ていられないほどである。◆人々は彼を嘲笑し、「なんと愚かなやつだ。あんなに危険な枝の上で、よくも安心して眠れるものだ」と言っていたが、それを聞いて兼好は次のようにつぶやいた。「我らが生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、もの見て日を暮らす、愚かなる事はなほまさりたるものを(私たちが死ぬことになるのは、今すぐかもしれない。それを忘れて、このように見物して日を過ごしている愚かさは、あの法師以上だ」◆とても七百年前の文章とは思えないほど、卑近な話である。しかし、兼好法師とても、それではどうしたらよいのか、という答えは示していない。いつ訪れるかわからない死は永遠の世界への入り口である。私たちは、この永遠の世界があることを忘れ、わずか数十年の人生をできるだけ楽しく生きようとし、自分がいつか死ぬ存在であることに目を留めない。そして「競べ馬」や、仕事、ロマンス、趣味を生きがいとする。◆それ自身は決して悪いことではない。しかし、もっと大切なことは、死が訪れる前に、罪を悔い改め、イエス・キリストを通して永遠のいのちにあずかることである。なぜなら「我らが生死の到来、ただ今にもやあらん」からである。◆この永遠の救いに入ることと比べれば、この世で困難、損失、病気、災害に遭ったとしても、それを損失と呼ぶことは出来ない。むしろそれらによっていのちのはかなさに気づかされ、神のと和解に至るとするなら、それこそが本当の幸ではないだろうか。
      長野キリスト集会 二月号月報より

追記
久しぶりの原稿を見ながらは千鳥指以上には迷走してしまいました。細かくびっしりということもありで…。

2017年2月2日木曜日

久しぶりの速歩、そして


運動不足が続いていたので昨日は2キロばかり離れている医者に歩いて行って来た。3キロくらいはと思っていたがグーグルマップで測ったら2キロだった。帰りは別なルートを通り、住宅街を適当に歩いていたら王国会館の建物があり、こんなところにもと感心する。さらに進んで住宅街を抜けると工業団地なのか幾つかの工場があった。その脇は沖電線の大きな工場がる。その脇を通り、バーのない踏切を渡りながらそこで立ち止まって線路を見る。岡谷駅寄りは一直線、下諏訪駅寄りはカーブしていて単線なのでいいアングルに見えて何時だったか通った時にはカメラを持った人がいたのを思い出す。図書館が通り道にあるので寄って新聞を読み、二冊ばかり本を借りてきた。後は家まで600mくらいである。

昨日の歩いたので今日もと何時ものコースを歩いた。昨日歩いたから今日はパスとなると二日が三日にそして寒いからとか遅すぎたからとかいってパスと、そして一週間空白となるのである。湖畔端を歩いているから風があって少し冷たかった。追い風だったのでそれほどでもなく帰りはほとんどなくなっていたので助かった。今日は少し足を延ばして赤彦記念館まで歩いてみた。といってもいつもより2-300m余分に歩いたくらいだ。田中線と合流するところから岸辺にはゴミが目立つ、少し暖かくなったらゴミ拾い出もと思ったが寒いからどうなるか。手前の方はそれほどでもない。担当のグループがよくやっているのかもしれない。

今日は歩くだけと思っていたが歩きだすと少ないけどゴミが眼についてしまう。拾い出すと相変わらずタバコの吸い殻が多く、風邪のシーズン?なのかマスクをいくつか拾った。それほど眼につかないがそれでもコンビニの袋の半分くらいにもなった。少しゴミを拾ったら次は反対の方にもとの思いが沸いてきた。喜ぶべきか憂いるべきか…。十日後に血圧と中性脂肪を落とす薬をもらいに行かなければならない。その時採血するので、今週は歩かないととせかされる思いになっている。寒くて血圧は上がるし、少し歩いたくらいでは中性脂肪も減らないだろうが少し頑張らないとと思っている。相乗効果で聖書関係の本を読んだり聖書の勉強のベの字位はやるようになるので頑張りたい。

2017年2月1日水曜日

ゼカリヤ書38章18-23節


ゴクがイスラエルの地を攻めるのその日、―神である主の御告げ―私は怒りを燃え上がらせる。
わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる。
海の魚も、空の鳥も、野の獣も、地面をはうすべてのものも、地上のすべての人間も、わたしの前で震え上がり、山々はくつがえり、がけは落ち、すべての城壁は地に倒れる。
わたしは剣を呼び寄せて、わたしのすべての山々でゴクを攻めさせる。―神である主の御告げ―彼らは剣で同士打ちをするようになる。
わたしは疫病と流血で彼に罰を下し、彼と、彼の部隊と、彼の率いる多くの国々の民の上に、豪雨や雹や火や硫黄を降り注がせる。
わたしがわたしの大いなることを示し、わたしの聖なることを示して、多くの国々の見ている前で、わたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。

この言葉はエゼキエル書のみで、ここでは48回も出てくる。
ゴクは?複数の国のようだが、そしてこの光景を見る国々は?