2017年3月1日水曜日

シャキョウ


お寺さん関係では座禅を三-四回経験しているが写経なるものはこの間初めて経験した。シニアの集りで毎年この時期に行われているが習字が下手なのと興味はそれほどないしそれに準備が面倒という理由で参加していなかったが大分前から企画があるなら不都合がない限り参加しようと決めていたので参加することにした。参加するのに「と…」とあり、よく聞いてみたら筆ペンでもOKですよと言われ、筆ペンは祝儀不祝儀用にと買ってあり、その他に下敷きが必要と言われ新聞紙でもよいが100円ショップでも売っているからと言われて早速買ってきた。実際には筆ペン新聞紙という方も墨汁と毛筆という方もいて本格的と適当?と色々であった。この集まりにはお経を読める人と四国八十八カ所を二回に分けて走破?した猛者もいるからどちらかというと信心深い方々なのかもしれない。習字に毛のはいた感覚の我はお寺さんや彼らから見ると不謹慎そのものかも…。A3四ページの「初心者写経手引き」なるものには

写経
鐘を合図に、合掌礼拝(ライハイ)し、ゆっくりと写経を始める。
 自己の修行なので、上手下手、早い遅いは関係ない。
 一文字一文字を、仏さまと観じ、自分の心に、
 仏心を抱く気持ちで、丁寧に写す。
・・・
納経
感謝と願いを込めて、仏前に奉納する。
(実際に本堂に行き、お坊さんがお経(般若心経)をあげている中で 個々に卓子に載せ、お焼香をし、お坊さんに一礼して退席)

習字と同じように見本があってそれを書き写すのかと思ったら薄く印刷した般若心経をその上からなぞるように筆で書いていく、それほど難しくないが下手は下手である。それと難しい字があって薄くてカクがわからないのが幾つかあって後で原稿があったらいいのにと言ったらこれから置くようにしますと言ったがどうするか。

こ度のお寺さんは真言宗、手引きのA3四ページの3.5/4はお経の話を見るとお経を重点に置いているようである。その中でも「般若心経」は「般若経」を短く要約されたお経のエッセンスが詰まっているものだそうだ。短い故に省かれている部分もあるとか、「般若心経」を写すことにより難しいお経を唱えたことになるということかこれも信心の一つなのかなと思わされた。最後に、

   『般若経』の主旨「空」の考え方
「空」 
それだけで存在せず、「縁」によって成り立っていること。
ものごとに絶対・永遠はなく、すべて相対・流動であること。

①おかげさま 
自分ひとりで生きている訳ではない。
両親、先祖、家族、友人、地域、会社、社会、天地自然など…。
(様々な「縁」に感謝し、できることから恩返しを。)

②諸行無常 
因(努力)と縁(環境)によって、物事は絶えず変化していく。
過去からの因縁で今があり、今の因縁が未来をつくる。 
(今をありがたく受け止め、一日一日を大切に。半分は流れに任せる。)

③諸法無我
すべては言葉で仮に名付けて区別しているに過ぎない。
「出世魚」「国境」「時間」「善と悪」「男らしさ女らしさ」「私とあなた」「生と死」など…
言葉は、人間だけが有する叡智。これによって文明を築いたが、その反面、言葉に捕らわれすぎると、こころが雁字搦めに。
(ものごとに過度に執着せず、とらわれない心を。)

④一味平等
実はものごとには区別はなく、すべて平等で清らか。
誰で本来の心は、晴天の空のように、澄み渡っている。
(誰に対しても、分け隔てなく、慈悲の心で接するように。)

⑤仏天守護
知恵を磨き、信心あるものを、仏天は必ず守り導く、
こころの安らぎは、祈りによってもたらされる。
(仏天に手を合わせると、心が落ち着き、輝きを増してくる。)

ただ坊さんの話を聞けば聞くほどわからなくなる。四苦八苦で表させる人の苦しみは誰もが経験することであるから分かるように人の有りの儘の姿を語る時にはわかるがそれと結びつけて仏教の話をされると分からなくなる。小乗仏教は初心者向け、大乗仏教は上級者向けとか言っていたが日本は大乗仏教、キリスト教でいったら神学かそれならなんとなくわかる。一キリスト信徒にはわからないものであるから同じようにお経もわからないのが当然かと納得した。分からないところがアリガタイのかもしれないと言ったら失礼か。

長く聖書に触れ、その世界観に生きてきたものにとって違いが明らかに見える。聖書にも「空」はあるがその解釈が違う。聖書は神なしでは「空」なのである。「空」はそれだけでは存在せず、「縁」によって成り立つという。絶対とか永遠はなく、全て総体、流動である。と
ここに輪廻の思想を想い、お釈迦様が死後の世界は語らず今をどう生きるかを求めたと聞いたことがあったがまさにそうなのかと納得した。

座禅も最初は曹洞宗のお寺で壁に向かって座り、所作に細かい指示があり、各々に意味があったように記憶している。別のお寺は臨済宗であまりこだわりがなく、正座は数分しか持たないので「何時間でも座禅をしていることが出来る」とお坊さんが言われたことだけが印象に残っている。だからといって仏教を批判するつもりはない。しかし、日本人の精神構造はどうなっているのかと思うとこのようにかかわらないと分からない部分もあるのではないかと思っている。ある意味で中心部分が曖昧模糊ととしているというのが実感である。これから機会があったら素朴な疑問を投げかけていきたい。勿論論争するつもりはない。日本人の深層心理を知り、そこから何かを生み出せたらと思う。余談だが話の中に宮沢賢治の「アメニモマケズ…」のことに触れていた。あの詩のモデルは内村鑑三の弟子で齋藤宗二郎だとキリスト者の中では語られている。それが頭にあったからそれに触れず宮沢賢治は熱心な法華経の信者で彼が目指している姿だったか仏の姿だったか記憶にないがそのようだと思った。こういう見方もあるのかと再考させられた。パスカルが言われたという「人には神のかたちをした空洞がある」と、パンセにあるのかなと読んだが読んだパンセにはなかった。当然のように結論付けることの問題があることを知った。無学な者には難しいことは無理だが「犬も歩けば棒に当たる」ではないが何か勉強になることがある。キリスト者と言っても聖書を中心とした福音主義の世界しか知らない。それもどちらかというと少数派の根本主義の世界に生まれ育った者である。眺めて切ることは簡単だが相手の立場に添えて語る必要があるように想う。だから受け入れられるというわけではない。学問は勿論のこと世間も知らない者にとっていい勉強になった。