2017年3月18日土曜日

何をしたかではなく、何の為にしたか


「武芸の達人だが職につけない武士、三沢伊兵衛とその妻たよ。妻は、人を押しのけず人々に希望を与える夫をあたたかく見守っているが、職のない伊兵衛は日々妻に申し訳なく思っている。旅の途中、折からの豪雨が夫婦を河畔の宿場町に足止めさせる。やがてその雨があがる頃、城主にその腕を偶然認められた伊兵衛は、藩の剣術指南番に招かれるが……。現代に失われつつある“優しさ”を見事に表現した、心が晴れ晴れとする温かい感動作。」「雨あがる」の映画の紹介があって、山本周五郎原作、黒澤明脚本、寺尾・宮崎美子主演をネットで観た。20年近く前の作品で出演している中の何人かはもう亡くなっている。それと今の若い人たちには受けないだろうなと思ったがこの年になると共感するものがあってよかった。山本周五郎・寺尾聰どちらだけでもどこかほのぼのとしたものが湧いてくる。

藩の指南役にほぼ決まりかけたが賭け試合をしたという訴えがあって駄目になってしまう。
長雨で足止めされていた人たちが食べ物もなく困っているのを見かねて賭け試合で得たお金で食べ物とお酒を買ってきて、長雨で沈みがちな人たちを元気づけ陽気にしてくれた。その為の賭け試合であった。城から断りに来た家老?に向かって妻が「何をしたかではなく、何のためにしたかが大事だ」と言い、喜んでそこを旅立つ、その言葉を聞いた城主は諦めきれずいたので自ら馬で二人を追いかけて行く、山道を歩く二人のシーンが繰り返されて、山越えした二人は目の前に広がる美しい海を眺めて感嘆して終わる。「何をしたかではなく、何の為にしたか」の言葉はイエス様が安息日に何人かの人を癒された。それをパリサイ人は安息日に癒したことを問題にしている。このことを思い出してしまった。自分も頭でわかっていてもいざとなったらパリサイ人的発想と行動が起きてしまいどこか批判的になってしまう。他者を生かすために己を…ことは大事だがいざとなると難しいことを実感する。イエス様は私たちを生かすために自ら死を選ばれた。心しなければならないことだと思っている。