2017年3月6日月曜日

今月のみことば


「あなたがたは、世にあって患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネの福音書 16章33節)

 マーティン・スコセッシ監督の映画、『沈黙』を見た。見事な映像のもつ迫力で、禁教の日本に潜入したポルトガル人宣教師の生き方が描かれている。原作者である遠藤周作の実存的な問いかけが重くのしかかる映画でもある。神はなぜ、信じる者たちを過酷な運命から助けてくださらないのか、なぜ沈黙しておられるのか、と。◆稀なる才能とたくましい信仰で尊敬を集めたフェレイラも、師の行方を追って日本に潜入したロドリゴも、結局は、背教の道を選び、日本の土となって死んでいく。神が「沈黙」しておられる以上、それ以外に生きる道はあっただろうか。いや、キリストは「この私を踏んでもいいから生きよ」と言っておられるのではないか、というメッセージをほのめかして映画は終わる。◆神が沈黙しておられるように見えるのはなぜか。◆私たちはこの世ですべてが完結しないと気が済まない。しかし、神の公正な審判が下されるのは将来である。その時には「大きい者」すなわち権力者も、「小さい者」すなわち庶民も神の白き御座の前で、何人も納得せざるを得ないさばきがなされる、と聖書は告げる(黙示録20:12)。◆また私たちはみな自分が聞きたいメッセージしか耳に入らない、という弱点がある。聖書に答えが書かれているのに、それでは満足できないのである。◆実に神は沈黙されるどころか、日本のドアを叩き続けられた。1549年のザビエル来航によって植えられた信仰の根は踏みにじられた。しかし、1853年の黒船来航にはペリー、1945年の敗戦時にはマッカーサーというクリスチャンを神は日本に送られた。ここで、日本の国の形は大きく変わることになった。政治において、教育において、日本は迫害の対象であったクリスチャンから、また長く禁書とされた聖書から広く深い影響を受けることになったのである。◆「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは語られた。問題は神が沈黙しておられるように思われることではなく、果たして私たちに聞く耳があるかどうか、ということではないだろうか。
      長野キリスト集会月報 三月号より

追記
 今回は割とスムーズに指が動いてくれた。指が前回は酩酊なら今回はちょっと一杯くらいの感じ。あまりいい表現ではないが…。