2017年4月30日日曜日

この頃


最近は午前中は朝食を挟んでデボ―ションに「この日を主とともに」を読み、祈り、そして聖書を4章前後をゆっくり読んでいる。創世記、出エジプト記、レビ記と進み今民数記を読んでいる。出エジプト記の後半は幕屋について書かれているが大雑把なイメージは出来るが細かいところになると分からなくなる。私の神理解に準じたものと自分に納得させている。レビ記も似たような理解だがこの律法がイエス様の時代の律法学者やパリサイ人とダブらせると少し暗い気分になるがイエス様は、
matt: 5:17
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
とおっしゃった。
主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
とある。人には守れないことなのであろう。律法は本来このようなものであろうが肉は簡単にいのちを失して言葉だけが残る。聖書を手にする者、私も心しなければならないことである。

4月も


春の遅い信州でも桜も葉桜になって来た今日この頃であるが暖かさは芭蕉の「梅一輪いちりんほどの暖かさ」を室内が15℃前後になってようやく実感している。今日は更に暖かく午前中集会で午後から布団を干したがふかふかプラス暖かかい。それに以前は2時半だと日が差していても暖かくなく布団も冷めてくる感じだったが3時半でも大丈夫だった。いつもこの時期に思い出す「原に若草が」の子供賛美歌がある。
1.原に若草が 青く萌え出すと 雪解けの水が 高く音たてる。 私たちも春の喜びを歌おう 春をつくられた神様を歌おう。
2.風が柔らかく 野原を通ると きの枝が揺れてサラサラ囁く。 私たちも春の喜びを歌おう 春をつくられた神様を歌おう。
3.遠くで家畜の 声聞こえると 近くで小鳥が 何か歌い出す。 私たちも春の喜びを歌おう 春をつくられた神様を歌おう。(聖歌652 作詞 中田羽後)
童心に帰って心から歌えるから年に一回礼拝でコピーしたのを歌っている。
もう明日は5月、遅霜などがあるから本格的な畑は連休明け、信州の春は短いと言われる。本格的な春と思う頃にはもう夏が目の前に来ている。

2017年4月17日月曜日

御霊の働き


luke 22:27
「食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」
イエス様が弟子たちの(足を洗い)食卓で給仕している中で誰が一番偉いかと議論していたと24節に書いてある。

私たちにとって「給仕する」「足を洗う」ような仕えることは努力しなければ出来ない。
何故なら
人は本来仕えてもらうことを旨としている。
弟子たちの姿は極自然な姿なのである。
「給仕する」「足を洗う」には
御霊の働きがないと出来ないことなのである。
無理して「給仕する」「足を洗う」必要はない。それを無理して行うならそれは醜悪なことである。
そうならないために
御霊が働かれるまで待とう。
イエス様のように給仕したり足を洗ったりすることがごく自然に出来るようになる。
キリスト者はすでに御霊は内住されている。
肉に満ちたこの体を以って
御霊に働いていただこう。
たとえ蔑視されようとも
そこに神の栄光が現わされるのである。

すべてに時が



eccles 3: 1-2a
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」
時期― 一定の期間、 時―短い期間

私たちの人生は

誕生―幼児―学生―社会人―老人―死

の流れの中にあります。
人の時は
生まれた時代、置かれた環境、
男か女かによっても違ってきます。

また
社会や国や世界も時代によって違ってきます。
盤石と思われていた共産主義もベルリンの壁も時が来れば…。


それと
クリスチャンだからと言って、必ずしも恵まれた状況の中に置かれるとは限りません。

悲しいことや苦しいことがあっても聖書は言っています。

eccles 3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。… と
この言葉を信じることが出来るでしょうか?
私たちにはこの問題、あの問題がなければ
どんなに心が軽やかになるだろうというものを抱えています。

でも
rom 8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
現実が何ひとつ変わらない中で、このみことばを信じることはそう簡単なことではありません。

しかし
状況が変わらなくとも神の約束を信じるとき、益としてくださることが現実となります。

john 11:40
「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」」…と。
信じなければ何も変わりません。
宝くじは
買わなければ当たる可能性はありません。
しかし
不可能に限りなく近くとも
買いば当たる可能性はあります。
ある意味で
世の中の希望は
このようなもので儚いものです。
主の約束は
john 11:40
「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」」
現実は何一つ変わらないようでいても
「時」が来た時に答えを見いだすでしょう。
生きてそれを見ることができないかもしれませんが。

2017年4月15日土曜日

最も大切なこと



1cor 15: 3-5
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、

また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

2017年4月12日水曜日

初心に帰って


mark 16:15
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

luke 24:47
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

acts 1: 8
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

matt 28:19-20
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

言葉で福音を伝えることが出来れば伝えればいい。言葉で福音を伝えることが出来なければ行いを通して伝えればいい。そこに共通して求められるのは謙虚なことである。多く語る必要はない。


ここにも


   枯れ木のようななっていた紫陽花に目が出てきました。

   これも

   これも


2017年4月11日火曜日

春だというのに


塩尻市みどり湖の水芭蕉 4/11




2017年4月10日月曜日

2017年4月4日火曜日

今月のみことば


「イエスは涙を流された。」
ヨハネの福音書11章35節

『素顔同盟』という短編小説がある。近未来、すべての人が笑顔の仮面をつけないと法律によって罰せられる時代が到来した。怒りや悲しみ、喜びなどの表情が、人間関係によくない影響を与えるから、というのがその趣旨である。◆学校では先生も生徒もみな「笑顔」である。一見したところ、社会もそれで大変うまくいっているように思いえる。衝突や争いは回避されたかのようにであった。◆ところが、主人公は、自分の本当の気持ちを表すことができなこの状況に、言い知れない空しさとフラストレーションを感じていた。◆そんなある日、市街地の対岸にある自然保護公園に出かけた。すると、小川の向こうに立っていた少女が、驚いたことにゆっくりと仮面を外し、素顔を出したのである。美しい少女だった。しかし重大な法律違反であった。◆そのころ、学校でうわさされていることがあった。「素顔同盟」という一団があり、仮面を外し、社会や警察から逃れて川の上流の対岸の森の中で、素顔で暮らしているいう。◆ある日同じ場所に行ってみると、前を流れる川に、一つの仮面が流れてきた。拾い上げてみるとあの少女のものであることがすぐに分かった。少年は意を決して、「素顔同盟」の人々の住む場所に向かって歩き始めた。もはや迷いはなかった…。◆「人はみな主を必要としている」(People Need the Lord)という歌もまた、この「仮面」についてふれている。「どこにいくのか知らないままに/歩き続ける人びとの/笑顔の下の悲しみは/主イエスだけが知っている」◆若くして死んだラザロが葬られて四日後、イエスはその村に到着されえた。そして嘆き悲しむ人々を見て、ご自身も涙を流された。その直後、ご自分でラザロをよみがえらせるのに、涙を流したのである。◆イエスは私たちのこころを完全に理解してくださるばかりでなく、完全に共感してくださる方である。イエス・キリストを知ったとき、はじめて私たちは仮面をつけないでもいい方と出会う。その出会いこそが、生きる力の根源となることを聖書は証ししてやまない。

長野キリスト集会 月報 4月号より

追記
今回は珍しく指がスムーズに動いた。文章の所為か?間違いと変換のミスは数カ所だけだったが原稿を読んで打てると言えるまでにはほど遠い。それでも今回は誉めてあげたい。

2017年4月3日月曜日

デボーション


中川健一師は月刊ハーベストタイム4月号に、

『「デボーション」とは何か。英語の意味は、「献身的愛情」、「何かに向けての情熱、没頭、専念」などである。キリスト教の文脈では、「神との交わり」、「神への献身」などを指す。より狭くは、朝や夜に、聖書を読みながら神と交わることを意味する。日本語では、「静思の時」とも言われる。ただし、この日本語には「静まって思索している」という意味はあっても、「デボーション」の本来の意味はない。』

とあった。今までデボーションとは「静思の時」そのものだと思っていた。当然ながら英語ではこのような意味があるとは知らなかった。「静思の時」、「静まって、わたしこそ神であることを知れ、…」(詩46:10・口語訳)のみことばを思い出す。しかし、このみことばは神を脇に置いて自分中心に生きている時に思い出させられるみことばでもある。

デボーションは本来スタテックなものではなくアクティブなものであることを知るとなんか力が湧いてくる。静まりの時も大切だが朝に主と交わり、「新たな力を頂いて歩む力を得る」ことでより積極的な姿勢を感じる。いつも、そしていつまで出来るかわからないがこの思いの中でデボーションが出来れば幸いである。
ハレルヤ!

4月に入って


こちらは三月はまだ寒く春は四月に入ってからといった感じる。今年も三月末は29.30日は10℃を超えていたが後は数℃を前後していた。
このところようやくという感じであるがまさに三寒四温、今日は吹く風も暖かさを感じる。予報を見れば週末は20℃前後になりそう、しかし、時折寒さをぶり返すのも四月である。

先月の29.30と暖かかったので半日仕事だったが畑に行って畝つくりをしてきた。これで一応畑の形は整え、後は毎年どのように植え替えていくかは個々に、そして一緒にやるものは相談しながらやっていくことになる。たかが半日仕事だったが当日は腰の脇が次の日は腰の両サイドと肩とそして腕まで痛くなってしまった。いかに運動不足かであることを感じる。一時はどうなるかと思っていたが今は何ともない。

変化のない日々の生活であるが畑や聖書の勉強に少し身を入れて頑張りたいとは思っているが…。畑まで5㌔、車で12・3分、畑の写真を撮るためにと自転車で出掛けたがものの何分も走らないうちに戻って来てしまった。どうもあそこまで走る元気はないみたいで思いと現実のかい離がだんだん大きくなってくる。これからは思いと現実のさらなる戦いが始まりそう…、ちょっと大袈裟…。ともあれ暖かくなると何となく気分が明るくなってくる感じがする。

我が家の庭にも春が