2017年6月10日土曜日

ルツ記・一服の清涼剤


通読もサムエル記を終えて列王記に入った。読みながら感じるのは烏合の衆?のような奴隷の民が神に選ばれた一つの民となって歩む様は選ばれた民と言えないほどその歩みは神に対する不平不満で満ちている。まぁ他人ごとではないが…、士師記に至っては落ちるところまで落ちたという感がしないでもない。最後の士師サムソンがペリシテの領主を始め多くの人を死に至らしめたが自らも死してしまうという悲しい出来事で終わっている。

このような状況の中で神は新し展開を見せてくれる。神が新しいことをなさろうとするときは私たちの意表を突く、その最たるものはイエス様が人としてこの地上に来られたことであろう。そのイエス様を神に最も忠実と自他ともに認める律法学者・パリサイ人はこともあろうにこの方を犯罪人として十字架に着けてしまった。罪の自覚のない人間の傲慢さをしっかりと見せてくれる。

イエス様はダビデの子孫としてお生まれになった。そのダビデの曾祖母にあたる人がルツである。

ルツ記は、飢饉のためにユダのベツレヘムから妻と二人の息子を連れてモアブに来た一家の物語から始まる。しかし、その家族も妻ナオミを残して夫は亡くなり、後に二人の息子も亡くなった。残されたのはナオミと二人の嫁である。

飢饉も収まったようなので二人の嫁と帰ろうと帰路につくが途中から嫁を返そうとする。一人の嫁オルパは泣きながら残ることに同意する。しかし、もうひとりの嫁ルツはナオミにしがみついて「あなたの民はわたしの民、あなたの神は私の神」と言って離れようとしない。ナオミは諦めて一緒に帰ることにした。

なぜ、ルツはこのような告白をしてナオミから離れようとしなかったのだろうか。年老いた姑を一人にするのは不憫だったからであろうか。あるいはこの家族の生活の態度を見て「真の神」を見たのであろうか。あるいはナオミの姿を通してかもしれない。ルツは着いて間もないのに落穂拾いをしようと姑に願い出ている。異国の地で右も左もわからない筈なのに忠実で勤勉なのであろう。たまたま親戚のボアズの畑だった。世話役の若者がボアズに「モアブの野から帰ってきたモアブの娘です」と、そして「朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています」と伝える。多分、姑を一人にしないで一緒に来た女として評判だったのだろう。それに加えてこの働きぶりを見てボアズは感動したのではないかと思う。後に自分の財産を捨ててモアブの女にすぎないこのルツを妻として迎えている。そして二人の間に生まれたのがダビデの祖父にあたるオベデである。このみことばを思い出す。

eccles: 3:11
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。