2017年6月10日土曜日

今月のみことば


ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」
(マタイの福音書21章28~31節)

兄息子は返事だけは良かったものの、父親からの頼みを行わなかった。それとは反対に、弟息子はぶしつけな応答をしたことが後で恥しくなり、父親の頼みを実行した。◆それでも兄息子の立派な返事だけは称賛に値するのだろうか。答えは明らかに否である。ある意味ではもっとたちが悪いと言えよう。弟息子は、返事こそひどいものであったが、自分の考えを捨て、父の願いに応えた。どちらが父の心にかなったのかは明白である。◆ひるがえって、私たちはどうであろうか。「神を信じている」と言いながら、結局は自分の思いのままに行動しているなら、兄息子となんら変わるところはない。◆クリフ・リチャードという世界的なクリスチャン歌手がいる。彼はある時、音楽フェステバルで主催者側から「マイ・ウェイ」(My Way)を歌うように頼まれた。よく知られているように「すべては心のきめたままに」(I did it my way.私は自分のやり方で行った)というリフレイン(繰り返し)が情感を込めて熱唱される有名な歌でる。◆曲目を前もって知らされていなかった彼はいまさら断ることができない立場に置かれた。彼はどうしたか。何と、I did it my way.の部分を I did His way(私は神の方法で行った)と一語を変えて歌ったのである。◆演奏は素晴らしいものであったが、終了後、「著作権の関係」で、二度とそのような「替え歌」を歌わないようにと厳重注意を受けたそうである。後にも先にも、「マイ・ウェイ」が「ヒズ・ウェイ」として歌われたのはこの一回だけである。◆しかし、なんという生きた信仰の証詞であろう。私たちにも「信仰」を裏付ける「行い」が自分の生活の中になければならない。なぜなら、もしそうでないと、私たちは「救われて」いないかもしれないからである。
長野キリスト集会6月号 月報より

追記
少しづつうまく打てるようになっているがまだまだである。それと最後の言葉が心に残る。
「救われて」いるか否かではなく、ルカ福音書10章後半を思い出す。心しなければと思う。