2017年8月11日金曜日

詩篇30篇11節



ps 30:11
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。


「嘆きを踊りに変える」というナウエンの本がある。副題に「苦難の中の希望」とある。
これとは別に人生はこのハザマで生きているのではないだろうか。嘆きはまさに嘆きであり、踊りは喜びを最大限に体現している姿である。このことで思い浮かぶのはダビデが神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町に運ぶ時に「力の限り踊った」とあるそれも裸で、このことで妻ミカルに軽蔑されるがサウル王の娘であるミカルにとって王たるものが民衆の前で「裸で踊る」なんて破廉恥この上ない姿であっただろうと想像に難くない。しかしダビデは意に介することなく「わたしはその主の前で喜び踊るのだ」と告白している。人にどのように見られているかなんて気にならなかった。小心者は主がというより人がと意識してしまう。まさにサウロ王の姿そのものである。聖書に登場する悪い見本が何故かよく合致する…涙…。

平穏無事な日々を過ごしていると突然悩み事が舞い込んでくる。安心しているわけではないが「来たかぁ」という具合である。主に祈ったからといってすぐ解決するわけでもない。勿論自分が努力してとかという範疇にない。人生に悩み苦しみはあって当然であるが悩み苦しみ続けることは「嘆きを踊りに変えてくださる」方に対して失礼である。あるいは不信仰と言っていいかもしれない。

ドアには外側に開くドアと外側に開くドアがある。外側に開くドアを一生懸命押しても開かない。しかしドアをチョット手前に引けば簡単にドアは開いてくれる。まさに「押して駄目なら引いてみな」である。この変化は発想の転換が必要なのことを教えてくれる。状況が何ひとつ変わらなくとも自分の中に変化が起こることもある。嘆きが踊りに変わるのはそういうことなのかもしれない。そこには自分の努力ではなく主によって変えられた自分がある。そしてそのことがそれほどの問題でないことを教えられるのであろう。こんな繰り返しの中で主の働きを実感できるのかもしれない。悩み苦しんでも悩み苦しみ続けることができないのがキリスト者なのであろう。